『夕方の差し替え、夜更けの袋』
終わるには少し早いが、崩れるには丁度いい時間だった。
午後の後半というものは、どこの部署でも似たような顔をしている。集中力はまだ切れていない。だが、朝のような鋭さもなく、昼前のような勢いもない。人間の側が少しずつ鈍くなり、それでも机の上だけは減ったように見えて、実際には別の形へ積み替わっていく。
セレブリャコーフは目の前の束を整えながら、今日の後半は「回収の時間」になると考えていた。
午前に差し戻した控えが戻る。戻ったものに再び目を通す。どこが直り、どこが直らず、誰が一度で理解し、誰が別の欄でつまずいたか。そうした差は、午後から夕方にかけてはっきり浮く。言い換えれば、職員の癖が最も見えやすい時間帯でもあった。
最初に戻ってきたのは、拘束報告の再提出だった。午前中に日付欄と押収物一覧へ赤が入った分である。セレブリャコーフは受け取るとすぐ、ターニャの机へ上げる前に一度だけ全体を確認した。癖になっている。ここでひどい抜けを見つければ、上官の手を煩わせる前に弾ける。
時刻表記は統一された。押収物欄も埋まっている。担当署名も前より明瞭だ。字の乱れは残っているが、この程度なら許容範囲だろう。
「拘束報告の再提出です。朝の分よりは整っています」
ターニャはペンを置かずに受け取り、目だけで追った。
「受理でいい。次」
「はい」
短い。だが、それで十分だった。副官の役目は、そこへ長々と感想を足すことではない。通るものを通し、止めるものを止める。その区別が付いているだけで、執務室の空気はかなり違う。
次に戻ったのは、後方監視班の控えだった。こちらは予想通り、手間が掛かった。午前に抜けていた時刻欄は埋まっている。だが、その代わり同行者欄が曖昧になっている。しかも、一件だけではない。
セレブリャコーフは三通を並べ、筆跡と書式の癖を見比べた。省略の仕方が妙に似ている。個人の手癖ではなく、教え方に癖が混じっていると考えた方が早い。
「こちらは、まだ揃いません」
控えを机へ置きながら言うと、ターニャはすぐ一番上だけを見て眉を僅かに寄せた。
「時刻は直したのに、今度は同行者か」
「はい。別々の記録係ですが、削り方が似ています」
「起点の線と一致するな」
「そう見ます」
ターニャは赤鉛筆を取り、三通とも端に印を入れた。
「まとめて別扱いにしろ。明朝、最初に聞く」
「個別で呼びますか」
「いや。先に係長補佐だけでいい。下を並べると、言い訳の数が増える」
「承知しました」
実際、その通りだった。複数を同時に呼ぶと、人は責任の位置をずらし始める。誰が最初に省いたかではなく、誰もがやっていた、忙しかった、前からこうだった、そういう言葉が増える。セレブリャコーフはそうした場面を何度も見ていた。だから、ターニャが起点を先に押さえる方を選んだことへ異論はない。
午後四時前、陸軍から便別の扱いに関する返答が届いた。レルゲンの約束通り、ぎりぎりで時間は守られている。封筒の角には陸軍側の急ぎ印が押され、筆圧の強い宛名が書かれていた。いかにも急ぎ仕事らしい見た目で、少しだけ苦笑したくなる。どこの組織でも、急いだ書面ほど外見に余裕がない。
セレブリャコーフは封を切り、まずざっと全体を見る。小麦粉、燃料、雑材。港湾経由便の優先順位。臨時差し替えの理由。前倒しされた軍需輸送。それらが簡潔に整理されていた。さすがに陸軍の参謀が直に関わると、最低限の形は崩れにくい。
「陸軍側からです。便別の扱いが来ました」
ターニャは受け取ると、机上の別紙へ並べて置いた。
「二重に写しを作れ。記録班と私の控え」
「はい」
「食堂担当にも要旨だけ伝えておけ。どうせ明朝また騒ぐ」
「分かりました」
彼女は返答を持って執務室の隅の机へ移り、控えを二通起こした。写しを作る時は、字の丁寧さよりまず読みやすさだ。綺麗なだけで意味が抜ける控えより、多少武骨でも誤読しない控えの方が価値がある。母が見たら、もう少し丸みを出しなさいと言うかもしれない。だが、今は母の検分ではなく、記録班の実務が相手だ。
書き写している途中、扉が小さく鳴った。入ってきたのは、午前に綴じ紐の束を崩しかけていたミュラーだった。今度は箱を両手で抱え、足元も安定している。学習が早い。
「照合用の控えをお持ちしました」
「そこへ置いてください」
ミュラーは指示通り机の端へ箱を置き、少しだけ緊張した顔で立ったままだった。何か言いたそうに見える。セレブリャコーフはペンを止めずに口を開いた。
「まだ用がありますか」
「午前の件で……ありがとうございました」
やはり、その話だった。
副官としては、そういう礼は受け取るより先に処理したい。だが、あからさまに切るのも気の毒だ。彼女は一呼吸だけ置いてから答えた。
「お気になさらず。次に落とさなければ結構です」
「はい」
「それと、箱の側面は揃っています。今の持ち方なら問題ありません」
ミュラーの目が少しだけ明るくなった。過剰な褒め方はしない。だが、直った部分を直ったと伝えるくらいは、別に規律違反でも何でもない。
「ありがとうございます。今後も気を付けます」
「ええ。今日はその方がこちらも助かります」
ミュラーが下がると、セレブリャコーフは小さく息を吐いた。若い職員は、厳しくすれば動く者と、萎縮して止まる者に分かれる。そこを見誤ると、仕事は早くならない。副官は上官のように一言で線を引けない分、相手の反応をよく見ておく必要がある。
写しを終え、食堂担当へ要旨を伝え、席へ戻る。執務室へ入った時、ターニャはEVAの比較表を前にしていた。横顔の角度が朝より少し鋭い。疲労が積もると、あの上官は声より先に確認回数が増える。目線の戻り方で分かる。
セレブリャコーフは自分の椅子へ座る前に、小さな紙片を机へ添えた。
「食堂担当へは伝えました。明朝の混乱は少し減ると思います」
「少し、か」
「完全には減りません」
「正直で結構だ」
そう答えるターニャの口調は平坦だ。だが、少なくとも不機嫌ではない。こういう時に、言葉を余計に膨らませないことが副官には大事だった。
午後四時半を回る頃には、窓の外の色がかなり落ちていた。灯りを早めに点ける季節である。薄暗くなった室内は、何となく人を焦らせる。まだ終業時刻ではないのに、誰もが時計を意識し始める。
その時間帯に、ヒムラー個人幕僚部からの内線が入った。
受話器を取った瞬間、相手の所属と用件の重さが分かる。こういう電話は、内容が短くても空気が少し変わる。
「はい、こちらです。……はい、少々お待ちください」
受話器を押さえ、セレブリャコーフはターニャへ差し出した。
「個人幕僚部です」
ターニャが受け取り、姿勢を一段整える。通話は長くなかった。人員配置の表現を抑える。臨時指揮権の記載範囲を対象限定に寄せる。修正二点。本日中の再提出。それ自体は難しくない。だが、最後に「無理はなさらぬように」と伝えられた時、ターニャの目線がほんの一拍だけ止まったのを、セレブリャコーフは見逃さなかった。
通話が終わる。
「修正箇所は二点だ」
「承知しました。今のうちに直します」
控えを受け取る。内容は簡潔だ。簡潔だが、文言の重さは軽くない。個人幕僚部の修正は、語尾一つでも意味が変わる。セレブリャコーフは椅子を少し引き寄せ、原稿の字面を整え始めた。
横では、ターニャが首筋へ指を触れている。疲れが出る時の癖に近い。彼女は感情を外へ出しにくいが、完全に機械でもない。副官としては、そういう小さな動きを見てしまうと、声を掛けるべきかどうか迷うことがある。
ただし、そこで「大丈夫ですか」と聞くのはだいたい悪手だ。大丈夫かどうかを答えさせる時間の方が惜しい。
だから、セレブリャコーフは別の形を選んだ。
「修正後、今日の残りは切れます」
顔を上げずに言う。
「未処理を明朝へ回しても問題ない範囲です」
ターニャは一度だけこちらを見た。
「そう見積もる根拠は」
「監視班の聞き取りは今日動かさないと決めました。ドクトルの現物確認も明朝です。今夜中に片付ける必要があるのは修正二点と控えの整理までです」
「……分かった」
それだけで十分だった。休んでください、ではない。切れる、と事実で言う。そこまでなら受け取る。そういう上官であることを、彼女はもう知っている。
修正版をまとめる作業は思ったより早く終わった。語尾と対象範囲、指揮権の書き方を整え、添付順を入れ替え、控えの番号を振る。ターニャが最後に確認し、印を入れる。二人でやれば十分に間に合う量だ。
その最中、ドクトルからまた連絡が入った。今度は本人ではなく伝令が持参した封だ。現物確認の立ち会い名と倉庫側の鍵担当者名。研究側の署名候補。必要なものは揃っている。芝居がかった人物にしては、こういう実務の速度だけは本当に侮れない。
「明朝一番で現物確認だ。同行は最小でいい」
「承知しました。車両は過剰なものを避けます」
「通常でいい。護衛も増やすな」
「分かりました」
会話を聞きながら、セレブリャコーフは明朝の出発時刻を書き込む。七時十五分。道路事情を考えれば妥当だ。朝食を車内へ回せるよう食堂へ先に話を通す必要もある。そこまで考えたところで、彼女は自分の疲労が遅れて表面へ上がってきたのを感じた。肩が重い。まぶたの奥が乾く。手元の字が少し固くなる。
だが、まだ終わっていない。
夕刻の差し戻し返答が一気に戻り始めたのは、その少し後だった。午前に赤を入れた拘束報告、監視班の補記、地方支局からの確認文。手が止まるほどではないが、止めなければ確実に雑になる程度の量である。
セレブリャコーフは一通ずつ順番を付け、受理可能なもの、再修正が必要なもの、明朝の聞き取りへ回すものを分けていった。ターニャは判断が速い。速い分だけ、前段の仕分けが雑だと全体が乱れる。ここで副官が失敗すると、上官の速度がそのまま破壊力になる。
その意味で、彼女はこの時間帯が嫌いではなかった。忙しい。だが、役に立っている手応えが一番強いのもこの時間帯だ。朝の準備は見えにくい。昼の段取りも流れていく。夕方の回収だけは、整えた結果が目に見えて残る。
ひと区切り付いたところで、セレブリャコーフは横のカップを手に取った。中身は既にぬるい。だが、喉を通せるだけまだましだ。飲みながら、ふと、母ならこういう時になんと言うだろうか、と考えた。
きっと、「冷めたものでも飲めるうちに飲みなさい」と言う。無駄に美しい言葉ではなく、実際に役に立つことしか言わない人だった。厳しく、だが、その厳しさは生活を回す方向へしか向かなかった。セレブリャコーフがいま副官として細かな手順へ執着できるのは、半分くらい、あの人のせいなのだろう。
少しだけ懐かしさが胸を過ぎる。だが、長く浸る暇はない。彼女は空になったカップを置き、すぐ次の束へ手を伸ばした。
やがて、ターニャが「本日の分は、ここで切る」と決めた。
その一言が出ると、執務室の空気がわずかに変わる。終わりの見通しが立った時、人間の手元は少しだけ正確になる。帰れると分かるだけで、最後の片付けが早くなるのだから単純だ。
「未処理は左へ移し、朝の順で積みます」
「頼む」
セレブリャコーフは未処理の束を持ち上げ、明朝の優先順に並べ替えた。監視班の聞き取り関係を手前。現物確認関係を次。陸軍からの返答控えは記録班回し。個人幕僚部への修正版は送付済み確認の印を付けて脇へ。こうして順番を与えるだけで、明日の朝の混乱はかなり違う。
片付けながら、彼女は横目でターニャの動きを見た。赤鉛筆へ蓋をし、インク瓶を閉め、机上を一瞥する。終業の儀式というほど大袈裟ではないが、あの上官は仕事の切り方が明確だ。雑に終わらせない。だからこそ、翌朝も同じ机へ戻って来られるのだろう。
立ち上がった時のターニャの肩が、少しだけ重そうに見えた。若い体でも、事務仕事は容赦がない。むしろ小柄な体格には地味に堪えるのかもしれない、とセレブリャコーフは時々思う。本人は絶対に口にしないだろうが。
廊下へ出る。もう人の流れは薄い。残っているのは、帰り損ねた者か、帰る判断を先送りにした者ばかりだ。護衛の靴音が少し広がった位置から響く。昼のような張り詰めた雰囲気はないが、それでも建物全体が完全に緩むことはない。
「明朝の現物確認ですが、出発は七時半でよろしいですか」
歩調を合わせて尋ねると、ターニャはすぐ修正を入れた。
「七時十五分だ。道路が読めない」
「承知しました。朝食は車内でも取れるようにします」
「助かる」
その一言は、疲れた夕方だからこそ余計に素直に聞こえた。セレブリャコーフは何も返さなかった。返す必要もないと思ったからだ。上官の礼に対して毎回恐縮していたら、こちらの呼吸まで崩れる。
外へ出ると、空気は鋭く冷えていた。昼の建物の乾いた暖かさとは違う、素直な寒さである。吐く息が白い。車へ乗り込む前に、セレブリャコーフは明朝の車内食の段取りをもう一度頭の中で確かめた。食堂担当へ一声。黒パンの取り置き。できれば温いものも少し。無理ならせめて湯だけでも。考えることはそれほど難しくない。ただ、今やっておかないと、明朝は別の用件に押される。
宿舎へ戻った後も、彼女の仕事は終わらなかった。
部屋へ入って外套を脱ぎ、手袋を外し、まず机へ向かう。今日の手帳へ簡単な追記を書く。監視班、係長補佐。現物確認、七時十五分。食堂、黒パン取り置き確認。自分用の覚え書きなど、なくても回る人間はいるのだろう。だが、彼女は書く。書いておけば、翌朝の頭が少し軽くなる。
そこまで済ませてようやく、水差しの水を一口飲んだ。冷たい。喉の奥が少し痛い。今日、自分の分の茶を飲んだのは一度だけだった気がする。別に誇れることではない。副官も人間だから、喉は渇くし、空腹にもなる。そうした単純な事実を忘れて働くと、だいたい翌日どこかでつけが来る。
椅子へ腰を下ろしたところで、袖口の裏に小さな糸のほつれを見つけた。自分の制服である。見つけてしまった以上、放置はできない。
「……今日くらいは見なかったことにしたいのですが」
誰もいない部屋で小さく漏らし、それでも引き出しから缶を出す。針と糸。昼に使ったばかりなのに、今度は自分の分だ。運命というほど大層なものではないが、生活とはだいたいこういうものだろう。人の帽子を直した日の夜は、自分の袖も直すことになる。
針を通しながら、彼女は昼のやり取りを思い返した。
お前の仕事は増やしたくない。礼を言うのはこちらだ。そうした短い言葉は、長い会話より後に残ることがある。ターニャは気遣いを朗々と口にする人間ではない。だからこそ、少し形の崩れた一言の方が意外に心へ残る。
自分は気にしすぎだろうか、とセレブリャコーフは一瞬だけ思う。だが、気にしすぎても困るまい。少なくとも、副官が上官の言葉を雑に扱うよりはずっといい。
袖口の始末を終えた後、彼女は立ち上がった。まだ一つ、済ませておきたいことがある。
外套を羽織り直し、もう一度食堂へ向かう。時間は遅い。だが、係の交代前なら話は通るはずだ。廊下は静かだった。昼間の国家保安本部とは別の建物みたいに、音の少ない夜である。
食堂では、片付けの最中だった女係が驚いた顔をした。
「まだ何かご用ですか」
「明朝の分を先に受け取りたいのですが、可能でしょうか」
「明朝の?」
「黒パンだけで結構です。出発が早く、列に並ぶ時間が取れません」
係の女は少し考え、それから頷いた。
「数が足りる範囲なら」
「ありがとうございます。多くは要りません」
紙袋に黒パンを入れてもらう。持ち上げると、わずかに温かい。焼きたてではない。だが、厨房の近くに置かれていたのだろう。紙袋越しに伝わる熱が、妙にありがたく感じた。
自分の分も頼めばよかったか、と一瞬だけ思う。だが、結局頼まなかった。明朝、自分はまた何とかするだろう。何とかしてきたし、たぶんこれからもそうする。
紙袋を持って廊下を戻る。途中、自分の部屋の前で一度立ち止まった。もう遅い。ここで渡さなくても、明朝で間に合う。理屈ではそうだ。だが、明朝は明朝で別の順番がある。そこへ一つでも小さな手間を減らせるなら、今のうちに済ませた方が早い。
そう結論して、彼女はターニャの部屋の前まで歩いた。
ノックは二度だけ。夜更けの扉なので、昼間よりさらに控えめにする。中から気配があり、扉が開いた。
「何だ」
「明朝の分です」
紙袋を差し出す。説明は短く済ませる。食堂の係から、朝の分の黒パンを取り置きできると返事があったこと。朝は時間が詰まるだろうから、先に受け取ってきたこと。
ターニャは紙袋を受け取り、中を少し見た。
「……わざわざか」
「ついでです」
ついで、というには少し遅い時間だ。だが、それ以上の意味を付ける必要はない。副官がやるべき小さな手回しだと思えば、それで足りる。
「少尉」
「はい」
「お前、今日は帰ったのか」
「まだです」
「だろうな」
半目になったターニャが言う。
「次からは自分の帰る順も先に考えろ。副官が先に潰れると困る」
その言い方に、セレブリャコーフは一瞬だけ呼吸を止めた。叱責に見えて、内容は違う。違うが、だからといってそこで感情を表に出すのは違う気もした。
「気を付けます」
「本当か」
「善処します」
「それは信用できない」
思わず、口元が少しだけ緩んだ。笑うつもりはなかったのだが、こういう時、言い方の端に妙な可笑しさがある。
「では、実行します」
「そうしろ」
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
扉が閉じる。紙袋の温かさは、今はもう自分の手元にはない。だが、それでいいと思った。副官の仕事というものは、だいたいそういうものだ。自分が持っていた熱を、どこか別の机や手元へ移して、その分だけ明日の流れを良くする。
部屋へ戻る。今度こそ外套を脱ぎ、椅子へ腰を下ろした。何となく力が抜けて、背もたれへ少し深く体を預ける。ようやく今日が終わった気がした。
机の上には、修理した袖口と、閉じた手帳と、飲みかけの水差しだけがある。国家保安本部の執務室と比べれば、実に簡素な景色だ。だが、彼女はこの静けさが嫌いではない。自分の手元にあるものが少ないほど、頭の中の順番が整いやすい時もある。
靴を脱ぎ、足先を少しだけ伸ばす。じわりと疲れが上がってくる。今日一日の移動距離など大したことはないはずなのに、働いた日の足はやはり重い。
(今日は、少し動きすぎたでしょうか)
そう思う。だが、やるべきことは全部やった。完璧とは言わない。監視班の起点聞き取りは明朝へ回したし、現物確認もこれからだ。けれど、今日の分として机へ載ったものは、概ねきちんと畳めたと思う。
それで十分だ。
ふと、幼い頃の記憶が掠めた。母が夕方、台所でパンを布へ包みながら、「明日の朝を先に作っておくと慌てない」と言っていたこと。大袈裟な教訓でも何でもない。ただの生活の知恵だ。だが、あれは案外、今の自分の仕事とよく似ている。明朝の混乱を今夜のうちに一つ減らしておく。それだけで、翌日は少し楽になる。
副官の仕事は、たぶん、そういう小さな生活の延長にあるのだろう。
巨大な組織の中心で、文書や命令や監視の流れを扱っていても、結局のところ、人間を動かすのは熱い飲み物、ほどけた糸を直す手、朝のパン、そういう具体的なものばかりだ。
彼女は自分の手を見た。細くはない。綺麗とも言い難い。インクの痕が指の横に薄く残り、昼に針を持ったせいで指先が少し荒れている。それでも、この手で今日一日をかなり支えたのだと思えば、悪い気はしなかった。
水をもう一口飲み、灯りを落とす。寝台へ入る前に、明朝の外套と手袋を揃え、帽子を椅子へ掛ける。こういう順番も、もう体が覚えている。
毛布へ入ると、冷えていた足先がじわじわ温まっていく。目を閉じる直前、セレブリャコーフは今日の出来事をいくつか思い返した。
午前のミュラーの慌てた顔。帽子の縫い目。EVAの短い紙片。陸軍から来た返答。個人幕僚部からの修正。夜の紙袋。どれも小さい。だが、小さいものばかりが積み重なって、一日という形になる。
人間味という言葉を自分から使う気はない。少し気恥ずかしいし、便利すぎる。だが、それでも、今日の自分は確かに人の世話を焼いていたし、同時に少しだけ世話を焼かれてもいたのだろう。昼の茶しかり、夜の言葉しかり。
そう考えると、妙に肩の力が抜けた。
(明朝は、少し早いですね)
頭の中で予定をなぞる。七時十五分。食堂。車両。現物確認。監視班。順番はもうできている。あとは眠るだけだ。
外では風が弱く窓を鳴らした。建物のどこか遠くで扉が一つ閉まる。誰かもまた、今ようやく一日を終えたのかもしれない。
セレブリャコーフは毛布の端を少しだけ引き上げ、静かに目を閉じた。明日もまた、誰かより少し先に起きて、順番を整え、熱いものを確保し、紙の流れを畳み直すのだろう。
それを苦しいと思わないわけではない。だが、嫌いでもなかった。
少なくとも今夜は、机の上も、手帳の中も、明朝へ渡す分だけはきちんと揃っている。
それなら眠れる。
そうして彼女は、ようやく一日を終えた。
次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)
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イギリス戦方面
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帝国内政(モレル関連)