幼女戦記 〜旗を高く掲げよ〜   作:猫敷

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閑話:ドクトルの日常1 前半

『試験台の朝、厄介な来訪者』

 

 ドクトルの朝は、規律正しく始まることが少ない。

 

 研究者に対してそういう言い方をすると、たいていの人間は、やはりそうか、という顔をする。偏見だ、と言い返したい気持ちがないわけではない。ないわけではないが、実際のところ、彼の朝は規律より着想の側へ寄っている日が多かった。昨夜のうちに組んでおいた試験手順が朝には別の形へ膨らみ、机へ置いてあった数字が起き抜けの頭の中で急に意味を持ち始める。そうなると、着替える前にノートへ手が伸び、湯を沸かす前に余白へ式めいた何かを書きつけ、結果として朝食は後回しになる。

 

 だから彼の部屋には、朝のうちから妙な静けさと雑然さが同居していた。

 

 研究員用にあてがわれた部屋は広くない。だが、狭くもない。狭くないのに狭く見えるのは、机の上、棚の端、窓際、椅子の背、ありとあらゆる場所へ紙と本と部品が置かれているからだ。乱雑かと言われると、ドクトル本人としては断固否定したい。あれは乱雑ではない。暫定配置だ。重要なものを手の届く場所へ置き、その周囲へ重要になりそうなものを重ね、その上で重要になりつつあるものを逃がしていった結果、こうなっているだけである。

 

 もっとも、第三者が見れば、ほぼ全員が同じ結論に達するだろう。片付いていない、と。

 

 ベッド脇の時計が六時半を回る。音は鳴っていない。鳴るように合わせていないからだ。起きる時間を時計へ決められるのが好きではない。彼は眠りたい時に眠り、起きた時に起き、閃いた時に机へ向かいたかった。軍や官庁の人間から見れば厄介だろうし、彼自身もそれは理解している。ただ、理解していることと性分が直ることは別の話だった。

 

 掛け布団の中で一度だけ寝返りを打ち、ドクトルは片目を開けた。窓の隙間から入る光はまだ弱い。冬の名残が長い季節は、朝そのものが曖昧だ。光があるのに空気は冷たく、起きる理由はあるのに寝台の温かさがそれを否定してくる。

 

「……む」

 

 唸るような声を一つ漏らし、彼は上半身を起こした。肩へ毛布を掛けたまま、足先で床を探る。冷たい。実に冷たい。研究の未来は熱くても、床板はひどく素直に冷えている。

 

 机の方を見る。昨夜のまま、開いたノートが置かれていた。試験資材の割当表。輸送経路の簡略図。重水の保管量に関するメモ。そこへ斜めに差し込まれた紙切れには、「倉庫側申告値と研究側申告値の差、再計算」と自分の字が走っている。

 

 それを見た瞬間、眠気が半分飛んだ。

 

 寝台から抜け出し、スリッパも履かずに机へ歩く。窓際の冷えた空気が足首にまとわりつくが、気にしている場合ではない。椅子へ腰を下ろし、ノートを引き寄せる。昨夜の計算は最後の一行だけ妙に筆圧が乱れている。そこが気になっていた。気になっていたからこそ、起き抜けの頭でも手が伸びたのだ。

 

 研究側の申告量。保管側の在庫。搬出予定。試験使用見込み。差分は僅かではない。誰かが丸めている。いや、もっと正確に言えば、誰かが「不足している」と言いたくない数字へ揃えようとしている。実に人間的な誤差だ。科学の顔をしていても、最後には人が数字を整える。その人が見栄を張るか、不安に負けるか、あるいは責任を恐れるかで、表は簡単に歪む。

 

「ふむ……」

 

 彼はペンを取り、余白へ新しい線を引いた。倉庫側が保守的すぎるのか、研究側が楽観的すぎるのか。どちらもあり得る。どちらもあり得るから厄介なのだ。片方が明確な虚偽なら怒鳴れば済む。だが、双方が「自分は正しい」と思い込んでいる時、人間は往々にして善意の顔で面倒を拡大する。

 

 そこまで考えたところで、腹が鳴った。

 

 ドクトルは顔をしかめた。研究が進みそうな朝に限って、肉体は俗な要求を差し挟んでくる。空腹など、発見の前では取るに足らない問題であってほしいのだが、人間の身体はそういう理想をあっさり裏切る。

 

「仕方がない」

 

 独り言を言って立ち上がる。湯沸かし器の方へ歩き、水を入れる。火を点ける。待つ。その間も目は机へ向いている。落ち着きがないと言われれば否定はできない。だが、待っている間に考え事を止められるほど、彼は器用にできていなかった。

 

 棚からカップを一つ取り、茶葉の缶を開ける。コーヒーではない。好きではあるが、今日は胃に優しいものの方がいい。昨日の夜、かなり遅くまで試験成績表を追っていたせいで、胃の辺りが少しだけ重いのだ。歳のせいだとは認めたくない。単に昨夜の食事が遅かっただけだ。たぶん。

 

 湯が沸く音を背中に聞きながら、彼は窓辺へ歩いた。外はまだ灰色がかっている。道路の向こうに、軍用車両が一台だけゆっくり動いていた。人間は起きている。起きて、運び、記録し、命令し、数字を積み上げ、誰かの机へ回していく。研究というものは、しばしば孤独な着想の産物のように見られる。だが実際には、資材を運ぶ者、鍵を守る者、数量を記録する者、費用を承認する者、その全員の機嫌と手順の上へ立っている。天才の稲妻だけでは、試験台一つ温まらない。

 

 湯が沸いた。カップへ注ぎ、茶葉を入れ、色が出るのを待つ。待っている間、彼はようやくパン籠の存在を思い出した。昨日の夕方に食堂から持ってきた固いパンが一つ、布の下に残っている。指で押してみる。固い。誇張ではなく、研究設備の一部として使えそうな固さだ。

 

「朝から歯の試験をさせる気かね」

 

 ぼやきつつ、ナイフで薄く切る。切れ味が悪いのかパンが強靭なのか、一瞬判断に迷う。こういう時、食堂の担当者へ文句を言うのは筋違いだと分かっている。小麦も燃料も輸送も、今の時代は全部がどこかで繋がっている。朝のパンが固いのは、たいてい自分より偉い誰かが別の何かを優先した結果である。

 

 その認識があるからこそ、余計に腹立たしい時もあるのだが。

 

 茶を一口飲む。熱い。だが悪くない。パンを一片口へ入れる。固い。だが、腹は満たせる。人間の文明とはつまるところ、この「だが」で成立しているのかもしれない。完璧ではない。立派でもない。それでも回る。だから皆、文句を言いながら次の日も同じものを食べる。

 

 朝食を済ませながら、ドクトルは今日の予定を頭の中で整えた。

 

 第一に、倉庫側の申告値の再確認。第二に、前回試験分の成績表の受領。第三に、重水関連の資材割当について追加の経路確保。第四に――ここで彼は少し顔をしかめる――必要ならターニャのところへ顔を出す。

 

 必要なら、である。決して最初から楽しみにしているわけではない。ないが、あの少佐は話が早い。話が早すぎて、時々こちらの夢や余韻をすべて要件欄へ叩き込んでくるところが気に食わないだけで、実務上の相性としては悪くないのだ。いや、腐れ縁に近いのかもしれない。彼が大仰に未来を語り始めると、ターニャは大抵、三文で要件と責任者へ落とす。腹立たしい。腹立たしいが、その整理のおかげで物事が進むことも多い。

 

「実に不本意だ」

 

 誰に聞かせるでもなく呟き、彼はコートへ袖を通した。実験室へ向かうには少し早い。だが、倉庫の鍵を預かる連中は朝のうちの方が捕まえやすい。午前の後半になると、誰もが「他の部署から呼ばれている」と言い始める。あれは本当に呼ばれている時もあるが、半分くらいは逃げ口上だと彼は踏んでいた。

 

 廊下へ出る。宿舎の朝は研究棟ほど騒がしくない。だが、完全な静寂でもない。階下から食器の音がし、遠くで誰かが咳払いをする。軍属や技術者が混ざる建物の朝は、どこか不統一で、それが少し気楽でもある。整いすぎた建物は、たいてい人間に余白を与えない。

 

 外へ出ると、空気が頬を打った。冷たい。だが、目は覚める。研究棟までは歩いて数分。近いようでいて、考え事をするには丁度いい距離だ。

 

 道の途中で、資材係の下士官と鉢合わせた。男は帳簿を抱え、こちらを見るなり慌てたように帽子へ触れる。

 

「おはようございます、博士」

 

「おはよう。昨日の搬入表は出たか」

 

「はい。机へ入れてあります」

 

「保管側の控えもかね」

 

「それは……倉庫長の署名待ちです」

 

「待ち、とは便利な言葉だな。本人はいるのか」

 

「今の時間ならいるかと」

 

「なら待っていない。取りに行ける」

 

 男は一瞬だけ困った顔をしたが、反論はしなかった。こういうところは軍の人間のありがたい点でもある。文句は顔に出ても、命令に近い口調で押されると動く。もちろん、全員がそうではない。だが、研究者同士の曖昧な合意よりは進みが早いことが多かった。

 

「私も後で行く。先に扉だけ開けておいてくれ」

 

「はい」

 

 研究棟へ入ると、空気が少し変わる。油と金属と紙の匂い。暖房は入っているが、廊下はまだ冷えている。扉の向こうごとに別の小さな世界がある感じがするのは、研究棟という場所の面白いところだ。ここでは、同じ建物の中にいても、部屋一つ違えば誰も別の未来を見ている。

 

 自室代わりにしている研究室へ入る。机の上は昨日のままだ。つまり、一目で分かるほどひどい。だが、ドクトルに言わせれば、すべて配置には意味がある。意味があるはずだ。少なくとも、昨日の夜まではあった。

 

 椅子へ鞄を置き、窓を少しだけ開ける。冷気が入る。頭が締まる。机の端に置かれた金属箱の蓋を開け、中のガラス器具を一つずつ見た。欠けはない。洗浄も済んでいる。よろしい。次に試験用の控え箱を引き寄せ、昨日の記録と照らし合わせる。やはり、重水関連の数字だけ妙に落ち着かない。

 

 そこへ、助手の一人が顔を出した。若い男で、真面目ではあるが、少しだけ顔色が悪い。よくあることだ。研究棟の若い連中は、真面目な者ほど夜更かしをし、翌朝、自分の好奇心に寝不足で復讐される。

 

「おはようございます、博士」

 

「おはよう。成績表は」

 

「今、まとめています」

 

「今、かね」

 

「数字の確認が一箇所だけ――」

 

「一箇所だけで済むうちに持ってこい。三箇所になる前にな」

 

 助手は「はい」と答え、すぐ引っ込んだ。よろしい。研究というものは、完璧に整ってから出そうとするほど遅れる。途中で見せて、途中で叩いて、形を作る方が早い。

 

 ドクトルは机上の束から一枚抜き取り、倉庫側の在庫表と並べた。欄の埋まり方が気に食わない。数字自体ではなく、字面が妙に慎重すぎる。慎重な字は大抵、責任を避けたい人間の字だ。研究者は見栄を張る時に筆圧が強くなるが、保管側は責任を恐れる時に字が細くなる。人間観察としては面白いが、実務としては迷惑である。

 

「やれやれ」

 

 机の端から封筒を引っ張り出し、必要な控えをまとめる。倉庫へ行く。今日の最初の山場はそこだろう。数字が合っていれば朝の機嫌がよくなる。合っていなければ、少なくとも誰に腹を立てるべきかは分かる。

 

 倉庫は研究棟の裏手に近い。管理は厳重で、鍵は一つでは足りない。足りないのはいい。足りないが、その厳重さを口実に、担当者が「今日は確認が難しい」と言い始めるのが気に食わないだけだ。

 

 扉の前まで行くと、案の定、倉庫長が帳簿と格闘していた。四十代半ばほどの男で、きちんとしている。きちんとしているが、そのきちんとさが時々こちらの進行を殺す。

 

「おはよう」

 

 ドクトルが声を掛けると、男は慌てて姿勢を正した。

 

「博士、おはようございます。本日は何のご用件で」

 

「何の、とはつれないな。君の在庫表に恋をしたわけではない」

 

「……はあ」

 

「重水関連の申告値が揺れている。表を見せてもらいたい」

 

 倉庫長は困ったように帳簿を抱え直した。

 

「現物確認までなさいますか」

 

「必要なら」

 

「今日は午前中に別件の搬入が――」

 

「搬入は搬入だ。在庫は在庫だろう」

 

「そうですが」

 

「では開けたまえ」

 

 倉庫長は渋った。渋るが、拒絶まではしない。こういう人間は嫌いではない。嫌いではないが、扱いやすくもない。規程を盾にする相手は、こちらも規程の内側で押すしかない。

 

「研究側の申告値と一致しない。確認は今日中に必要だ」

 

「今日中、ですか」

 

「今日中だ。明日になると、誰かが都合のいい説明を付け足す」

 

 倉庫長の顔に、少しだけ不服そうな色が浮いた。だが、やがて諦めたように鍵束へ手を伸ばす。よろしい。話が早くて何よりだ。

 

 倉庫の中はひんやりしていた。整理はされている。されているが、整然とした空間ほど誤差が隠れやすいことをドクトルは知っている。箱が綺麗に並び、札が揃い、帳簿へきちんと行が引かれている時、人はそれだけで「管理されている」と思い込みがちだ。だが、管理されていることと、数字が正しいことは同義ではない。

 

 彼は指定された棚の前へ行き、札と帳簿を見比べた。数量自体は大きく外れていない。だが、前回搬出分の記録が一行ずれている。その一行のずれが、そのまま研究側との食い違いを生んでいた。

 

「これだ」

 

 札を指差す。

 

「前回の搬出を次欄へ送っている。だから研究側の受領分とこちらの残量が噛み合わない」

 

 倉庫長が慌てて帳簿を覗き込んだ。

 

「そんなはずは……」

 

「あるから言っている」

 

「ですが、確認印が」

 

「確認印があっても行がずれていれば意味がない。人間の印は神の保証ではないぞ」

 

 言いながら、ドクトルは少しだけ気分が良くなった。問題が見えた時の研究者の機嫌というものは、案外単純だ。面倒は面倒だが、正体不明の面倒より、顔のある面倒の方が遥かに扱いやすい。

 

 倉庫長は申し訳なさそうに帳簿を押さえた。

 

「すぐに修正を」

 

「いや、待て。修正は後だ。まず研究側の控えも照らす」

 

「では、こちらの写しを――」

 

「私が持っていく。君はその前に、同じ記録係が別の欄でもずれていないか見ろ。今回だけとは限らん」

 

 倉庫長の顔が固くなる。嫌な予感がしたのだろう。だが、そういう顔をする時の人間は大抵、その予感が当たる。

 

 倉庫を出たところで、ドクトルは寒さも忘れて笑いそうになった。問題がある。つまり、直す余地がある。停滞よりはずっといい。もっとも、その直す余地のために今日の予定がまた増えたことも同時に確定したのだが。

 

「いやはや」

 

 誰にともなく言う。

 

「実によく回る世界だ」

 

 研究室へ戻ると、助手が成績表を抱えて立っていた。顔色は朝より少しましだ。数字が揃ったのだろう。

 

「できました」

 

「見せたまえ」

 

 受け取り、目を通す。こちらは大きな破綻はない。試験結果そのものは期待ほど派手ではないが、悲観するほどでもない。要は、あと少しだ。研究者の人生は大抵この「あと少し」で構成されている。あと少しで理論が噛み合う。あと少しで材料が届く。あと少しで予算が通る。あと少しで軍や官僚が黙る。最後の一つが一番難しいことが多いのだが。

 

 助手が恐る恐る聞く。

 

「どうでしょうか」

 

「壊滅ではない」

 

「はあ」

 

「喜びたまえ。壊滅でない日は祝賀に値する」

 

 助手は笑うべきか迷ったような顔になった。気の毒だが、研究棟で働く以上、この種の冗談へ慣れてもらうしかない。

 

 成績表の端へ印を入れ、机へ置く。次に必要なのは、倉庫側とのずれを正式な形へ起こすことだ。そして、そうなると、いずれターニャの顔が脳裏へ浮かぶ。

 

 実に不愉快である。

 

 不愉快だが、仕方もない。倉庫側の記録ずれを放置すれば、次の搬出割当に響く。搬出割当に響けば、研究側は資材不足を訴える。資材不足を訴えれば、誰かが優先順位を決める。その誰かは、たいてい軍か、党か、保安側だ。ならば、最初から保安側で話の通る人間へ持っていく方が早い。つまり、ターニャだ。

 

 彼は椅子へ深く腰掛け、天井を見上げた。

 

「少佐殿のしかめ面が目に浮かぶようだ」

 

 口にすると少し可笑しい。ターニャが好調な時や、こちらが少し機嫌よく話したい時、彼はつい「少佐殿」と呼ぶ癖がある。本人はだいたい嫌がる。嫌がるが、完全には無視しない。つまり、効果はある。あるからやめない。

 

 机上の封筒を一つ取り、必要な控えを揃える。倉庫側のずれ。研究側の申告。試験資材の割当表。これだけあれば十分だ。十分だが、説明の順番を間違えると、あの少佐は三秒で「結論から話せ」と切ってくる。結論。条件。必要な経路。責任者。期限。その順だ。実に味気ない。だが、味気ないからこそ通ることも知っている。

 

 彼はペン先で机を軽く叩いた。行くなら午前のうちか。いや、昼前だ。朝一番は向こうも別件で詰まっているだろう。昼前なら、少しだけ揺さぶりが利く。食事中に行けば嫌がるだろうが、その嫌がり方がまた実に人間的で面白い。

 

「うん、そうしよう」

 

 助手が横で不安げに顔を上げる。

 

「何か追加で必要ですか」

 

「必要なのは、夢を潰さずに要件へ落としてくれる嫌な少佐だ」

 

「……はあ」

 

「君は気にしなくていい。研究者の交渉先には、時々そういう生き物がいる」

 

 助手はますます困った顔になった。気の毒だが、彼もそのうち分かるだろう。研究を回す上で、夢と現実をどちらも軽んじない相手というのは、思っているより貴重なのだ。言い方が刺々しく、要件欄へ押し込むのが得意で、少しばかり年齢不相応なしかめ面をするにせよ。

 

 午前の後半、ドクトルは残りの試験成績表へ目を通し、助手二人へ指示を飛ばし、倉庫側へ再確認の短い覚え書きを作らせた。研究室の空気は温まりきらず、金属器具は指へ冷たい。だが、人の出入りは増え、ようやく建物全体が起きた感じになる。

 

 彼はその慌ただしさの中で、ふと自分がこの騒がしさを案外気に入っていることに気付いた。

 

 研究は孤独だと言う者がいる。間違ってはいない。最後に考え、決め、賭けるのは自分だ。だが、その孤独を支えているのは、いつだって大勢の雑音だ。誰かの報告の遅さ。誰かの帳簿の癖。誰かが持ってくる茶のぬるさ。そうした取るに足らない現実の上へ、研究はどうしようもなく乗っている。

 

 だからこそ、彼はきっと今日もターニャのところへ行くのだろう。

 

 夢だけでは資材は動かない。数字だけでも未来は来ない。その中間で、こちらの話を面倒くさそうな顔で聞きながら、必要な欄へ叩き込んでくれる相手がいる。実に腹立たしいことに、それは結構ありがたい。

 

 昼へ向かう時間帯になり、彼は封筒の中身をもう一度確認した。倉庫側のずれはこれで説明できる。必要なのは輸送優先の微調整と、保管経路の見直し、それから余計な目の整理だ。

 

「よし」

 

 立ち上がり、コートを取る。

 

 扉の前で一度だけ振り返り、机の上の散らかり具合を見た。戻ってきた時にどこから手を付けるべきか、自分だけは分かっている。たぶん。

 

「諸君、留守を頼む」

 

 助手たちへそう言い残し、彼は研究室を出た。廊下の向こうに待っているのは、また別の種類の現実だ。書類の現実。署名の現実。期限の現実。

 

 実に鬱陶しい。だが、少しばかり楽しみでもあった。

 

次に読みたい展開はどちらですか?(※構成上、前後する可能性あり)

  • イギリス戦方面
  • 帝国内政(モレル関連)
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