10月末、ハロウィンの日。
3年生にとって初めてとなるホグズミード行きの日だ。新学期が始まってから皆この日を心待ちにしていた。
『三本の箒』でロンとハーマイオニーと共に初めてのバタービールを堪能したハリーは、2人と別れマダム・パディフットの店へと足早に向かった。そこでチョウと待ち合わせをしているのだ。
ここのところペットのことでやや険悪である2人を残して行くのは少し気が引けたが、初めてのホグズミードで浮かれているのか今日はいくらかマシだった。
「ごめん! 待たせたかな?」
マダム・パディフットの店の前に既にチョウはいた。
周りの生徒より少しませているチョウは、睫毛にたっぷりとマスカラを乗せ、唇には真っ赤な口紅も引かれていた。
そんなチョウだがハリーに気付くと、眉を吊り上げる。そんな仕草まで愛らしく見えた。
「…遅かったじゃない」
つんとしたその表情は、ハリーが先程までハーマイオニーと一緒にいたことが気に食わないことを物語っていた。
「ごめんね。 初めてのホグズミードは一緒に行こうってあの2人と前から約束してたんだ。 ところで、今日はいつにも増して可愛いね、チョウ」
「今さらご機嫌とりかしら?」
チョウが口を尖らせてそう言った。
その様子があまりにも幼く見えたのでハリーがクスッと笑うと、チョウもとうとう我慢できずに吹き出した。
ハリーはチョウの腰に手を回すと、自分たちと同じようなカップルに溢れたマダム・パディフットの店へ足を踏み入れた。
店内は何もかもピンク色に統一されて、あちこちにフリルがあしらわれていた。
カップルはあちこちで濃厚なキスを交わしている。
ここがチョウのお気に入りの店ということは、前付き合ってた人とここにも来たのだろうか。
ハリーの頭の中で、ちょっと意地悪な考えが頭をもたげた。
チョウがマダムにコーヒーを2つ頼むと、すぐに運ばれてきた。
だが、ハリーは先程バタービールを飲んだばかりなので喉が渇いていなかった。
何も言わず、ハリーはチョウの首筋に手を添え顔を近付けた。チョウももちろん拒むことなく、うっとりと柔らかく微笑んだ。
レギュラスは自室を出ると、土曜日の割には生徒が少ないなということに訝しみ、そこで初めて今日はホグズミード村に行ける日だと気付いた。
相変わらず生徒のことには関心が薄い。
それでは…さすがに今日はあの子も来ないだろう。
レギュラスは、心のどこかでハーマイオニーを待っていたことに気付いて戸惑った。
馬鹿馬鹿しい。自分らしくない。
『穢れた血』の生徒を心待ちにしていたなんて、何かの間違いに決まっている。
しかし、ホグズミード村。何と懐かしい響きだろうか。
自分も在学中には遊びに行った。しかし、これと言って青春らしい記憶はなかった。
スリザリンに所属し、ブラック家の期待の次男として周りから見られていたレギュラスは、やはり同じ聖28一族の子息子女と付き合うことを母から強要された。
ホグズミード村に来ても、暗くジメジメしたホッグズ・ヘッドに溜まり、同じく純血思想の同胞と闇の帝王の偉業を語り合った。それが当時は何より有意義に感じたはずなのに。
ゾンコの悪戯専門店に行ったり、安いパブで寮の垣根なくバタービールを引っ掛けたり、当時は馬鹿馬鹿しいと思っていたことが、今になって同じことをしている学生があまりにも眩しい。
レギュラス自身は絶対に認めないが、彼はシリウスが羨ましかった。
悪戯専門店を練り歩き、女の子を引っ掛けて、ブラックの名を捨てても周りに人がすぐ集まり、友達と大声で笑っているシリウスが。
自由に生き、いつだって友達に囲まれているシリウスが。
レギュラスがシリウスを執拗に憎む理由は、幾つもあるが、その中には嫉妬もあるのだろう。
そんな物思いに耽っていると、扉がコンコンと叩かれた。
ハーマイオニーが肩をいからせて廊下を突き進んだので、殆どの下級生が慌てて道を開けた。
楽しみにしていたホグズミードが台無しだ。
これも何もかもロンのせいである。
ハリーが居た時はまだ良かった。初めてのホグズミードに浮かれていたし、バタービールも最高に美味しかった。
しかし、ハリーがガールフレンドに会いに行ってしまってロンと2人きりになってから空気が変わった。
ロンはスキャバーズ--こないだ彼が拾った汚いネズミだ--がクルックシャンクスにいつも襲われているとネチネチ文句を言ってきた。そんなことを言われても、猫がネズミを追うのは当たり前だ。
そのせいで、ここのところ形を潜めていた戦争が再発してしまった。
結局最後は喧嘩別れのように『三本の箒』を出た。
ロンはディーンやシェーマスと合流してしまい、ハーマイオニーは一人ぼっちになってしまった。
シャルロットと合流しようかと思ったが、彼女は退院したばかりのドラコと2人で回ると言っていた。ドラコの自分への態度は軟化したものの彼はいい顔をしないだろうし、何よりデートの邪魔をしたら悪い。
ハーマイオニーは改めて自分の友人の少なさに落ち込んだ。
結局1人でスクリベンシャフト羽根ペン専門店やハニーデュースクの店を冷やかしたハーマイオニーは、ホグワーツに帰ることに決めたのだった。
ハーマイオニーは魔法薬学の教室の前に着くと、手鏡を取り出して乱れた髪型を整えた。
ノックをすると、中から「どうぞ」といつも通り素っ気ない声がした。
部屋に入ると、レギュラスはちょっと驚いたように目を見開いた。
今日はハーマイオニーが来るのは予想外だったのだろう。
もしかして友達が少ない可哀想な子だと思われただろうか。
ハーマイオニーは自分の顔が火照るのを感じた。
「…昨日出した『老け薬』についてのレポートがもう終わったのですか?」
有難いことに、レギュラスはホグズミードに関してのことは突っ込まなかった。
「え? …あ、はい!そのことに関して分からないことがあったので、ブラック先生に聞こうと…」
「そうですか。見せてみなさい」
ハーマイオニーは慌ててバックの中から羊皮紙を取り出して拡げた。
レギュラスが羊皮紙を覗き込んだので、彼の顔が近くなりハーマイオニーの鼓動の速度が上がる。
薬草の匂いに混じって、ムスクの香水がふわりと鼻腔を擽る。
「あぁ、なるほど。 ここのニワヤナギと蛙の肝臓の配分についてですか」
「ええ」
この頬の熱さが、この心臓の早鐘が、彼に伝わってはいないだろうか。
「ふむ…それなら実際にやってみた方が早いかもしれませんね」
レギュラスはそう言って立ち上がる。ムスクの香りが、おあずけと言わんばかりに遠ざかった。
薬を煮込むフツフツという音が2人の間を縫っていく。
魔法薬の調合は困難かつ繊細だ。
そして、危険が伴う。常に作業に集中しなければいけないというのは1年生の時から耳にたこができるほど言われていることである。
だから、そのことはハーマイオニーももちろん人一倍理解していた。しかし、今日のハーマイオニーはどこか上の空だった。
「その後、切り刻んだイラクサを鍋に入れます」
自分はロンに悪いことをしてしまっただろうか。
確かに、誰だって自分のペットが襲われたら嫌な気持ちになるに決まってる。
でも、それにしたってあんなきつい言葉を言わなくてもいいじゃないか。
「この時の順序が大切ですね。 その後に蛙の肝臓を入れなさい。 …聞いていますか、グレンジャー」
「あ…は、はい」
その言葉に考え事から連れ戻されたハーマイオニーは、慌てて目の前の蛙の肝臓を掴んだ。そして、鍋に入れ込む。
「グレンジャー!!」
途端に強い力でレギュラスに引っ張られ、ハーマイオニーは彼の胸の中にすっぽりおさまった。
鍋が大きな音を立てて爆発したのと、レギュラスが無言呪文で
「いっ…た……」
しかしあまりにも咄嗟のことだったので、レギュラスの作り出したプロテゴが守ったのはハーマイオニーの顔と上半身だけだった。彼女の右足はもろに薬品が飛び散り、皮膚が真っ赤に焼け爛れている。
レギュラスは無言のままハーマイオニーの怪我に触れないよう膝の下に手を入れて、軽々と抱き上げた。
「ブラック先生! 私、自分の足で歩けます!」
ハーマイオニーは赤面しながらも慌ててそう言った。しかし、レギュラスは何も返さずハーマイオニーを抱き上げたまま、研究室の隣りに位置する自室へと向かった。
レギュラスはハーマイオニーをソファーの上へ降ろすと、棚の中から薬品をいくつか出した。
「…右足を出しなさい」
「え…でも…」
太ももの近くまで火傷しているせいか、目の前のレギュラスにそこまで晒すのは抵抗があった。
しかし、ハーマイオニーが戸惑っているとレギュラスはどこか苛ついたようにスカートを捲り上げた。ハーマイオニーが何か言い募る前に、レギュラスは軟膏のようなものを手に取る。そして、手ずから彼女の足に塗り広げた。
レギュラスの手はあの時と同じように冷たかったが、少しでも痛くないよう気遣われながら塗られてるのが分かった。今やハーマイオニーの鼓動は爆発寸前である。
何となくそのレギュラスの態度に気圧されたハーマイオニーも、黙ったまま居心地の悪い顔をしていた。
部屋は静まりかえっていて、辛うじて時計が時を刻む音だけが聞こえた。
レギュラスの部屋に入ったのは初めてだった。その部屋は彼の性格を丸ごと表しているようで、家具は最低限しかないものの置かれているものは洗練されていて一目で高級品だと分かった。
軟膏を塗り終えると、レギュラスは漸く口を開いた。
「暫く痛いかも知れませんが痕は残らないでしょう。 塗り薬を今調合しますから、そこに座って待っていなさい」
レギュラスが杖を一振りすると、戸棚の中から銀色の花模様が入ったティーセットと、これまた高価そうなクッキーが入ったお皿がテーブルに置かれた。
ティーポットは宙に浮くと自動でカップへとお茶を注ぐ。そして、流れるようにハーマイオニーの前へとふわふわ飛んできた。
ハーマイオニーの戸惑った顔に、レギュラスは違う解釈をしたらしい。
「…ああ、今日はマダム・ポンフリーが不在なのです。 私でも薬の調合は可能ですが、明日念の為医務室に行きなさい」
「あ…はい。 ありがとうございます」
もう少し気の利いたお礼が言えたらいいのに。
ハーマイオニーは美しいティーカップを絶対落とさないよう気をつけながら、口をつけた。良い茶葉を使用しているのだろうが、味なんてわからなかった。
レギュラスの自室でお茶を飲んでいる。
あまりにも信じられないこのシチュエーションに頭がクラクラする。
「あの…手順を間違えてしまってすみませんでした」
沈黙に耐えられなかった。
レギュラスは相変わらずこちらに背を向けたまま、薬の調合を続け、鍋に材料を入れている。
「魔法薬の調合中は集中しろと私はもちろんセブルスも何度も言ってきたはずです。 ほんの些細なミスで命を落とすことだってある」
ぐうの音も出ない。
これ以上ないくらい厳しい正論に、ハーマイオニーは項垂れた。
「何かありましたか?」
「え?」
ハーマイオニーは思わずティーカップを取り落としそうになり慌てた。
「貴方がぼんやりしてしまうほどの何かがあったのかと聞いているんです」
「いや、あの…大したことないんです」
「話してみなさい」
一体どんな気まぐれだというのか、レギュラスは何やら薬の材料を刻みながらいつも通り素っ気ない口調で促した。
ハーマイオニーはおずおずと、自分のペットの猫がロンのネズミを追いかけるせいでここのところ上手くいってないこと。そして、先ほどホグズミードで彼と大喧嘩をしてしまったことを話した。
口に出せば出してみるほど、それはまるで幼い子どもの喧嘩のようでハーマイオニーは恥ずかしくなり、だんだんと声が小さくなった。
「すみません。 こんなくだらない話を聞かせてしまって」
最後は殆ど消え入りそうな声で、彼の背中に向かいハーマイオニーはそう締めくくった。すると彼は魔法薬を掻き回しながら、ちらりと振り返った。
「いえ、くだらないとは思いませんよ。 私にも--私の場合は屋敷しもべ妖精なのでペットとは異なりますが--大事な存在がいます。 傷つけたり、誰かに悪く言われたら私も貴方のように怒ると思います」
ハーマイオニーは驚いて、レギュラスの顔をまじまじと見つめた。すると、彼は露骨に顔を顰めた。
「何ですか? ハリー・ブラックからどんな噂を聞いているのか知りませんが、私とて血の通った人間ですよ」
ハーマイオニーは慌てて首をぶんぶんと振った。
「いえ! そういう意味ではありません。 ただ…魔法使いの多くは屋敷しもべ妖精に…その、強く当たると聞いていたので…」
「--ああ、そう言った魔法使いも確かに多いですね」
レギュラスは顰めっ面のまま言った。
「…しかし、そのようなことがあったとしても薬の調合中にぼんやりしていい理由にはなりません」
「はい。 すみませんでした」
ハーマイオニーはしおらしく謝罪の言葉を口にした。レギュラスから失望された。もしかしたら、嫌われてしまったかもしれない。…もちろん、最初から好かれてるわけなんてないのだけれど。
レギュラスは、薬の調合過程が終わったのかティーカップを取り出すと自分の分の紅茶も入れた。
そして、ハーマイオニーの向かい側のソファーに座る。
「しかし、生徒に怪我をさせてしまったのは私の監督責任でしょう。 あと15分ほどで薬が出来上がりますのでそれを持っていきなさい」
俯いていたハーマイオニーは思わず顔を上げた。レギュラスのその言葉から、どことなく自分を心配してくれる優しさを感じた気がした。
いや、彼は紛うことなく優しいのだ。
ハリーはレギュラスが元死喰い人の極悪人だと言っていた。しかし、そんな人が屋敷しもべ妖精を大切にするだろうか?
「助けてくれてありがとうございました」
ハーマイオニーは改めてきちんと頭を下げた。
レギュラスは軽く頷くと、紅茶を傾けた。その仕草はごく自然なのに優雅で品があった。
ハーマイオニーは思わず見惚れてしまいそうになる。
「1年生の時も、ブラック先生は私を助けてくれましたね」
「あれは成行きです。私は…クィレルが『賢者の石』を手に入れるのを止めなければならなかった」
レギュラスはそう言ってから、ちょっとバツが悪そうな顔で再び紅茶を口に含んだ。どうやら失言だったと後悔しているようだ。
ハーマイオニーもあの時はレギュラスが犯人だと思い込んで行動をしていたため、気まずい思いに駆られた。
今思えば、レギュラスを疑っていたなんて信じられない。
今でもあの時のことはまざまざと脳裏に蘇る。
トロールの攻撃に死を覚悟したその時、颯爽と現れて自分を助けてくれた。
あまつさえトロールの酷い死を見せないよう、私の視界をその手で遮ってくれた。
レギュラスは確かにグリフィンドール嫌いだし、冷たくて、皮肉屋で、何を考えている人なのか分からない。
それでも彼の中に優しさがあって、それが僅かにでも自分に向けられているのは自惚れではない気がした。
「--ブラック先生。 貴方が、好きです」
あまりにもごく自然に、口から言葉が滑り落ちた。
目の前のレギュラスの表情が、動作が、そして思考さえもが完全に静止した。
彼は暫くそのまま固まっていたが、おもむろに手に持っていたティーカップをソーサーの上に置く。
ハーマイオニーは体中がかっと熱くなるのを感じた。
今、自分は何と言った?
「あ、あの…これは…違うんです」
しどろもどろになりながらもそう言うと、ハーマイオニーはばっと立ち上がった。そして、慌てて一礼をすると振り返らず一目散に部屋を出て行った。
頬が燃えるように熱い。
ハーマイオニーは廊下をバタバタと走った。もし、マクゴナガルに見つかったら減点されるだろうが、今はそんなことを考える余裕はなかった。
もちろん自覚していた。レギュラスが好きなのだと自覚はしていた。
ハーマイオニーにとって、初恋だった。
ただ彼の生徒で居られて、彼に魔法薬の成績を褒めてもらえるならばそれで充分だと…幸せだと思っていた。
先程のレギュラスの戸惑ったような顔が浮かぶ。
もともと体力なんて殆どないハーマイオニーはすぐに走り疲れてしまい、階段の手すりへと体を傾けた。
--報われない。報われるわけなどない。
だって、自分は『マグル生まれ』なのだから。
何か言葉をかけようとした時には、彼女はもう部屋を出て行った後だった。
彼女の飲みかけの紅茶と、先程より数の少なくなったクッキーだけが取り残されている。
今、あの少女は何と言ったのか。
もし自分の聞き間違いでなければ--。
気付けば、他人からあんな純粋な愛情を向けられた経験は少ない。
彼女の真っ直ぐなチョコレート色の瞳は、どこかレギュラスをいつも居心地悪くさせた。それが自分への無償の愛だったことを、レギュラスは今初めて思い知らされた。
在学中も闇の世界に入っても、周りに仲間は居た。しかし、それは自分が『ブラック家』であるからだ。
友人なんてほぼ居ない。いや、正確に言えば『ブラック家』としての友人は居たが、その殆どがアズカバンに今囚われている。
親から愛情を受けたのも、自分がシリウスと違って『純血主義』だったからだ。
レギュラスを愛する人物を強いて挙げるとすれば、ダリアやセブルス、クリーチャー。そして、何よりシャルロットくらいだろうか。
なのに、グリフィンドール生まれで『穢れた血』であるはずの彼女から--。
いや、きっと何かの間違いだろう。それか、自分の勘違い。
自分のスリザリン贔屓は周知の事実であるし、彼女が自分に好意を抱くなどありえない。
レギュラスはティーカップを片付けながら、自分にそう言い聞かせた。
彼女が自分を好きになるはずないと幾つも幾つも、理由を挙げてみる。
しかし、それは自分がどうにか納得したいがための言い訳にしか聞こえなかった。
それでは、自分は彼女のことをどう思っているというのだ?
ガシャンッ。
レギュラスは、綺麗に洗ったばかりのカップを勢いよく床に投げつけた。耳障りな音を立てて、高価なティーカップが粉々に割れる。
脳内に不意に浮かんだ意地悪な質問を、レギュラスは無理矢理シャットアウトした。
苛立ったように短い黒髪をかきあげると、杖をひと振りして破片を集め、ゴミ箱に叩き込む。
全くもって--。
全くもって、こんな感情など馬鹿馬鹿しい。
ここのところドラコが命を落としかけたり、さらにドラコが命を落としかけたりしていたので箸休め恋愛回。