静寂に包まれた墓場で、ヴォルデモート卿は冷たく笑った。
「ハリー……ポッター……」
腕を、胸を、次に頬を。
それぞれ調子を確かめるよう愛おしげに触れる。真っ赤にギラギラ輝く蛇のような双眼に見据えられ、ハリーの傷跡は燃え盛るばかりに傷んだ。
「ああ、今はハリー・ブラックと名乗っているのか。 忌々しいことよ。 混血風情がその名を語るとは…ベラトリックスはさぞかし腸煮えくり返っているだろう」
ハリーは今にも殺されることを危惧した。
心臓は早鐘を打って自身の中で痛いくらいに動悸が鳴り響く。
しかしヴォルデモートはそんなハリーの怯えを嘲笑うように、ハリーの前を通り過ぎた。
「ご苦労だった、ワームテール。 さあ、腕を出すがいい」
「おお…我が君…畏れ多いことでございます…ありがとうございます……」
ワームテールは悲痛な泣き声を上げながらも、喜色の表情を浮かべヴォルデモートの足元に縋り着いた。そして、血に濡れた右手を差し出す。
しかし、ヴォルデモートは大仰に笑った。この世のものとは思えないほど残忍な笑い声だった。
「違う。 別の方の腕だ」
ヴォルデモートはワームテールの左手をぐいと掴み、捲りあげた。そこに刻まれていたのは口から蛇が飛び出している禍々しい髑髏だった。
ハリーはこれを見たことがあった。クィディッチ・ワールドカップで空に打ち上げられていた闇の印だ。
闇の印にヴォルデモートが杖の先を押し当てた。ワームテールはまたしても苦痛に顔を歪めた。
ヴォルデモートが手を離すと、闇の印は黒黒と光沢を放っていた。
「さあ、戻る勇気のある者が何人いるか」
ヴォルデモートは再びハリーに向き直った。
「ハリー・ポッター、今お前は俺様の父の遺骸の上にいる。 マグルの愚か者よ…。 そうだ、俺が殺した。 しかし使い道はあったわけだな?」
ヴォルデモートは高らかに笑った。
その時、暗いイチイの木陰から、墓と墓の間から、暗がりという暗がりから、マントを翻す音がした。
目深にフードを被り、仮面で顔を隠した魔法使いが姿を現した。彼らはゆっくり慎重に、我が目を疑うかのように主へと近付く。
「見ろ、ポッター。 これが俺様の真の家族だ」
ヴォルデモートは満足げに彼らを眺め回した。
「ご主人様…ご主人様……」
仮面の男の1人が跪き、ヴォルデモートのローブへ接吻した。それを機に、他の仮面の男もすぐさま膝をつき全く同じ行動を繰り返した。
「よく来た。 『死喰い人』たちよ。 13年という長い月日が流れた。 …しかし、おまえたちはまるで昨日のことであったかのように呼び掛けに応えてくれた」
ヴォルデモートは恐ろしい顔を仰け反らせ、辺りを睨め回した。
「罪の匂いがする」
辺りは重苦しい沈黙に包まれた。耐えきれず、一人の死喰い人が許しを乞うた。しかし、ヴォルデモートは残忍な笑い声を立て磔の呪文を放った。
「俺様は許さぬ。 俺様は忘れぬ。 十三年もの長い間だ…これから罪は償ってもらう。 しかし、ワームテール…貴様はその一部を既に返したな」
ヴォルデモートは今更思い出したかのように、足元で啜り泣く男を足蹴にした。
「はい…ご主人様……どうか…」
「虫けらのような裏切り者だが、ヴォルデモート卿は尽くした者には褒美を与える」
ヴォルデモートは杖を空中で回すと、一筋の銀のようなものが現れた。それは形を変えて人の手になり、ワームテールの手首へと嵌った。
ワームテールは泣きやみ、信じられないものを見たかのように瞬きすると同胞と同じように主へ跪いた。
「これは…素晴らしい……ありがとうございます…我が君……」
「ワームテールよ。 貴様の忠誠心が二度と揺るがぬよう」
「我が君…我が君…決してそんなことは…」
ヴォルデモート卿はワームテールを無視して、右側の男に近付いた。そして乱暴に仮面を剥ぎ取った。
「ルシウス、抜け目の無い友よ」
その下から現れた顔は、ハリーもよく知る顔だった。
「ルシウスおじさん!! 助けて!!」
思わずハリーはそう言葉を発した。
仮面の男たちが、そしてヴォルデモートさえも小馬鹿にするよう嘲笑った。
「ルシウス、偉くなったものだな。 英雄ハリーにここまで懐かれているとは。 さぞかしダンブルドアから寵愛を受けたであろう?」
「いいえ、我が君。 私はずっと準備をしておりました。 あの小僧を取り込んでおいたのも、その時がきたらいつでも我が君に差し出せるように…それに他なりません」
ルシウスはハリーに一瞥もくれず、流れるような言葉でそう語った。
「ほう? それは真か? ホグワーツに入り込んでいる俺様の忠臣によれば、貴様の息子はこの小僧と親友とのたまっているらしい。 それに、この小僧を取り込む前に他にすべきことがあったのではないか? 例えば…俺様を探し出すことがおまえには出来たはずだ」
ルシウスは口を噤んだ。
「おまえには失望した。 これからは更に忠実に俺様に仕えてもらうぞ」
「もちろんでございます…。 我が君…お慈悲を感謝致します」
ルシウスは深々と頭を下げた。
「さあ、今ホグワーツに俺様の忠臣が入り込んでいると言ったな? その者がこうして今日来賓を連れてきてくれた」
皆の視線がハリーへと向かった。
「クルーシオ!!」
「ぐっ…ああああああ!!」
目の奥が真っ赤に染まり、全身の血が煮立つかのような想像を絶する苦痛。
いっそのこと殺してくれ。ハリーはそう強く感じた。
「ワームテール、縄を解いて杖を返してやれ」
未だ苦痛にふらつくハリーは、そのまま無抵抗にどさりと倒れた。
「ルシウスおじさん…」
奇しくもハリーが倒れた目の前には、未だ跪いたルシウスがいた。
しかし、彼の顔は全ての表情を押し殺した能面のようなものだった。
「…2年前言ったはずだ。 私は君の味方にはなりえないと」
彼はハリーにだけ聞こえるよう、冷たくそれだけ言った。
ワームテールが銀の手で、ハリーの目の前に杖を放った。
ハリーはふらつきながらもそれを握りしめ、立ち上がった。
「決闘のやり方は知っているな?」
「ああ。 パパから習っている」
ハリーは威嚇するよう目の前の仇を睨みつけた。
助けは来ない。自分はここで嬲られて死ぬのだ。
父さんと母さんは自分を守って死んだ。パパは今も闇の勢力と戦い続けている。
それなら…自分も親の名に恥じないよう、死ぬまで立派に戦うんだ。
向かい合って一礼。そして、背を返して互いに離れるように三歩。
「アバダ・ケダブラ!!」
「エクスペリアームス!!」
2人の杖からそれぞれの呪文が迸ったのは、ほぼ同時だった。
2つの閃光は空中でぶつかりあった。
--その時、不思議なことが起こった。まるで電流で貫かれたように、杖が振動し始めたのだ。
杖と腕が、そして信じられないことにヴォルデモートの杖までもが一帯になって、眩い金色の光に溢れた。
光の中からまるで花が綻ぶように、淡い人影が現れた。
セドリックのゴーストだった。
「ハリー、がんばれ。 もっと君と仲良くなりたかったよ」
そう言って彼は端正な顔立ちでくしゃりと笑った。
次に現れたのは知らない人だった。いや、正しくは夢の中で見たことがあった。夏休みに見た夢で会った老人だ。
「それじゃあ、あいつは本当に魔法使いだったのか! 俺を殺しやがった……やっつけろ! 頑張れ、坊や!」
またすぐに光の中から人影が現れた。
痩せぎすの女性だった。ハリーはその女性を日刊予言者新聞で見たことがある。魔法省で行方不明になったバーサ・ジョーキンズだ。
「あんたが、シリウスがいつもベラベラ自慢してた息子だね。 私の仇をとるんだよ! いいかい? 絶対杖を離すんじゃない!」
ハリーの杖がぶるぶると震えた。
そして--また新たな人影が現れた。ハリーには、セドリックが現れた時からずっとそれを待っていたように、誰なのかが分かっていた。
「母さん…」
ハリーが誰よりも強く心に思っている女性だった。
リリー・ポッターはその名を冠する通り、花のように優しく微笑んだ。
ハリーはそれだけで頬に熱いものが止めどなく流れた。それでも杖だけは離さなかった。
「お父さんが来ますよ…大丈夫……がんばって…」
そして、金に輝く光の中から自分そっくりの人物が現れた。背が高く、がっしりとした、くしゃくしゃ髪の--父親だ。
「おまえを誇りに思うよ、ハリー。 シリウスが愛情深く立派に育ててくれたおかげだな。 あいつにお礼を言ってくれ。 …さあ、つながりが切れると私たちはほんの少ししか留まっていられない。 すぐポートキーまで走りなさい」
こんな状況だというのにジェームズ・ポッターはニヤッと笑って言葉を続けた。
「しかし、大丈夫だよ。
ハリーはぶるぶる震える杖を両手で抑えながら、グチャグチャの顔のままどうにか頷いた。
「ハリー、お願いだ。 僕の体も連れて帰ってほしい…両親の元へ」
セドリックの影が囁いた。
「さあ…今だ!」
父親がそう言ったのと同時に、ハリーは渾身の力で杖を上に捻じあげた。
金色の糸は消え、光がはち切れた。
ハリーは走った今までで一番の力を出して、セドリックの遺骸まで走った。
視界の端で、両親たちがヴォルデモートからハリーの姿を隠すよう迫って--そして消えた。
ハリーは無我夢中に走ったが、死喰い人たちの呪文が耳元を何発も掠めた。
その時、ハリーの走る進行方向に姿あらわしで何人もの魔法使いが現れた。
新たな敵の増援に、ハリーは絶望しかけた。しかし、現れた人の顔を見てすぐその感情は払拭された。
「パパ!」
「俺の息子に何をする!」
シリウス・ブラックが、挨拶代わりに手近の死喰い人をぶっ飛ばした。
トンクスやキングズリーは既に多くの死喰い人と相見えていた。
幾多の閃光が飛び交う。
「どけ! 俺様が殺してやる! 雑兵は貴様らがどうにかしろ!」
ヴォルデモートの怒り狂った声が背後からした。
シリウスはハリーを庇うように抱いて走った。
「アクシオ!」
そして、セドリックの元に辿り着いたと同時にシリウスは優勝杯を呼び寄せた。
途端に臍の裏側がぐいっと引き寄せられ、何かもかもが遠くなり--風と色の渦の中ハリーとシリウスと、そして物言わぬセドリックはぐんぐん飛んでいった。
永遠と続くかと思われた浮遊感は、突然終わりを告げた。ドサッと乱暴に地面に叩きつけられる。
辺りを歓声が包んだ。しかし、それも一瞬でどうして競技に臨んでいたはずのハリーがシリウスと居るのか、そして…動かないセドリックを抱えているのか、戸惑いの声が上がり始めた。
「ハリー!」
ダンブルドアが屈んでハリーの顔を覗き込んだ。後ろにはファッジもいる。
「何事だ!? 何が起きたというのだ?」
「ヴォルデモート卿が…復活したんです」
ハリーは喘ぐようそれだけ言った。
ハリーの声はそれほど大きなものではなかったが、観衆の間にそれは漣のように広がった。瞬く間に皆は騒然とし軽いパニックとなった。
「セド!」
スタンドのすぐ下で観戦していたジニーは、彼の両親より先にセドリックへと辿り着いた。
そしてもう冷たくなった頬に触れ、指が唇をなぞった。
「ハリー! 校長先生! セドリックが息をしてないわ! 早く医務室に連れて行って!」
ジニーは真っ青のまま声を震わせた。
セドリックの両親が血相を変えてこちらに駆け寄る。
「いや、もう手遅れだ。 この子は死んでいるよ」
ファッジは低い声でそれだけ言った。
ジニーの喉からヒュッと空気が漏れ、体がカタカタと震え始めた。
「どいてくれ!!」
ディゴリー夫妻がジニーを押し退け、息子の前へ膝をついた。
「セドリック…」
ハリーは小さな声で呟いた。
セドリックにもう一度駆け寄りたかったが、シリウスとダンブルドアがそれを許さなかった。二人に両腕を支えられたまま、城へと連れて行かれた。
ぼんやりとした頭の中で2人が言い争うのが聞こえた。
「この子には休息が必要だ! 怪我だってしている。 取り敢えず眠らせてやりましょう。 何もかもその後でいい!」
「否、ハリーは知らなければならん。 納得して初めて回復があるのじゃ。 一時的に痛みを麻痺させれば、後になって感じる痛みはもっと酷い」
結局ハリーが連れて行かれたのは、医務室の温かいベッドではなく、バーティミウス・クラウチ・ジュニアが縛り付けられた部屋だった。
セブルスやマクゴナガルは油断することなく、彼に杖を突きつけている。
無事なハリーを見ると、2人は安堵したように一瞬微かな笑みを浮かべた。
しかし、ダンブルドアがセドリックの死を伝えると沈痛に顔を歪めた。
「…起きろ。 もう一度、これまでしてきたことの話を繰り返せ」
セブルスが冷たい瞳で、クラウチ・ジュニアを小突いた。
クラウチ・ジュニアは語る。
母親が入れ替わってくれたおかげでアズカバンから出たこと。
長年父からの服従の呪文で家に閉じ込められていたこと。
ハウスエルフのウィンキーが父に頼みこんで、クィディッチ・ワールドカップに来たこと。
そして、そこでハリーの杖を盗み闇の印を打ち上げたこと。
ムーディに化けてホグワーツに忍び込み、ハリーが優勝できるよう根回ししていたこと…。
彼の話が終わると、今度はハリーの番だった。
もう何も考えたくなったし、思い出したくなかった。
きっとシリウスとセブルスがハリーの背を優しく摩ったり、肩に手を置いてくれなければ最後まで話し終えることなど出来なかっただろう。
ハリーがワームテールのことを話すと、シリウスは無言で拳を震わせ、セブルスもまた壮絶な顔をしていた。しかし、身を削って語るハリーの話を遮ることはしなかった。--それはハリーが両親のゴーストの話をした時もだった。ただ2人が涙を堪えるよう痛いくらい力を入れているのが分かった。
全てを話し終えると、ダンブルドアは優しいブルーの瞳でハリーを見つめた。
「ハリー、君は今夜信じ難いほどの勇気を示してくれた。 ヴォルデモートの力が最も強かった時代に戦って死んだ者たちに劣らぬ勇気を示した。 辛かったであろう。 話してくれてありがとう。 さあ、シリウスと共に医務室へお行き」
医務室にはロンやハーマイオニー、ルーナやシャルロット、ドラコ…皆がいた。
しかし、有難いことに何も聞かずハリーを一目見るとそっと医務室を出て行ってくれた。
シリウスもまた何も言わず、静かにベッドへと導いてくれた。
「パパ…」
マダム・ポンフリーから薬の入ったゴブレットを受け取りながら、ハリーは父の名を呼んだ。
「なんだ?」
「ヴォルデモート卿もクラウチ・ジュニアも自分で父親のこと殺したって言った。 でも、僕は今日2人のパパに助けてもらった」
「…そうだな」
眠かった。頭が朦朧としていた。疲弊しきって、熱も少し出ていたのかもしれない。
「ねえ、パパ」
だからか、ハリーの口から出た声は年不相応で幼さが滲んでいた。
「もし僕が死喰い人になって、悪いことをたくさんして…それで捕まったらどうする?」
シリウスは一瞬だけ言葉に詰まった。
が、すぐに悪戯を思いついた子どものようにニヤッと笑った。その姿は、不思議なくらい先程墓場で会ったジェームズに似ていた。
「そうだな。 おまえのこと1発思いっきり殴って…それで逃げる」
シリウスはハリーの頭をガシガシ撫でた。
「おまえと逃げて逃げて逃げまくって、世界の反対側にだって行ってやる」
クサい言葉だったが、シリウスが言うとまるで舞台のセリフのようにすんなり聞こえてしまうから不思議である。ブラック家の遺伝子は恐ろしい。
「かっこつけすぎ」
ハリーは笑った。
いや、笑ったつもりだったのに、喉から出たのは上擦った涙声だった。
「あのね、パパ」
「…もう寝なさい」
「ううん。 これだけ話させて」
さっきダンブルドアには墓場で起きたことを全て話した。
だけど、これだけは言わなかった。シリウスだけに伝えたかったから。
「さっきね、ジェームズ父さんに会ったって言ったでしょ? その時父さん言ってたんだ…。 シリウスにお礼を言ってくれって。 愛情深く立派に育ててくれてありがとうって」
シリウスは雷に打たれたかのように、体をびくりと震わせた。
ハリーは知っていた。
彼が未だに自分がジェームズとリリーを死に追い詰めたと後悔してることを。
「ね、去年言った通りだったでしょ? 父さんも母さんも最期の時、パパが裏切ったなんて考えもしなかったと思う」
シリウスはとうとう両手に顔を埋めた。だから、ハリーはすぐ眠ってしまったふりをした。
そして、いつの間にか本当の眠りへと落ちていた。
次話で炎のゴブレット編完結です。
先日、あまりにも悪質なアンチコメが感想欄に連投されまして…。目にした方も不快になるかなと削除させて頂きました。