終わりのセラフ 二次創作

───百夜優一郎、百夜ミカエラの夢の中の邂逅───

※新宿交差点再会前夜

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calling

─── 1 ───

 

夢を見るのは好きだ。

来ないはずの幸せな未来をたゆたう事が出来る。

触れれば柔らかい頬。

背を抱き締め返す優しい腕。

現実の世界では決して手に入らないそれらも、失われる事なくすべてが存在するのだから。

夢を見ている自覚がないのならば、それらは夢でも幻でもない。

 

紛う事なき現実であり本物なのだ。

 

 

 

じゃれついてくるチビどものはしゃぐ声と、姉のように思っていた少女の笑顔。

淡い金の髪を靡かせ、飛びつかんばかりに駆け寄って来るミカ。

 

目を閉じればそれらはいとも容易く鮮やかに蘇る。

 

 

数え切れないほどに夢に見るのは、惨殺される家族の最期。

 

ミカの声を無視して、引きずってでも連れ出していたら?

あと数秒早く走れる足があったら?

計画に反対していたら?

ミカが吸血鬼の屋敷に通うのを止めていたら?

 

頭の中はたくさんのifで埋め尽くされる。

 

繰り返す惨劇と同じくらい、幸せな夢も繰り返し訪れた。

家族全員で外の世界へ出て、小さな家で身を寄せ合って眠る幸せな夢。

チビ達の巣立ちを見送り、年老いるまでミカと二人で海辺で穏やかに暮らす夢。

吸血鬼なんていない世界で目が覚め、全て夢だったのだと笑い合う夢。

 

幸せな夢を見れば見るほど、夢から醒めた時の絶望と虚無感に大きく叩きのめされたが、それでも夢を見る事を願わずにはいられなかった。

 

 

半身を喪った優一郎は、それほどに孤独だったのだ。

 

 

 

 

 

 

夢の中の優一郎はまだ小さく、ミカエラ達と過ごしていた年齢になっている事が多かった。

おそらくいちばん幸せだった頃の時間を無意識に投影しているのだろう。

 

 

『バカだなぁ優ちゃんは』

『もう、無茶ばかりしてないで少し休むこと!』

『優ちゃん……大好き』

 

時に優しく、時に厳しく、時に恋人のように甘く囁く夢の中のミカエラ。

滅びた世界でたったひとり生きる事を余儀なくされた月日の中で、それはいつしか必要不可欠の安らぎになっていた。

 

 

阿朱羅丸を手に入れてからこっち、夢はより一層鮮やかな麻薬となって優一郎を誘った。

 

―――妄想の具現化。

 

これも阿朱羅丸の持つ力の影響なのかもしれない。

 

 

天地が定まらずふわふわとした形にならない空間に、ぽっかりと扉が現れる。

 

ああ……。

 

夢だ。

 

いつもの、幸せな夢。

 

もう二度とは還れない過去。

 

あの扉を開ければミカが笑顔で迎え入れてくれる。

今夜は何を食べようか?どうせカレーが食べたいとか言うんだろ?他愛ない話で笑い合う、いつもと同じ優しくて残酷な…夢の、入口。

 

 

 

 

───2───

 

 

 

 

夢を見るのは嫌いだ。

 

暖かい家族と過ごす至福の夢に、何もかも全て放り出して縋り付いてしまいそうになる。

そのくせ、手を伸ばして捕まえようとすると、泡のように消えてなくなってしまうんだ。

 

決して手に入らない泡沫ならば、幸せな夢なんか見たくない。

 

 

――夢は僕を弱くする。

 

 

 

 

 

 

隙間風が吹く度にガタガタと音を立てる見慣れた扉を押し開けると、幼い弟妹達が我先にと足元に飛び付いて来る。

目線を合わせるように身を屈め、小さな頭を順々に撫でて視線を上げれば、コンロの鍋をかき混ぜていた茜が振り返っておかえりなさいと微笑む。

 

嬉しそうに。

幸せそうに。

今日が終われば明日が来ると疑う事なく、夢の中の家族達はいつも柔らかく微笑んでいる。

幼な過ぎた自分の傲慢さが原因で命を散らせてしまった家族は、どんなにか僕を恨んでいるだろうに。

 

(おかえり、ミカ。おっせーよ!)

 

顔中で笑うお日様みたいなきみは、今、どこで何をしているんだろうか。

 

 

僕は「僕」を知っている。

 

扉の向こうに消えていくきみの背中を見送ったあの時、生き伸びて欲しいと願う気持ちと同じくらい、戻って来て傍にいて欲しいと願ってしまっていた浅ましい僕を知っている。

 

 

強くなりたい。

チカラが欲しい。

 

 

 

―――大切な人を守り抜く為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……え…?」

 

呼ばれたような気がして、ミカエラは顔を上げた。

 

「…ここは」

 

シンプルというよりは簡素な椅子と机と、身体を横たえるのがやっとのサイズの寝台がひとつ。

生活の匂いがまるでしない見覚えのないがらんとした部屋で、ふと違和感に気付く。

いつもよりずっと視点が低いのだ。

確かめるように手足を動かし違和感の正体に気付くと、ミカエラは自身の姿を確認すべく窓辺へと足を向けた。

外は闇が深く景色を眺める事は叶わなかったが、窓硝子にくっきりと浮かび上がる自分の背丈は見知ったそれよりもかなり低い。

どう大きく見積もっても140cmあるかないかである。

 

「……僕、子供の姿になってる」

 

「ミカ!ここにいたのか!」

 

探したぞ、と何の前触れもなく背後に現れた気配に驚いて振り向くと、自分と同じくらいの目線の高さにある緑柱石の瞳がこちらを見詰め返した。

 

「ゆ、優ちゃん!?」

 

まだ幼い面差しに満面の笑みを浮かべ、優一郎は甘えるようにミカエラに飛び着いて来た。

 

えええ???

 

ミカエラは反射的に両腕を突っ張るようにして身体を離すと、まじまじと目の前の“小さな優一郎”を見詰めた。

百夜孤児院で初めて顔を合わせたあの時より幾分成長しているような気もするが、おそらくまだ10歳になっていないであろう。

 

幼い自分。

幼い優一郎。

ここはどこで、一体何がどうなっているのか、頭の中は未だかつて無いほどに大混乱だ。

 

「ミカ?どーかしたのか?来いよ、ほら!」

 

ミカエラの訝しむような視線をものともせず、顔中でにかっと笑いながら優一郎は小さな手を差し出した。

待ち焦がれていた苦痛からの解放が、すぐ目の前に差し伸べられている。

何かがおかしい。

頭の隅でわかってはいても、そんなものはもうどうでもよかった。夢でも幻でもいい。どうか…どうか今だけでいいから…触れても消えないでいて。

 

「ーー優ちゃん!」

 

ミカエラは祈るような気持ちで目の前の小さな手に縋りついた。

「優ちゃん!優ちゃん優ちゃん…優ちゃんっ!!」

「なんだぁ?ミカ、今夜は随分と甘えん坊だなぁ」

照れ臭そうに笑いながらも髪を撫でてくれる掌に、ミカエラは嬉しそうに瞳を細めた。

「あんま遅いから今夜は会えないのかと思ったぜ?」

まるで毎晩会って当然のような口振りに、ミカエラの口元に自然と笑みが浮かぶ。

優ちゃんだ。優ちゃんだ!

ミカエラは手足の指先まで喜びの感情が満ちて行く感覚に身を任せて腕いっぱいに優一郎を抱き締めると、その温もりに頬を擦り寄せた。

 

 

「けど…おかしいな…?僕、一体いつの間にベッドに入ったんだろう。これって、やっぱり夢…だよね?」

 

ここ最近ろくに睡眠を取っていなかったのが裏目に出たのかもしれない。

こんなふうに胸が潰れそうに幸福な夢を見てしまえば、目覚めた後の空虚な現実は更に重くのしかかってくる。

だから自分は眠るつもりは無かったのだ。

 

「うん、これ夢だぞ!」

 

手を腰に当てて得意気に胸を張る姿に、過去の想い出が重なる。どうやら優ちゃんは夢の中でも優ちゃんらしさ全開のようだ。

 

「ところで…さ、なんで僕達小さいのかね?」

「なんでってそりゃ…俺は8歳から12歳までのミカしか知らないから…。大きくなっちまったら、ミカはいなくなる。そしたらもうミカには会えないだろ?」

 

これと言った答えを期待していた訳ではない。が、それに対して返ってきた予想外の言葉にミカエラは瞠目した。

 

「俺だけが年を重ねてミカの背を追い抜かす。どんなに会いたくても、ミカとは夢の中でしか会えないなら…あの頃の…俺じゃなくちゃだめなんだ」

 

まるで薄い氷で覆われているような眼差しは、孤独を知る者の瞳だ。絶望と諦めで塗り潰された昏い表情は、幼い子供の風貌にはおよそ似つかわしくない。

ミカエラは優一郎の小さな頭をそっと撫でた。

 

「…大丈夫。僕もちゃんと16歳になってるし、身長もぐっと伸びたんだよ?きっと今だって僕の方が背が大きいはずだ。この先もずっと、優ちゃんに抜かされるつもりなんてないからね」

 

「――本当、に…?」

微かに生まれた希望に震える優一郎の小さな両手を取ると、こつんと額同士を合わせる。

「うん、本当の本当。だから安心して?僕は大きくなったきみに、16歳の優ちゃんに…とても会いたいんだ」

 

 

―――刹那。

 

蕾が綻ぶような笑顔を残し、小さな優一郎の身体は光の粒子となって霧散した。

 

 

 

 

狭い部屋いっぱいに淡い光が満ちる中で、ミカエラは自身の視点が高くなっていくのを感じた。

丸みの残っていた手足がすらりと伸び、薄かった肩はしなやかさを残しながらも鍛錬を積んだそれへと変わっている。

 

離す事なく繋いだままだった手が、相手からの振動をぴくりと伝えた。

 

 

陽向の匂いがする癖の強い黒髪。

意思の強そうなキリッとした眉。

緑柱石の瞳。

ヤンチャさを物語る口元。

 

ガキ大将だった当時の面影はそのままに、最愛の人がそこに在った。

 

 

「やっと…会えたね。はじめまして、16歳の優ちゃん」

 

 

 

 

─── 3 ───

 

 

 

 

「……ミカ…?…本当、に?」

 

深い緑を映した瞳が喜びに揺れ、真っ直ぐにこちらに向けられている。

くすぐったいような照れ臭さと胸に湧き上がる幸福感が、孤独に凍えていたミカエラの心をじんわりと暖めていく。

例え夢の中とはいえお互いに成長した姿でまみえるのは初めての事なのに、目の前の彼は間違いなく自分が求め続けたその人なのだと、ミカエラには何故か確信が持てた。

理屈ではない、魂の奥の深い深い部分で。

 

 

 

 

 

再会をひとしきり喜びあった後、優一郎が真っ先に気にしたのはミカエラとの身長差だった。

 

 

「なぁミカぁ。お前、今何cmあんの?」

「うーん…前に計測した時は173だったかな…?」

「げ、まじか…」

「優ちゃんは?」

「……174…」

「は?なにそれ、ありえないんだけど。どうみたって僕のが大きいし」

ミカエラはずいっと一歩距離を詰めると、優一郎の頭の上にぽすんと手を置いて得意気に微笑む。

「るせぇ。これから174cmまで伸びる予定なんだよ!」

「まったく…相変わらず負けず嫌いなんだから」

 

本当に、まるで時が止まってたみたいに、優一郎はあの頃のまま全然変わっていなかった。

4年前に失われたはずの幸福な日常が今ここにある。

 

 

「なぁミカ、立ち話もなんだし座ろうぜ?」

言うが早いか、優一郎はベッドのすぐ脇に置かれていた椅子にどかっと腰を下ろすと、身体を反転させて背もたれを抱え込んだ。

ミカエラも優一郎の視線に促され、向き合うようにベッドへ腰を下ろす。

 

「ねぇ、優ちゃん。ここって誰の部屋なの?僕全然見覚えないんだけど…」

繰り返し夢に見る景色は、決まって百夜孤児院の家族が集う“家”だったのに。今回の夢は随分と規格外な仕上がりになっているらしい。

 「あ?ここは俺の部屋だよ」

「…優ちゃんの?」

写真の1枚も飾られていない殺風景な部屋には、生活の匂いなんてまるでないように感じる。人間達の世界へと逃げ延びた現実の彼も、こんなところで毎日過ごしているんだろうか。

「まぁ、寝る為だけに帰って来る部屋だけどな……ってかさ!」

至近距離でじいっと穴が開きそうな程に見詰められ、ミカエラは思わず視線を泳がせた。かぁっと頬に熱が集まるのが自分でもわかる。

「…な、なに?」

「いや、身長はともかく昔とあんまかわんねぇなと思って」

昔と変わらない無邪気な笑顔を投げて来る優一郎の眩しさから逃げるように、ミカエラは目を伏せた。

「…変わったよ、とても」

そう、とても。

僕は変わってしまった。

きみが知ってる家族だったミカは、もういなくなってしまったんだ。

 

――ここで、なら。

僕だけしか知らない夢の中のきみになら、すべてを打ち明けても構わないだろうか。

この忌まわしく呪われた身体の、業と渇きを。

 

しばしの沈黙の後、ミカエラは優一郎の手を取ると自身の口元へと導いた。

薄く開いた唇の柔らかい感触とは対照的な鋭い牙が指先に触れた瞬間、優一郎がぴくりと身体を揺らして瞠目する。

「……な…!?ミカ、お前…」

「あはは、僕、吸血鬼になっちゃった。優ちゃんの大嫌いな…吸血鬼、に…」

上手く笑えてる自信なんてないけれど、哀しい顔はしたくなかった。優しいきみはきっと…あの時の自分の選択を責めてしまうから。

 

「その牙、ホンモノなのか?」

優一郎はおもむろにミカエラの口内に両手の指を差し入れて左右にぐいっと引っ張ると、目を眇めてまじまじと牙を覗き込んだ。

「ちょ…っ!?優ちゃんってばどこまで想定外に傍若無人なわけ!?」

自分の予想を遥かに超える珍事件に、ミカエラは目を白黒させて指から逃れようと必死に顔を背けた。

「イテッ…!」

「ご、ごめんっ!優ちゃん、牙が!?」

優一郎の人差し指の先に、みるみるうちに血の玉がぷっくりと浮かび上がる。

「謝んなって、俺が勝手にやったんだから……」

 

―――無意識だった。

 

まるで甘い花の蜜に誘われる蝶のように、ミカエラは優一郎の手首を掴んで引き寄せると、うっとりとした表情で血の滲む指先を口に含む。

 

「…これも吸血行為になるのかな?」

熱い口内で愛しむように指先を舐め上げられる感覚に、優一郎はふるりと身体を揺らした。

「ミ…カっ…」

戸惑う声に耳を打たれ、碧玉の瞳から瞬時にして靄が晴れる。

「ご、ごめんっ!」

ミカエラは目に見えて狼狽すると、己の行いを恥じ入るように唇を噛み締めて目を伏せた。

「血を吸うなんて…やっぱり気持ち悪いでしょ?もう僕は…優ちゃんの家族じゃいられない…ね…」

 

嫌いにならないで

 

離れていかないで

 

独りにしないで

 

 

声にならない悲鳴が喉の奥で渦巻く。

 

 

「ばーか、なんて顔してんだよ」

こつんと額をつつかれる感触に、ミカエラは叱られた幼子のような表情で視線を上げた。

 

「優ちゃん…?」

「そんじゃさ、もし俺が吸血鬼になってたらミカはどうすんの?気色悪いって思う?もう家族じゃないって拒絶するのか?」

「そ…んなことない!優ちゃんは優ちゃんだ!」

優一郎はいたずらっ子のように笑いながら、柔らかい金の髪をくしゃくしゃと乱暴に混ぜる。

「な?お前が俺の立場なら絶対そう言うだろ?ミカはミカだ。例え人間じゃなくたって俺達はずっと家族だよ。茜だってチビどもだって、俺と同じ事を言うに決まってるさ」

「でも…みんな…みんな僕のせいで殺されたのに……そんな風に言ってくれるかな…?」

 

あの日。

あの夜。

脱走計画なんて立てていなければと、天国で僕の事を恨んでるかもしれないのに。

 

「ばっかやろう!怒るぞ!」

優一郎の声が思考の闇に沈み込もうとするミカエラの意識を引き上げた。

 

「…なぁ、ミカ。俺達の家族はそんな心の狭いやつらだったか?人の幸せを、家族が幸せになるのを自分の事のように喜べる、あったかくて優しいやつらだろ?まだ小さかったお前が身体張って守って、人の痛みを理解出来るサイッコーの家族に育て上げた…」

労るように、慈しむように、優一郎は両手でミカエラの頬を包み込む。

「あいつらはお前の自慢の家族だろ?俺はその一員になれた事が幸せだし、すげぇ誇らしいって思ってる。だからもっと自信持てよ、百夜ミカエラ!」

偽りのない真っ直ぐな眼差しで紡がれる言の葉が、凍り付いていたミカエラの心を溶かしていく。

――百夜ミカエラ。

それは人間の僕が確かにいた証。人間としてきみと肩を並べて歩き、もがいて、足掻いて、生きた標。

きみが僕をそう呼んでくれるだけでいい。きみが傍にいてくれさえすれば、他にはもう何もいらないんだ。

 

「…う…んっ……うん…優ちゃん……優ちゃん、優ちゃん…っ……大好き…」

目の淵に次々と湧き上がる熱い雫がミカエラの視界をぼかして奪う。

泣きたくなんて、ないのに。

大好きなきみのお日様みたいな笑顔をもっともっと見たいのに。

 

溢れる涙を隠す事なくミカエラは泣いた。

まるでこの世界に生まれ落ち、身体中を震わせて産声を上げる赤ん坊のように。

 

 

 

 

 

 

優一郎は椅子から立ち上がると、ミカエラの隣に並んですとんと腰を下ろした。

しゃくりあげて上下する肩に腕を回して引き寄せ、涙で貼り付いた髪を指先でそっと払う。

真夏の空を映したような瞳から溢れる涙が長い睫毛に弾かれる度に、白い頬を幾筋も濡らしている。

 

綺麗、だ。

 

―――ミカはとても綺麗だ。

 

 

くらり、と頭の芯が痺れるような酩酊感に襲われる。酒に酔うのって…こんな気分なんだろうか。

衝動のまま、心の欲するままに、優一郎はミカエラの頬にそっと唇を寄せた。

涙の道を舌先でなぞり、顎先に、頬に、瞼に、時折ちゅっ、と小さく音を立てながら唇で触れる。

 

 

 

本当は、ずっとこうしてミカに触れたかったんだ…。

 

 

 

羽毛のような優しい唇が次々と降ってくる甘い刺激に、ミカエラは呼吸を震わせてうっすらと唇を開いた。

「ゆぅ…ちゃん…」

 

誘われるまま、優一郎は淡く色付いたそれへと唇を落とした。

 

 

 

 

─── 4 ───

 

 

 

 

「ねね、優ちゃんて、もしかして…ファーストキス?」

 

今泣いた烏がなんとやら。

肩を激しく揺すぶられるがままにまかせ、優一郎はがっくりと項垂れた。

いつの間にやら完全にミカエラのペースである。

 

「…ミカはどうなんだよ」

「聞き返すって事はそうなんだね?」

ずいっと顔を近寄せて来る幼馴染みに、優一郎は憮然とした面持ちでそっぽを向いた。

「るせぇ、どうせ俺はお前と違ってモテねぇよ」

「うーん、優ちゃんは鈍感だからなぁ。好意を寄せてくれてる女の子がいたとしても全然気付かなそうだよね」

おかげで悪い虫がついてなさそうで良かったけど、という最後のつぶやきは優一郎の耳に届いていない。

 

「いねぇよ、そんな物好きなやつなんて。…で?誤魔化そうったってそうはいかねぇぞ?お前はあんのかよ」

「え?」

「キスだよ」

「えぇ…とぉ…」

まさかの切り返しにミカエラの視線が泳ぐ。

「…あるんだな?」

チリリと胸の内を焦がす痛みに、優一郎は顔を顰めた。

これは覚えのある感情だ。

そう。廃墟みたいな家で身を寄せ合って暮らしていたあの頃、ミカエラが貴族の屋敷へと通っていると知った時の、醜くドロドロとした昏い感情。

銀髪を靡かせて地下都市を闊歩する妖艶な吸血鬼の微笑が脳裏をよぎった。

 

「……優ちゃん?」

立ち昇る不穏な気配を察して碧玉が揺れる。

「あのさ、もしかして優ちゃん…激しく誤解してない?」

「なにがだよ」

ぷいっと音でも聞こえそうな程の勢いで逸らされた視線を捕らえるべく、ミカエラは黒い頭を両手でがしっと抑えて強引に緑柱石を覗き込む。

「ああもぅ!っていうか、なんで僕の夢なのにちっとも思い通りにならないわけ?物凄く納得が行かないんだけど」

憎々しげな口調とは裏腹に、その顔にはこんなやり取りすら愛おしいと言わんばかりの笑みが刻まれている。

「はぁ?これは俺の夢だろ!ミカはゲスト出演!いや、友情出演!」

「なにそれ!優ちゃんが僕の夢に出てきてるんじゃない」

「……あほらし。もうやめようぜ」

優一郎は身を捩って拘束から逃れると、寝台に寝転んで天井を見上げた。

釣り上がった眉は不機嫌オーラ全開である。

ミカエラは観念したように短く嘆息すると、優一郎の傍らへ両肘を付いて幸せそうに微笑んだ。

 

「……優ちゃん、だよ」

 

言葉の意味がわからず眉根を寄せて小首を傾げる相手の様子を眺め、ミカエラはほんのりと頬を染める。

 

「僕の、初めてのキスは優ちゃんだよ」

 

 

「……へ?」

想像を絶するまさかの告白に、優一郎の脳は完全なフリーズ状態である。なんとも間抜けな声が出てしまったのは仕方のない事だと言えよう。

 

「百夜の家ではいつも隣に寝てたでしょ?優ちゃんは寝ると朝まで爆睡だもんね。そりゃ気が付いてるとは思ってなかったけど…」

 

………。

 

絡む視線に胸の内をくすぐられるようなこそばゆい感覚に、ふたりは同時にぷっと噴き出した。

ミカエラはくすくすと笑いながら寝台に寝転ぶと、横に置かれた優一郎の手を取って己の指を絡める。

言葉にならない充足感が繋いだ指先から全身へ膨れ上がっていくようだ。

繋いだままの掌からは境界線が消え、どこからが自分でどこからが相手なのかもわからない程にひとつだった。

 

 

「――僕は、優ちゃんが好き。家族としてだけじゃなく、たったひとりの特別な人として、ずっとずっと好きだった」

 

揺るがない瞳と真剣な声音が、逃げる事もはぐらかす事も許さないとばかりに魂ごとその場に縫い止める。

 

「ねぇ、優ちゃんは?…僕の事、好き?」

耳を甘く震わせるテノールが、優一郎の頬に熱を集めていく。

頭の中も胸の中もざわついて、言葉が上手く出て来ないもどかしさが重い沈黙を作り上げる。

 

 

「――毎晩お前の夢ばっかみてた」

 

置き忘れた想い出を捜すように緑柱石の瞳が宙を彷徨う。

 

「何年…経っても、忘れる事なんて出来なくて…。ずっと……ずっとミカに会いたくて、馬鹿みたいに…毎日…お前の事ばっか、考えてた」

ぽつりぽつりと紡がれる音にミカエラは耳をそばだてた。

ひとことも聞き逃す事が無いように、息を潜めて続く言葉を待つ。

 

「って言うか、嫌いなヤツにキッ…キスとか、普通しないだろっ!」

「…じゃあ、好き?」

相手の反応をうかがうようにチラリと上目遣いで見上げる。

長い付き合いなのだ。少しむくれた顔と荒らげた声が単なる照れ隠しに過ぎない事は解っている。

解っていても言葉が欲しい時もある。

どんな飾った言葉より、たったひとことが欲しい時がある。

「ねぇ優ちゃん…お願い…」

ねだるように薄く開いた唇から小さな牙を覗かせ、必死の表情でぐいぐいと袖を引っ張る様子はまるでじゃれつく仔猫そのものだ。

そういえばミカの『お願い』には昔っから勝てた試しがなかった。

 

それならば、もはや全ては無駄な抵抗でしかない。

 

「…んな泣きそうな顔すんなよ、ばーか。…好きに決まってんだろ。そんなの、言わなくてもわかれよ」

 

自分の中の何処からこんな甘ったるい声が出るのだろう。

 

金色の頭を引き寄せ、そっと唇を重ねる。

触れるだけの口付けがちゅっと小さな音を立てて離れると、優一郎は顔を真っ赤に染め上げ、もう限界だとばかりに勢いよく身体を反転させた。

 

「なにそれ。優ちゃんずるいよ。なんでそんなに可愛いの?…責任、とってよ…!」

 

ミカエラは優一郎の肩をぐいっと掴んで強引に仰向かせると、身体の上に覆いかぶさるようにして口付けた。

 

「……っ!」

「優ちゃん…っ、好き…」

 

鼓動が走る。

 

吐息が絡まる。

 

身体が熱くなる。

 

 

長いキスで紅く熟れた唇に牙を押し当て引っ掻くようにカリリと食めば、緋色の甘い液体がじわりと滲んだ。

ミカエラは恍惚とした表情で優一郎の唇をぺろりと舐めとり、再び深く口付ける。

角度を変えて何度も何度も貪るように求め、酸素を求めて開いた唇に舌を滑り込ませて歯列を割った。

「んんんっ!?ばっ!ミカっ、舌入れんな!」

「はぁ?何言ってんの今更!入れます!これからはさんざん、エロい事もします!」

「な…っ!?」

呆気に取られて微動だに出来ない優一郎に人差し指をびしりと突きつけると、ミカエラは畳み掛けるようにして言い募った。

「ずーっと好きで、やっと想いが通じたんだよ?我慢出来るわけないし、するつもりもないからね!そ・れ・に、優ちゃんがエロい顔で誘ったんだから、優ちゃんにだって責任あるんだよ?はふはふほっぺた紅くしながら涙目で抗議とか、優ちゃんはどれだけ僕を惑わせれば気が済むわけ?」

なんだか物凄く理不尽な事を言われているような気がするのだが、いかんせんまだ頭の芯がぼんやりとけぶっている状態にプラスして馬乗りになられている不利な現状では対抗出来るはずも無い。

「お、落ち着けミカ!お前顔が怖いぞっ!?」

「生まれつきこの顔だよ!……まったくもぅ、ムードないんだから…お仕置き!」

ミカエラは優一郎の首筋に顔を埋めると、唇を窄めて皮膚をきゅっと吸い上げた。

「んっ…!」

濡れた熱い舌が首を這う初めての感覚に、優一郎は反射的にギュッと目を瞑った。

肌がざらりと粟立ち、知らずうちに甘い息が漏れる。

「…しょうがないから今日のところはこれで勘弁してあげる。続きはまた今度ね?」

首筋に散った紅い花弁を指先でつつくと、ミカエラは満足気に微笑んだ。

ふわりと、花開くように艶やかな笑顔に視線が奪われた刹那…

 

 

ふ、と。

 

優一郎の視界が揺れた。

 

 

聞き慣れた耳障りな電子音が朝の来訪を告げる。

 

 

「優ちゃ…?どう…か…し………?」

 

 

ミカの声がノイズにまみれ、途切れる。

 

 

『……ミカっ!』

 

 

叫んだ声は音にならず、ふわふわとした意識が急速に引き上げられる。

 

 

部屋に響くアラームを止める事なく、優一郎はベッドに仰臥したままぼんやりと天井を眺めた。

 

 

「………朝、か」

 

ふたりで寄り添っていた窮屈な寝台が、今はやけに広く寒々しく感じる。

ついさっきまですぐ傍らにあった温もりを繋ぎ留めるように、優一郎は自分の身体をぎゅっと抱き締めた。

 

「ミカ…」

 

部屋中にミカの残像が散らかってる。

 

 

ひとりが寂しいわけじゃない。

傍にいて欲しい人の不在が、孤独を感じさせるんだ。

 

 

 

「―――やべぇ、泣きそう」

 

 

痛いのか熱いのかも解らないまま、優一郎は瞼をぎゅっと押さえた。

 

 

 

 

 

 

 

「…………優ちゃん……」

 

 

目が覚めればやっぱりひとりで。

 

 

声も体温も息遣いも腕の強さも、まだ身体中に残っているのに。

 

「…だから夢は嫌いなんだ」

吐き捨てるような呟きには自嘲の色が滲んでいる。

 

人は、過去の記憶だけで生きる事が出来るのだろうか。

思い出だけで生きる事が出来るのだろうか。

 

「……あ、ははっ、そっか。僕は人じゃなかったっけ」

 

己のものとは思えぬ程に乾いた笑い声が鼓膜を揺らす不快さに眉を顰め、ぎりっと唇を噛み締めた。

 

 

…優ちゃん。

 

 

夢を夢のまま終わらせたりしない。

 

 

 

「待ってて。…必ず、きみを……」

 

決意を秘めた呟きは誰にも届く事なく、冷たい床に吸い込まれて消えていった。

 

 

 

 

 

「おはよう、優くん!よく眠れた?」

 

名前を呼ばれて視線を巡らせると、茶色い髪をふわふわ上下させながら見知った顔が小走りに駆け寄って来る。

「おっす与一。そう言うお前は?しっかり寝たのか?」

「うん!昨夜は久し振りに夢も見ないで朝までぐっすりだったんだよ」

 

鬼呪装備取得の日から悪夢に悩まされる事が多く、睡眠時の情報交換は毎朝の習慣になりつつあった。

 

「――早く夜になんねーかな…」

また、夢の続きが見られるだろうか。

あの16歳のミカにもう一度会う事が叶うだろうか。

見上げた空は嫌になるくらいに太陽が眩しい。

「朝になったばっかだぞ、寝ぼけてんのか馬鹿優」

優一郎はやや上の方から降ってくる嘲り声に振り向くと、頭ひとつ高い視点にある眼鏡の奥をぎりっと睨みつけた。

「るせー!この電柱!俺の後ろに立つんじゃねぇ!殺すぞ!」

「上等じゃねぇか、勝負すんなら受けて立つぞカス!」

がうがうと噛み付かんばかりに吠え合いながら隣を見やれば、与一の視線が食い入るように自分に固定されている事に気付く。

 

「んぁ?なんだよ与一、じっと見て。もしかしてまた寝癖でもついてっか?」

幾度か前科があるだけに、優一郎はハネの付きやすい黒髪をぐいぐいと手で撫で付けた。

「優くん、首のとこ虫に刺されたみたいだから薬塗っておいた方がいいかもよ?」

「へ?…虫?」

「うん、ここんところ赤くなってる」

与一の指し示す場所に反射的に手を伸ばすと、優一郎はぴたりとその動きを止める。

 

「………」

 

「優くん?大丈夫?もしかして具合でも悪い?」

与一は固まったまま微動だにしない友人の横顔を心配そうに覗き込んだ。

 

「いや…大丈夫だ、なんでもねぇよ」

 

 

 

……まさか………だよなぁ…。

 

けど……。

 

 

――――何故だか胸が騒ぐ。

 

「おら、馬鹿優!さっさと行くぞ。今日は壁の外に出るんだからシャキッとしろよ」

「るせーな、わかってるっつーの!」

優一郎はがりがりと髪を掻き上げると、隊を組んでから初となる任務の説明を受けるべく先を急ぐ友人達の方へと爪先を向けた。

 

「…新宿、か……」

 

どこまでも突き抜けるような青空が昨夜の記憶を鮮やかに蘇らせる。

瞼の裏に焼き付けた碧色に面影を描くと、優一郎はそっと目を閉じた。

 

 

 

 

■ fin ■



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