バイバイ、シナモンガール   作:グリム・グリルグリン・グリーングリップ

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08 ハザード

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 赤の点滅が、滲んでいる。

 

「………、」

 

 霧のような雨が、降り始めていた。

 

 タクシーを待たせた綾子が振り返る。

 

「明日、迎えに行くよ」

 

「うん」

 

 吸血鬼が、人目の多い学校にまで攻めてくる可能性は低い。気まずい空気の中で綾子と話し合った結論が、そうだった。学校を欠席するよりかはそちらのほうが安全であると。

 

 これからは主に、隙になりやすい登下校を付き添うことになる。綾子の朝の部活も、見通しが立つまでは休むことになった。文句は言われなかった。取得していた二輪免許が思わぬ形で役に立ったと凰玖(おうく)は思ったが、それで晴れがましい気分になれるわけでもない。

 

「貸しでいい」

 

 ドアを閉めようとしたところで、凰玖は言っていた。推し量るような視線。だが、今度は逸らさなかった。

 

「いつか、何かのかたちで返してくれりゃ、それでいい」

 

 綾子は静かに頷くと、小さく笑った。

 

「また、明日」

 

「ああ」

 

 車道を流れていく。見えなくなるまで見送ると、凰玖は歩き出した。

 

 傘を差している人は少なかった。雨宿りする様子も見当たらない。パトカーのサイレンが遠くから聞こえ、二人で決めたことを思い出した。「警察には今日のことは知らせない」。証言したところで信用されるかは分からないうえ、田舎の警察組織がどれだけ対抗できるかも不明だったからだ。少なくとも、拳銃程度ではあの化け物は倒せない。

 

 知らない制服の女子高生がはしゃいでいた。住宅街で起こった騒動について、気づく者も出始めている。香水の幽かな匂い。すれ違った。穴の開いたコートをかき寄せ、凰玖は足取りを速めた。

 

 情報屋に会う。そのことが頭にあった。冬木で開催されている「祭り」についても、詳しく聞かなければならない。

 

「おい」

 

 男が四人、立ち止まっていた。

 

「痛てえなあ、おい。謝れよ」

 

 若い男たち。ネクタイはしていない。三つか四つほど年上で、金色に染まった髪が少し濡れている。いくらか酔っているようでもあった。

 

 すみません。一言そう言って、立ち去ればいい。だが、凰玖は無視して歩いた。

 

「待てよ、てめえ」

 

 肩を掴まれた。

 

「なんだよその目は」

 

 何をしているのか。そう思いながらも、凰玖は時計を確認した。まだ零時は回っていない。奥の手による後処理は、使えない。

 

「謝れって言ってんだろ」

 

 視線を感じた。周りの人間は、遠巻きに眺めている。

 

「人様にぶつかったらよ、まずは、謝ることだろうが。そんなのガキでも知ってることだぜ」

 

「臭いな、あんた」

 

 思いがけず、凰玖は言い放っていた。

 

「口がくせえ。ドブみてえな臭いだよ」

 

 男の顔が、一気に朱に染まった。

 

 拳の動き。はっきりと見えていた。鈍い衝撃。腹に力を入れていたためか、強く打たれたという感じはあまりない。少し息が乱れただけで、どうということもない痛みだった。

 

「待て、ここだとまずい」

 

 男の一人が、制止していた。他の二人は、凰玖を挟むように後ろに立っている。

 

「ちょっと、歩こうか」

 

 顔を近づけて、男が言った。凰玖はひっそりと息を吐くと、頷いた。翻った男のあとに続く。何をしているんだ俺は。男の背中を見つめながら、ふと思った。しかし足が止まることはない。

 

「いるんだよ、たまに。お前みたいなやつ。一人で、イキっちゃってるやつがさ」

 

 怯えている。そう感じたのか、男が野卑な笑みを浮かべた。

 

 困ったもんだよ。そういうやつに限って、俺たちを悪人みたいに言いやがるんだ。傷つくよな。ココロない一言ってのは心を傷つけるんだぜ。俺たちもさ、傷つけられたら、とうぜん頭にくるわけ。そうしたら、落とし前つけなきゃならねえだろ。

 

 喧噪が遠ざかる。男は、上機嫌でお喋りを続けた。

 

 今日は高くつくよ、授業料。その前に慰謝料も払ってもらわなくちゃな。こいつ一人ぶんだけじゃない、俺たち全員のぶんだ。幾らぐらいになるかな? なんせ見えないもんな、心って。どれだけ傷ついたのか目に見えないのが厄介だ。そうは思わねえか?

 

 路地裏に連れ込まれた。行き止まりだ。人の気配は、凰玖たち以外には絶えている。

 

「とりあえず、有り金ぜんぶ出してみろよ」

 

 突き飛ばされた。振り返ると、男の笑みが、いっそう陰翳を帯びて見えた。

 

「嫌だなんて言わねえよな。でも俺らはやさしいからさ、何か言っておきたいことがあるのなら、聞くぜ。ぼろ切れにする前に、聞くだけなら、聞いてやるよ。ただ念のために言っとくと、この辺りは滅多に人が通らない。……ま、お前も男なんだからよ、覚悟はできてんだろ」

 

 ずっと喋り続けている。本当にお喋りな男だった。凰玖はため息をつくと、男たちに言った。

 

「悪いね」

 

 虚を突かれたような顔をしたあと、男たちが腹を抱えて笑い出した。ラッパのように大きな声は、湿り始めた夜の闇に吸い込まれていった。

 

「今さら言うのかよ。今さら謝ったところで、そのまま俺たちが帰すだなんて、まさか本気で思っちゃいないよな」

 

「いいや。ただ、先に謝っただけだ」

 

 男の脚。いきなり来た。見えている。躱しざま、拳を叩き込むこともできた。しかし凰玖は、上体を逸らしながら大きく下がっていた。砂利。足元が滑りかけた。右半身の違和感と怪我のせいで、思った以上に身体がついてこない。呼吸を整えようとした。男たちがわらっている。痛み。傷ついた躰の悲鳴。それがどうしたのだ、という気分が込み上げてきた。傷口から、何か痛み以外のものがあらわれようとしている。

 

 凰玖は、わらっていた。

 

「くせえな、やっぱり」

 

 拳が来た。威勢はいい。だが、虚仮威しでしかなかった。

 

 やれ(・・)。呟いた。

 

 男の躰が、くの時に浮かび上がった。下肢を震わせて倒れ込むと、一瞬白目を剥いて、男は動かなくなった。

 

 愕然と固まった三つの視線は、〈ゴールデン・スランバー〉の右腕に向いている。綾子だけではない、普通の人間にも見えていた。恐らく、男たちには宙に浮かぶ右腕だけが映っているのだろう。

 

 石化した状態で、どこまで使えるのか。確かめる意味はあった。そのために、こんな面倒をしたのか。違う気がした。どこかで、本当には面倒だと思っていない。男たちの酔った目に、怯えるような色がちらついた。

 

「よかったよ。俺もちょうど、誰かをぶちのめしたい気分だったんだ」

 

 男たちの手元で、慌てたように鈍い光が照り返した。ナイフ。武器のつもりなのか。所詮は、ちっぽけな輝きでしかない。そんなもので、やり合おうというのか。

 

 躰が、闇に包まれてゆくのを感じた。肚の底で、何かがくすぶっている。燃えるというほど強くはない。ただ、くすぶり続けている。煙。いつまでも躰のなかを、這い広がってゆく。

 

「来いよ」

 

 微笑みかけた。

 

「あんたら、男、なんだろう」

 

 罵声を上げながら振り被ってくる。凰玖はそれを、黙って眺めていた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 白い息が、空に消えてゆく。

 

 凰玖の足元に、四人が倒れていた。意識は無い。脚や腕を、関節ではないところで捻じ曲げられている。連携も何もない素人たちだった。うち一人は、仲間を見捨てて逃げようとしたところを、後ろから引きずり込んで、へし折ってやった。

 

 やめてくれ、もう。

 おかしいよな。男って言ったの、あんただったはずだ。男が、簡単に泣くもんじゃありませんよ。

 待ってくれ。謝るからよ。

 徒党を組んで、ナイフまで使う。謝ったくらいで俺が帰すと、本気で思ってるのか。

 どうすりゃ。

 落とし前だよ。

 金なら。

 そんなもの。

 

 使えなくはない。〈魔人〉を試したあとで、凰玖はそんな感想を抱いていた。使い方としては、肩に槍をはめているようなものだ。角度を見極め、突くようにして砂袋を殴る。四割程度の力なら、痺れのような反動は気になるほどではない。ただし、本来なら感じるはずもない反動なのだ。もし全力で硬質の対象を衝けば、凰玖の右腕はたちまち指示を受け付けなくなるだろう。

 

 死んじまう。息が。

 金はいらない。けど欲しいものはあるよ。くれるっていうんなら、ちょうどいい。

 なにを。

 命。

 は?

 あんたの命さ。

 嘘だろ。

 

 「幽霊」の性質にも、変化がみられた。石化した右腕は、視覚化の他にも、凰玖の触れたくないものをすり抜けることができなくなっていた。

 

 鬱陶しいんだよ、泣き顔。死んじまえば、少しは静かになるだろう。そのお喋りも。

 嘘だよな。からかってんだよな。 

 殴って蹴って、痛めつける。あんたらのやり方だろう。当たりどころが悪けりゃ、死んじまうこともあるんだろうな。

 待てよ。本気で。

 

 人の立ち寄る気配はなかった。男の言っていた通り、ここには喧騒から置き去りにされた、さびれた暗がりがあるだけだ。覗き込む者など誰も通らない。ましてや悲鳴を聞いて、駆けつける者などは。

 

 よせ、もう。いいだろう。

 俺のこと殺すって言ったの、あんただろう。確かに俺に、そう言ったよな。後悔するとも言った。

 悪かったよ。謝るからよ。

 あんたがそのつもりだったのなら、俺もこうやって落とし前つけるしかねえだろう。

 だから、悪かったって言ってるだろ。

 

 涙と血と、泥で汚れきった男。胎児のように丸くなった男の周りを歩きながら、顔と腹を、凰玖は何度も蹴り続けた。はじめ凰玖の頭のなかにあったのは、男たちがしようとしていたことをそのまま返してやろうという考えだけだった。実際にそうしてみたところで、男たちは呆気なく泣き始めた。男は哀願するだけで、立ち上がろうともしない。ただ嬲られているだけだ。

 

 なんなんだよ。どうすりゃいいんだよ。どうしたら、許してくれる?

 

 泣き顔。切れ味の悪そうなナイフ。不意に凰玖は、不快さを抑えきれなくなった。

 

 立てよ。

 俺は。

 立てねえのか。

 おい、待ってくれ。

 あんた、生きてる価値ねえな。やっぱりこのまま、ゴミみたいにくたばっちまえ。

 待てよ。

 だめだ。そうやってずっと、死ぬまで這いつくばってろ。

 

 男の躰が浮き上がり、砂袋のように転がった。待ってくれ。男の言葉を無視し、凰玖は雨粒を振り払うように、執拗に蹴り続けた。よせよ。本当に、死んじまう。次第に弱っていく声を聴きながらも、動きを緩めようという気は起きなかった。何かが、躰からはみ出そうとしている。身をよじる男に靴先が喰い込むのを眺めながら、凰玖はそう思った。男の泣き顔を見たときからだ。容赦。手加減。そんな言葉は、どうでもいい他人の声でしかなく、駆り立てているのはもっと別のものだった。

 

 男は、いつの間にかうめくのを止めていた。

 

 身動ぎもしていない。

 

 死んだのか。しばらく、凰玖は男を見下ろしていた。屍体は物になったように動かない。白い息を吐くこともしていなかった。俺が死なせたのか。何の感慨も湧かず、そのことに対し不思議と凰玖は驚かなかった。

 

 突然、男の口が貪るように音を立てた。激しく胸を上下させ、痙攣するように小刻みに身体をふるわせた。生きている。こんな男の身体でも、躰そのものは懸命に生きようとしている。

 

 無防備な喉が目に付いた。体重をかけるだけでも、気管を折ることは容易かった。そうなれば、男は簡単に死ぬだろう。凰玖はじっと待つような気分で立っていた。息を凝らし、呼吸だけを求める男の口元を見つめた。殺さないでくれ。もし男が起きていて、そう口にしたのなら。

 

 男は起きなかった。白目をむき、喘鳴を繰り返している。立ち上がれはしないだろう。

 

 急に、凰玖はこの状況が面倒になった。白々しさのようなものが込み上げてくる。懐に手が伸びたが、煙草は切らしていた。

 

 ため息を吐きながら、凰玖は爪先で男を転がした。うつ伏せになった拍子に、ポケットの膨らみがなんとなしに目に留まった。まさかと思いながら服を探ってみると、凰玖は次の瞬間、気の抜けた声で肩を揺らした。

 

「よくよく(えん)がある、ってことなのかな」

 

 ブルーのパッケージ。それもハイライトだった。流行りなのか、それとも偶然なのか。懐かしい相手に会ったような気さえしながら、凰玖は掌で覆い、火をつけた。

 

 煙。吸うたびに、躰に染み入るようだった。数瞬前まであった、弾ける寸前にまで達しかけていた何かは、いつの間にか鳴りを潜めていた。男たちをぼんやりと見回す。つまらないことをした。そんな気分にさえなりつつあった。

 

 煙を吐きながら、凰玖は男たちに背を向けた。もうこの場に用はなかった。しばらく入院し長いあいだ悪夢にうなされるかもしれないが、凰玖には既にどうでもいいことだった。

 

 

「優等生の裏の顔、ってわけね」

 

 

 聞き覚えのある声に、足が止まった。

 

 見覚えのある顔だった。目があう。

 

「――遠坂?」

 

「こんばんわ、望月くん。少し、話をしたいのだけど、いいかしら」

 

 遠坂凛。赤いカジュアルなコートを羽織り、穂群原学園でも有名なクラスメイトが、路地を塞ぐようにして立っていた。

 

 見られていたのか。凰玖は予想外の闖入者に、ひとまず平静を装って向きあった。

 

「話か。何の話を?」

 

「……煙草」

 

「なに?」

 

「意外って感じはしないわね。いいえ、こっちの話。それよりも、本当にわからない?」

 

「悪いが、てんで心当たりはないな」

 

 話がしたい。つまり、凰玖に用があったということだろう。この時間に遭遇したのが偶然でないとすれば、凰玖を探していたのか。そして普段とは別人のような雰囲気。話し方もそうだが、倒れている男たちにはさほど目もくれず、こちらに強い敵意を向けてきている。

 

「とぼける気ね。私を馬鹿にしているのかしら。その右腕の傷、いいえ呪い(・・)は、簡単に隠し通せるものじゃない」

 

 粟立つような悪寒が、凰玖の背筋を這い上がった。

 

「お前」

 

「驚かされたわ。貴方がマスターだったなんてね。……アーチャー」

 

 突然、凛の前に男が現れた。

 

 長身の男。東洋系の顔立ちで、肌は(あか)く、髪は白く灼けている。屈強な体格に赤い外套を纏い、鋭い視線で凰玖を睨んでいる。

 

「やっぱり、驚かないのね」

 

「驚いてるさ。充分、驚いてる。ただ、顔に出ないたち(・・)でね」

 

 嘘ではなかった。この距離だ、見逃すはずがない。だがいきなり、凛の傍に現れたようにしか見えなかった。男の放つ気配は、この街からも、あるいは現代のドレスコートからも大いに逸脱している。男の異常性(・・・)には、覚えがあった――有りすぎたと云って良い。この世ならざる吸血鬼のそれと、あまりにも似すぎているのだ。

 

 予感は半ば、忌々しい確信へと変わりつつあった。

 

「そうか。あいつと同じってことか」

 

 化け物を傍らに置く、凛の表情は変わらない。こちらが彼女の素ということなのか。

 

「さっそく俺を、消しに来たのかな」

 

「貴方のサーヴァントはどこかしら。姿を見せたらどう?」

 

 サーヴァント。聞き慣れない単語だ。凰玖は記憶をさらうが、すぐには思いつかなかった。目まぐるしく思考が走っている。〈ゴールデン・スランバー〉を具現させる前から、右腕の石化を見抜かれた。よもや〈魔人〉までも。すぐに杞憂だと思い直した。サーヴァントが何であるのかは分からないが、凛は「姿を見せろ」と言ったのだ。仮に今の状態で〈魔人〉自体を認識しているのなら、まず〈魔人〉について指摘してくるはずで、そうでないことが一つの反証になっていた。

 

「俺のサーヴァントか」

 

 ――そういえば、あの女がそんなような言葉(・・・・・・・・)を使っていなかったか。

 

「ええ。いるのは分かってるわ。派手に暴れてくれたものね」

 

 確信しているような口ぶり。暴れたとはまさか、住宅街でのことを言っているのか。

 

 どの時点から見られていた。もし凛が本当に吸血鬼の仲間ならば、綾子の身柄が危うい。

 

「……美綴はどうしてる?」

 

「私に訊くの」

 

「会ってないのか」

 

「貴方への用が先よ。彼女のことは、それが済んだあとね」

 

「そうか」

 

 やはり知られている。表情を隠すように、凰玖は煙を吐き出した。今日はもう襲ってこないという考えは、甘かったのか。

 

「魔術は秘匿すべきもの。それをあんな場所で、おおっぴらに動くなんて、何を考えてるのかしら」

 

「俺に言われてもね。筋違いってやつだよ」

 

「いいわ。ともかく、私は冬木のセカンドオーナーとして、貴方の行動を看過するわけにはいきません」

 

 オーナー。また新しい言葉だった。口調からは強い憤りが感じ取れる。だが何かが引っ掛かった。凛の口ぶりからして、彼女が吸血鬼の仲間であるのなら、凰玖たちが吸血鬼と交戦した経緯を知らないのは不自然ではないか。

 

「襲われたから、反撃した。発端は、そっちの仲間が原因だろう」

 

「誰が仲間ですって?」

 

 訝しむような表情。本当に知らないような反応だった。両者の情報は、実は共有されていないのか。違う。そもそも前提が間違っている可能性はないか。凛が吸血鬼の仲間でない場合――あるいは彼女の正体は、別の「参加者」ということになる。

 

「訊くことが増えたようね。大人しく御縄につくなら、手荒な真似は止めてあげるけど」

 

「お優しいね。けど、辞退するよ」

 

 何処までいっても、結局は推測でしかなかった。何より吸血鬼の同種と思われる男が、目の前にいるのだ。凛が顔見知りであるかどうかなど、もはや信頼する材料には程遠かった。

 

「そう。私も随分と侮られたものだわ」

 

 感情の凍ったような眼差し。もはや、衝突は避けられそうになかった。今日は立て続けだな。凰玖は少し憂鬱になりながら、苦笑を洩らした。

 

 闘う。結局、それしか選択肢はなかった。凰玖は吸血鬼との攻防で体力を失い過ぎている。逃亡を選んだところで、顔を知られている以上、無駄な時間稼ぎにしかならないだろう。

 

 短期決着。袋小路を脱する作戦は、凛と男の立ち振る舞いを見て、一つだけ思いついていた。

 

「遠坂、一つだけ言っておくぜ。どうも勘違いがあるようだから」

 

「なによ」

 

「俺に、サーヴァントはいない」

 

「よくもぬけぬけとっ……あくまでサーヴァントを呼ばないというのなら、それもいいでしょう。私は私の矜持に従うだけ。アーチャー!」

 

「……了解した、マスター」

 

 赤い外套の男が、ゆっくりと歩くように向かってくる。

 

 ――「金髪の、赤目の、長身の外国人……」

 

「訊いてもいいか」

 

 呼びかけたが、男は無言だった。

 

「深山町で起きた、一家殺人。知ってるだろう。心当たりはないか」

 

 男は、何も言わない。落胆はなかった。一応、訊いておこうと思っただけだ。どの道、この場を切り抜けられなければ次はない。

 

 砂利を踏む音。空気が張り詰めてゆく。男には、表情がなかった。何も読み取ることはできない。男の姿が大きく見えた。ひりつくような圧が放たれている。それは本能に訴えかけ、心まで縛り付けるような稠密な重圧だった。

 

 〈ゴールデン・スランバー〉。束の間、逸りそうになる意思を、凰玖は抑え付けた。〈魔人〉の特質の一つである不視性は、今は失われている。片腕のハンデと「奥の手」が使えない現状、三メートルの間合いまで見切られるのは、己の首を絞めるも同義だった。圧に晒されながら、凰玖は耐えるしかない。此処はとうに、死線の上だった。

 

 煙草の灰が、長くなっている。乱れそうになる息を、凰玖は一本に引き伸ばすように細くした。六メートル。潮合の瞬間は、躰が知っていた。男の気配。少女の息遣い。今は、耐えることが戦いだった。靴音。雨音。風。車。誰かの喋り声。それらに対する雑念を凰玖は捨て、待ち続けた。五メートル。感覚が、研ぎ澄まされてゆく。弓と同じように。弦を引き絞り、解き放つ瞬間、そのときまで。

 

 四メートル。男が何かを呟いた。思わず意識が、吸い寄せられそうになる。

 

「―――」

 

 男の左手に、一瞬で剣が握られていた。黒い刀身。動きかけた脚を、凰玖は力尽くで抑え込んだ。疑念、驚愕すらも押し込め、飛び出そうとする獣のような躰を抑えつけた。砂利。視線。初めて男の顔に、微かな変化が現れた。すぐに戻る。凰玖は、自分がわらっていることにも気づかぬまま、男の動きを知覚していた。堪え続けながら、見えていた。男がどのように動くのか。あと少し。あと何秒。あと半歩。三メートル。

 

 今。

 

 弾き飛ばした赤色が、闇に踊り、細切れになった。

 

 両断された煙草の向こう側に、男が立っている。

 

 射程圏内。

 

 呼んだ。一瞬、男の意識が〈魔人〉の右腕に逸れた。

 

 隙。左で、男の喉を()ち上げた。仰け反った頭部を鷲掴み、渾身の力で壁に叩きつけた。押し潰した衝撃で壁が粉を噴いた瞬間、凰玖は地面を蹴っていた。

 

 仰天する凛を視界に捉える。八メートル。転びかけるのを〈魔人〉が支え、凰玖は跳んだ。凛の手が銃の形を作る。指先に、何かが収束した。放たれる。そう思うのと同時に、躰を逸らした。何かが通り過ぎる。凛は目の前だった。強張った貌。あと二歩の距離。

 

 背後。振り向かずとも、〈魔人〉には振りかぶる男が見えていた。

 

 迎え撃つ。拳が下腹を貫ち抜き、剣圧が凰玖の背を刻んだ。熱いものが奔る感覚。あと少しで、手を伸ばせば届く距離なのだ。なんとか、あと少しで。

 

 吹き飛ばしたはずの男は、しかし衝撃を地面に逃がすことで耐えていた。復帰が速い。踏み込まれる。凰玖が辿り着くよりも先に、刀剣が振り下ろされた。〈ゴールデン・スランバー〉。狙ったのは剣ではなくそれを振るう腕だった。(すんで)で掴み、押し止めた。だが。男の右手。白刃、いつの間に。潮が引くように躰が冷たくなった。躱せない。剣閃が奔った。

 

 叫声。自分が上げたのかもわからなかった。神経が焼き切れる音。間際に滑り込ませた〈魔人〉の右腕から、ナニカが噴き出した。太刀筋は逸れたのか。理解する間も無く腹が爆ぜると、凰玖は受け身も取れずコンクリート壁に激突した。

 

「―――」

 

 息が、止まっていた。暗い。凰玖の視界は、何も映していなかった。闇だ。無形(むぎょう)の痛みだけが鮮明で、その痛みが声となって頭を軋ませ、躰をかき回していた。起き上がろうとする。動かなかった。地面に縛り付けられでもしているかのようだ。立てよ。躰の叫びを無視して、凰玖は言った。半開きになった口から、唾とともに血が噴きこぼれた。腹が破けている。引き裂かれた砂袋のように、腹のなかから溜めこんでいた何かがこぼれてゆく。

 

 毀れたのか。俺の躰。本当に毀れたのなら、こうして考えることもできないはずだ。死というもの。それに追いつかれたとき、人はただの「物」に変わる。だが死とは、獣のように荒い息をしながら血潮を駆け巡るものではないはずだ。ならば、剥き出しの意思すらも覆い潰そうとする、この闇こそがそうなのか。

 

 闇に落ちきるのを、何かが繋ぎ止めていた。あの日、決めたこと。灰になった晴奈の傍らで、自分に誓ったこと。

 

 躰の痛み。心を裂くような苦しみに比べれば、こんなものいくらでも耐えられる。立てよ。もう一度自分に言った。勝負はまだ、終わっちゃいないだろう。

 

 肘に力を込め、顔を持ち上げようとした。吐き出した血が顔に跳ね、全身が引き千切れた気がした。それでも、毀れてはいない。あとは呼ぶだけだった。凰玖の半身。凰玖そのものである「幽霊」の〈魔人〉を。

 

 だが。

 

 何も起きなかった。

 

 何も(・・)凰玖は感じ取れなかった(・・・・・・・・・・・)

 

 何度〈魔人〉を呼ぼうとしても、結果は変わらなかった。

 

「………、」

 

 意識がかすんだ。あらゆるものが希薄になり、代わるように闇が躰に拡がってゆく。地面の感覚が消え、痛みさえも、迷子になったように分からなくなった。

 

 やがて、すべてが静かになった。

 

 

 

 黄金の双眸だけが、わらいながら見下ろしている。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「凛。怪我は」

 

「ええ、私は大丈夫。アーチャーこそ」

 

「強烈だった。咄嗟に手加減を忘れてしまうほどにな」

 

「……殺したの?」

 

「いや。意識を失っているだけだ」

 

「そう。……なによ、その顔は?」

 

「この男は、君を狙っていた。人質以上のことになったかもしれん。よくそう心配できるものだと感心していた」

 

「こんな状況で、皮肉しか言えないの。それより、どう」

 

「ふむ。良い知らせと悪い知らせがある」

 

「良い知らせから聞かせて」

 

「どちらも同じことだがね。結論を言おう。この男は、マスターではない」

 

「……………………………え?」

 

「聞こえなかったかね。マスターではないと、そう言ったのだが」

 

「う――」

 

「嘘ではない。嘘はつかんさ。この男に令呪はない。というよりも、恐らく魔術師ですらないのだろう」

 

「そ、そんなのありえないわよっ。だって、じゃあどうやって説明するのよ!? マスターでもなくて、魔術師でもないのにサーヴァントと戦えるなんて……」

 

「この世に知られていない異能など、星の数ほどあるだろう。サーヴァントと白兵戦をする人間がいるとは信じがたいが、そういう特殊な異能の持ち主なのではないか」

 

「そんな……」

 

「それと悪いほうの知らせだが。このまま放置すれば、この男はそう持たずして死ぬぞ。どうやら例のサーヴァントと争った際に傷を負っていたらしい。外傷は手当てを受けたようだが、中身はぼろぼろだ。私の一撃が、とどめになったようだな。……凛?」

 

 

 ――「俺に、サーヴァントはいない」

 

 

「アーチャー!」

 

「なんだね」

 

「っ……彼を、屋敷に運んで。すぐに!」

 

「助けるのか」

 

「当たり前でしょう!?」

 

「この男たちはどうする?」

 

「そっちは……いいえ、このままでいいわ。それとも今すぐ死にそうなの?」

 

「見た限りでは、骨が折れている程度だろうな。じきに目を覚ます。――やれやれ。では運んでおくとしようか」

 

「………、」

 

 外套の男が姿を消す。死にかけのクラスメイトを、物のように肩に抱えて。

 

 一人残された少女は、自分のしでかしたことに頭を抱えると、しばらく立ち尽くしていた。

 

「どうしよう……私ったら、とんでもないことしちゃった」

 

 

 ――いったい、何がどうなってるのよ?

 

 

 応える者は、誰もいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 うっかり(物理)













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