「ああ!」
くらいのブラック鎮守府で提督があれやこれやをする話。
長門の瞳が、暗い炎に揺らめく。
深夜、提督執務室。艦娘の長門は提督のもとへ来ていた。
執務室は薄暗く、蛍光灯が切れかけている。誰も替えようとしないのだから、当たり前とも言える。
「本気で言っているのですか、提督」
男は使い込まれた椅子に座り、執務机を挟んで長門が直立している。
長門は尋ねると言うよりも、確認を取ると言った様子で聞いた。男、提督はそれを受けて答えた。
「すでに決めたことだ。二度言わせるな。艦娘は提督に従う義務がある。そうだろう?」
「……ええ。わかりました。ではそのように」
長門は冷めた表情で提督の言葉を受け取り、執務室をあとにした。貼り付けた表情の下は不満が満ちていた。
提督は去って行く長門をにらみつけるように視線を向け続け、彼女が扉を閉めて足音が聞こえなくなってからため息をついた。
「まったく。愚か者が。己をなんだと思っているんだ」
愚痴を聞く誰かはいない。それでも提督は腹立たしげに小声で虚空に話しかけ、ゆっくりと席を立ち、私室へと戻った。
提督、という存在はいてもいなくてもよい存在であり、なおかついなくてはならない存在である。
簡単に言うと、艦娘はなにかしらの行動を起こす際に提督の指令に従う必要がある。すなわち、提督の命令は絶対であるが、艦娘の行動は提督の影響を受けない。
たとえば鎮守府の周囲を警戒するだけであっても提督による指令書が必要だが、しかし指令書があったからと言って艦娘の能力が上がるとか、艦娘としての実力が発揮されるとか、そういったことはまったくない。ただ行動に制限が設けられているに過ぎないのだ。
言い換えれば自らの意志で活動することができない。なぜこのような面倒を差し挟まなければならないのかという問いには答えることができない。そのような性質をもつ、ただそれだけだ。
ゆえに、艦娘は自発的行動であっても提督の指令を待つ必要があるし、提督が言うのであれば気に入らずとも行動せねばならない。
そのため提督は特別な技能を必要としない。最低限度の知識教養があれば、それでよい。実際、この国では随時提督を募集している。
一つに鎮守府に提督は基本一人である。大勢を配置しても船頭多くして船山に上ると言うとおりに、とんちんかんな指針になってしまうからだ。
提督の試験に合格しながら、提督業につけないものを予備提督と呼称し、提督が鎮守府を去る時に補充される。絶えず提督業務が続けられるようにと制度化された。
その、予備提督だったある男が、この日ある鎮守府の提督に就任した。
その男、改め提督は鎮守府に着任した。
「はじめまして提督。わたしは長門。これからよろしく頼む」
戦艦長門。その艦娘の姿。
艶やかな長髪としなやかな四肢、すうっと浮いた筋肉の陰影。明眸皓歯、意志の籠もった顔つきは見るものを惹きつけると同時に、高嶺の花と追いやろうともする。
これまでにまったく縁遠かった美女が、右手を差し出している。
提督となった彼は、長門の体格や雰囲気にやや気圧されるかのように身をすくめているが、友好的である以上怖がるべきでないと負の感情を振り払い、差し出された右手を握り返した。
「は、はじめまして。よろしく。今日から、提督に就任したよ」
「ああ。訓練所で勉強しただろうが、さっそく仕事を覚えてもらう。実際にやるのとではどうしても勝手が違うだろうしな。要は、引き継ぎというやつだ」
提督は力強く握られた右手に驚きのようなものを覚えつつ、提督就任直後の業務に緊張していた。
確かに訓練は受けてきたが、実際に行ってみなければわからないことも多くある。提督は数日間を消費して、長門からみっちりと仕事をたたき込まれた。
提督がしなければならないこと、提督がすべきこと、提督と艦娘とのこと。教えられたことは多くあったが、最も重要で、提督がまっさきに覚えなければならなかったことは、書類の作成であった。
つまり、艦娘を出撃させ、そのために必要な物資の管理、帰還後の処理、補給と必要であれば修理、獲得した資源の管理、その他諸々すべての報告書類の作り方だ。
最初の数日間は長門が指導、あるいは添削しながらそれらのやり方を習得した。一週間も経てば提督一人で行えるようになり、長門も出撃の任務に回った。
提督も教えられたことになれてくると、いささかハードワークではないかと疑問を覚え始めた。
いや、疑問自体は長門の指導を受けている最中にも感じていた。そのときは提督業務をさっさと教え込むためのスパルタかと思っていたが、どうやら通常業務らしい。となるとやはり勝手が違う。
まず提督自身の自由時間はほとんどない。睡眠と食事でほとんどつぶれ、トイレと風呂はさっと済ませなくてはならない。睡眠時間を削れば他に回せるが、それでは本末転倒だ。
艦娘の出撃頻度に関しても、効率を追求したかのような機械的運用がメインであった。
以前の提督が行っていた仕事を知るために、少ない休憩を工面しながら書類の確認などを行うと、確かに妙であった。
資源の備蓄は少なく、ほとんど自転車操業のようだった。潜水艦による強行偵察および資源回収、それと複数艦隊の遠征による資源回収によって得られた物資を消費しながら出撃し、ぎりぎりのプラスと多くのマイナスでどうにか現状を維持していた。
艦娘も出撃を連続で繰り返し、被弾すれば控えと交代し部隊の編成をし直すと即座に再出撃。
艦娘の疲労蓄積が見られれば空母を主力に編成し、特定の海域を周遊する。他の海域への出撃が必要となれば待機に回し、別の艦娘を編成する。
遠征から帰還すれば物資の確認を終え次第再編成し、再出撃。
めまぐるしく、ぐるぐると出撃が何度も繰り返されていた。
提督は現状と、かつての自転車操業的出撃が酷似していると感じた。事実それは正しい見方である。同じことを繰り返しているだけだ。
肯定的な見方をするのなら、前の提督は仕事熱心でまさしく仕事の虫だったのだろう。しかし提督はこのルーチンに無理があると感じた。きっとどこかで破綻する。否定的な見方をするまでもなく、改善しなくてはならない状況だと思えた。
艦娘はいつ休んでいるのか。提督は疑問が脳裏に浮かんだ。
休んでいることは休んでいる。だが、それは休養ではなく休憩の類いだ。
現状での提督の行動は、長門から教えられたルーチンの繰り返しである。と言うことは、長門はかつてのルーチンが体に染みこんでいるに過ぎない。
いくらなんでも、休息は必要である。提督自身、自らの休息も足りていないと感じている。
休息日を設けようと、行動を起こしたその日のことだ。
ノックもなしに、執務室の扉が開かれた。扉を開けたのは、淡い色の髪の毛を後ろで一つに結び、豊満な肉体を学校水着に酷似した潜水着で包んだ艦娘、
「ちょっと、提督! 物資のチェックは終わったでしょ? 早く次の出撃を指示してほしいの!」
任務から帰還してしばらく経過しても次の出撃が命令されなかった。普段であれば、物資確認の後数分以内に遠征の指令が下り、要件が入り乱れたとしてもさほど待つことがない。だと言うのに、今日はあまりに遅く、そのため執務室へ殴り込んだ。
ぺたぺたと裸足で威厳のない足音を立てながら、ゆさゆさと胸元を揺らし、甘い声で詰め寄る姿は脅しに向いていない。イクが怒気を露にしていても、提督にはそれほど響かなかった。
「ああ、イクじゃないか。いや、出撃はいいんだ」
執務机に身を乗り出すようにして詰め寄ってくるイクに、提督は座ったまま答える。
提督の平素通りの反応に、イクはなにかあるのだろうかと知恵を絞る。
「うん? それじゃあ、攻略作戦? 他の子がまだ帰って来てないの?」
敵対勢力である、深海棲艦。そのうちの特定の相手に対して、潜水艦であるイクは一方的に攻撃ができ、あるいは特定の相手から優先的に狙われる。その特性を活かして海域攻略作戦を展開する場合イクは普段の任務でなく通常出撃に回される。
イクからすれば、平素の任務に行かないのなら通常出撃という構図ができている。ならこの空き時間は、必要な他の艦娘の帰還待ち、ということになる。
提督とイクの考えは、徹底的にかみ合っていない。
「いや、違うんだ。なにもしなくていいんだ」
「なにもしなくて……? も、もしかして、イクはもう要らないの?」
提督の言葉を、不要になったから任せられることがないという意味にイクはとらえた。
「違う、違う。最近働きづめだったろ? だから、今日は思い切り羽を伸ばしていいんだ」
提督は幼子を諭すように語りかける。
イクはなおも納得いかないようで、言葉を返そうとしたところで執務室へ他の艦娘がやってきた。遠征からの帰還報告だ。
「よーう。艦隊帰還だぜ」
ふてぶてしい物言いと態度、ドスを利かせた低めの声。片目を眼帯で隠した隻眼の美女。髪はショートでまとめ、雰囲気はまるで女盛りの女親分、姉御といった様子だ。彼女は艦娘の天龍。
天龍は旗艦のため代表で執務室へやって来た。普段なら、ここで提督が帰還報告書類を作成し、物資や状況を確認し、その書類と再出撃の書類を作成する。物資確保の報告がなければそのまま補給と出撃の指令を下す。
「ああ、おかえり。悪いなイク、まずはこっちの片付けないと」
提督は天龍に注意を向けて、報告を受ける。その情報を書類へと起こしていく。
イクはその様子を不満げに眺めていた。
確保した資源があると言うので、提督は確認のためにドックへ天龍と向かう。それにイクも同行した。
ドックでは天龍と同艦隊で遠征していた駆逐艦が待機しており、普段通りであれば、資源確認の後この場で遠征の出撃指令を下す。
しかし、提督はやはり資源の確認だけをして踵を返した。
当然ながら、天龍以下駆逐艦たちも疑問を呈する。
「おいおい提督、仕事を忘れてるぜ。次の指令がなけりゃ出撃できないだろ?」
「そうよ司令官。早く次の指令を出してちょうだい」
天龍がからかうように提督に促し、ショートヘアの小柄な艦娘、雷が続ける。そのほかの駆逐艦たちも、言葉にはしないが同じように提督を見ている。
「いや、今日の遠征は終わりだ」
「あん? なら海域攻略か。必要なのはオレかこいつらか、どっちだ?」
海の状況と、深海棲艦の分布から軽巡洋艦を、あるいは駆逐艦を連れて行けば有利に立ち回れる海域は多くある。
天龍たちは遠征によって練度が高くなっており、そういった場所での活躍が見込めるため、遠征のないタイミングというのは、つまりそういうタイミングである。
「いいや。遠征も出撃もないよ。イクにも言ったけど、今日は休養日として考えている。他の艦娘たちも同じだ。今日帰還できない子たちは、後日に回すけどね」
「は?」
「まあ、今日はゆっくりしていてくれていい。のんびりとね」
天龍はまだ言いたいことがありそうだったが、提督は補給だけを告げてそのまま足早に戻ってしまった。今度は、天龍たちもイクもそこに残った。
提督が去った後、彼女たちはしばらくそこで立ち尽くしていた。
そこにいる全員が、なにか奇妙なものでも見たかのような、なんとも言いがたい表情で提督の去った方を見つめていた。
「……なあ、どうしたんだ、あれ」
天龍がイクに話しかける。
「わからないの。急にあんなことを言い出したの。もしかすると……」
イクは言いよどみ、言及を避けた。
「少し様子を見るか。あいつはあいつで考えることもあるんだろ。何の意味があるのかはわからねえけどよ」
結論を急ぐ必要は無い。天龍はとりあえず保留にして、駆逐艦と補給に向かう。
イクは、これからすべきことがない。ぺたぺたと足音をわざとらしくたてながら、自室へ戻った。
提督の考案した休息日はおおむね疑問や不満を持って受け取られた。これをよろこんで受け入れたものが皆無だった事実に、提督は頭を抱えた。
真の随まで、働き続けるという強迫観念じみた考え方が艦娘には染みついているのだと提督は考えた。
まったくの休み無く出撃を続けるというのは不可能なはずだ――提督も、休息日の設置は艦娘のことを考えてのことであったが、その裏側には自分の休息を求める意識があった。
何度か続けていれば休息の重要さを理解するだろう。提督は楽観的な考えを浮かべていた。
このような習慣を数回続けたあと、休日とした日に、長門が執務室へやってきた。
長門の端正な顔は不快げに歪められている。もはや取り繕うつもりもないようで、いらだちを隠さず表情に出している。
「提督。しばらく前からこの無駄な時間が設けられているようだが、これはなんのつもりだ?」
「なんのつもり……と言われてもな。休息は必要だろ?」
「疲労抜きのことか? それなら効率よく回しているはずだが」
「いや、そういうのでなくて」
お互いの主張は平行線である。長門は休息を必要としない前提で、提督は休息がなければならない前提で話しているのだから当たり前だ。
「ではどういう?」
「まったくの休息無しで毎日出撃を繰り返せば、疲れるだろう」
提督の話を、長門は鼻で笑った。
「提督。すまないが、前提からして間違っている。我々はあくまで艦娘だ。そのような休息は必要ない」
「いやしかしだな……」
「提督」
なおも言いつのろうとする提督を、長門は静かに両断した。
長門の表情は硬く、提督は気圧される。
「あなたの仕事は、我々に休息を提案することではない。指令を出すことだ」
長門は言い聞かせるように語った。その言葉は冷静で、調子も落ち着いたものだったが、それがむしろ威圧感をもたせた。
提督は蛇ににらまれた蛙のごとく縮こまった。反論を許さない絶対の重圧がまとわりつくようだった。
「わかったのなら、仕事を全うして欲しい。手間をかけさせないでくれ」
長門が言い切ると、水を打ったような静けさが唐突に訪れたように、提督には感ぜられた。それは極度の緊張による一時的な聴覚異常だったが、提督がそれに気づく余裕はどこにもない。
提督が何も言わずに置物になっていることを確認した長門は冷徹な視線を投げつけ、さっさと出て行ってしまった。
提督は呼び止めることもできず、ただ見送った。
提督は休息日を完全になくした。それは、艦娘たちに大いに受け入れられた。
それが、気に入らなかった。
しかし気に入る気に入らないにかかわらず、日々は過ぎていく。提督自身の休息のためでもあったそれがなくなった以上、負担がかかる。
最初のうちはどうにかなっていた。疲労が蓄積しても所詮は書類を書き続けるだけである。肉体的な限界は訪れにくい。
それでも日々指令を出し、確認し、続けて指令を出すというルーチンを続けていると精神的に疲労が溜まる。
蓄積した精神的疲労は次第に肉体に変調を呼ぶ。些細なミスが増えるようになり、そのたびに艦娘からの苦情が届き、指令を出し直す。
提督は自分がなにをしているのか、なぜこのようなことをしているのか。だんだん自分の存在意義がわからなくなっていく。
そんなある日、提督は艦娘たちに休息日を出した。実際には自分の休息のためだったが、どちらでも同じことだ。提督が業務を怠れば、艦娘はなにもできない。
当然、長門がやってくる。今回は執務室ではなく、私室に。
「提督。どういうことだろうか」
ノックされた扉を開けるのはいやだったが、しかし開けなければなにをされるかわからない。強迫観念のようなものが提督を動かした。
扉を開けた提督は、着替えてすらいない。
「おいおい、サボりかよ、提督?」
長門についてきたのであろう天龍が、からかいなのか嫌みなのかわかりにくい調子で声をかける。
提督はそれに反応するだけの余裕がなかった。
「すまない、だが、少し、休ませてくれないか」
提督は長門、天龍、どちらとも視線を合わせられない。視線を泳がせながら、うつむいている。
「提督。あなたの仕事はここでほとんど完結している。困るようなことはないはずだが」
「さすがに疲れたんだ。頼む、なにもしないでくれ」
やつれた表情で、提督が懇願した。
それを見た天龍が、にやにやしながら尋ねる。
「なあ提督。人間はオレたちに比べて貧弱なのはわかってるけどよ、ペンを走らせるってのはそんなに重労働か? 鎮守府を歩き回るってのはそんなに過酷か? 別に、オレたちの代わりに戦場に出ているわけでもねえし、船で直接指揮を執ってるわけでもねえ。軽い仕事だと思うんだけどよ?」
「それはそうだが、しかし、休みたいんだ」
「駄目だ。月月火水木金金、海軍に休みはない。鎮守府を回さなければ、提督が提督である意味がない」
長門や天龍、その他の艦娘たちは自分に仕事をさせる気でいる。提督は恐怖に戦く。
提督は静かに腰を折る。
「頼む。週に一度……いや月に一度でいい。なにもさせないでくれ」
頭を下げた提督の横に天龍がつき、肩を組んだ。柔らかな体が密着しても、今の提督には怯え以外のなにものをも感ぜられない。
「認められねえなあ。てめえがなにもしないでいる間、オレたちだってなにもできねえ。てめえの怠慢が直接に響くってえわけだ。まさか鎮守府の最高責任者が、そんな無責任なことを言うはずがねえ。だろう?」
耳元にささやかれた言葉が刺さる。
「さあ提督。ご託はもういい。制服に着替えずとも結構。だが仕事をしてくれ」
長門が促すが、提督は動かない。
しびれを切らしたように、天龍が肩を組んだ状態で引きずって外へ連れ出す。艦娘の力に、提督の抵抗は無意味である。
「待ってくれ! ほ、本当に限界なんだ! 明日、明日は必ずやるから!」
引きずられながら叫ぶも、長門もまた提督を引っ張った。
「今日もやるんだ。提督、勘違いしてもらっては困る。それとも前任者のようになりたいか?」
「ぜ、ぜんにんしゃ……?」
提督はうまく口が回らない。
前任者。自分の前にいた、ここの提督だ。彼のように、とはどういうことか。
「あの野郎、最後の方はろくに仕事をしようとしなかったからな。役立たずは鎮守府にいらねえってことで、とっとと交代してもらったんだ。そう、てめえにな」
提督の表情が恐怖に染まり、今にも泣き出しそうに歪んだ。
どうすれば解放されるのか? 提督の思考はその一色だ。
「提督の代わりはいくらでもいる。鎮守府からいなくなれば新たに補充される。たったそれだけのことだ。提督、交代したいか?」
長門からもたらされた言葉は、絶望そのもののようだった。あるいは希望なのかもしれない。どちらも側面もあるのだろう。だがメリットデメリットを明確に判断する理性は、もうない。
仕事をしなければ、自分はどうなるのか。
仕事をし続ければ、自分はどうなるのか。
提督の頭は、もはやまともな状態を維持できていない。
「もう、もう無理なんだ! 続けられない!」
提督の絶叫は、二人の表情をしかめさせたが、そのことに提督が気づく余裕はない。
「そうか。なら、今日が最後の仕事だ。今日の業務を全うしろ」
長門の声は酷く冷淡で、底冷えするようなものだったが、提督には救いであるように感ぜられた。
「あ、ああ、ああ。今日、今日だけでいいんだな!?」
「おう。今日が終われば、自由だぜ、提督」
「わか、わかった。なら、がんばるよ。自分で歩ける」
二人が提督を解放すると、提督は逃げ込むようにふらふらと執務室へ歩いて行く。おぼつかない足取りで不安を誘うが、道中に危険はない。執務室はすぐそこだ。
提督が執務室へ入って、天龍がため息をついた。
「今日がんばれるのなら、倒れるまでやれってんだ。あいつも駄目か」
人間という生き物が艦娘に比べれば話にならないほど脆弱で貧弱だということは、さすがに理解している。しかし、今日働けるのになぜ働きたくないなどと言うのか、理解できない。
本当に無理だと言うのなら、今日も働けないはずだからだ。
彼女たちには、提督が怠けているのだと思えた。
「こうも早く脱落するとは。玉石混淆なのはわかるが、もっと骨のあるヤツを選んでほしいものだな」
「ま、いいだろ。所詮消耗品だ。オレたちが錆び付かないための、な」
「その分停滞が増える。いくら補充されると言ってもタイムラグがあるんだ。できれば、一人に長く勤めてもらいたい。倒れるのは仕方がないが、やりたくないというのは聞き入れられない。無い物ねだりなのか、これは」
「さあなあ。ま、いいさ。オレは遠征の指令を受けてくる。始末はいつも通りか?」
「ああ。わたしも、今のうちに提督の補充申請を準備しておこう」
「おう、頼むぜ」
二人は、どちらも別方向へ歩き出した。
予備提督は、提督業務に就任できるだけの訓練過程を経ている。要するに、現役提督との見かけの違いはない。提督業を行っていない提督、とでも言い換えられる。
当然ながら現役提督との大きな違いは経験の有無である。職業訓練を受けただけのものと、職業訓練を受けて実務に当たっているものとでは技量に大きく違いがある。
予備提督と提督との間に、根本的な違いはない。だが、予備提督から提督になるのと、提督であり続けるのとでは天と地ほどの違いがある。
そのことを、予備提督と新任提督はおよそ知り得ない。
彼らはあこがれの業務にようやく携われることを誇りとして胸に抱くため、それ以外のことは重要視しない。
「は、はじめまして! 今日からここに着任することになりました!」
鎮守府の外、入り口で、初々しい様子の、童顔の青年が敬礼しながら言う。
この日、たった今やってきたばかりだ。
「ああ、はじめまして。よろしく頼む」
長門が青年を迎えた。
「提督、さっそくあなたの部屋に案内しよう」
長門が先導し、青年――提督を執務室へ連れて行く。
廊下は綺麗に掃除されており、目立った汚れはない。精々、ごまかしようのない劣化が見えるくらいだ。
「へえ、綺麗に使ってるんですね!」
「ん、ああ。知っているとは思うが、我々は提督の指令がなければ作戦行動がとれなくてね。提督のいないうちは手持ちぶさたになってしまう。だから、新たに提督を受け入れる前に、一斉に掃除してしまうのさ」
提督はここに着任が決まる際に、内部事情を少し聞いていた。すなわち、前任者についてだ。
艦娘たちは心機一転という心境で鎮守府を掃除するのだと思うと、提督はなにか、正義感のようなもの、あるいは義憤と思えるような感情がふつとわいた。
「その……お話、少し聞きました。なんでも意にそぐわないことを強要されて、結局態度が気に入らないから前の方がいなくなったと」
「その話か。まあ、そういうこともあったな」
どこか神妙そうに話す提督と、気軽そうに返す長門。二人の心の内はまったく違うものだった。
提督は、長門が無理をしているように感じた。いや、そのように考えることで負担を減らしているのだと思えた。
「あの! ぼく、がんばりますから! 皆さんのお役に立てるように!」
提督はその場に立ち止まり、自分の中に渦巻いた正直な感情を吐露した。
長門は提督よりも数歩進んだ位置で止まって、顔だけで振り向いた。提督がこのようなことを言うとはまったく考えていなかったのだろう、意外なものを見るかのような表情でいる。
意を決したかのような熱の籠もった提督の表情は、長門から見て幼い熱意だった。まるで少年が曖昧で不確かな甘い理念に淡く弱々しい情熱を燃やしているかのようだ。
長門は思わず鼻で笑ってしまった。提督に悪く受け取られなかったのは幸運でもなんでもなく、ただ状況に酔っていたからだ。
長門の薄暗い笑みは、提督のやる気に火をつけた。あえて多くを語るでもなく、長門は提督をおだてた。
「そうか。では期待しよう。我々の願う提督であってくれ」
ブラック鎮守府ってこういうあり方するんじゃないかという妄想。
n番煎じだろうけど。