セミの鳴き声は嫌いだ。聞いていると、このクソ暑い季節に体感温度が上がってしまうから……という理由も当然ある。
けどそれよりも、聞いていると惨めになるから……という理由の方が大きい。だってあいつらは恋人を求めて鳴いているのだ。それも、短い命の中で子孫を繁栄させるためにだ。……いや、そんな意識高い系なんかじゃなくて、ただ死ぬまでにセックスがしてみたいだけとかでも、別にいいんだけど。
とにかくあいつらには時間がない。だから必死に鳴くのだ。その動機がどうであれ、それだけ何かに必死になれるのは素晴らしいことだと思う。それに比べて僕は、僕らは、あまりに中途半端だ。
モテたい。セックスもしてみたい。でも、だからといって特に努力をする気もない。それはポジティブに考えれば、寿命の長さがもたらす余裕なのかもしれないけど、でもやっぱり僕は、そんな欲望にさえ必死になれない自分が惨めだと思う。
何も成し遂げられず理想だけ掲げて、オレたちの子孫の鳴き声を聞きながら、せいぜい長く生きるがいい。セミが僕にそう言っているような気がするのは、これはまったくの被害妄想なのだけれど、そこまでわかっていても僕はセミの鳴き声が嫌いだ。
……クーラーをガンガンに効かせた部屋でゲームのコントローラーを置いて、僕に勝利したはずの先輩が舌打ちをした。
「なあ、違うと思わないか」
自己啓発セミナーか、そうでなければ宗教か。とにかくロクでもないことしか言わない人がする顔を、その時の先輩は見事に再現していた。
「何がですか」
「俺たちは本当にこんなところで、こんなことをしていていいのか?」
「こんなところって、ここ先輩の家の先輩の部屋ですよ」
狂ったような暑さの中外で働く人たちを後目に、僕らはこの部屋で対戦ゲームをプレイして遊んでいる。それを「こんなこと」と呼んでいいのは、「俺たちも汗を流してみようぜ!」と言える意識の高いマゾだけだ。
先輩は確実にそっち系の人ではない。彼が「大学生活での夏は今だけなんだぞ!」とか言い出すタイプではないことはよく知っている。先輩のそういうところは、僕とまったく同じだ。
同じ、はずだ。なのに今は何かおかしなことを言いだしている。
「いいのかお前は。男同士でほぼ毎日こうして集まり、夕方までゲームをする日々が、本当に正しいと思うのか」
「大学生の夏休みとしては、一つの完成された形なのでは?」
もちろんバーベキューへ行きたいやつは行けばいい、海やプールで泳ぎたければ泳げばいい。スイカを割りたきゃ割れ、食いたきゃ食え。法律に触れなければ何もかも自由だ。だからこそ僕らはこうして、涼しい部屋の中で出来る最高の娯楽を貪っているのではないか。
「まぁそういう考え方もある。現状が間違っているとは言わない。でも正宗、俺たちがこうしている間に、そう離れた場所ではないどこかで数えきれないほどの男が、我が物顔して女と遊んでいるんだぞ」
「はぁ、まぁそうでしょうね。多様性です」
家で彼女とゲームをしている男だっているだろう。そいつが羨ましくないのかと言われればそりゃあ当然羨ましいけど、だからって夏の魔法とか黒魔術だとかは、僕らに扱える物ではないわけで。
魔法や魔術といったものは、何かを変換する能力なのだ。例えば何もない場所から炎を巻き起こす魔法があったなら、それは無から炎を生んでいるわけではない。空気を炎に変換しているのだ。
自らの存在をリア充にするための魔術に必要な、「変換元」になる要素が何なのか、先輩も知らないわけではあるまい。そう、優れた容姿もしくは人間的な魅力、あるいは金である。酸素が尽きれば火は消えるように、それらの要素がなければリア充は生まれることもなく消えていく。
「いいかもう一度言うぞ。飯田正宗、お前は本当にこのまま俺とゲームをしているだけで、この夏を終えてしまってもいいのか!」
「まぁ、別に」
先輩はいよいよ熱が入ってきたようで、苗字が「松岡」になりそうな熱血オーラをその身に纏っていた。慣れない物を纏うと己の身を焼き焦がしそうで心配だ。
「なんでだよ、なんでだよ正宗。お前はかわいいねーちゃんとイチャイチャしたいとは思わないのかよ」
「思いますよ、そりゃ。できることなら僕のことを愛してやまない女性数名から形成されるハーレム空間に飛び込みたいです」
「だろ!? ……いやさすがにそれは高望みが過ぎると思うけど」
「わかってますよ」
それを言い出したら、女の子と手を繋いでみたいと言い出しただけでも、僕の場合は高望みになってしまう。しかし、夢は高く持つことが大事だと僕は思う。大志を抱けと偉い人も言っていた。
ただし夢は見るもの、目標は達成するものである。夢を現実にしようなどと自身の身分を忘れおこがましいことを考えれば、いずれ痛い目を見ることになるだろう。痛い目は見たくない。
「美人のお姉さんときゃっきゃウフフしたいよなー。特に巨乳の」
「先輩、妄想は140字にまとめて一人で投稿しといてください」
「違う、これは妄想なんかじゃない!」
先輩は勢いよく立ち上がり、そしてゲーム機の電源を落としてしまった。ということは彼は何か別のことをするつもりで、この流れはものすごく嫌な予感がする。
「したいと思ったんだから、するんだよ! この夏には彼女を作ろう!」
「作る……? 創作活動ですか?」
「ちげぇよバカ」
馬鹿は先輩だと思う。そうだ地球を征服しようと言っているのと変わらないことを言っているのだから。
「正宗、俺たちが今までモテなかった理由はなんだと思う」
「勝手に僕まで巻き込まないでくださいよ。僕が高校以前の頃どういう生活をしていたか先輩は知らないでしょう」
「彼女、もしくは女友達がいたのか?」
「いいえまったく」
クラスの女子と話す機会があるとすればそれは業務連絡の必要があった時だけだし、バレンタインのチョコは当然母親からしかもらったことがない。幼稚園から高校まで、ずっとだ。
「ほらみろ。お前にそんな経験があってたまるか」
「その言い方はあんまりじゃないですか?」
「同じようなことを俺に言い返してもいいから許せ」
「やーい童貞」
「俺そんな言い方してた?」
意味としては大差ないだろう。
「とにかくだ、答えろよ。女にモテるための要素で、俺たちに足りない物はなんだ」
「外見の良さと内面の美しさですかね」
「それ要するに全部じゃねーか」
「全部ですよ」
だから僕らはモテないのである。どちらかだけでも備えていれば、それなりにチャンスは訪れるはずなのだ。逆に備えていなければどう足掻いてもチャンスは来ない。この世界はきっとそういう風にできている。でなければ、二十年も生きてノーチャンスなことへの説明がつかない。
ところですでに一つ、悲しい事実が判明している。それは、こんな話をしている時点で、僕らの内面の改善は絶望的だということである。
「いや俺は別のことを考えたね。足りないのは容姿でも人としての魅力でもない」
「じゃあ何なんです?」
「自信だ」
それは足りないのではない、無くて然るべき物なのだ。仮に僕らが自信に満ち溢れていたとしたら、きっとその立ち振る舞いはひどく見苦しい物になっているだろう。
「違うと思いますけど。自信がないのはそもそも能力がないからで」
「ああーうるさいうるさい! お前はそういう面倒なところがダメなんだ。だからモテないんだよ。いいか? 俺らに足りない物は自信、必要なのは実戦経験なんだよ」
「はぁ」
また散々な言われようだったけど、先輩は別に僕をディスりたいわけではなくて、ただ単に話を前に進めたいだけっぽいからスルーしておくことにする。
しかしそれはいいとしても、実戦経験とはまた怖いことを言うものだ。銃撃戦だろうと男女関係だろうと、ずぶの素人が戦場へ出たら、秒で息の根を止められてしまう。
が、どうやら先輩は死に急ぎたいようだった。
「というわけで、今から海へ行くぞ正宗!」
「はぁ?」
「安心しろ、車の運転は行きも帰りも俺がするし、水着の用意がないなら今からお前の家まで取りに行こう」
「えぇ……」
面倒ごとは全て俺に任せろ何の心配もするな……と言いたげな先輩だったけれど、そもそも僕は自動車の免許を持っていない。そして海に行くなんて話は今初めて出たことなのだから、当然水着なんか今持ってきているわけがない。彼は当然のことを当然に行うと宣言しただけなのである。
けれどもまぁ、当然のことを当然に行うのは思ったよりも難しい場合が多いので、先輩にそれなりのやる気があることは把握した。
「行くぞ正宗。夏だ、海だ、水着のちゃんねーだ!」
「行って何するんですか」
「実戦だって言っただろ。当たって砕けろ、ナンパだよ」
「沈むんですねわかります」
「字が違うぞ正宗。漢字に変換するな」
先輩はこれから、最寄りの海で難破するらしい。嫌だなぁ、身内の沈む姿は見たくない。どうせ誰かが沈むのを見るのなら、絶望のどん底に落とされるウェーイ系のリア充を見ながら美味しくご飯を食べたい。
ともかく、人様の家で嫌だ嫌だ僕はゲームがしたいんだいと駄々をこねるわけにもいかず、一応の年功序列的な上下関係も考慮して、僕は海に連行されることを容認した。いや、歳の差なんて適当に取ってつけただけのジョークに近い理由で、本当は僕も少し海へ行ってみたかったのかもしれない。
少しは努力するフリだけでもすることで、僕の心はセミを超えるのだ。
僕らの住んでいるあたりから海は微妙に遠い。高速道路に乗ればわりとすぐに行ける程度には遠い。そして夏休み真っ盛りのこの時期、高速道路に「一瞬」なんて言葉は存在しなかった。渋滞である。
「なぁ正宗、普通なら海まで何分かかると思う」
「30分くらいですか」
「俺もそのくらいだと思う。で、俺らが高速に乗ってから何分経った」
「30分を超えましたね」
「今どのあたりまで来たと思う」
「まだ半分くらいかと」
どうあがいても絶望、夏休みの高速道路へ侵入したことが間違いだったのだ。
先輩は外の日差しにカルシウムでも吸収されたのか、今にも地団太を踏みそうなイラだちを顔に浮かべていた。間違ってもアクセルとブレーキでの地団駄だけはしないでほしい。
「夏休みだから混んでるんだよな。ってことは、この中の大半が家族連れか彼女連れなんだよな」
「たぶんそうですね」
「……爆発したら、ガソリンでよく燃えるんだろうなぁ」
いけない、先輩がリア充を狙う凶悪放火犯になるまでのカウントダウンが始まっている。男としてどころか、人として難破して人生からフェードアウトしてしまうぞ。
とは思うものの、先輩の気持ちがわからないわけでもない。今回は僕らが馬鹿をしているだけなのでいいが、これが仕事だったら僕だって相当イラついていただろう。
「正宗ぇ、なんか楽しくなる話してくれよー」
「じゃあ夏ということで、怖い話を一つ」
「俺楽しい話って言ったよね?」
広義の意味では怪談だって楽しい話のはずだ、間違っちゃいない。
「ある男性が深夜の街を歩いていると、美しく若い女性が声をかけてきました。話を聞くと女性は訳あって家には帰りたくないらしく、なんとその男性の家に泊めてほしいと言うのです。……あっ先輩、前進んでますよ」
「お、おう」
車が若干前に進み、またすぐにストップする。テーマパークの順番待ちの列と何も変わらない現状を、「高速道路」なんて大層な名を冠するこの場所は恥ずかしいと思わないのだろうか。
「男性は快く女性の願いを受け入れました。正確には快くではなく、下心によってですが。……しかし家に上げてやると驚いたことに、女性はお礼だと言ってむしろ積極的にそういった、男性の下心を受け入れるような行為を誘ってきました。男性が待っていましたとばかりに女性の服を脱がせると……タイミング悪くインターホンが鳴ります。イラだつ男性がこんな深夜に誰が訪ねて来たのかを確認しに行くと。…………どう見ても堅気ではない風貌の怖いお兄さんが、ドアの向こうに立っていました」
「ちょっと待て」
話にほぼオチがついたところでどうやら渋滞を抜けたらしく、今までのことが嘘だったかのように車は快適に走り出す。奇跡的にタイミングが一致したが、とにかく僕の暇つぶしに話をする役はこれで終わりだ。
「お前、夏だから怖い話するって言ったよな?」
「言いましたね」
「今の、ちょっと他人事の気がしなくて怖い話だよな? なにせ俺らはこれからナンパに行くんだからな? 今の話、夏に何か関係あったか?」
「夏だからナンパに行くんじゃないんですか」
「そうだけどさぁ」
渋滞が解消されたというのに先輩はいまいち喜ばない。僕がせっかく気を利かせて、怖い話と事前の教訓をミックスしたお得な話を披露してあげたというのに、いったい何が不満だというのだろう。
夏で怖い話って言ったら違うじゃんもっと別のがあるじゃん、と先輩がぶつぶつ言っているうちに高速道路とはお別れして、ついに僕たちは最寄りの海へと到着した。駐車場は案の定満車だったけれど、タイミングよく出ていく車が一台あったので助かった。
そうしてほぼ一時間ぶりに車外へ出てみると、先輩の家や車の中というクーラーの効いた環境に甘えてきた僕のやる気を、一瞬で根こそぎ持っていくかのような暑さが襲い掛かってきた。
一方で先輩はそれをものともせず元気だった。
「海だー!」
「やめてください、公共の場で大声出すとアホみたいですよ」
先輩が到着早々に一人で馬鹿になっていたので、それ浮いてますよと忠告してあげる。僕のそういう優しさはもっと評価されてもいいと思う。
それと、先輩が馬鹿だったのは台詞だけではない。僕は男と一緒に海水の中ではしゃぐ趣味はないですからねと、ここへ来る前に告げたのだけれど、私服のままの僕と対照的に、先輩はすでに水着姿だった。脱ぐのが早すぎて変質者の定義におよそ膝あたりまで浸かっていると言えると思う。
僕の家に水着を取りに寄ってもらった時、「つまり女と一緒ならいいんだろ?」と、どんな神経してたらそんなキメ顔できるんだって表情で先輩が言っていたことが思い出される。その原産地不明の自信は未だ先輩の中ではしゃいでいるらしい。
……来てから三分と経過していないはずなのに汗が出てきた。帰りたい。
「いや、アニメとかでよくあるじゃん。水着回で海に来て、なんか謎のジャンプしながら海だーって叫ぶやつ」
「ここ三次元なんで。冴えない男に優しい美少女ヒロインとかいないので」
テンションが空回りする先輩とともに、僕たちはとりあえず砂浜を踏みしめに行く。
青い……ってほどではない海。白い……ってほどでもない砂浜。過剰に照り付ける日差し。まぁこんな物だろうといった具合の海水浴場に一歩足を踏み入れると、そこには先輩が期待していたであろう水着のお姉さんがごろごろいた。確かに当たって砕けるには最高の、死に場所には困らない戦場なのかもしれない。僕は死にたくないので、先輩が無様に散るのなら骨を拾う役になろう。
「おい正宗見ろよ、というか見たかよ。これがよりどりみどり、酒池肉林ってやつだ」
「違います、高嶺の花です」
酒池も無い肉林も無い。塩水の池と、僕らには見向きもしない人間の群れがあるだけだ。
目の保養も済んだところで、適当にかき氷でも食べてそのまま帰宅するのが良いと僕は思った。今帰れば、夕方になってから帰るよりも渋滞はよほど少ないはず。
「さあ行くぞ! 鉛玉を撃ち込まれれば俺たちは死んでしまうが、言葉の弾丸をいくら撃ち込まれようとも一切の支障はない! 挑戦するだけならタダなんだ!」
「だから、僕まで一緒にしないでくださいよ。メンタル不死身なの先輩だけですよ」
そりゃあ直接生命維持に支障をきたすことはないだろうけど、言葉の弾丸は後々毒のように効いてきて、下手すると人生そのものを腐らせるかもしれないのだ。というか先輩の不死身メンタルもただの自称である。しかも今日始まった自称である。本当に大丈夫なのだろうか。
筋肉の「き」の字もない肉体をさらしながら、先輩は砂を巻き上げ猛ダッシュしていく。僕は少し離れたところから、彼とは他人であるフリをしつつ観察しておくことにした。
どうせ、いざ声をかける段になれば怖気づくだろう。そう高をくくっていたところ、なんと先輩はマッハで金髪巨乳のねーちゃん二人組に声をかけ始めた。そんな無謀な、しかも二人組を狙うなんて、彼の脳みそは暑さにやられてしまったのか。
先輩が声をかけ、二人組が立ち止まる。そこから五秒と無しに彼はゴミを見るような目を向けられ、怖そうなお姉さん方が吐き捨てるように一言二言何かを言うと、彼女らが歩き出す前に先輩の方がその場から立ち去って行った。
あんな経験を重ねて自信がつくと本気で思っているのなら、やはり先輩はすでに正気ではない。乱心なさっている。僕は後輩としてではなく、友人として彼を止めるべきなのではないか。
と思ったら、先輩は次のターゲットを探す素振りもなく僕のもとへ帰ってきた。
「まさむねぇ……」
母親を見つけた迷子の幼稚園児みたいな涙声だった。思わず後ずさってしまう。
「気色悪い声出さないでくださいよ」
ネット上にはびこるオタクの、数ある闇の中の一つとして「バブみ」という概念があるが、女性にそれを期待できなくなったからって僕にそれを求めてくるのは御免被る。断固拒否だ。誰だってそうだろう。
「第一声から「キモイ」だの「近寄んな」だの「通報すんぞ」だの言われた……もう俺はダメだぁ……」
「言葉の弾丸が致命傷になってるじゃないですか」
脳天と心臓を撃ち抜かれて、死んで動かなくなったところにさらに全身の関節を撃ち抜かれたくらいにはボコボコにされてきたとお見受けする。よしわかった、じゃあもう帰ろう! それがいい!
「せめてどれか一個くらいだと思ってたんだ、まさか一瞬であんなに人の尊厳を踏みにじれる人類がいるなんて……」
「実際に通報されなかっただけ尊厳とかそういうの尊重してもらってますって。僕らが持ってる人権っていうのは、先輩が思っているよりも遥かに小さく軽く弱いものなんですよ」
だから僕たちは隅っこの方でつつましく生きていかなければならないのだ。
「やめろよぉ! 今そうやって何個も言葉並べて否定するのはやめろよぉ! 小さいか軽いか弱いか一個だけでいいだろ……!?」
膝から崩れ落ちた先輩を見下ろしていると、いよいよ他人の目が気になってきた。僕まで恥をかいている気がするので砂浜で四つん這いになるのはやめてほしい。
「先輩、自業自得で打ちのめされた同性を慰める役目は僕には重すぎるので、もう帰りませんか」
「お前血も涙もないのな」
「確かに最後に泣いたのがいつのことなのか思い出せませんけど、とりあえずもう帰りましょうよ。これ以上ここで何をするんです?」
車を動かせるのが先輩だけなので、恐ろしいことに僕が家に帰るための手段はほぼ彼が握ってしまっている。当然、公共交通機関を使って帰れないこともないけど、余計な金と労力は使いたくない。
だから僕は帰ろう帰ろうと必死に説得しているわけだが、その甲斐あってか先輩は、ここへ来るまでに上げた分の倍は下がったであろうテンションで「わかった……」と言ってゆらゆらとよろめきながら立ち上がる。よかった、これでやっと帰れる。
「でも焼きそばだけは食べて帰ろう。あとかき氷」
いやなんでだよ。
「お腹減ったんですか?」
「いや、せっかくだから」
「期間限定の四文字に踊らされる愚民感がすごいですよ先輩」
でもさすがにちょっと先輩がかわいそうなので、別にそれくらい付き合うのも悪くないかなとも思う。仕方がないので先輩の挙げたメニュー二つだけを食べてから帰ることにする。
さっさと買ってさっさと食べてすぐに帰るつもりだった。しかし焼きそばを売っている店にはちょっとした行列が出来ていて、時間にして言えばせいぜい五分程度だけれど並ばされた。
たった五分でもこの炎天下の中で立つとなると、なぜ焼きそばを食べるためだけに僕はこんなことをしているのだろう……と心が虚無になってしまう。隣で一緒に並ぶ先輩と雑談する気力さえ、僕の中からは流れ出ていってしまったようだった。
ともかく焼きそばはゲットした。かき氷はこの気温だときっとマッハで溶けるので、まずは焼きそばを食べ終わってから買いに行くことに決めた。
適当な日陰に座って焼きそばをむさぼりながら、先輩が口の中の物を飲み込む前に喋りだす。
「なぁ正宗、「外で食うと美味い」みたいなことを言う奴がよくいるよな」
「いますね」
「……わっかんねーわ。実際に外で食ってんのに」
僕らはアウトドアに向いていないのだ。もういい加減あきらめて、明日からはいつも通り家でお互いを画面外に吹っ飛ばす対戦ゲームに勤しんだ方がいい。
「でもさ、俺、焼きそば買うまでの間にわかったことがあるんだ」
「なんですか」
「よく考えたら、いくらおっぱいでかくても髪染めてる奴はダメだな。ああいうのは総じてロクな人間じゃないわ」
通報されてしまえばよかったのに、と思う。私怨で主語を大きくして偏見マックスなディスりを展開するのはさすがにクソすぎる。
「フォロワー2桁でも炎上しそうなこと言わないでください」
普通に人としてやめとけって意味もあるけど、そういう八つ当たりや当てつけをしているうちは一生モテないと思う。
「いや、髪染めてるやつが全員ダメとは言わないけど、ダメなやつは全員髪染めてるよ」
「まず「ダメ」って何なんですか」
「……なんかこう、わかるだろ?」
わかるわけがない。都合が悪くなったら後輩をエスパー扱いするのやめてほしい。
ただ、僕はそれを「良い」とか「ダメ」とかと表現する気はないけれど、髪を染めている人が苦手だという部分だけなら同意はできる。そういう部類の人は要するに僕らのような人間とは、生まれ持っているメンタルパワーみたいな物の差が大きすぎるのだ。
「わかりませんよ」
「そうか? まぁいいや。じゃあそういうわけで、次はお前が行ってこいよ」
「行ってこいとは? かき氷ですか」
「ナンパだよ」
バカなんですか、という言葉が喉まで出かかった。この人はさっきメンタルやられてきた身でよく言うものだ、本当に。
「嫌ですよ。じゃあってなんですか、そういうわけってどういうわけですか。接続語の使い方が明らかに」
「わかったわかった! だからその羅列する感じのやめろって」
傍から見ていた分には、先輩は金髪お姉さん二人組から見事にトラウマを植え付けられたように見えた。そんな光景を見たのだから、僕は二の舞になりたくないと考えるのが普通だろう。ここで「よっしゃ行ってくるぜ!」となるのは、一時間くらい前の先輩と同じ脳みそを持った人だけだ。
焼きそばを食べ終わったので容器を捨てに行く。ついでにかき氷を買って来ると告げると先輩が「恩に着る!」なんて言うものだから、あとでお金もらいますからねと念を押しておく。
シロップを何味にするか聞き忘れたな……なんて考えながらゴミ捨てを終えて、さて次はかき氷かき氷と浜辺を歩いていく。かき氷屋は遠目から見る分だと、焼きそばの時よりも客の列が短そうで助かった。
……と、特に何も考えることなくお使いを遂行しようとしていた時。気のせいだろうか、かすかに泣き声が聞こえたような気がした。子どもの泣き声だ。
なんとなく周囲を見渡してみると、肌を焼くような日差しから逃げることもせずに、砂浜の真っただ中で泣いているまだ小さな女の子を発見した。傍に親がいないようだったので、おそらくは迷子だろう。
ここでうっかり僕が「どうしたんだいお嬢ちゃん」と声をかければ、どこかでその様子を見ていた人が幼女に声をかける事案が……と通報、ガタイのいいお兄さんが複数名で俺を捕獲しに来るだろう。醜い男を罰するのに罪の立証はいらない、ただ怪しいだけでいいのだ。
なので俺は少女を放置してかき氷の列に並ぶ。一度認識してしまうと、泣き声というどちらかといえば非日常的な音は、耳鳴りのように延々と聞こえ続けて不愉快ではあった。
そしてその声は、僕が二つのかき氷を無事購入し終えた時にもまだ続いていた。
おいおいマジかよ、終わってるな日本。さすがにそう思ってしまう。明らかに困っている幼い少女が人目につく場所で泣いていても、夏休みの海にはこれだけの人がいるっていうのに誰も声をかけないのか。そりゃあ僕だってそうだったけど、それは僕が醜い根暗陰キャオタクそのままって見た目をしているからだ。
女性が声をかければ何も問題はないじゃないか。イケメンが声をかけれるでもいい。というかそもそも、迷子を見つけて迷子センターに連れていく係りの人が見回りくらいしているものなんじゃないのか。誰かがあの女の子に話しかけてあげて然るべきなんじゃないのか。
あの少女は将来、今日の日のことを思い出して「他人なんてロクなものじゃない」という教訓を得るだろう。こうして日本はダメになっていくのだ。
「…………」
少しその女の子の方を見すぎた。向こうも僕の存在に気付いたのか、いつの間にかじーっとこちらを見つめてきている。向こうも僕という存在を認識して呆然としているようで、助けを求めるような目をしていたわけじゃないけれど、それでもなんとなく気まずい。
それと、僕が言うのも失礼だろうけど、女の子の顔は涙に濡れて目元は腫れて、なんというか、それなりにひどいものだった。
……仮に、仮にだ。本物の不審者があの子に声をかけたらどうなる。僕はあの子の顔を今見てしまったんだぞ。万が一にでも後日同じ顔を「行方不明者」として見ることになったら、僕はそれでも「自分の身を守ったのだ」と胸を張れるのだろうか。そんな未来はあり得ないと言い切れる根拠は、どこにもない。
あぁもう、わかったよ、仕方がない。心の中でさも鬱陶し気に、自分で自分に向かってそう言ってみる。鼓舞、もしくは自己暗示だ。できる、僕にならできる。そして何も問題は起こらない。
異国の地で通行人に道を訊くような、決死の気持ちで僕は言った。
「お嬢ちゃん、どうしたの?」
僕には自分が正しいと信じた「道」を進む「覚悟」がある! と、背後にドドドドとかゴゴゴゴとかいう擬音と共に精神エネルギーの具現化的な何かが現れそうな決意をもって、僕は少女の背に合わせて屈んで声をかけた。
かき氷を両手に声をかけてみて、それから後悔した。少女が明らかに怯えていたからだ。僕は先輩へ向けて語った怖い話を思い出した。そうだ、あの話だって別に、男が本当に良心から女性を家に招き入れていたとしても、オチは変わらないじゃないか。
「……おにーさん、だれ?」
「誰と言われても、えっと、飯田正宗です」
「成宮かすみ、6歳」
「あ、えっと、飯田正宗20歳です」
思わず年齢つきの自己紹介をしてしまったけれど、これ改めて考えるとやっぱり僕不審者だわ。20歳だよ? やばいやばい、やばすぎます。
「えーっと、あの、それでね。なんか泣いてたから、もしかしてお母さんとかとはぐれちゃったのかなーと思って僕は、声をかけたわけ……ですけど」
僕が不審者っぽさメーターを順調に上昇させていく中、少女の意識はどこか別のところへ旅立ってしまっているらしく、僕の話なんか一文節たりとも頭に入っていなさそうだった。
いったいこの少女は何を考えているんだ……と彼女の視線を追ってみれば、その視線は僕が持っているかき氷に向けられていた。
「……あの、よければあげるけど、食べる?」
「いいの……?」
おそるおそる手を伸ばす少女にかき氷を渡す。ブルーハワイ味。
まぁ、考えてみればそりゃそうだ。こんな炎天下の中ひたすら泣いていれば、冷たい物が食べたくもなる。別に高い物じゃないしこれくらい欲しければいくらでもくれてやるさ。
……いやちょっと待て、なんか僕の不審者感がさらに増してはいないだろうか? お菓子で釣る誘拐犯みたいな。違うんです違うんです、ライフセーバーの方々が海上ばかり見ていて、陸で涙の海に溺れる女の子に気づいていなかったようなので僕は……ああごめんなさい! 調子乗って上手いこと言おうとしてごめんなさい! お願いだから通報しないで!
「おにーさんありがとう!」
氷を一口食べて、少女はにっこり笑った。太陽よりまぶしい満面の笑みだったと思う。……ん、いや、単純に太陽光が強すぎて、物理的に笑顔がまぶしくなってる気もする。
「どういたしまして。……で、なんで泣いてたの?」
「あ、ママがいなくなっちゃって……」
一秒前までの笑顔との落差が半端ではない絶望を表現しきった顔をされたので、なんだか僕が落ち込ませたみたいな気がして心が痛む。おかしい、僕は今言うなれば、正義に属する行動を取っている真っ最中のはずなのに。
「はぐれちゃったんだ?」
「うん……」
「じゃあ、お兄さんと一緒に迷子センターに行く? そうすればたぶん係りのお兄さんかお姉さんが、かすみちゃんのママを探してくれると思うけど」
かすみちゃん、と声にしただけで、重罪を犯している気分だった。女の子の名前を呼ぶことの何が悪いのだと言えば正論なのだけれども、何か本能的に罪を感じてしまう。
「まいごセンターは……」
母親を探しているはずの途方にくれた少女は、なぜだかいまいち乗り気でなさそうだった。
「行きたくない?」
静かにうなずく。理由を聞いてみると、
「……恥ずかしいから」
だそうだ。まぁ確かに捉えようによっては「こいつ不注意の末に親と離れちゃった間抜けですよー」と大きな声で言いふらされるわけだから、恥ずかしいというのもわからないことはない。言ってる場合かとも思うけれど。
しかし迷子センターについては母親の視点で考えても同じく「子どもから目を離した間抜けなお母さん至急こちらへ来てくださーい」と呼ばれているようなものなのだから、恥ずかしさは二人分だ。言ってる場合ではないことは百も承知だけれど、出来れば自力で母親を見つけられればそれに越したことはない。
何より、行きたくないと言っている幼女をなだめて連れていくことは、僕には逆立ちしても出来なさそうなことだった。
「そっか。よし、じゃあお兄さんと一緒に、かすみちゃんのお母さん探してみる?」
自分のことをお兄さんと呼んでみると、なんだか死ぬほど恥ずかしくなってきた。これでは道化だよというセリフはこういう時に使うのだろうか。
それと、少し前に先輩に言ったことがブーメランとなって戻って来た気がする。何が「じゃあ」なのかは、僕自身よくわかっていない。こうするしかなくね? くらいの意識だ。
けれども結果的にそれがよかったらしい。
「いいの……!?」
彼女としてはかき氷よりもそっちの方が喜ばしいことらしかった。これは悪い人に狙われれば即攫われてしまいそうで危なっかしい。
それはともかく、するべきことが決まったのならまずは先輩を呼びに行こう。いつ見つかるかわからない母親の捜索をする間、彼を放ったらかしにするわけにもいかない。
「もちろん。でも、その前に一回お兄さんの友達を呼んできていい? ずっとほったらかしてたら友達がかわいそうだし、探す人数は多い方が見つかりやすいしね」
「わかった!」
先輩がいる日陰はそれほど遠い場所ではないが、ここで少女を放置しては元も子もない気がするので、僕についてこいと態度で示してみる。そういうのが6歳児に通じるのかはわからないけど、ダメなら口で言えばいいや。
と、するとなんとも予想していなかった展開が待っていた。彼女が僕の手を握ったのだ。
「あっ、ちょ」
「……?」
「いや、なんでもない」
誰にも聞こえていないことを切に祈る。我ながら今まで聞いた中で、ぶっちぎりで一番キモい「あっ、ちょ」だった。
もう僕は不審者っぽく見える人ではなく、立派な不審者なのではないだろうか。自分に自信が持てなくなってきた。僕も彼女も片手にかき氷、空いた片手で手をつないでいる。
そして少女と歩き始めてから数秒で、僕は自分の正気を疑うことになる。なにせその子の手は信じられないほど小さくて、柔らかくて、ふとした拍子に壊れてしまいそうな危うさがあるのだ。僕は自分がおかしくなってしまったのかと本気で思った。
女の子と初めて手をつないだ。この状況でそんなことを考えているやつを、不審者と呼ばなければなんと呼ぶのだろう。そいつは本当に正気なのだろうか。
頭の中がぐちゃぐちゃになったまま、先輩のもとにたどり着いた。
「おー正宗お使いご苦労……って、えぇ!?」
幼女の手を引いて登場した僕に、案の定先輩はひっくり返りそうなくらい驚いた。それが当然の反応だろう。
「え、お前、嘘だろ。そんな……身内から犯罪者が出るなんて……」
「人聞きの悪いこと言わないでください。迷子です」
かくかくしかじかと大体のことを説明すると、さすがに先輩も理解してくれた。理解しつつも僕の行動力と恐れの知らなさ加減に引いてはいたが、それはこの際どうでもいい。
「なるほど、じゃあ俺と正宗でかすみちゃんのママを探せばいいんだな」
「そういうこと」
先輩が「ママ」と言うと気持ち悪さが半端ないけど、たぶん6歳の女の子ならそんなことを感じる感性もないだろう。
かすみちゃんがかき氷を食べ終えるまで、もしくは先輩がかき氷を食べ終えるまでだったろうか。とにかく人探しをするのには邪魔になってしまう食べ物を片付け次第という段取りに決定して、食べている間先輩はかすみちゃんに話しかけ始めた。
さっき気持ち悪いと思ってしまったついでにもう一つ言わせてもらうと、あれだけ心の汚れていた先輩が普通に目線を6歳児に合わせて話しかけている姿は、なんだか不気味とさえ言えそうな絵面になっていた。
「かすみちゃんのママってどんな人? 目立つ特徴とかないかな……?」
「とくちょう?」
「うん。例えば何色の服を着てるーとか、どんな髪型してるーとか」
さっきパツキンのチャンネーにコテンパンにされた探偵さんが順調に情報収集を進めていく。
が、しかし。
「うーんとね、ママはおっぱいが大きいよ!」
先輩の目が見開いたのを、僕は確かに見た。
「……ほかには何かある?」
「うーん、水着は青……か紫? みたいなので、髪型はなんてゆーのかわかんない。でも髪は長いよ。背の高さは普通くらいだと思う」
「なるほどなるほど」
片手をメモ、もう片手をペンに見立ててサラサラと目に見えない文字を書き込んでいく先輩。そんなおちゃらけた大人の姿が面白かったのか少女は少し笑った。一方僕はそんな先輩の姿を見て苦笑いした。
そうして、やがてかき氷を食べ終えた二人は、シロップの色に染まった舌でハイテンションに、そして声高らかに宣言するのだった。
「よし、じゃあかすみちゃんのママを探す旅に出発だ! えいえいおー!」
「おー!」
えいえいおーとか言い出す先輩(成人済み男性)。そのノリに乗っかる幼女。二人が赤の他人だと知っているので、それがひどくカオスな絵面に見える。
いくぞー! と言わんばかりに先輩が前を指さしたので、かすみちゃんはきゃっきゃっと楽しそうに走っていった。
頃合いと見たのか、先輩が僕の耳元で囁いた。
「絶対見つけような」
巨乳への欲望にまみれた声だった。
迷子の少女の母親探しと言っても、大声で「かすみちゃんのおかーさーん!」と叫ぶことは控えたい。そんなことをすれば周囲の人間は「迷子センターに連れて行けよ」と思うだろうし、母親の方は母親の方で「まだ迷子センターに呼ばれた方がマシだった」と思うだろうから。
というわけで僕たちに出来ることは特別目立つことはせずに、視界に入るそれらしき女性を見逃さないように注意して、ひたすらに浜辺を歩くことくらいだ。
ちなみに、まさかこんなことを思う日が来るとは思わなかったし非常に不本意だけれども、この状況で一番頼りになるのは先輩の巨乳女子発見センサーだ。かすみちゃんが真っ先に言うほどの巨乳情報が正しいのであれば、今日の先輩はきっとそれを見逃さないだろう。
そんなセンサーに頼らなければならない自分が情けない。迷子センターに連れて行った方がやはり良いのではないか。
そう思い始めた僕は、探すだけ探して「見つからないから仕方ないし迷子センター行こう?」と提案するのが落としどころかなと考えていた。ウォーリーを探せは昔から苦手なのだ。知らない顔の人を見つけられる気がしない。
それから何分くらいだろう。きっとそれほど長くはなかったであろう時間だけれども、これっぽっちも光明が見えないまま砂浜をさまよったその時は、とてつもなく長く感じられた。
額から出た汗が輪郭をつたって砂の上に落ちたことを感覚で理解した僕は、そろそろ潮時かなと考え始める。
「なかなか見つからないな」
しかし先輩はまだやる気のようだった。子どもだって体力が無限にあるわけではないだろうし、さっさと涼しい迷子センターに預けた方が良い気もしてくるが……。
右を見て左を見て、また右を見て。ほぼ常に首を回しながら、先輩が自慢のセンサーを展開している。僕は正面の索敵もとい索母担当なのでずっと前を見て、あとはかすみちゃんとはぐれないよう手をつないでいる。
これで僕らが浜辺のど真ん中を歩いていなければ、周囲を警戒しながら少女を連れ去ろうとする凶悪犯二人組になってしまうわけで、母親を見つけた時のことがまた心配だった。今さら言っても仕方ないけど、僕らが誘拐したことにされたらどうしよう。
いや、それよりも、浜辺のど真ん中だからセーフって考え方は本当に正しいのだろうか。僕らはもしかして今善意のもとに、無自覚のうちに完全な不審者になってしまっているのでは……?
「かすみちゃん、ママとはぐれちゃったのってどの辺りだった?」
「この辺りだった」
「そっかぁ」
手がかりなんてあってないようなものだ。結局この夏休み御礼大盛況の海水浴場で、狙った人物一人を見つけるのは至難の技なことに変わりはない。僕と先輩だって一度はぐれれば、ケータイでも使わない限り合流することは…………、
「ああ!」
突然大声を出した僕にかすみちゃんはもちろん、先輩も驚く。握っていた小さな手にびくっと力がこもって、それに僕もどきりとした。
「なんだよ急に、びっくりするわ」
「いや、すみません」
「で、なに? 見つけたのか?」
「いや」
母親らしき人物が偶然視界に映って大声を上げたわけではない。むしろもっと逆のニュアンス、失態に気づいた叫びだった。
まさかとは思うけれど、確認を取っていないことも確かだ。一応聞いてみる。
「かすみちゃん、ママのケータイ番号とかって憶えてない?」
「憶えてるよ」
よし来た! 心の中でガッツポーズした。番号知ってるなら聞かれる前から教えてくれよと思わないこともないけれど、本人も迷子になったという状況に動揺していたのかもしれない。子どもの心なんてそんな物だろうと思っておく。
だとすればそこを上手くフォローした僕は我ながらなかなかのファインプレーということになる。どうだ見たか、僕の脳みそは、先輩の邪なセンサーよりずっと役に立つのだ。
「教えてくれる?」
「ゼロキューゼロ」
「ちょ、ちょっと待って」
自分のスマホを取り出してから、一文字一文字ゆっくりと教えてもらい入力していく。
ところで僕がスマホを持っていたのは、海に入るつもりがさらさらなかったからだ。先輩が言うので一応水着を取りに家へ行きはしたけれど、それでもここに到着した時点では全然水の中に入って遊ぶ気はなかった。水着は気が変わった時のための選択肢として持ってきたまでだ。一方水着姿の先輩は、おそらくスマホなどの小物は車の中にでも置いてきたのだろう。
そう考えると焼きそばとかき氷の代金も最初から一時的にとはいえ僕に払わせるつもりだったのか、と今さら少し腹が立つが、そんなことはどうでもいい。つまるところ問題は、娘と海水浴場へ来たかすみちゃんの母親が、今現在ケータイを持ち歩いている確証はないということだ。
その母親が機転の利く人で、万が一にでも娘が店の人などから電話を借りてかけてくる可能性のために、迷子が発覚し次第ケータイを持ち歩くようにしていてくれればいいのだが……。6歳児の娘を見失った親相手に、それは少し無理のある望みだろうか。
「頼む……」
それが神に祈りを捧げるためのポーズであるかのように、僕はスマホを耳に当てる。コール音が数回鳴り、それが五回を超えた頃だったろうか。
「……はい、もしもし」
出た! 女性の声だ、母親で間違いないだろう。
「あのすみません、迷子になっていた成宮かすみちゃんに教えてもらってお電話をかけさせていただいたのですが」
「ああ! 本当ですか……!? ありがとうございます……!」
母親の感極まった声を聞きながら、これはかすみちゃん本人に喋ってもらった方がよかったなと今さらながら思った。彼女が「もしもしママ?」と言った方がいろいろ無難だったと思われる。
「ええとそれで、かき氷が売っているお店がありますよね? そこで待っていてもらえたら」
「え、どちらのでしょう……?」
「……あー」
二軒あるのか。待ち合わせ場所にしようと思ったのだが、あの店にはかき氷の店であること以外に特徴がこれといってなかった。特徴のない方の店、と表現することが正しいのかは、もう一方の店を知らない僕にはわからない。
さてどうしたものかな、と考えていたのだけれど。
「あの、わかりました。お店の方で待っていていただければ、わたしの方から向かいますので」
「あー、ならすみません、それでお願いします。目立つところにいるようにしますね」
向こうが二軒ともめぐってくれるというのなら、有効な手も思いつかないしそれに甘えてしまおう。
「わかりました。あの、本当にありがとうございます。失礼します」
母親の方も気が急いているのか、嵐が去るような勢いでプツッと通話は終了した。
「かすみちゃん、お母さん来てくれるって」
「ほんと……!?」
ずっと不安そうだった彼女の喜ぶ姿を見ると、まぁ、悪い気はしない。我ながら良いことをしたなぁという偽善っぽい気持ちも湧いてくる。別に褒められたいからやったわけではないのだけれど。
待ち合わせ場所の店へ向かう時、達成感からなんとなく先輩の方に視線を送ってみる。決め手は僕が打ったとはいえ、迷子の女の子を助けるという一大ミッションは二人で取りかかったことだ。上手くいってよかったですね……的な余韻のアイコンタクトのつもりだった。
そうして僕が見た先には、かすみちゃんとは別の意味で「もう待ちきれない」という顔をしている先輩の姿があった。彼には、偽善という言葉でさえ生ぬるかったのかもしれない。
店の端の方、かき氷の旗がかかっている場所の近くで少しでも日陰になっている所に立って母親を待つ。すると五分もしないうちにそれらしき人がやってきた。どうやら運よく僕らの居た方へ先に来たらしい。
「あ、ママー!」
「かすみ……!」
感動の親子再会シーンだ。やっと見つけた母親に抱き着く娘、それをしっかりと抱きしめる母親。いやはや良い光景じゃないか。……そう、特にお母さんが美人で、情報通りに胸が大きかったことも、その「良い光景」を加速させていたのかもしれないけど。
かすみちゃんが何かペラペラと、今日あった楽しいことを必死に話す子どものように母親に喋りかけている。「ように」というか、実際そうなのだろう。母親はそれに相槌を打って、それから娘と手をつなぎ僕らに近づいてきた。
しかしその時初めて、あるいはようやく、僕もそれに気が付いたのだった。
「あの、この度は本当にありがとうございました。なんとお礼を言っていいか……」
ペコペコと頭を下げるその女性は、見れば見るほど美人で、なおかつ異様に若々しかった。とても6歳になる娘がいるとは思えない。
そして何より、さすが娘が真っ先に挙げた特徴であるだけのことはある。先週読んだ漫画雑誌の表紙に乗っていたグラビアアイドルを彷彿とさせるような、この目で見るのは初めてだと確信するほどのレベルで豊満な胸がそこにはあった。
「あ、いや、いえいえ」
適当な返事をしつつも、油断すると視線が胸の谷間に吸い込まれそうになる。まずい、忘れるな、善行を積んだあとだからって勘違いするな。ここでそんな視線を送っていたら結局ただの不審者だぞ僕……!
「いえ、本当にご迷惑をおかけしてしまって申し訳ないです……。それで、良ければ何かお礼をさせていただきたいのですが」
「えっっ」
風になびくかき氷印の旗の前にて、「お礼」という単語に反応して咄嗟に変な声をあげてしまった。僕の頭の中に、今まで読んだいかがわしい漫画の内容がなだれ込んでくる。ちがう、やめろバカ余計なことを思い出すな、現実とフィクションを区別しろ……!
いえ、当然のことをしたまでです。そう言っておけばいいのだ、向こうも本気で恩返しに何かするつもりなんかないだろう。これは社交辞令なのだ。僕らは性格イケメンを装ってただ颯爽と立ち去ればいいのだ。
そう言い聞かせて自分を必死に抑えようとしていたところ、そういえば僕でもこの様なのに、先輩は大丈夫なのだろうかと不意に心配になった。そのまま隣を見てみると……。
「……っ!?」
やばい、先輩が胸の谷間をガン見している。今にも冗談じゃ済まない台詞を吐きそうな面をしている。もういっそ、お礼をしてもらえるだと……それなら……というくだりさえ挟まずに、この場で彼女に飛びかかりそうな目をしている。完全にやばい人だ。
まさか身内から犯罪者が出るなんて……ってセリフを冗談以外で使いたくない。絶対にだ。当然だろう。頭の中に鳴り響く警鐘に煩悩なんかすっかり消し飛ばされて、僕は先輩の脇腹を肘で小突いてみた。
ちょっと先輩正気に戻ってください。そんな意味をこめて突っついてみるけれど、まるで反応が見られない。目線が大きな胸に固定されていて、ちょっと体を揺らしたくらいじゃそれが全然揺らがない。もうそういう妖怪みたいだ。
ダメだ先輩、僕ら危ない橋を渡りつつも、ここまで上手くやってきたじゃないか。こんなところで血迷って警察沙汰になるなんて僕は嫌だよ。それにあんた、ただ女性をエロい目で見るだけならまだしも、今はその人の娘の前だぞ……!? 頼むから正気に戻ってくれ……! 帰ってこい、数時間前の家でゲームをしていた時の先輩……!
しかし、そんな願いもむなしく。闇より這い出でるような声が先輩の喉から出てしまう。
「あ、あの。……お礼、してくれるんですか?」
「はい、もちろん」
ぼくは思わず叫んだ。
「先輩っ!」
僕は、僕は先輩が子どもの目の前で、しかもその母親に対して犯罪行為に走る姿なんて見たくない……! あと巻き込まれたくない!
しかし、僕の声が届いてくれたのだろうか。それともかすみちゃんの視線に気づいたのだろうか。先輩は何かをこらえるようにグッと目をつむり、そのまま数秒動かなくなった。
やがて、彼はゆっくりと目を開く。そして爽やかな笑顔を、僕らの顔面偏差値レベルで成せる爽やかさの限界を追及したような、素敵な笑顔を顔面に貼り付けて言った。
「いえいえ、当然のことをしただけです、お礼なんかとんでもない。 なぁ、正宗?」
「え、あっ、はい……! そうですよ先輩、当然のことをしただけですもんね!」
「それじゃあ俺らはこれで失礼します。これからはお子さんから目を離さないよう気を付けてくださいね」
二人に背を向け、別れの挨拶として右手を勢いよく上げ、そしてそれをひらひらと揺らしながら先輩が去っていく。僕もあわてて彼の背中を追いかけた。
「あ、あの、本当にありがとうございました!」
「ありがとー!」
感謝の言葉を受けながら、見返りを何も求めずにその場を去るのは、それはそれで中々に気持ちがよい。もしかしたら今後一生味わうことのないかもしれない体験だ。でも僕は、突如として全力疾走し始めた先輩を追いかけるために、余韻に浸る間もなく砂の上を突っ走った。
走りに走ってついには駐車場にまで帰って来ると、先輩は当然のように車に乗ってエンジンをかけ始めた。
「帰るんですか」
「ああ」
突然降って現れた一つの役目を終えたことだし、今から帰ることに異存はない。けれど先輩の様子が何かおかしかった。
「どうかしました? なんか息荒いですけど」
「……正宗、俺あぶなかったよ」
自供するかのように、運転席に座った先輩がうなだれたまま言う。
「なんか、なんか俺とんでもないことを考えていた気がする」
「えぇ、見てましたよ。目が完全にイッちゃってました」
「まじか……。やばかった……?」
「……まぁ、ギリギリセーフだったんじゃないですか? たぶん」
最終的に踏みとどまってくれたし、幸い向こうも特におかしいとは感じなかったようだし、ギリギリセーフということにしておきたい。
エンジンをかけたばかりでクーラーの効き切らない車内は、日差しを遮っているのに外よりも暑い。ずっとこのままでいれば気の狂いそうな暑さの中、先輩は今日一番の冷静さを見せている。
「俺達にはまだ早かったんだ。女も、海も」
「そうですね、百年くらい早いです。……だから初めからそう言ったじゃないですか」
僕らにモテようなんて企みは早すぎた。でもその一方で、最後の最後で身の程に合ったご褒美をもらえたとも思う。あんな美女と話す機会なんて普通はないし、ましてやお礼を言われてヒーロー気取りなんか夢のまた夢だ。
それに、ちょっと安心した。
何に安心したって、僕はあの母親に対して少なからず、先輩と同じような「そういうこと」を考えてしまったのだから、それによってつまり自分がロリコンでないことを確信できたのだ。一時はマジで自分が異常なのかと思ったけれど、そうではないと再確認できて、もはや思い残すことはない。
これからの人生はまた隅っこの方で、健全かつそれ相応の欲望を抱いて、それをおくびにも出さずに生きていこう。終わってしまえば楽しかった。だけどもう懲り懲りだ。
水着のままだった先輩はさっさと普通の服を着て、アクセルが踏み次第車は発進する。帰りの高速道路は空いていた。カーナビにはバラエティ番組が映され、その中では海をテーマにした企画の取材が行われていた。進行役の芸人が面白おかしく一般人とからんで、その度にスタジオで見ている人たちがワイプの中で笑い声を上げる。
「そういえばお前が行きに話してた怖い話の、ああいうのなんて言うんだっけ? 女の人とエロいことしようとしたら怖いお兄さんが出てくる、あの……煤渡りみたいな名前の」
「そんなジブリみたいな名前してませんよ。
「あーそれだ」
また普段通りのバカバカしい、そして平和な会話を交わしながら僕らは帰る。元通りの、高望みしない日常へ。
明日からも夏休みは続く。容赦なく肌を焼く陽射しに、うだるような熱気は相変わらずのままで、セミも鳴き続けるだろう。今年の夏はまだまだ終わらない。
けれど今日という日の短い間で、確かに僕ら二人の夏は終わったのだった。暑く、スリリングで、身の程を知った夏だった。