第百四十五話 剣の届かぬ先にある鞘の中の刃
『おい、アメリア』
頭蓋の内側へ、聞き慣れた低い声が直接響いた。
アメリアは窓の外へ向けていた視線を、瞳だけでわずかに動かす。
『奴ら、俺の足元に温めた敷板を並べ始めたぞ』
「……敷板?」
『厚い木だ。下から妙な熱が上がってくる。しかも、右後脚の下だけ少し高くしてある』
そこで一拍。老竜特有の重い鼻息が、思考の奥でざらりと鳴った。
『それから、血抜きの終わった上等な肉塊まで台車で運び込んできた』
老竜ゼフィロスの声には、明らかな困惑が混じっていた。
アメリアは思わず口元を緩める。
「随分と手厚い歓迎を受けているようね」
『笑うな』
「笑っていないわ」
『声が笑っている』
車窓の向こうでは、トレンス本邸へ続くまっすぐな並木道が、均一な速度で後方へ滑り去っていく。
アメリアは膝の上で手袋の指を静かに組み直した。
「馬小屋へ押し込まれなかっただけ、ありがたく思いなさい」
『あんなものに入れられるなら、壁ごと吹き飛ばしていた』
「でしょうね」
『だが、それが気に食わんのだ』
「何が?」
ゼフィロスはすぐには答えなかった。
代わりに、遠く離れた滑走路の駐機区画から、喉の奥を鳴らす振動が魔術的な経路を通じて微かに伝わってくる。
『……妙に手際が良い』
先ほどまでの苛立ちとは違う。
歴戦の老兵が、未知の敵陣を前にして思わず足を止めた時の声だった。
『俺の右脚が冬になると痛むことを、なぜ知っている』
アメリアの目がわずかに細くなる。
『着地してから、一度も庇って歩いてはおらんぞ』
「そうだったかしら」
『誤魔化すな。お前なら気づく。だが、あの黒髪の女も見ていた』
イブリン。
着陸直後、彼女の視線が、ゼフィロスの翼の付け根、爪の摩耗、首の関節、そして接地した足首へ滑っていたことを思い出す。
畏怖や驚嘆の気配など微塵もなかった。
ただ、消耗した機材の損耗度合いを検分する実務者の目だった。
「観察されたのでしょうね」
『観察だけで、ここまで分かるものか』
「貴方、自分で思っているより年寄りらしい歩き方をしているのではなくて?」
『アメリア』
「冗談よ」
ゼフィロスが盛大に鼻を鳴らす。
『それに、湯だ』
「湯?」
『俺が水を飲もうとしたら、冷水の桶を下げて、ぬるいものを持ってきた』
「いい判断じゃない」
『俺は家畜ではない』
「大人しく整備を受けなさい、ゼフィロス。貴方も長旅で疲れているでしょう」
『……俺は荷車でもない』
「知っているわ」
返事はない。
数秒後。
ずず、と。
明らかに巨大な鼻先を温水へ沈め、勢いよく吸い上げる音が、頭蓋の奥から伝わってきた。
アメリアは薄く目を閉じる。
「飲んでいるじゃない」
『黙れ』
「温かい?」
『……悪くはない』
「肉は?」
少し間があった。
『まだ食っておらん』
「そう」
『匂いを確認しているだけだ』
「そういうことにしておきましょう」
『本当に昔から腹の立つ女だな、お前は』
「貴方にだけは言われたくないわ」
その時。
車体が滑らかに減速を始めた。
アメリアは正面の装甲ガラスへ視線を向ける。
本邸の全容が、木立の切れ間から姿を現していた。
遠目には、十数年前に訪れた記憶の輪郭と大きくは変わらない。
北方の厳しい吹雪を受け流す急勾配の黒い屋根。
分厚い石積みの外壁。
装飾の彫刻を削ぎ落とし、耐候性と採光だけを求めた堅牢な窓の配置。
王都の宮殿にあるような、権勢を誇示するための豪奢な飾りはどこにもない。
だが。
車体が近づくにつれ、その肌理の違いが歴然と見えてくる。
風雪に削られていたはずの石材の継ぎ目は、隙間なく平滑なモルタルで埋め直されている。
嵌め込まれた窓硝子は歪みひとつなく、外の寒気を完全に遮断しているのが遠目にも分かる。
路肩の側溝には、正確な間隔で黒塗りの鋳鉄格子が落とし込まれ、落ち葉や雪解け水を逃がす勾配が完璧に保たれていた。
古い威容を残したまま。
構造の関節だけが、完全に別の時代の手法へ置き換わっている。
『エスカレード』が車寄せの石畳へ滑り込んだ。
停止。
車軸の反動による揺れすらなく、鋼鉄の巨体がぴたりと沈み込む。
厚い気密パッキンが外れる微かな排気音と共に重厚な扉が開き、研ぎ澄まされた北方の冬気が、車内の暖まった空気と入れ替わるように流れ込んできた。
「到着いたしました」
侍女の落ち着いた声に促され、アメリアは腰を浮かせた。
イブリンが先に車外へ降り立ち、鋭い視線を左右へ走らせて安全を確認する。
続いてアメリアが、黒革の長靴を敷石の上へ下ろした。
右膝へ体重が乗る。
骨の軋み。古傷特有の鈍い痛みが走るが、眉根ひとつ動かさずにそれを噛み殺す。
顔を上げる。
そこで、アメリアは自然と足を止めた。
本邸の重厚なオーク材の玄関扉。
その両脇に、二人の男が直立していた。
トレンス海兵隊の儀仗兵。
最初に胸をかすめた言葉は、美しい、だった。
だが、すぐにその認識を改める。
美しいのではない。
極限まで整っているのだ。
皺一つなくプレスされた濃紺の礼装。
頭上には白い制帽。高く詰められた襟元から胸にかけて、磨き抜かれた金色のボタンが規則正しく並んでいる。
濃紺の布地を縁取る細い赤が、襟から前合わせ、袖口へと鋭い線を引く。
腰前で静かに重ねられた純白の手袋には、微小な毛羽立ちすらない。その下から白い帯革が細く覗き、中央の金色のバックルだけが、冬の淡い光を受けて硬質に光っていた。
胸元には階級章と徽章、寸分違わず並べられた略綬。
どれ一つとして華美ではない。
それでも、その配置そのものが異様なまでに整っている。
白と濃紺の境界はあまりにも鮮明で、二人の姿だけが、石造りの玄関から鋭く切り抜かれたように際立っていた。
王宮の近衛儀仗兵が身にまとうような、見せびらかすための金糸刺繍も、豪奢な飾緒も、誇張された肩章もない。
それなのに、嫌でも視線が吸い寄せられる。
理由は明白だった。
装飾ではなく、中身だ。
なるほど、とアメリアは胸中で低く息を呑んだ。
良い兵だ。
いや、良い、などという生ぬるい言葉では到底足りない。
骨盤の上に上半身が真っ直ぐ乗っている。
重心が低く、足裏全体で石畳を捉えている。
肩甲骨が自然に落ち、首筋にも腕にも余計な力みが一切ない。
目線は正面の一点に固定されているが、瞳の奥は決して死んでいない。
周囲の気配と光の動きを、余すところなく拾い上げている視線だ。
あの構えからなら、前後左右、どちらへでも瞬時に一歩目が出る。
それでいて、出さない。
出せる脚を止め、掴める手を規定の位置に重ね、視線すら任務の境界線の外へ向けようとしない。
(……ほう)
かつて戦場を駆けていた頃に覚えた、冷たい歓喜を伴う感嘆が、胸の奥で低く鳴った。
アメリアが石段へ足をかける。
その半歩後ろを歩くメルヴィルの靴音が石を打つ。
一段。二段。
距離が縮まる。
兵の睫毛の微細な震えすら見える間合いへ踏み込んだ、その瞬間。
カッ。
石を鋭く叩く革底の破裂音が、左右から完全に重なって一つに響いた。
二つの歩哨が、同時に起動する。
目配せも、合図の呼吸すらない。
左右対称の軌道を描いて伸びた白手袋が、観音開きの真鍮ハンドルを寸分の狂いもなく同時に捉えた。
速い。
だが、そこには一切の慌ただしさがない。
重心の位置が少しもぶれない。
踵、膝、腰、体幹、肩――すべてが強靭な一本の鋼の軸で繋がれたまま、最小限の軌道で身体が滑り出す。
蝶番の油が完璧に行き届いているのか、左右のオーク材が風を切るかすかな音だけを残し、抵抗なく外へと均等に引き開かれる。
扉が規定の角度に達した刹那、反動すら殺して完全に制動がかかる。
白手袋がハンドルを離れた。
一歩。
カッ。
二人の身体が、開け放たれた扉の脇に寸分違わぬ位置で収まる。
――そして、次の瞬間だった。
左右の兵の右手が、まったく同じ鋭利な初動で跳ね上がった。
開扉の動作が鏡合わせであったのに対し、挙手礼は揃って「右」だった。
伸ばされた四指が、寸分の狂いもなく白い制帽の右鍔へ吸い付く。
刃物のように研ぎ澄まされた敬礼のまま、二つの視線は水平の虚空を射抜いて微動だにしない。
奇妙だった。
扉を開くまでは、二人は鏡に映した像だった。
だが、礼だけは違う。
左右の別なく、二人とも同じ右手を上げる。
対称性よりも、規則が優先されている。
兵たちの視線は、自分を追っていなかった。
妙な感覚だった。
間違いなく、自分へ向けられた礼だ。
なのに、そこにはアメリアという個人へ向けた感情が一片もない。
伯爵夫人という資格。 招かれた賓客という立場。
ただ、それに対して定められた礼を、定められた形で返している。
媚びもない。 畏れもない。
そして、不思議なほど失礼でもなかった。
開け放たれた扉の脇で、彼らは再び、最初からそこに据え付けられていた石像へと戻っていた。
アメリアの目がすっと細くなる。
(速い)
それ以上に。
(無駄がない)
筋力に任せて力任せに扉を引き倒したのではない。
蝶番の回転軸と扉の重量を身体で理解し、重力と反動の無駄を極限まで削ぎ落とした動線だった。
実に良い兵だった。
アメリアはその横を通り過ぎようとして、ふと足が止まった。
高く詰められた襟布に押し込められた、硬い喉仏の輪郭。
白い帯革のバックルで容赦なく引き絞られた、無駄な肉のない腰のくびれ。
直立した姿勢のまま、厚手の濃紺ウールを内側から突っ張らせている太腿の前側の厚み。
評価だ。兵を検分する指揮官の目だ。
そう自分に言い訳するには、ほんのわずかに長く見つめすぎた。
視界の端で、二本の右腕が同時に落ちた。
次に振り返った時には、もう二人とも最初と寸分違わぬ姿勢へ戻っていた。
(……これは困ったわね)
制服は肌の露出を徹底的に拒んでいる。
首元まで詰まった襟に、手首を隙間なく覆う白手袋。
それなのに、布地の奥に押し込められた肉体の構造、無駄な脂肪を削ぎ落とした筋肉の連動だけは、どうしても隠しようがなかった。
見せるために飾られた身体ではない。
純粋に、任務を完遂するためだけに鍛え上げられた道具としての肉体だ。
そして何より厄介なのは、本人がその事実に毛ほども頓着していないことだった。
貴婦人に見られていることを意識して胸を張るでもなく、自己の武芸を誇る気配もない。
ただ、開閉機構の一部としてそこに佇んでいる。
その徹底した無関心が、ひどく質が悪い。
(これほどの兵を、扉を開けるためだけに立たせるのね)
そこでようやく、アメリアはトレンス家という怪物の異質さを、また別の角度から突きつけられた気がした。
これは威圧ではない。
他国や王都に見せつけるための虚勢ですらない。
彼らにとっては。
これが、ただの日常の規格なのだろう。
「……メルヴィル男爵」
「はい」
アメリアは歩哨の横顔から視線を外さないまま、低く尋ねた。
「これは、どういう趣味かしら」
イブリンの黒銀の耳が、ほんのわずかに反応して角度を変える。
「趣味ではありません」
「でしょうね」
「儀仗任務です」
あまりにも平坦な、事務報告のような答えだった。
アメリアは歩哨の胸元の徽章へもう一度視線をやる。
「今、私が彼の目の前で倒れても、動かないの?」
「状況によります」
「状況?」
「伯爵夫人に明確な生命の危機があると判断された場合は、救護要員が駆けつけます」
「この兵は?」
「門扉警戒を継続します」
アメリアの眉がわずかに跳ね上がった。
「ゼフィロスが暴れても?」
「担当部隊が対処します」
「この兵は?」
「門扉警戒を継続します」
一切の揺らぎがない。
アメリアは息を深く吸い、小さく吐き出した。
「……強い兵を置いたのではないのね」
「はい」
「動かない兵を選んだ」
「少し違います」
イブリンが感情を交えずに静かに訂正する。
「動ける者の中から、動かないことを選び続けられる者を選抜しています」
その簡潔な返答に、アメリアはもう一度、横に立つ彫像のような男を見た。
なるほど。だからだ。
完全に静止しているのに、気配の芯が死んでいない。
今すぐ踏み込める。今すぐ抜刀できる。今すぐ扉を叩き閉ざして盾になれる。
そのすべての選択肢を両手に握ったまま。
命じられていないから、しない。
ふと。
どこまで刺激すれば、この男は動くのだろう。
そんな不謹慎な思考が脳裏をかすめた。
肩へ指を置いたら。耳元で名前を呼んだら。視界の隅で小銭を落としたら。
それでも、この研ぎ澄まされた視線は正面を捉え続けるのだろうか。
もちろん、試すつもりはない。
そんな児戯じみた真似をすれば、試されるのは兵の規律ではなく、自分自身の品位だ。
(……趣味が悪いわね、私も)
アメリアは内心だけで冷ややかに自嘲した。
「交代は?」
「三十分ごとです」
「思ったより短いのね」
「長時間の静止は集中力を落としますので」
「なるほど」
「交代要員を常に後方で待機させています。姿勢保持、扉操作、周辺警戒、緊急時対応までが一つの手順です」
やはり、精神論ではない。
忠誠心や根性で無理やり立たせているのではない。
最大限の警戒と礼節の精度を、最大限に長く維持できる生理的限界を割り出して運用している。
その交代手順まで含めて、精緻な仕組みだった。
「……徹底しているわね」
「恐縮です」
「褒めているつもりよ」
「存じております」
アメリアは一瞬だけイブリンの横顔を見た。
「最近、その返しが癖になっていない?」
「特に意識はしておりません」
「でしょうね」
開かれた玄関扉の奥から、柔らかな暖気がふわりと押し寄せてきた。
乾燥した薪が爆ぜるかすかな破裂音。磨き上げられた蜜蝋ワックスの芳香。奥の部屋で淹れられている茶葉の、落ち着いた渋い香り。
外を支配していた軍事的な硬質さとは、まるで肌触りの違う空気がそこにあった。
アメリアは敷居を越える。
高い天井を持つエントランスホール。
足元に敷かれた厚手の赤絨毯。その先、壁一面を占める大きな石造りの暖炉を背にして、一人の男が立っていた。
キース・フォン・トレンス侯爵。
アメリアの足が、絨毯の上でほんのわずかに止まった。
(……そう)
大柄な男だった。
それは昔から何一つ変わっていない。
肩幅は広く、首は太い。
仕立ての良い礼装の上からでも、胸板の厚みと背中の広がりがありありと見て取れる。腰回りには、年齢を重ねた武人特有の重厚な落ち着きが加わっていた。
だが違う。
アメリアの目は、無意識のうちに男の重心と骨格の傾きを追っていた。
踵。膝。腰。肩。
どこにも淀みがない。
右肩が、ほんのわずかに下がっている。
昔、北方国境で巨大な斧角獣の突進を盾ごと受け止めた時についた癖だ。
左手の薬指は、今も完全には伸びきらないはずだ。
下位竜の鉤爪を大剣の腹で受け流した際、腱を深く傷めた。
それでも。
身体の芯は死んでいなかった。
いや。
蘇っている。
アメリアは、静かに目を細めた。
彼がまだ王立総合学園の若い学生だった頃。
アメリア自身は、まだ学園長でも正式な教員でもなかった。
ただ、竜騎士団の実戦経験者として、時折上級生向けの特別講義や模擬戦の場へ招かれることがあった。
その訓練場の泥の中に、いつも妙に真っ直ぐな青年がいた。
剣筋は荒削りで、融通が利かない。
小細工や駆け引きを覚えるよりも、真正面から全力で打ち破ることばかりを考えている。
だが……絶対に折れない。
何度足払いを食らい、地面へ叩き伏せられても立ち上がる。
背後に守るべき仲間や陣地がある限り、一歩も退かない。
やがて彼は北の領地へ戻り。
いつしか『辺境の雄』と呼ばれるようになった。
魔獣の群れへ単身で切り込み。
巨大な剣閃を飛ばし。竜種が吐き出した火炎を、真正面から両断する。
高潔にして不器用。
己自身が領民の盾となることを、一片の疑いもなく当然の義務とする男。
それが、キース・フォン・トレンスだった。
そして……あの日。
その剣は折れた。
肉体の骨ではなく、魂の芯の方が。
スタンピード。
どれほど剣を振るっても。どれほど魔獣の首を刎ねても……。
守りきれないものがあった。
自分一人が百頭を斬り伏せたところで、山を越えた別の場所では村が焼き払われる。
自分が谷で巨大な竜を落としている間に、背後の街道では避難民の荷車が食い荒らされる。
強ければ守れる。
そう信じ切っていた男にとって。
己が英雄としてどれほど強くなろうと、個人の剣技など大自然の暴力の前には圧倒的に足りないという事実は……あまりにも残酷な現実だった。
アメリアは、その後のキースを知っている。
剣は手放さなかった。
領主としての義務も、投げ出さずに果たし続けていた。
だが……もう、魂は前に進んでいなかった。
折れてしまった剣の切っ先を……折れてなどいないと自分に言い聞かせ、見ないふりをして。
ただ静かに、冷たい鞘の奥へ戻していただけだった。
だからこそ。
今、暖炉の橙色の火の粉を背に受けて立つ男を見て、アメリアは胸の奥で息を呑んだ。
(……戻ったのね)
完全に昔と同じ姿に戻ったわけではない。
むしろ。
昔の彼よりも遥かに静かで、深い佇まいだった。
血気を漂わせ、いつでも抜刀できることを全身の筋力で威嚇していた若い頃の面影はない。
肩の力は完全に抜け、呼吸は腹の底まで深く、両手は指先まで自然に垂れている。
それでも。歴戦のアメリアの目にははっきりと分かる。
必要とあれば、あの男は今この瞬間からでも。
わずか三歩で間合いを詰め。
腰の長剣を滑らかに引き抜き。人であろうと魔獣であろうと。
斬れる。
そして。
以前よりも無駄な力を使わず。以前よりも迷いなく、確実に息の根を止める。
キースが一歩、赤絨毯を踏みしめて前へ進み出た。
王都の宮廷で行われるような、過剰に腰を折り曲げる優雅な礼ではない。
だが。
極北の広大な領土を預かる大貴族として、何一つ不足のない落ち着いた一礼。
「西方ヴァルトシュタイン伯爵家の御血統にして、グロースハイム伯爵家御当主」
低く。
石造りのエントランスホールによく通る声だった。
「アメリア・ド・ヴァルトシュタイン・フォン・グロースハイム伯爵夫人。遠路、ようこそトレンス侯爵邸へ」
アメリアは、その寸分の狂いもない正式な格式の呼び名を聞きながら、肩の奥にあった強張りをゆっくりと解いた。
「丁寧な出迎えに感謝するわ、侯爵」
「長旅、お疲れでしょう」
「竜の背で飛んできた者に、それを言う?」
「ゼフィロス卿には、既に充分な休息を取っていただけるよう万全の手配をしております」
その瞬間。
頭蓋の内側の経路へ。
『肉は悪くない』
ぶっきらぼうな低い念話が響いた。
アメリアは危うく吹き出しそうになるのを、口元を引き締めて堪える。
「……ええ。本人も満足しているようよ」
キースの太い眉がわずかに上がった。
「それは何よりです」
アメリアは視線をホールの周囲へと巡らせた。
広大な空間に控えているのは、キース一人。
それから、壁際の影に静かに姿勢を正す老家令が一人だけ。
主の妻たちの姿は見当たらない。
「……ラ・トレンスがお二人とも見えないようだけれど」
「ダイアナは奥の給仕室で支度を整えております」
キースは穏やかな面持ちで答えた。
「客人を迎える準備は自分の目で確認すると言って聞きませんでな」
アメリアの眉が、ほんの少し動く。
あの大貴族家の令嬢であったダイアナが、給仕の準備を自分で?
だが、その疑問を口に出すより先に、キースが言葉を継いだ。
「クリスティアナはサロンに」
そこで、男の太い声の響きが、わずかに柔らかくほどけた。
「新たな医療体制のおかげで、随分と元気を取り戻しましたが、北方の冬風はまだ毒でしてね」
一拍。
「玄関の扉が開くたびに吹き込む寒気へ晒すなと、王都の息子から厳命されております」
アメリアは、今度こそ目元を緩めた。
「……あの子らしいわね」
「私もそう思います」
「大人しく従っているの?」
「医者と息子が声を揃えて同じことを言う場合は、逆らわない方が身のためだと学びました」
「随分と丸くなったこと」
「昔の私なら、風邪程度は鍛錬で汗を流して治せと怒鳴っていたでしょうな」
「言っていたわね」
「……深く反省しております」
即答だった。
アメリアは、ほんの短く声を漏らして笑った。
それから背後、開け放たれたままの玄関扉の左右に立つ、濃紺の儀仗兵へ一度だけ視線を送る。
相変わらず、二人とも呼吸の乱れすら見せず、完璧な静止を保っていた。
「外の歩哨には、少々気圧されたけれど」
キースの太い眉が、ごく僅かに八の字に下がった。
困ったような。
どこか申し訳なさそうな。
そんな……アメリアの記憶の底にある。
昔気質の、ひどく不器用な男の表情だった。
「息子が始めた新しい作法でして」
キースは小さく苦笑を零す。
「慣れない方には、少々堅苦しいかもしれません」
「少々?」
アメリアは背後を振り返った。
冷気を通さない厚い扉。
純白の手袋。
石像のように静止した兵士の横顔。
それから。
再び、暖炉の前のキースを見る。
「侯爵。あれを『少々』で済ませるあたり、貴方も随分とトレンスに染まったのではなくて?」
「染まった、というよりは」
キースは一度言葉を切り。
思案するように頑丈な顎を撫でた。
「……巻き込まれている、と言うべきでしょうな」
軽く肩をすくめてみせる。
「あの子の言う通りに、兵の配置を見直した」
「ええ」
「巡回経路の時刻と間隔を分単位で組み替えた」
「ええ」
「魔獣の出現記録をすべて帳簿にまとめさせ、繁殖の周期を割り出し、定期的に巣を間引くようにした」
キースの無骨な顔に。
少しだけ。
言葉にしがたい複雑な感情が浮かんだ。
「倉庫を整理し、街道を広げ、通信の警戒網を敷き、各部隊の担当区域と指揮権を明確に分けた」
「それで?」
「……私の出番がなくなりました」
アメリアは。
一瞬。
その言葉の意味を正確に測りかねた。
「出番?」
「剣です」
キースの右手が。
腰へ下げられた長剣の柄頭へ。
長年の習性のように、ごく自然に触れた。
古い拵えの長剣だった。
もちろん。
手入れは完璧に行き届いている。刀身を覆う鞘の革には上質な油が馴染んでいる。
だが。
歴戦の竜騎士であるアメリアの目なら、見逃すはずがなかった。
使い込まれた生々しさが、抜け落ちている。
昔のキースが佩いていた剣には、いつも無数の新しい傷が刻まれていた。
鍔に。鞘の金具に。柄巻の革に。
どれほど布で磨き上げようと決して消えない、魔獣の牙と骨を断ち切ってきた戦場の傷跡。
今の剣にはそれがない。
「最近、抜いたのは?」
「先月です」
「思ったより最近ね」
「兵の訓練です」
「実戦では?」
キースは、天井を仰ぎ、本気で記憶を手繰り寄せるように考え込んだ。
「……半年ほど前だったでしょうか」
「半年?」
「街道の補給路近くへ、大型の魔獣が出ましてな」
「それなら」
「現場へ馬を走らせ、到着した頃には、海兵隊がすでに処理を終えておりました」
アメリアは口を閉ざした。
「その前は?」
「一年前です」
「その時は?」
「私が駆けつける前に、猟兵隊が遠距離から仕留めて解体を始めておりました」
「……キース」
「はい」
「貴方、暇なの?」
キースの顔が。
ひどく苦虫を噛み潰したように渋くなった。
「それを息子の前でだけは言わないでいただきたい」
アメリアは、耐えきれずに、短く声を立てて笑った。
「辺境の雄が、随分と気楽な身分になったものね」
「昔の私なら、そう言われれば怒髪天を衝いていたでしょうな」
「今は?」
キースは、そこで言葉を止め、玄関の開口部の向こうへと視線を投げた。
遠く。
本邸の外に広がる、整然とした街の方角。
その先にある。
アスファルトの道路。白亜の病院。物資の集積倉庫。暖房の効いた兵舎。
そして、泥にまみれず、凍えずに冬を迎えようとしている人々の営み。
「……ありがたいことだと思っております」
その声は。
静かで、深く、暖炉の火よりも温かかった。
「私が剣を抜く時というのは」
一拍。
「誰かが、何かを止められなかった時です」
アメリアの口元から、笑みがすっと消えた。
「昔は」
キースは淡々と続ける。
「領主である自分が最も強くありさえすれば、この手ですべてを守れると信じ切っておりました」
腰の剣の柄に触れた指先が。
わずかに、愛おしむように動いた。
「私の剣の切っ先が届く範囲なら、確かに守れたのです」
「……ええ」
「だが」
キースは、それ以上を。
言葉にして説明しようとはしなかった。
必要などなかった。
アメリアもまた、あの時代の証人だったからだ。
あの日。
個人の剣の切っ先が、到底届かなかった広大な雪原の果てで。
何が起き、どれほどの命が失われたのか。
僅かな沈黙が降りる。
暖炉の奥で、乾いた薪がぱちりと澄んだ音を立てて爆ぜる。
「ルーカスに言われました」
キースが、自嘲するように、小さく口元を歪めた。
「父上がわざわざ剣を抜かなければならないほど、事態を悪化させるな、と」
アメリアの眉がすっと持ち上がる。
「……あの生意気な口調で、言いそうだわ」
「ひどく腹が立ちました」
「でしょうね」
「ですが」
キースは、今度こそ困り切った、だがどこか満ち足りた苦笑を浮かべた。
「あいつの言ったことが、すべて正しかった」
その声音には、父親としての悔しさがあり。武人としての無念があり。
そして同時に。
何ものにも代えがたい、息子への誇りがあった。
「強い者が最後に踏みとどまるのではなく」
「ええ」
「強い者が前に立たずに済むよう、先に倒れない仕組みを敷いておく」
アメリアは、目の前に立つ、背筋の伸びた巨躯を見上げた。
一度。
完膚なきまでに折れてしまった剣。
己の武の限界を思い知らされ、守れなかった無数の命の重みに打ちのめされ。
長い歳月の間、冷たい鞘の奥で、動かぬまま錆びついていた男。
その剣は今、もう一度。
砥石に当てられ、完璧に研ぎ直されている。
だが。
あまりにも皮肉なことに。
研ぎ直されたからこそ……もはや抜かれる必要がなくなってしまった。
それは、前線で刃を交える騎士としては……少しばかり寂しい結末かもしれない。
けれど。
民の命を預かる領主としては、おそらく。
これ以上なく正しい到達点だった。
「……戻ったのね」
気づけば、アメリアはひとりごとのように、そう零していた。
キースの視線が戻る。
「何がでしょう」
「独り言よ」
「そうですか」
「ええ」
アメリアは、ほんの少しだけ、口元の端を持ち上げてみせた。
「昔より、ずっと良い顔になったと思っただけよ」
キースは、しばらくの間、瞬きもせず、立ち尽くしていた。
それから。
遥か昔、学園の泥濘の訓練場で、アメリアの容赦のない打ち込みに、何度地面へ叩き伏せられても、立ち上がるたびに必ず浮かべていた。
あの頑固で、不器用な少年の面影を残した笑みを、ほんの僅かに見せた。
「……光栄です。先生」
その懐かしい響きに、アメリアの灰青の瞳が、わずかに見開かれた。
何十年ぶりだろう。
正式な教員でも何でもなかった自分を。
泥にまみれて剣を振るっていたあの頃の学生たちは。
半ばの親しみと、半ばの敬畏を込めて。
そう呼んでいた。
「今さら、その呼び方?」
「今だからこそ、でしょう」
キースは、背筋を伸ばしたまま、静かに頭を下げた。
「さあ。奥へどうぞ」
暖炉の火の粉が舞う向こう。
さらに深い屋敷の奥へと続く、重厚な廊下の先を示した。
「ダイアナも、じきに参ります」
そして、侯爵の仮面が完全に剥がれ落ち、ほんの少しだけ、一人の父親の顔になる。
「クリスティアナも、貴女にお会いできるのを心から楽しみにしております」
アメリアは、その懐かしい名前を聞きながら、ゆっくりと邸の奥へと視線を向けた。
街の規格を見た。軍の規律を見た。ルーカスの部下の実利的な思想を見た。
そして、その仕組みの中で息を吹き返した父親を見た。
次は……あの少年を産み落とし、育て上げた、この家そのものだ。
「ええ」
アメリアは一歩を踏み出した。
「案内してちょうだい」
それから、すれ違いざま、ほんの少しだけ昔の教官の声音に戻って低く付け加える。
「それと、キース」
「はい」
「剣は振っておきなさい」
キースが珍しく目を瞬かせる。
「平和なのは大いに結構だけれど、いざという時に鈍っていたら承知しないわよ」
数秒の静寂。
男は、肩をすくめ、困り果てたように。
しかし。
胸の奥から湧き上がるような嬉しさを隠せずに笑った。
「……やはり先生は、昔から厳しい」