剣と魔術とライフルと   作:あききし

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第百四十六話 剣の届く範囲、それぞれが繋いだ道

 

第百四十六話 古い茶葉と、鋼の蕾

 

 

トレンス侯爵邸のバルコニー。

 

外は北方らしい冷気に満ちているはずだった。

だが、欄干の向こうで雪煙が流れているにもかかわらず、ここには風がない。

再設計された防風結界。

 

透明な壁の向こう側だけで、冬が音もなく流れている。

 

その静けさの中、キース・フォン・トレンスは、あえて古い炭火を使って湯を沸かしていた。

 

銀の薬缶。炭の爆ぜる小さな音。使い込まれた茶器。

それだけは、アメリアの記憶にある昔のままだった。

 

「……相変わらず、貴公の淹れる茶は熱いわね、キース」

 

アメリアはカップから立ち昇る湯気を眺め、目を細めた。

 

「お恥ずかしい」

 

キースは苦笑した。

 

「昔から、熱いものは熱いうちに出せば良いと思っておりましてな」

 

「雪中行軍の演習で、自分の鎧を魔法で加熱して湯を沸かそうとした学生が、よく言うわ」

 

「若気の至りです」

 

「危うく三人まとめて火傷させるところだったでしょう」

 

「結果としては、誰も火傷しませんでした」

 

「それを結果論というのよ」

 

「……あれは合理的だと思ったのですが」

 

「今も大して変わらないわね」

 

キースは笑った。穏やかな、昔と変わらない笑い方だった。

 

アメリアも一度は笑う。

 

昔話だった。

だが、二人とも分かっていた。長く続けるための話ではない。

アメリアはカップへ口をつけなかった。視線だけを上げる。

 

「それで」

「はい」

「この防風結界は?」

「息子が改修したものです。以前の型より魔力消費が少ないらしく」

「そう」

「庭園の温室にも応用しておりましてな。今年は冬でも薬草の育ちが――」

 

「キース」

 

「はい」

 

「私は園芸の視察に来たのではないわ」

 

「これは失礼」

 

また笑う。アメリアの眉間に、薄く皺が寄った。

 

「では、街の話をしましょうか」

「ええ」

「道路は?」

「補修が進みました」

「病院は?」

「以前より随分と助かる者が増えました」

「軍は?」

「私が口を挟むことは減りましたな」

「治安は?」

「良好です」

「ルーカス卿は?」

「元気にしております」

 

アメリアのこめかみが、ぴくりと動いた。

 

「……そう」

「はい」

「元気」

「ええ」

「それだけ?」

「学園では先生方にお世話になっていると聞いております」

「誰から?」

「本人から」

「手紙で?」

「ええ」

「何行?」

「三行ほど」

「でしょうね」

 

キースは咳払いをした。

アメリアはカップを置く。まだ一口も飲んでいない。

 

「キース」

「はい」

「貴方、昔からそうだったかしら。都合が悪くなると、答えているようで何も答えないところ」

 

「そのようなつもりは」

「あるでしょう」

「ありません」

「あるわ」

「そうでしょうか」

「ある」

 

「では、気をつけます」

 

「……あの時の貴公は……あの直情的で馬鹿正直な少年が、今やこうして、何重もの『結界』と『沈黙』で私を煙に巻いている」

 

アメリアは茶を一口も啜らず、鋭い視線をキースに固定した。

思い出話という「貴族の防壁」を、彼女は元竜騎士の踏み込みで一気に突き崩す。

 

「昔話はここまで。キース、単刀直入に問う。……貴公は、あの息子を『何』にするつもりだ」

 

キースの手が、一瞬だけ止まった。だが、彼はすぐにティーポットを置き、困ったような顔で首を振る。

 

「何にする、とは……。ルーカスは私の愛すべき息子であり、トレンス領の誇り高き次期当主です。今は学園で、貴女のような素晴らしい教育者のもと、学業に励んでいるはずですが?」

 

「白々しい」

 

アメリアは身を乗り出した。王家の血筋特有の、有無を言わせぬ威圧感が、防風結界を震わせる。

 

「私の前で、その『不器用な父親』の仮面は通用しない。彼が学園で振るっているのは、知識ではなく『暴力』だ。既存の秩序を、効率という名で焼き切る、あまりに鋭利な刃。……彼は、自分の命を薪にして、千年先の王国を焼こうとしている。父である貴公が、それを知らないはずがない」

 

キースの微笑が、ゆっくりと剥がれ落ちていく。

後に残ったのは、のらりくらりとした侯爵ではなく、地獄の淵から生還し、その深淵を愛した男の「無機質な瞳」だった。

 

「……さすがはアメリア先生だ。私の『のらりくらり』など、閣下の前では一秒も保ちませんか」

 

静かに告げた。

 

「閣下。……私はあの子を『何』にもしません。私はただ、あの子が『やりたいようにやれる土壌』を護る、最後の一枚の壁(シールド)であると決めたのです」

 

「……たとえあの子が、この王国を、そして貴公自身を壊すことになってもか」

 

「壊れるのは、壊れるべき古い型だけです」

 

キースの声には、もはや教え子の面影はなかった。ルーカスの「盾」としての、揺るぎない確信があった。

 

「アメリア先生。……貴女は竜騎士として、空から多くの死を見てこられた。美徳や名誉で、救えなかった命がどれほどあったか。……ルーカスは、それを『計算』で救おうとしている。もし、あの子の加速が『危うい』とおっしゃるのなら、どうぞ学園で、あの子に望む限りの『不純物(美徳)』をぶつけてやってください。……それら全てを跳ね返し、あるいは吸収してこそ、あの子の論理は完成する」

 

アメリアは、キースの中に「狂気」ではなく、救いようのない「信頼」を見た。

かつて誇りを折られた男が、自分の代わりに世界を折り曲げようとする息子に、全てを賭けている。

 

「……親子揃って、ひどい傲慢さね。トレンス侯爵。……教え子の『のらりくらり』がこれほど不愉快だったのは、初めてのことよ」

 

「……先生」

「何」

「お変わりになりませんな」

 

「誰のせいだと思っているの。学園にいた頃の貴方は、もっと単純だったわ」

 

「褒め言葉でしょうか」

 

「剣で殴れば、少なくとも正直に倒れた」

 

「それは逃げようがなかっただけです」

 

「今は口で逃げるようになったのね」

 

「貴族として多少は成長した、ということでしょう」

 

「腹立たしい成長ね」

 

キースは、茶を一口飲んだ。熱いはずなのに、眉一つ動かさない。

アメリアはその様子を見て、ますます目を細めた。

 

「しかも、その顔」

「顔?」

「困ったように笑っていれば、昔の教え子だから私が甘くなると思っているでしょう」

「滅相もない」

「思っているわね」

「思っておりません」

「キース」

 

「はい」

 

「私は貴方が鼻垂れの頃から知っているのよ。剣筋の癖も」

 

アメリアは指を一本立てる。

 

「嘘をつく時に右眉が少し上がることも」

 

もう一本。

 

「怒られると、とりあえず反省した顔をして時間を稼ぐことも」

 

もう一本。

 

「全部、知っている」

 

キースの右眉が、ほんの僅かに上がった。アメリアは無言でそれを指差した。

 

「ほら」

 

「……これは参りましたな」

 

「今さら?」

 

キースは苦笑した。

 

「では、何をお聞きになりたいので?」

「昔、模擬戦で私に追い詰められた時」

 

アメリアはゆっくりと立ち上がり、杖を一度ついた。

 

「貴方は、壁際へ逃げたわね。右へ回るふりをして、左へ抜けようとした。今日も同じよ。昔話、領地の成果、税、息子は元気です。全部、壁際を回っているだけ」

 

キースの笑みが、ゆっくり消えた。

 

「逃がさないわよ。教え子の逃げ方くらい、見れば分かる」

 

静寂。雪が流れる。炭が爆ぜる。

アメリアは、真正面から踏み込んだ。

 

「もう一度問う。あの子は何を目指しているの?」

 

キースの手が止まった。今度は笑わなかった。

彼は、ゆっくりと薬缶を置いた。

 

「何を、とは?」

 

「惚けないで」

 

アメリアの声から、先ほどまでの柔らかさが完全に消えた。

 

「ルーカス・フォン・トレンス。貴公の息子よ。あの子は、もうただの次期当主ではない。街を変えた。軍を変えた。医療を変えた。流通を変えた。人の働き方を変えた。そして、貴方まで変えた」

 

目を細める。

 

「あの子が学園でしていることも同じよ。既存のあり方を、正しいか間違っているかではなく、機能するかどうかで切り分けていく。しかも、自分自身まで、その勘定に入れている」

 

キースの視線がわずかに落ちた。アメリアは見逃さない。

 

「知っているのね」

 

「……ええ」

 

「なら、貴方は父親として何をしているの?」

 

キースは答えなかった。否定もしない。怒りもしない。

ただ、少しだけ困ったように、視線を雪の向こうへ逃がした。

 

 

「……私は、何をしてやれば良いのか、今でもよく分からんのです」

 

アメリアの目が僅かに見開かれる。

 

「父親として接するには、あまりに長く遠ざけました。幼い頃のあの子を、私はほとんど見ておりません。政治家として扱おうとすれば、今でもふとした拍子に、あの小さな背丈が目に入る。ですが、実際に何を考えているのかは、もう私には分からない。私は、あの子のしていることの半分も理解しておりません」

 

「……それで任せているの? 正気なの?」

 

「少なくとも、以前よりは」

 

キースは苦く笑った。

 

「私は一度、あの子を拒みました。七つの子供に、軍事も、開発も、経済も任せられるものかと。その結果、民が死んだ。あの子が正しかったのです。私には理解できなかった。ですが、理解できないことと、間違っていることは同じではなかった」

 

キースは欄干へ歩み寄り、整然と区画された領都の屋根並みを指した。

 

「この領地をご覧になってください。今や魔獣の群れに怯える村落は一つもない。小さな集落ですら防壁で囲われ、道は平らに均され、巡回が途切れることはない。貧民街の子供ですら紙とペンを握り、文字を読んでいる。あの子はそれを施しではなく、取り決めと帳簿で、彼らの働きに見合う分として手渡しているのです」

 

「……キース、それは」

 

「先生は、人は裏切るものだと仰りたいのでしょう」

 

キースは振り返り、静かに言った。

 

「ご指摘ごもっともです。そしてあの子自身、最初からそう考えている。人は裏切る。だからこそ、裏切る損得が割に合わないように帳尻を合わせているのです。筋を通す者には確実な実入りを、掠め取ろうとする者には即座の罰則を。今やこの領地で不審な騒ぎが起きてから、巡回が駆けつけるまでの平均時間は五分を切ります」

 

「五分……?どうやって?」

 

「……さあ」

 

「さあ?」

 

「私も一度聞きました。説明は受けました」

 

「理解できなかったのね」

 

「途中から、頷くことに専念しました」

 

キースは苦笑を深め、続けた。

 

「目と、使い魔と、巡回の手順がすでに決まっているからです。起こる騒ぎの大半は他領から紛れ込んだ者ですが、自分が何を仕出かしたか悟る前に取り押さえられる。先生、私にはあの子の理屈は分かりません。ですが、昔より多くの者が生きている」

 

アメリアの視線が細くなる。

 

「それは信頼?」

「分かりません」

「では、信仰?」

「外から見れば、そう見えるかもしれませんな」

 

キースは否定しなかった。

 

「私はただ、何度も間違えた男です。そして、そのたびに息子の方が先に答えを持っていた。だからといって、何でも任せるわけではない。先生があの子の前に立つことを、私は止めません」

 

「……父親の役目を、私へ押し付けるつもり?」

 

「違います。外から来るものは、私が受けます」

 

キースが自嘲混じりに、だが深く息を吐いて呟く。

 

「あの日、西方から駆けつけて膝を砕かれた貴女に……今さら、またトレンスの尻拭いをさせようなどとは思っておりません」

 

キースの声から、古い領主の硬さが戻った。

 

「王都の詮索も、他領の抗議も、貴族社会の陰口も、全てこの私が引き受ける。そのための侯爵位です。あの子に何を教えれば良いのか、今さら頭を撫でてやることすら私には分からない。ですが――あの子が前を向いている間、背中に飛んでくる矢くらいは、私が受けたい」

 

長い沈黙が落ちた。

炭が爆ぜ、古い茶葉の香りがバルコニーに漂う。

 

「……不器用ね」

 

誰に聞かせるでもなく、アメリアが呟いた。

 

かつて自分たちのためにすべてを投げ打って駆けつけ、騎士生命を絶たれた恩師に、これ以上甘える気はないという武人の矜持。

 

アメリアがそれを受け止める。

 

「あの雪原で父上を失い、部下を失った貴公が……今度は息子のために、己を盾にするというわけね」

 

「存じております」

「なら、私は前から叩くだけよ」

 

アメリアは杖を一度、床へ突いた。

 

「貴方は背中を守りなさい。私は正面から叩く。間違っていれば止め、危険ならへし折る。必要なら、貴方の盾ごと割ってあげるわ」

 

キースは、そこでほんの僅かに笑った。

 

「それでこそ、先生です」

 

「……キース。貴方、少しだけ父親らしい顔をするようになったわね」

 

キースは目を瞬き、珍しく返す言葉を失った。

 

 

 

・・・・・

・・・

 

 

 

その張り詰めた余韻を解くように、規則正しい足音が近づいてきた。

 

扉が開き、現れたのはダイアナ・ド・オールストン・ラ・トレンスだった。

 

彼女の手には、銀のトレイ。湯気の立つ新たなポットと、小ぶりな焼き菓子が載せられている。

その身に纏うのは、王都の婦人が好む幾重ものレースを重ねた豪奢なドレスではなかった。無駄な膨らみを削ぎ落とし、動きやすさを考慮した直線的なカッティングでありながら、擦れても皺にならず、水滴を弾く細緻な布地で仕立てられた、濃紺の実務服。

 

「お話の途中に失礼いたします、グロースハイム伯爵夫人」

 

ダイアナは乱れのない動作で一礼した。

ワゴンを使わず、トレイを運ぶその歩幅は一定で、器が擦れ合う微かな金属音すら立てない。

 

「古い炭火の香気も風情がございますが、冷えてまいりましたので、湯を取り替えさせました。こちらは領内で試作された、果実の甘みを残した焼き菓子でございます。長時間の対座には、適度な糖分が必要かと」

 

ダイアナがカップを差し替えるため腕を伸ばした瞬間、袖口がわずかに滑り落ちた。

 

その細い手首に巻かれていたのは、貴族が懐から取り出す重厚な鎖付きの懐中時計ではなかった。

 

淡いピンクゴールドの極細の帯。薄型の円形枠の中で、目盛りに沿って音もなく滑らかに進む針。

 

アメリアの目が、その手首に留まった。

さらに、ダイアナが動くたび、甘美な花や香料の重たい匂いではなく、針葉樹の樹脂を極限まで澄ませたような、ごく薄い沈香の気配が鼻腔をかすめる。

 

「……トレンス侯爵夫人」

 

アメリアは器を受け取りながら、低く声をかけた。

 

「貴女の手首にあるそれは、王都の細工師の作ではないわね」

 

「ええ」

 

ダイアナは表情を崩さず、静かに微笑んだ。

 

「ルーカス坊ちゃまが、屋敷の納期の管理や各所の精査を受け持つ私にと、誂えてくださったものです。針の進みが狂わず、執務机から離れていても刻限を違えることがございません」

 

ダイアナは淡々と、しかし淀みなく告げた。

 

「以前の私は、鐘の音を待つばかりで、一刻の間にどれほどの遅れが生じているかも数えておりませんでした。慣習というものは、随分と多くの時間を呑み込んでいたのだと、帳簿を改めるたびに思い知らされます」

 

自慢でもなく、皮肉でもない。

ただ、すでにその道具を身体の一部として使いこなしている者の、実務的な口調だった。

 

アメリアは、手元の温かいカップを見つめた。

 

淹れ直された茶は、熱すぎず、渋みが出ない最適な湯加減で抽出されている。

かつて王都で、血統と格式の誇りを誰よりも高く掲げていたはずの第一夫人が、いまやこの無駄のない装いと道具を、平然と身に纏っている。

キースが外からの矢を受ける盾となり、ダイアナが領内の数字と時間を正確に刻む歯車となっている。

 

「……キース」

 

アメリアは茶を一口含み、息を吐いた。

 

「貴公の家は、外見だけでなく、中身までずいぶんと片付いてしまったようね」

 

「整理整頓は、あの子の得意分野ですから」

 

キースが小さく肩をすくめ、ダイアナが静かに会釈して控える。

アメリアは、冷たい結界の向こうで流れる白い雪を見つめ直した。

 

正面から叩くべき相手は、あの少年一人ではない。

 

この、あまりにも手堅く噛み合ってしまった家そのものだった。

 

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