幼女がISに乗せられる事案   作:嫌いじゃない人

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 前話の後書きでターニャの失敗を予告したのは、あれ実は『千冬保護下➡IS学園』ルートを期待されてハードルが上がらないようにと思って書いたんです。そういうほんの出来心で書いたのに、感想欄では新しい勘違いネタを期待されて盛り上がってるっぽいし……。
 ほんと、どうしてこうなった……。


12. 天災一過

 ドイツのとある生体研究所の地下二階に、識別番号C-〇〇〇一と呼ばれる少女、一番目(エアステ)のデザインチャイルドは暮らしている。

 時折研究員が出入りする以外には、人が住んでいるとは思えないほど静かで穏やかな空間だ。

 

 しかし今日だけは、その空間の空気が張り詰めていた。

 

「見ていてくださいね……」

 

「あ、ああ」

 

「いきますよ ――ハイッ!」

 

 緊迫の一瞬。宙を舞った玉は一回転し、見事、剣先に刺さった。

 

「おおっ」

 

「―― で、出来ました!!」

 

 喜ぶC-〇〇〇一。彼女は今回、以前ターニャがプレゼントした玩具のけん玉の腕前を披露しようとしたのだ。結果は成功。

 ターニャは彼女の腕前に素直に感心し、惜しみない拍手を送る。技の難易度としてはそこまで難しいわけではないが、盲目の彼女がマスターするにはかなりの練習量が必要になるはずだ。おそらく暇さえ見つけては練習したのだろう。それを思うと適当な流れでけん玉を与えたターニャとしては、彼女が楽しんでくれたことを喜べばいいのか、そんなことに彼女の時間を浪費させたことを申し訳なく思えばいいのか、少し複雑な心境である。

 

「ふふふっ……♪」

 

 まあ本人が良ければいいだろうと、ターニャは彼女を見て開き直る。

 ターニャはボトルを取り出し、中身をカップに注いで手渡した。中身は砂糖を多めに入れたカフェオレだ。食事制限がなくなってからはコーヒーより飲みやすいだろうと思い、こちらを差し入れている。

 

「ありがとうごさいます」

 

「熱いぞ、気を付けろ」

 

 興奮冷めやらぬ様子のエアステに、ターニャは注意した。貴重な実験体を舌火傷させたとあってはターニャの評価に関わる。

 少女は湯気の立つカップに息を吹きかけ、ゆっくりと冷ました。

 

 

 

 その後、ターニャとエアステはカフェオレを飲みながら話をした。なんの面白みもない近況報告のようなものだが、銀の髪の少女はちょっとしたことに驚き、楽しそうに笑っていた。

 ここはそれほどに退屈なのだ。

 

 

 

「さて、そろそろ失礼しよう」

 

「はい。またのお越しをお待ちしております」

 

 いつもの面会終了の時間より少し早いが、エアステは引き止めない。

 ターニャは別れの挨拶も早々に退出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 廊下に出たターニャは隣に立つ人物に声をかける。

 

「終わりましたよ」

 

「…… ああ」

 

 千冬が返事をする。彼女は今まで廊下からC-〇〇〇一とターニャの様子を眺めていた。ガラスの向こうでは、今も彼女が手を振り続けている。

 

「いきますよ教官。面会の時間が終われば、いつ職員が来るか……」

 

 千冬は研究所の許可を得ずにここへ来ていた。見つかればターニャも知らぬ存ぜぬではすまされない。

 

「わかっている」

 

 研究所に着いたときから変化のないその表情から、彼女の気持ちを推し量ることは難しい。

 ただ決して良い感情ではないだろう。触らぬ神に祟りなし。藪をつついて蛇を出す道理も無い。ターニャは千冬と会話せず、彼女から話しかけるまで待つことにした。

 

 

 

 

 結果として千冬が口を開いたのは、研究所から駐屯地に向かう車の中だった。

 運転するのはもちろん千冬、ターニャは助手席に座っている。

 

「…… やはり、彼女は犠牲者だ」

 

 いつかの会話の続き。その言葉はC-〇〇〇一の救出宣言と同義だ。

 半ば予想していたとはいえ、ターニャはその発言に少なからず驚く。

 

「あれでは、まさしく籠の鳥だ。見過ごすことはできない」

 

「籠の中でしか生きられない鳥もいます。無理に連れ出そうとするのは教官ご自身の価値観に基づいた、いわゆる"エゴ"ではないのですか?」

 

「それを選んだのが彼女自身なら、私たちが口を出すことではない。だが――」

 

「彼女は産まれたときからあの部屋で暮らしているわけではありません。知識としては広い世界のことを知っている。あの部屋を居場所に選んだのは彼女の意思です」

 

「囚われているのは彼女の身体ではない。思想だ。どれほど多くの情報や知識を与えられたとしても、それが誰かの意思によって取捨選択されたものなら、それによって導かれた理想も願望も誘導され作り出された幻想でしかない。抜本から覆さなければ、彼女は永遠に囚われたままだ」

 

「だからそれを壊すと? …… 地上最強(ブリュンヒルデ)に言う台詞ではないかもしれませんが、敢えて言わせていただくならばそれは思い上がりです。壊れたものは二度と戻らない。そしてその先にあるものが彼女にとって望ましいものであるという保証も無い」

 

「ああ。間違っているのかもしれない。しかし今の状況が正しいということだけは、絶対にない。デグレチャフ。君の言っていることは詭弁だ」

 

「詭弁で結構です。詭弁でブリュンヒルデを止められるのなら幾らでも弄して御覧に入れますよ」

 

 千冬とターニャは互いに目を逸らしながら主張をぶつけ合った。車内には不穏な空気が漂う。

 

「…… 彼女のことは決して悪いようにはしない。信じて欲しい」

 

「信じるも何も、どのように解決するつもりなのですか? まさかISに乗って連れ去るとは言いませんよね」

 

 千冬はC-〇〇〇一を今の状況から救い出すというが、当然それは簡単なことではない。

 地下室の少女は何も知らず、何も聞かれずにあの部屋に閉じ込められているのではない。事情を知ったうえでの自らの判断だ。同意書を始めとしてその証拠は五万とあるだろう。もちろん本人の同意さえあれば何をしてもいいという理屈では無いが、一国を相手取るとあっては致命的に不利な物証となる。

 正攻法以外の手としては、ブリュンヒルデとして政府と交渉できる国家や世論を味方につけるという方法もある。しかしそれでは、彼女だけでなくラウラやターニャたちデザインチャイルドの存在も公となってしまうだろう。それは千冬にとって本意ではない。

 

 そもそも千冬に遺伝子強化試験体のことを教えたのはドイツ政府だ。千冬がそれに対し悪感情を抱いたところで何ら不利益にならないよう調整は済ませているはず。

 ターニャが冗談めかして言った『誘拐』が最も有効な手段と思えるくらいに、八方ふさがりな状況。

 

 

 しかし千冬は不敵な笑みを浮かべる。

 

「その発想は無かった。デグレチャフは面白いことを言う」

 

(…… はぐらかされたか)

 

 千冬が何を考えているのかはわからないが、偉く自信があるようだった。利用しようと目論むターニャとしては気になるところだが、おそらく聞いたところで教えてはくれないだろう。

 

「そう心配するな。半端に救いの手を差し伸べて助けた気になるつもりは無い。きっちりと救い上げてみせるさ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事件が起こったのは、千冬がそう宣言してから二週間後のことだった。

 

 

 

 

「おかしい。これはいったい何事だ……?」

 

 C-〇〇〇一の面会に来たターニャは研究所に一歩踏み入り、すぐさま違和感を覚えた。

 ただでさえ静かな研究所エントランスが完全に静まり返っている。人の気配が無い。

 

 いや、完全に気配が無いわけではない。ターニャは受付台の奥に倒れている女性職員を見つけた。台の陰から倒れた身体がはみ出て見えたのだ。

 少し考えた後、ターニャは息を止め周囲を警戒しながら倒れた職員の傍に駆け寄る。トラップを確認しつつ手を当て脈と呼吸を計ると、どちらも驚くほどしっかりしていた。ただ寝ているだけのようだ。

 ターニャは受付台のパネルを調べる。コンソールを操作し空調照明システムにアクセス。確認したところ、所内の換気システムは正常に作動しているようだ。少しだけ空気を鼻腔に取り込む。倒れた職員から微かに香水のような香りがしたが、ガスの様な匂いは無い。無色無臭の気体を換気システムに細工して散布するという手もあるが、それならば研究所に入った時点でターニャは身体に異常をきたしているだろう。ターニャはようやく普通の呼吸を再開し状況を再確認する。

 

 周囲の様子を観察する限り、この辺りにいる職員もおそらく彼女と同じように眠らされていると考えるのが自然。それがこの研究所全体なのか、ターニャが気付く範囲内なのかはわからないが、事故という線は薄い。まず間違いなく人為的な異常だ。この異常が発生したのは、ほんの数分前のことと推測される。でなければもっと騒ぎになり、ここへ向かうと憲兵に伝えたターニャにも連絡が来るはず。仮に"犯人"と呼べる者がいて、その目的が本研究所への侵入だとすればまだこの所内にいる可能性が高い。しかしその犯人の目的も職員の意識を奪った手口も不明。

 ターニャは手持ちの端末から憲兵に通報しようとするが、モニターには『圏外』と表示されていた。受付の電話を取るも何処にもつながらない。どのような手段かは分からないが外部への連絡は遮断されているようだ。

 

 ここでターニャが取るべき行動は二つに一つ。

 其の一。研究所内を捜索し、事態をより正確に把握する。場合によっては犯人の確保や企みの阻止も想定しなければならない。アクション映画の主人公なら迷うことなくこちらを選択するだろう。

 其の二。研究所を退避し、増援を要請する。エントランスの扉には予め完全に閉まらないよう手持ちのライトを転がして挟んでいる。例え今シャッターが降り始めたとしても閉じ切るまでに抜け出せる距離だ。

 

 ターニャは迷うことなく"其の二"を選択。エントランスのソファや観葉植物などの遮蔽物を意識しながら、一直線に出口に向かい駆け出した。

 

 

 

 

「あれ? 起きてる子がいるねぇ」

 

「―― ッ!!」

 

 存在に気付かなかった。出口に向かうターニャの右斜め後ろ側、少し離れた場所、遮る物の無いエントランスの中心に一人の女性が立っている。

 研究所の人間ではない。胸元の露出した青と白のエプロンドレス風デザインのワンピースに、頭には機械の兎耳を生やした髪の長い東洋人の女性。そのとぼけた表情を、ターニャは資料で何度か見た憶えがある。

 

「篠ノ之、束……!」

 

「ハイハーイそのとーり篠ノ之束さんだよー」

 

 世界中で指名手配されているはずのIS開発者兼唯一のコア生産者は、人に遭遇したことを何とも思っていないかのように挨拶する。その肩には地下にいるはずのC-〇〇〇一が担がれていた。どうやら彼女も眠っているらしい。

 

 ターニャは焦る。

 この事態は明らかにターニャ一人で対処できる範囲を超えている。束の存在を認識した段階で咄嗟に立ち止まり何時でもナイフに手を伸ばせる臨戦態勢に入っていたが、全く勝てる気がしない。

 その理由には、彼女が研究員を眠らせた手段が分からないということもある。だがそれ以上にターニャが警戒していたのは、人一人抱えながら身体の芯が全くぶれない束自身の存在だった。何らかの発明品を使っているということも考えられるが、ターニャの直感はその可能性を否定している。もし単純な身体能力でそれを可能とするなら到底敵う相手ではない。人外の類だ。

 

(篠ノ之束。インテリ畑かと思いきや、成程。織斑教官と同種の生物だったか)

 

 ターニャとしては全力で見なかったことにしたい状況だが、立場上それは許されない。

 

「…… その少女をどうするつもりだ」

 

「うん? この子? 私がどうしようと君には関係ないでしょ」

 

「一応は知ってる顔だ。見過ごすわけにはいかん」

 

「だったらこの子のことは心配しなくていいよー。私が面倒看るから」

 

「何故」

 

「理由? ちーちゃんに頼まれたからだよ。ちーちゃんが私を頼ってくれたんだ、嬉しいなぁ」

 

「…… そういうことか」

 

 ターニャは何時かの千冬の言葉を思い出す。『半端に救いの手を差し伸べたりはしない』。成程、確かに半端な手とは程遠い。天災、篠ノ之束の手に掛かれば少女一人を国の研究所から拉致することなど容易いだろうし、彼女自身も逃亡者であるため世間の目に晒される心配もない。

 哀れな少女を救い出すという意味では有効な手だ。目的は確実に達成される。

 しかし確実性こそあれ、あまりに強引な手段とも言えよう。例えるなら鍵開けの代わりに扉ごと大砲で吹き飛ばすようなもの。

 それに巻き込まれる方としては堪ったものではない。

 

「出来ればもっと面白いことで頼ってほしいなって思ってたけど…… でも見てよこの純粋無垢な寝顔♡」

 

 束は意識のない少女の顔を持ち上げ、未だ覚めないその頬を撫でる。

 

「思い出すなぁ、箒ちゃんがまだちっちゃかったときのこと。ふふ、かわいい。…… うん? まだ居たんだ君。束さんに用があるなら後にしてくれないかな500年後くらいに」

 

「今止める、と言ったら?」

 

「眠っててもらうよメンドくさいし」

 

「…… そうか」

 

 ターニャは素早くナイフを抜き出し構える。束は刃物に恐れる様子もなく、ゆっくりとターニャに近づく。

 一歩、二歩、三歩 ――。

 次の瞬間、ターニャはその場から飛び退くように後退していた。理由は分からないが、なぜかこれ以上彼女に近づいてはいけない。そんな気がしたのだ。

 

「―― はっ、はっ、はっ!?」

 

「あれれ? よく分かったね。もしかして私の香りに気付いた?」

 

「香り?」

 

「そうだよー♪ 私が今日つけてるのはスーパーリラクゼーションコロン、その名もずばり『食べ頃の毒林檎(ハイド・プリンス)』♪ 使い方は簡単、普通の香水と同じように服や手首に垂らすだけ。あとは近くの人に香りを嗅がせれば、リラクゼーション効果ばっちりで朝までグッスリ♪」

 

「つけた本人に効かない理由は分からんが…… 要は近付かなければいいのだろう?」

 

「ふふん。そうは問屋が卸さないよん」

 

 束は肩に担いだ少女をエントランスのソファに降ろし、改めてターニャに向き合った。

 

「それじゃ見せてあげる。私の本気をちょっとだけ ――♪」

 

 束がターニャに駆け寄る。一瞬で加速を完了するそのスタートダッシュは、ナノマシンを移植したターニャの目を以てして辛うじて捉えられる程度。陸上スプリンターのレベルを超え、もはや野生動物のそれに近い。

 

 ターニャはバックジャンプで大きく距離を取りながらナイフを投擲する。

 至近距離から眉間に真っ直ぐに空を切るナイフを、束は指の間に挟んで止めた。

 

「……!」

 

「甘いよ」

 

 曲芸染みた離れ業。

 ターニャにとってやはりと言うべきか、篠ノ之束の反射神経は紛れもなく人の限界を超えている。だが、それだけでは説明がつかぬほど彼女の防御はスムーズだった。接近を回避しようとする相手が直線的な動きへの牽制手段として得物を手放すことを、束は予見していたのだ。

 しかしだからこそ、次の攻撃に意表を突かれることになる。

 

「……おっ?」

 

 ターニャが束の懐に飛び込み、その右膝を踏みつけるように蹴りを放つ。束がナイフをつまんだ瞬間には既に、着地した軸足でそのままバネのように跳び逆に間合いを詰めていた。小柄な体躯と遺伝子強化による身体機能を持つターニャだからこそ出来る荒技だ。

 

 人が走る瞬間、下半身には大きな負荷が掛かる。どんなに優れたフォームでも体重の二、三倍。悪ければ十倍にもなると言われている。

 もし仮に人が全力疾走しているとき、振り下ろす瞬間の膝に外から力を加え上から押さえつけようものならどうなるか。着地のタイミングを強制的に外されたことで関節のクッションが機能せず、そしてそのまま相手の重さと併せて受ける衝撃は最早十倍程度では収まらない。足首や膝の関節を破壊、ともすれば人体で最も頑丈な部位の一つである脛骨に罅を入れる。

 掛ける側の足と受ける側の膝との衝突ではなく、受ける側の脚と硬い地面との衝突が予想だにしないダメージを生む。故にこの攻撃は相手の体重や脚力に比して威力を増すのだ。

 身体的アドバンテージにより遥か高みにいる束に対し、ターニャが格闘戦でこの技を選択すること自体は理に適っていた。

 

 むしろ束の意表を突いたのは、ターニャが格闘戦を選択したことそのものである。

 

(う~ん。なんでこの子がここにいるのかな?)

 

 この少女は自分から逃げていた筈。眠り香を警戒し()()()()()()()()()と言っていた。なのに一瞬で矛盾した行動をとっている。

 

(……ひょっとしてブラフってやつ? うん。それっぽいね)

 

 ターニャは逃げられないと悟り即座に反転したのではなく、最初から逃げられないことを想定し逃走を仄めかしたのだ。

 

 その選択は確かに束の心理の裏をかいていた。だがそれだけでは人間(ヒト)人外(バケモノ)には届かない。事実、ターニャの足が束のドレスに触れそこから膝に体重が掛かるまでの間に、束はのんびりと思考しその狙いを分析し終えていた。

 狙いがばれてしまえばこの攻撃は意味をなさない。束は狂わされたタイミングに合わせショックに備えることで、普段と変わらないように地に足を付ける。

 だがターニャの動きは止まらない。勢いまま束の膝を踏み台に跳び、顔面を膝で狙った。

 

 体格と身体機能の不利を補うため一時も止まることなく的確に急所を狙う。脚の破壊と同じくこれもまた合理的な手だ。

 

 だからこそ束からすれば読みやすい。

 平然と顔面に迫る膝を手の平で防ぐ。掴み取ることも可能だが、掴まれることを想定し繰り出されたものを捕らえても面白みがない。

 そのまま軽く(はた)き落とした。

 

 立て続けに足技を防がれ連撃を見切られたターニャは、その口元が歪みそうになるのを堪え、必死に閉じ結ぶ。

 人並み外れた動体視力を持つ束もその様子をしっかりと観察していた。

 

 着地したターニャは更に追撃をするが、束は腕一本で全て封じたきり、反撃に転じようともしない。反撃する必要が無い。

 

 攻撃の姿勢をとっていたターニャの身体が、突如崩れ落ちる。

 

『食べ頃の毒林檎』の威力は一般的な非致死性ガスの比ではなく、ガスマスクを装着している相手に対しても如何なく効力を発揮する。そもそもその原理からして全く異なるのだ。息を止めたところで防げる程度の代物ではない。

 嗅神経の伝達より早く意識を奪い対象を深い眠りに落とす。だがそれでは香水として味気ないので、気持ちよく目覚められるよう残り香を付けた。それがこの香水の正体。

 

「……ふん」

 

 動かなくなった人間に向ける意識など無い。自身の才能と発明品の性能を自負する束はターニャから視線を逸らした。

 

 その瞬間、眠りに落ちた筈のターニャの身体が動く。

 

 束の反射神経を以てしても躱し切れないタイミングでの一撃は、ポケットに潜めていた万年筆による一閃。

 それは咄嗟に動いた束の掌を掠め、そのまま慣性のままに振り抜かれ、重力に従い崩れた。

 

 束は呆けたように、自分の掌に滲む血の線を眺める。

 不思議だ。幾ら自分が()()()()()()()()()からといってこんな場所で血を流すなんて。

 傷を負わせた少女はといえば、ペンを取り落とし今度こそ倒れ伏しようとしていた。その口からは夥しい量の血糊を垂らしている。

 

(―― 口腔を、噛み千切った!)

 

 

 

 ターニャは少しでも意識を引き延ばすために予め自分の身体を傷付け痛みに耐えていた。口を固く閉じていたのは呼吸を止めるためではなく、流れ出る血を抑えるため。だが『食べ頃の毒林檎』への対抗手段として単純な痛覚は意味をなさない。

 期せずして彼女の意識を繋ぎとめたのは、喉に流れ込む血流に対する嘔吐反射だった。

 しかしその偶然に至ったとして、引き延ばせる意識は一瞬にも満たない。その刹那のうちにこの少女は遥か格上の存在に牙を突き立てた。

 

 それは人格破綻者と目される"天災"束をして驚く出来事。

 

 

 

 重力に従い崩れ落ちる最中のターニャの身体を、束は素早く片腕で支える。

 

「……うん。この子もいいね♪ 仲良しさんなら引き離すのも可哀想だし、二人一緒にってのもアリかも? あれ? でもちーちゃんに怒られるかな」

 

 

 束はターニャが意識を失ってからようやく初めて、彼女に対しての関心を示した。束にとってターニャはそれまで有象無象の一つでしかなかったのだが、怪我を負わせたことで初めて一個人として認識されたのだ。

 しかしその怪我自体は束自身の油断が大きな原因であり、傷そのものも小さい。それも強化された肉体再生能力により既に塞がりつつある。そういった意味ではそう騒ぎ立てるほどのことではない。

 束の中の価値観では『人を脅かすのが得意』なことは『寝顔が可愛い』ことより興味の度合いとして低いのだ。実際、大切な友人の機嫌を損ねてまで手を出すほどの価値は無いと思える。

 

 

「よっと」

 

 束はターニャを床に転がしてからソファに横たえていた少女を担ぎ上げる。

 そしてちらりと、床に転がる万年筆に視線を向けた。

 

「……頑張ってたし、()()はプレゼントでいいよ♪」

 

 

 

 そうして研究所を滅茶苦茶にした侵入者は、正面のエントランスから悠々と姿を消した。

 

 

 

 

 

 ターニャが目を覚ましたのはそれからきっかり六時間後の夕方だった。場所は研究所の外に設営された救護テントの中である。

 目が覚めてみると口の中が痛い。舌で探ると口腔の肉が大きく抉れていた。酷い口内炎になりそうな傷だ。

 

 目覚めたターニャが事態を把握できるようなった頃には、既に篠ノ之束出現の情報は政府まで届いていたらしく、消えた少女のことなど誰も気に留めないくらいの大事にまで発展していた。勿論本当に忘れられたわけではない。人々は何故束が彼女を攫ったのかということにばかり注目しており、少女自身の安否や研究面での損失は二の次三の次という扱いになっていたのだ。

 

 ターニャもまた、束と最も接触した重要参考人として聴取を受けた。てっきりエントランスの監視カメラが動いていると思い立場上逃げるわけにはいかないと束に挑んだターニャだったが、実際はカメラには何も映っていなかった。素直に眠らされても何の問題もなかったのだ。むしろ束の血液が付着したターニャの万年筆が接触の証拠となり、何があったのか根掘り葉掘り聞かれる羽目になった。

 

 これまでの経緯、実は全くの徒労である。

 

 

 

 当初は予想外の大事に巻き込まれ辟易したターニャだったが、しかし騒ぎは思いのほか早くに治まった。どうやらドイツ政府はいなくなったC-〇〇〇一諸共、篠ノ之束襲来を隠匿する方針を固めたらしい。緘口令が布かれ、ターニャはその誓約書にサインを書かされた。

 こうなってしまうと、今更『自分が千冬にC-〇〇〇一の情報を漏らした』とリークするのはリスクが大きすぎる。実行に移すのは諦めるしかない。

 

 

 

 

 ターニャが自由を手にするのは、まだまだ先になりそうだった。

 

 

 ちなみに口の中の傷は遺伝子強化による免疫力向上のおかげで炎症にならずに完治。千冬にはお詫びとして焼き肉をご馳走になった。

 正直色々釣り合わないと思った、ターニャである。





 ISの新しいゲーム、とりあえず事前登録したけど世界観ムチャクチャだねコレ。ストーリーやゲーム性はともかく、新しいキャラとISは個人的にはかなり気になります。

 まあこれくらい原作とかけ離れていた方が設定とか混乱しなくて済むし、二次作者としてはありがたいことかもね。それに事前登録十万人越えとかいう不動の人気にも驚き。原作の知名度は二次の閲覧数にも通じますし、この数字は案外励みになる感じです。
 

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