がくり、と膝が落ちる。全身に力が入らない。
ショックで頭が真っ白になりながらも、少女から目が離せない。
「礼を言っておこう。ここまで、この器を運んでくれたことにな」
浮かべたのは笑みだ。ナタリアがぎこちないながらも見せた顔じゃない。彼女の中にいる犯罪神の悪意あるにやけ顔だ。
「おかげでこの通り、不完全ではあるが復活することが出来た」
音もなく、ゆるりと近づくナタリアはそう言った。
犯罪神だ。まごうことなき、世界の破壊者。遅かった。遅すぎた。俺はまた手遅れになってしまった。
銃が手から落ちる。心身が麻痺したように、それを拾う力も気力もない。
「再びお前に問おう。我の下で働く気はないか?」
過去、同じ問いを受けたことがある。モンスターの大群を相手にしたとき、マジック・ザ・ハードにスカウトを受けた。
「再び」と彼女は言った。あの魔女と俺のことを知っているのだ。マジック・ザ・ハード含めた四天王は犯罪神の分身である、ということはチカに見せられた資料からすでに理解している。
それだけじゃない。ナタリアが見て、感じたこともこいつは知っている。
「望むなら、世界を何割かやってもいい。この少女をお前のもとに返してやってもいい。我は女神を殺し、破壊ができればそれでいい」
ただ破壊するだけの存在。それが犯罪神。
その犯罪神が、いつの間にか手にした鎌で女神に襲い掛かる。
小さな身体に似つかわしくない巨大な武器を振るう姿に、ナタリアの面影はない。いや、姿は知っている。動きと言葉と心が別物なのだ。
「久しぶりだな、女神。あれから競争のない平和は創れたか?」
「マジェコンヌ……!」
とてつもなく急なスタートだったが、パープルシスターは攻撃を受け止める。
復活したとはいえ、犯罪神はまだ不完全だ。一度倒した実績のあるパープルシスターのほうが有利だろう。普通ならば。
だが、犯罪神が器としているのは、十一歳の少女なのだ。
「あのときと同じように器を壊してみせるか? この少女が死んでもいいならな」
血が滲むほどに唇を噛みしめる。
ここに来たときに感じた違和感。倒す準備ができてから女神を呼べばいいのにという違和感は、綺麗に払しょくされた。
犯罪組織が狙っていたのは犯罪神の力じゃない。犯罪神そのものだ。犯罪神を使って女神を倒そうとしたのだ。
だが、あまりにも強大な力に恐れをなして逃げた。女神を呼んだのは、復活の直前か、それとも脅されてか。どちらにせよ、犯罪組織の思惑はだいたい成功。
そして、利用されることすら犯罪神の手の内だった。
二人の攻防に壁も床も引き裂かれ、紙も機械も真っ二つになる。
これが、こんなのが犯罪組織が求めていたものか。
破壊。
犯罪組織が、人間が、ケイが、チカが求めたもの。いや、俺もだ。
負をもって負を消滅させようとした俺は、この犯罪神と何が違うだろうか。
ナタリアを利用して復讐を遂げようとした俺は、破壊の化身と何も変わらない。いつもそうだ。届かないと気づくまで、銃を撃つことしかできない。
切り結ばれた刃が離れる。お互いが間合いから外れて、一呼吸置いた。もちろんそれで戦いが終わるわけではなく、むしろ本格的に始まる。
目が眩む光が唐突に瞬いて現れたのは、ビキニのような防具に身を包み、扇のような翼を背に展開したパープルシスターだ。
これが女神としての本来の姿。戦う女神の姿。
「パープルシスター」
整理はできていないが、ようやっと頭が回ってきたところで、パープルシスターの横へつく。
「ごめんなさい、ベクターさん。私は犯罪神を生かしておくわけにはいかないんです」
かつて女神七人を犠牲に手に入れた勝利。無駄にしないためにも、ここで討たなければいけない。
それはわかっている。
「ナタリアが死ぬぞ」
「わかってます」
「わかってない!」
彼女には彼女なりの理がある。過去の苦悩に基づいた理。この世界を守る責務。
それはもたらすのは、俺が納得することのできない結果だ。
苦悶の表情で、パープルシスターはまっすぐ飛ぶ。
今度こそ、犯罪神をこの世界から消すつもりだ。それが意味することを理解しているはずなのに。
一瞬にして間合いが詰められ、剣が振り下ろされる。
「やめろ!」
即座に放った銃弾はパープルシスターの背中に直撃したが、動きを逸らしただけで害はほとんどない。
魔剣は地面を穿った。ナタリアの身体には傷一つついていない。強大な力の前には、傷をつけることができない。
パープルシスターも犯罪神も容赦なく刃を閃かせる。相手を殺す一撃を避けつつ、叩き込もうとする。しかし、女神のほうには躊躇が見られた。少女の命を絶つことに抵抗があるのだ。
彼女は命の重さを知っている。死んだ女神の中には小さな子どももいたことも、要因かもしれない。この戦いの先にある骸を、過去の亡骸と重ねてしまっているのだ。
俺は懐から弾を一発取り出した。旅の目的である女神を殺す銃弾。パープルシスターを止めるには、ナタリアを救うにはこれしかない。
「撃て、ベクター! 我と女神、どちらでもいい。その弾丸で撃てっ!」
少女の姿を借りた犯罪神が叫ぶ。このままでは敗けてしまうことは、彼女にもわかっていた。
女神がはっとこちらを向いた隙をついて、犯罪神が拳を叩きつけた。パープルシスターがごろごろと転がり、俺の足元で止まった。
犯罪神の力をもったこの弾丸は、女神を弱め、犯罪神を強くする。どちらを撃っても、パープルシスターは死んでしまうだろう。
何年も募っていた復讐を果たせることになる。
ライフルに銃弾をこめる。今度命中させれば、おそらく弾丸は女神の身体を貫き、血を流させる。
それがこの旅の最終目的だ。その結果を何年も思い描いてきたはずだ。妹が死んでから、自分に敷いた道だ。
妹の顔は何年も見てきた。笑顔も、泣き顔も、怒った顔も。何年も、何年も……なのに、あいつの死んだ顔だけが頭から離れない。
それを拭うために戦ってきた。この一瞬のために。
パープルシスターが俺を見る顔は、命を諦めきれず、しかし覚悟のある目をしていた。
引き金に指をかける。
かつて、女神を殺した彼女は命を奪われる覚悟を持っていただろうか。
他人の命と世界を背負う気概はあっただろう。だが自分の命を奪われる覚悟は? 誰かに恨まれ、その感情を一身に受ける覚悟は?
「俺にはできない」
そんなの、覚悟する必要がない。
パープルシスターもナタリアも誰かの道具じゃない。誰かの思惑に利用され、誰かに脅かされることを危惧されることなんて、考えなくていいはずなのだ。
理不尽にさらされた彼女たちを自由にさせるなら、ここだ。
「あれだけ殺してきて、いまさら誰が死のうが関係あるのか」
あるさ。
「俺が進む道がある。ナタリアとパープルシスターがそれを教えてくれた」
「戯言だ。違う道を進めるとでも思っているのか」
「それを確かめる」
撃つしかしてこなかった俺の道を変えるなら、ここしかない。
ここを逃してしまえば、もう二度と変えられない。
「だから、俺には撃てない」
撃たないという選択。
それは停滞ではなく、転換だ。代弁者と呼ばれた俺の、自分の選択だ。
俺は銃を地面に下ろして、これまでの道を絶った。
一歩、また一歩ナタリアに近づき、距離を詰める。戦うためでもなく、決着をつけるためでもない。
あっけにとられたナタリアの身体を引き寄せ、抱きしめる。
中にいるはずのナタリアが暖かさを感じられるように、しっかりと抱きとめる。
ナタリア。俺もお前も死んでない。何かを失って、一人になって、底なしの孤独を感じても、俺たちは生きている。
その小さな身体から、粘ついた黒い液体が染み出して手を伸ばしてきた。それが俺の身体に触れるたび、心の中に残された微かな憎悪が増していく。
やがて形を持ち始めたそれは、ナタリアの身体から完全に離れていた。俺を新しい器にするつもりだ。
うねうねと蠢く触手のようなものが伸びてきた。頭に触れた瞬間、これまでの骸が鮮明に浮かぶ。
モンスターに殺された部下、母も父も、そして妹も。
それは確かに俺が見た死だ。だが、無理やり引き出された感情に身を任せるわけにはいかない。
「ベクター」
解放されたナタリアの顔には明らかな悲哀が浮かんでいた。
初めて見る、彼女の本当の顔だ。
「ナタリア」
だけど、そのままにしておいていいわけがない。
お前はまだ十一歳。誰かの道具じゃなく、犯罪神でもない。未来ある一人の人間なんだ。
「大丈夫さ」
安心させようと浮かべた笑顔はどう映っているだろうか。
きっと、いまにも消え入りそうに見えているに違いない。経験からそれはわかる。
ああ、そうか。
母が今際の際に言った言葉の意味が、父が命を賭して人を守った理由がいま分かったような気がする。
あんたたちは過去を見ながら、現実を感じて、その先の未来を見据えていたんだな。
ナタリア。お前も、リーンボックスで見せたあのぎこちない笑顔は、俺の未来を作るためのものだったんだな。
俺の復讐の道を遂げさせようと、その道を作ろうとした。
もういい。もういいんだ。
ナタリア。今のお前は、今を感じればいい。未来のことを考えるのはまだ早い。
「まだ死ぬわけにはいかない」
俺は拳銃を手に持ち、銃弾を放った。
無駄かもしれない。それでも撃つ。威嚇にしても牽制にしても、攻撃にはダメージを与える以外の道がある。それが犯罪神に効くかはわからない。だが、犯罪神であるはずの粘ついた液体は、俺から離れてよろめいたように見えた。
スライム状の物体は、数センチしか伸びない触角で何かを捕らえようとするが、すでにその範囲には何もない。
ひどく情けない。世界を恐怖に陥れた犯罪神が、モンスターの中で最弱のスライムになってしまうほどに弱められてしまうとは。犯罪組織が見たら、さぞ失望するだろう。
俺はさらに一発撃ち込んだ。今度は悲鳴が聞こえた。
「ベクターさん、あとは任せてください」
パープルシスターが魔剣を両手で構える。
俺は頷いた。ここで終わりにしよう。ナタリアの手を引いて、後ろへ下がる。
女神が剣を振り下ろす。しゅう、と音を立てて空気に溶けるように消えていった。
あっさりとした幕切れだったが、これで本当に終わったのか。俺たちはしばらく何もない空間を見届け、息をついた。
何もかも終わってしまった。
「終わった、の?」
「ああ、終わった」
ナタリアが俺の腕をつかむ。
もうここには用はない。なら、次は?
わからない。これからのことなんて、俺たちには誰にもわからない。正しいと思えることをするしかないのだ。
今の俺にとって正しいこととは……
「人を殺してきた」
俺は腕を引っ張り続けるナタリアの手を握り、パープルシスターに向き直った。
「世界にも、犯罪組織にも、お前たち女神にもうんざりして、ただただ殺してきた。お前も殺すつもりだった。世界は理不尽だ。だが誰も守れなかったのは、俺のせいだ。掴めるはずだった手を離してしまったのは、誰でもない俺だ」
罪を知ってほしかった。
懺悔などではない。それよりももっと勝手な感情だ。
溜め込むだけのはずだった心を吐き出したかった。
ナタリアに、パープルシスター。情けないことに、理不尽に巻き込まれた少女たちに吐き出してしまいたかった。
「時間を巻き戻せないなんてわかってる。それでも、戻れたら、なんて毎日考えてしまうんだ」
「私も毎日考えます。命を差し出してくれたお姉ちゃんたちと一緒に戦っていたら、どうなっていただろうって」
パープルシスターは近づいてきた。その距離が縮まるほどに、ナタリアの握る力が強まる。
「確かに世界は理不尽です。その世界の中で、あなたは間違いを犯したのかもしれません。私も間違いを犯したのかも。それは誰にも、女神である私にもわかりません」
パープルシスターは音が鳴るほどに歯ぎしりした。
後悔は積もる。生きている限り積もっていく。
それでも……
「ベクターさん、私たちには前を向いて歩くことしかできません。だから、あなたもどうか、あなたの道を進んでください」