「あーっ、リリィだ!」
「リリィさん……こっち」
「あ、あの……」
私を見つけた瞬間、腕に抱き着いてきたのはロム様とラム様だった。戸惑うままにぐいっと引っ張られた先は、ホワイトハート様の私室だった。小説を読む、書くことを趣味としている彼女の部屋には、見上げるほど大きな棚にぎっしりと本が詰められている。
普段は整理されているはずのそれらは、いま乱雑に積まれている。二人が嬉しそうに持ってきたのは、その中の一つ。びっしりと文字が書かれている中に、拙い絵が描かれている。
「ラム様、ロム様、これは……」
「へへへー! 上手いでしょ。わたしが描いたのよ!」
「こっちはわたし……」
「この本は……」
「うん、お姉ちゃんの本!」
「また怒られますよ」
こういうイタズラを、妹様たちはよくする。ホワイトハート様がいたころは、烈火のように憤慨したものだ。これはまだ控えめな表現だけれども。
彼女たちの悪ふざけは日に増して多くなっていく。
「怒ってくれるなら、落書きでもなんでもする……」
ロム様が俯く。
彼女らの愛する姉が墓場に赴いてから、数週間が経った。混沌の原因であるマジック・ザ・ハードを討つために、他の女神様と出向いたホワイトハート様はいまはここにいない。
捕まったと知ったのは、マジック・ザ・ハードがそのことを高らかに宣言してからだ。
それ以来、ラム様とロム様はその見た目にそぐわない憂いの顔を見せる。
「必ず戻ってこられますよ。ブラン様は強いですから」
「知ってる……」
「お姉ちゃんは誰よりも強いんだから」
「ええ、そうですね」
強がっても、声に秘められた悲哀が隠しきれていない。
泣きたいのは私も同じだった。だけど私には彼女たちに弱さを見せることが許されない。いま安心を与えられるのは私たち女神様の信者しかいないのだから。
「ですから、戻ってこられたときのために、ブラン様が喜ぶものを用意しましょう」
大きくうなずいて、彼女たちは部屋を出た。
きっと戻ってくる。そう思って待ち続けて、あとどれくらいかかる? 希望を抱いたぶん、後の絶望が大きくなるかもしれない。女神様はもしかしたら……
嫌な想像だ。そんな妄想は必要ない。私は私の仕事をするだけ。
「お二人の面倒を見てくださって、ありがとうございます」
いつの間にか、ミナ様が来ていた。
いまや実質彼女がルウィーを仕切っている。この悪意に満ちた世界で奮闘する彼女の負担は計り知れない。
「約束しましたから」
「なら、少しくらいは厳しくしてもいいんじゃないですか?」
「怒れませんよ。あの二人から姉を奪ったのは私ですから」
「リリィさんのせいじゃありません」
「私があんなことを言わなければ」
言ってしまって、自分を呪う。
頭を崩せばどうにかなるという私の言葉を受けてか、ホワイトハート様は墓場へ身を投じた。その結果が、愛を受けるべき妹たちから姉を奪うという惨劇だ。
過去が悔やまれる。女神様を守ると誓ったはずの自分の浅はかさと弱さを悔やむ。
「そうでなくても、きっとブラン様は行ってました」
ざわついた心が音をひそめる。彼女の声はいつだって、ホワイトハート様と同じように私の心に響く。
それが嘘でも気遣いでも、彼女の鼓動は、私を想ってくれることを知らせてくれる。
「そういう人だって知ってるでしょう?」
「……そうですね」
勝ち目がなくとも、国民を守るためにすべてを投げうつ。そんな大それたことを女神様はしてみせる。
私はそんな彼女の強さに惹かれたのだから。
△
『悪魔』のスーツに身を包んだ私は、コンパを攫った車が止まった場所へとたどり着いた。
そこは、あの会合があった大屋敷。トリックがこの場所を捨てた、と思っていた私には予想外のところだった。
「なあ、お嬢ちゃん。俺たちだってこんなことはしたくねえ。だけど命令なんだ」
「あの『悪魔』の正体を言え!」
「ほんとに知らないです!」
その中、中央に配置された長テーブルのそばにある椅子に縛られたコンパを囲んで、男どもが詰め寄る。
コンパは私のこと、いいえ『悪魔』のことは何も知らない。なのに、あの屑どもはまるで確証があるかのように問い詰める。
「しかたねえな。痛い目見ないと分からないらしい」
しびれをきらした男がバットを振り上げた。だがそれはぎゅっと目を閉じたコンパには届かない。
「正体を知りたいなら、直接私に聞け」
ぬるっと現れた私は、掴んだバットを取り上げて呆けた男の頭へフルスイング。続けて固まったままの一人へバットをぶん投げる。あっという間に二人片付けて、すぐさま私は動いた。
恐怖でごくりと喉を鳴らした男の、何の工夫もない大振りパンチを最小限の動きでかわし、首へ掌底を叩き込む。嘔吐しそうなほど咳き込んでうずくまる身体を、容赦なく警棒で殴った。
そのままの勢いで武器の先を飛ばす。どたどたと逃げようとする最後の一人の首へ、ワイヤーを絡ませる。ぐいっと引っ張ると、逃げようとした反動で男の身体が宙に浮いて、背中をテーブルにしたたかに打ち付けた。
かすかにある意識を殴ることによって奪っていく。殴る、殴る、殴る。気を失ったと気づいた時には、私の拳は真っ赤に染まっていた。
私はゆっくりとコンパを縛っている縄をほどいてやる。そこで、ようやく彼女は目を開いた。怪我をしていないのが幸い。泣き腫らして赤くなった目以外は、彼女に異常はない。
「大丈夫?」
「あなたは……」
「早く逃げて」
私はコンパの言葉を無視して扉を指差した。
それでも彼女は呆然として動かない。
「早く!」
コンパはびくりと立ち上がって、怯えた目でこちらを見ながら足を動かした。こけそうになりながらも、急いでその場を離れる。何度もこちらを振り返りながら去っていくコンパの姿が見えなくなったとき、ようやく息を吐いた。
大事にならなくて済んだ。だけど、間一髪だった。コンパの警備はより一層強める必要があるわね。
奴らに近づくほど、こちらもただでは済まない。もしかしたら次に狙われるのは……私は首を横に振って、この嫌な想像を断ち切った。
想像は現実になる。どこかで悪い流れを断ち切っておかなければならない。
捕らえられた人間を助け出すというのは、今回が初めてじゃない。かつてあった、リーンボックスのアイドル誘拐事件の際にはそりの合わない者と共同で仕事をしたものだ。
アクの強い面々を鬱陶しく感じることも多かったが、あのときとは違ってただ一人で
それに、まだ終わってない。もう一人いる。仲間がやられても静観していた奴が。
「ブラボー、ブラボー」
ぱちぱちと心ない拍手をしながら、そいつが奥から出てくる。目立つ金髪に、軽い口調。あの会合にいた一人だ。
「さすが俺とブレイブから逃げおおせただけはある」
「トリック……やっと追い詰めた」
「追い詰めた?」
彼はくくく……気取った笑い声をあげた。
「追い詰めただと? この状況が分からないみたいだな。お前はおびき出されたんだよ」
こんな簡単なことも理解できないのか? 大げさなジェスチャーで馬鹿にする。腕に巻きつけながら、床に垂れるほど長い鎖がじゃらりと音を立てた。
彼が動くたびに重ねられた輪がいちいち擦れる。それは病院でも感じた。こいつはあの場にも来ていたのだ。コンパを攫うことを自ら考案し、現地に赴き、人を殺した。すべてがこいつが仕込んだことなのだ。たった一人を攫うために、たった一人の『悪魔』と対面するために。
自分の存在で、コンパを危機に陥れてしまったことに、私は怒りを感じて距離を詰める。話し合いする気はなかった。
先に動いたのはトリックだった。腕を振るうと、遅れて鎖が飛んでくる。
私の拳が届く範囲外からの攻撃をしゃがんでかわす。近づく前に次々と飛んでくる金属を警棒で弾く。
鎖は厄介な武器だった。振れば中距離の武器となり、打撃を加えることも相手を絡めとることもできる。
素人が使えるほど簡単で扱いやすいものではないが、会得すればこれほど戦いづらい相手はない。
彼は拳にも巻き、パンチの威力を上げる。とはいえ、ブレイブほど近接戦闘に強いわけではなく、拳を避けるのは難しくなかった。
相手をするのはジャッジとブレイブ。会合で彼はそう言った。戦闘面で頼りにされているのはその二人なのだろう。トリックの役目はあくまで策謀や物資か、とにかくこうやって顔を突き合わせて戦うのは彼の得意とするものではない。
だが、ならなぜ今さら目の前に現れてきたのか。今までのことからも、彼が矢面に立って姿を露にするのを嫌うことは承知している。
私を引き寄せるにしても、納得のいかないことが多い。
鎖を盾にもしながら殴りつけてくるが、その動きにはキレと経験が少ない。数度打ち合いをしたところで実力がだいたいわかる。病院に攻めてきた兵士よりは強いが、所詮……というレベルだ。
一対一では大したものじゃない。
ぐるりと体重を乗せた回し蹴りに合わせて、私も同じ技を繰り出す。ただし私は彼の足の付け根を狙った。
カウンターの形で返されたトリックの身体はどすんと音を立てて地面に伏した。
「やるじゃないか」
攻撃を受けた箇所をさすりながら、トリックはゆっくり立ち上がる。
「お前が弱いだけだ」
「ああ、確かに。戦闘はジャッジとブレイブが担当だからな」
笑みは崩れないどころか、さらに口角を上げた。
「だからこそふさわしい。さあ、お披露目といこうじゃないか!」
トリックがパチンと指を鳴らすと、部屋の端に設置されていたスピーカーから音楽が流れ始めた。
いや、音楽というにはおこがましい。何の芸術性もない不協和音。黒板に爪を立てるが如く、人を不快にさせることだけを目的とした音。
振動を鋭敏に感じる私にとっては、毒にも似たようなものだった。頭が締めつけられたように痛み、脳みそがぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような嫌悪感が襲ってくる。
「何、これは?」
振動は全身で感じる。耳を塞いでも効果はなかった。あまりのグロテスクさに膝をついてしまう。
「お前が必死になって完成を阻止しようとした装置だ。これはまだプロトタイプだが、どうやら予想以上だな」
装置? 最近押収した金属材料を思い出した。スピーカーのパーツ。あれはこの音を作り出して拡散するために必要だったのか。
だけど、この音は一体何なのか? ただこの不快音を爆音で流すためだけにこそこそと裏で運んでいたのか?
「5pb.を知っているだろう。リーンボックスの歌姫。あいつは厄介なことに、俺たちを弱める力を持っていた。だが、俺はそれを利用しようとしたのさ。その能力を解析し、全く逆の力を生み出す音を作り上げた」
その人物も力も知っている。善を助け、悪を挫く歌声をもつ5pb.は、リーンボックス教会から厳重な警備を派遣されるほどの重要人物だ。
解析、と彼は言った。CDやライブを見聞きしたのではないと私はわかっている。
5pb.は一度犯罪組織に誘拐されたことがある。結果として救い出せた彼女の身体には傷もなく、そして何かを問い詰められたこともなかったそうだ。
あれもトリックが仕込んだことなのか。5pb.の能力を調べ、悪用するために。
大量に機材を運んだのは、実験のためというわけだ。
「とは言っても、まだまだ発展途上。これは大音量で流さないと意味がないし、複数人、恩恵の対象者がいれば効果は拡散される。その対象って言うのが、悪の心を持つやつなのさ」
トリックはうずくまる私に悠々と近づいてきた。
「お前には不協和音に聞こえるだろ。俺にはこの音がこれ以上ないくらい心地いいぜ」
「欠陥品だな」
あれだけの人間を利用して、膨大な時間をかけて、結局効力はそれだけ。女神に戦争を仕掛けるには何もかもが足りない。
私は挑発して返す。
「タフな男を気取るのはよせよ。お前が女だってことはブレイブから聞いてる」
トリックは一番のにやけっ面を見せた。騒々しさの中でも鼓動がうるさく聞こえた。図星を突かれたことを誤魔化そうとするが、あまりにも急で露骨に狼狽してしまう。
「褒めてたぜ。しなやかな身のこなし、緩やかな身体の線……あとは忘れたが、とにかく戦闘に関しちゃ、あいつの言うことは絶対だ」
あの数分間にも満たない戦いの中で、私が女だということを見抜くなんて……迂闊だった。
「ほんと、女ってのは恐ろしいよなぁ。マジックもあのガキも、敵に回したくねえ。犯罪神を蘇らせるためにガキに手をかけようとするやつらだからな」
「っ!」
完全に油断していたトリックの顎に、警棒を一閃する。普通なら骨が折れ、顎が外れる一撃だったが、その手ごたえはなかった。
「いってえな!」
トリックの足が腹にめりこんだ。既に上下が怪しくなっていた私は、受け身を取ることもできずに転がった。
吐き気を抑え、立とうとするが力が入らない。この音はトリックを強化するだけでなく、私を弱体化させているのだ。5pb.の歌とは真逆。
ダメージが重く鈍く響く。戦闘慣れしていないはずのトリックの一撃だけでこれなのだ。もしこれがブレイブの元に渡ったら……
「欠陥品ってのは認めてやるよ。てめえみてえな女にダメージを貰うなんてな!」
鎖が叩きつけられる。まるでハンマーで殴られたような重さに悲鳴を上げてしまう。それを何度も何度も繰り返された。
「あれが完成したら、俺はこの世界の支配者になる。この世界に君臨するのさ。第二の犯罪神として、クソどもに恐怖を与える!」
「させると思う?」
喉を絞り出して、抵抗の声を上げる。だが全身はじんじんと熱をもち、限界を訴えてきている。
「思う思わないはどうでもいい。そうなるんだからな」
トリックはやっと攻撃を止め、しゃがんでできるだけ視線を合わせてきた。
「結果がすべてを物語ってるだろ。女神が独りだけになり、支える者のいなくなった国にしがみついている。破滅を求めてるんだよ、この世のクソどもは」
「違う。破滅なんて求めてない。げんに私はこの国を守ろうと……」
「守っているのは極少数の人間だ。すべての国民が団結すれば、俺たちなんざ簡単に止められるはず。平和か混沌を
「馬鹿にするな! 私は女神様の跡を継ぐために、お前たちみたいなクズと戦ってるんだ!」
拳が白くなるほど握って一矢報いようとするが、やはりままならない。それならばと少しでも負けていないことを示すために言葉を吐き捨てる。
「殺すなんて生ぬるい。お前たちには一生苦しんでもらう」
「違う」
トリックは迷いなく即答した。子どもを諭すように指を振って、ちっちっちと舌を鳴らした。
「違う違う。自分を騙すなよ。お前が人を殺さないのは、一線を越えてしまうのが怖いからだ。大義のために殺してしまえば、俺たちやお前の大好きな女神と何にも変わらないことになっちまうからなぁ!」
「女神様と……?」
何を言っているのかわからなかった。お前たちと一緒に見られるのは屈辱だ。だけど、なぜそこに女神様が出てくるの?
すっかり困惑した私の顔を見て、トリックも一瞬困惑した。その顔はすぐに玩具を見つけた子どものようにほころぶ。
「何も知らないのか? これは傑作だ。知らずに力を振るってたわけだ!」
「何を言ってるの!」
「お前のだーい好きな女神様の命を奪ったのは、俺たち組織でも、犯罪神でもない」
これ以上の問答は必要ない。お前が一体何を知っているのか今すぐ教えろ。そう言おうとしたとき、トリックも焦らす気はなかったのか、口を開いた。
「パープルシスターだ」
何を言っているのかわからなかった。何かの比喩? 私と同じような誰かの二つ名? それがプラネテューヌの女神様だと気づくのには、数秒を要した。
自分の携帯端末を取り出し、ある動画を見せてきた。
そこに映っていたのは、どこかの街だ。私はそこを知っている。ルウィーの街の端っこだ。
建物に隠れながら撮っているが、そこに現れた人影がパープルハート様とパープルシスター様だということはわかる。対するように現れたのは、我が敬愛の女神様三人だ。
「うそ……」
短く言葉を交わしたあと、その動画には信じられないものが映っていた。女神様たちが武器をもち、争い始めたのだ。
まるで戦争だ。相手を潰うための戦い。
なんで? なんでこんな戦いをしているの? そんなことをして、何になるの?
やがて決着がついた。数の不利を押しのけて、紫が白を下した。
膝をついたブラン様が何かを言う。それを受けてパープルシスター様も返す。
何を言ったのかはわからない。だがそれが何にしろ、パープルシスター様の決心を固めた。
紫色に鈍く光る剣を突き刺した。パープルシスター様が……ブラン様を……突き刺した。
糸が切れたという表現がぴったり当てはまるほど、ブラン様の身体から力が抜けたのがわかる。
ぐにゃりと世界が揺れた。心を裂くような痛みが、今まで信じてきたものを壊す。それでもまだトリックの流す動画は事実を映し続ける。
「ああ、こんなにも可愛らしい女神サマにも手をかけて、パープルシスターサマったら容赦がない」
パープルシスター様が、大きな剣でラム様とロム様を貫く。小さな身体に信じられないほどの大きな傷がつく。
彼女たちは倒れた身体で、じりじりと数センチを埋めようとする。かたつむりが進むスピードよりも遅く、無限にも思える距離を縮める。そうして触れ合った指先は、血の中に沈んでいた。
死にゆくことの恐怖を我慢できずに泣き出した彼女たちは、最後の最後、消えゆくまで手を離さなかった。
「嘘嘘嘘」
それしか言えなかった。こんなのは何もかも嘘だ。こいつがねつ造した虚像に決まっている。
そう思いつつも、私は目が離せない。嘘だと信じたくても、揺らいでしまう心がある。認めてしまいたくなくて、壊れた機械のようにただ『嘘』としか言えない。
「どう思おうと自由だ。だが、真実は変わらない。今あるプラネテューヌは女神たちの死の上に成り立ってるのさ。喜べよ、犯罪神が倒されたのも、俺たちの勢力が弱まったのもそのおかげなんだからな!」
「私は……私の信じてきたものは……」
「俺たちを倒したところで、復讐は遂げられない。ただ少しだけ、この国が静かになるだけだ」
トリックの鼓動は、いたって平静な男のそれだった。こんな変な男だから、私の反応を見て楽しむために鼓動を操るくらいはしてみせるに違いない。
きっと、きっとこの動画は間違ってるに決まってる。毅然とした態度で言うことが出来ればいいのだけれど、私の口は動かなかった。
響く音楽が完全に私の身体から力を奪う前、何かが聞こえた。走っていた車が止まる音、そして誰かが出てきた。五人分の足踏み。まだ屋敷の前で警戒しているが、入ってくるのも時間の問題だ。
「ちっ、喋りすぎたか」
トリックは心底面倒くさい顔をして闇の中に去っていく。鎖を引きずる音が徐々に、徐々に遠ざかっていき、ついには完全にいなくなった。その瞬間ぱっと音が止んだ。途端に力が戻ってきた。
とはいうものの、打ちのめされた身体は痛みに浸かっていた。猛烈な熱さに逆らい、なんとか立ち上がる。抑えることもできず叫んだ。
こんなところで倒れたままでいるわけにはいかない。ずりずりと足を引きずって、窓へ足をかける。同時に扉から入ってきた人影と入れ違いになって、転げ落ちるように庭へ飛び出た。
朦朧として揺れる視界の端に、ルウィー教会調査部隊の黒いバンが二台見えた。大仰な不協和音を聞かせられれば、そりゃ向かってくる。
迅速に仕事をこなしてくれるのは頼もしいが、いまは目障りだ。
もうとっくに日は沈んでいた。灰色のスーツはその効果をいかんなく発揮し、私の姿を隠す。なによりも調査部隊の目はこの屋敷の中にだけ注目がいっている。逃げるのはそう難しくなかった。
ここで敗走するのは二回目だ。胸の奥からこみ上げてくるものだある。怒り、悲しみ、哀れ、無力さ、それら全部と言ってもいい。巡る負の感情が身体を突き動かす。
心が昂っていたが、身体は限界だった。家に着くころには痛覚と振動覚以外が消えたように感じ、何故歩けているのか不思議に思ったくらいだった。
誰も近くにいないことはわかっているが、念のために窓から入り、そのまま床にごろりと倒れた。
全身が熱をもって、痛みを叫んでいる。手足を何とか動かして、這って進む。動くたびに意識が遠のいていく。目は開けているつもりだが、景色が暗くなっていく。
最後には目の前が黒だけになって、感覚も意識もぷつんと切れた。