その日は、しとしとと雨が降っていた。
こんなときくらい晴れならば、とは思ったが、しかし天も泣いてくれているなら受け入れるのもやぶさかではない。
目の前に広がる景色は黒で埋め尽くされていた。黒い服に黒い傘、おまけに場にいる全員が表情まで陰に覆われて暗くなっている。
唯一違うのは、いままさに地の中に埋められている白い棺だけだ。そこに何も入っていないことは、みんなが知っている。
ここは死に去った者が埋められる墓所だ。だが、この棺の上に墓標は建たない。いま弔っているのは、死んでしまったと知られてはいけない人物なのだ。
『ホワイトハート』と刻印された文字が土で見えなくなる。
葬儀を執り行うと聞いても何の反応も示さなかった者の大半が涙を浮かべていた。薄情だとかセンチメンタルなわけじゃない。最初に言われたときは……つまり、『死んだ』と聞かされたときは実感が湧かなかったのだ。
あまりにも唐突で、感情が止まってしまったのだ。誰もが信じたくなかった。しかしたとえ死体がなくとも、こうやって場を与えられれば、事実を認めざるを得ない。
音楽もなく、生前の成し遂げたことへの謝意もない。終わりの合図もなく、一人、また一人と去っていく。ついには私一人になってしまった。
何時間経っただろうか。雨に濡れた身体はすっかり冷たくなって、出る息は白いが、足は動かなかった。
私は何を見ているのだろう。何を想い、何を感じて立っているのだろう。見える先には何もない。ブラン様が生きていた証も身体も、魂すらここにはないだろうというのに、なんで阿呆みたいに突っ立っているのだろう。
私に影が差して、雨が遮られた。止んだんじゃない、傘が差されたのだ。
そこでようやく雨の音が耳に入った。振動覚で無数の雨粒をより鋭敏に感じるはずなのに、一切感じなくなっていたことに驚きもしなかった。
隣に立つミナ様は何も言わずに傘を差し続けた。そこからまた何分経ったかわからないけど、そのままじゃいられなくて私が口を開いたから、そんなに長くなかったと思う。
「お呼びいただき、ありがとうございます」
「あなたには知る権利がありますから」
本来ならばこの墓所が埋め尽くされるほどの人数が集まるはずだが、情報は制限されていた。
公には、女神様は行方不明ということになっている。女神様が死んだとあれば、混乱と混沌が国を支配する。女神様がどこかにいるという希望が、人と国を繋ぐ最後の糸だ。
そんなわけで、この葬儀に呼ばれたのはごく一部、本当に信頼できる人間だけだ。
「本当にお亡くなりになられたんですね」
ミナ様はこくりと頷いた。
「そう……ですか」
彼女は嘘をつくような人ではない。それは何年も一緒にいてわかる。緊張や焦燥することはあっても、偽りを発することはなかった。
首を縦に振るという単純な動作だけでも、説得力がある。
女神様と犯罪神の最後の戦い。事実を知る者の中で非公式に『救世の悲愴』と呼ばれる戦いの結果は相打ち。帰ってきたのは、パープルシスター様だけだった。
多くどころか、ほとんど何も語らない女神様に代わって事の顛末を話したのは、教祖様だ。国家が保存していた公式資料でさえ捨てられ、書き替えられ、女神様の死は秘匿された。
女神様がいなくなれば、もちろんその加護は消え去り、信仰の力で得られていた安寧は崩れる。そうなれば人と国を繋ぐものはなくなってしまう。
いずれ、国と呼べるのはプラネテューヌだけになる。
それだけは避けたかった。女神様がいたことが記憶からも記録からも消えてしまうことだけは、どうしても耐えられない。
「ミナ様はどうするんですか?」
「ルウィーに居続けます。ここを離れるなんて、できませんから」
誰よりも強く眩しいブラン様の姿は、象徴として残っている。その象徴はルウィーという国として、そしてそこで育った私たちという形で残っている。犯罪神が倒され、平和となった世界自体として残っている。
ブラン様と、ラム様とロム様とも家族同然であったミナ様は、それ以上に残されたものが心の中にある。だから離れられない。使命の上でも、感情の上でも。
「リリィさんは?」
「私も残ります。ブラン様が守ったこの国を守り続けます」
ルウィーを離れられないのは私も同じだ。離れることを『しない』のではなく、『できない』。
この国は故郷で、私のいるべき場所。ここを捨てることは許されないし、したくない。
私の理想とする世界を、ブラン様は見せてくれた。ならば今度は、彼女の理想とする世界を創ってみせる。
「ルウィーを壊させはしません」
「そう言うと思っていました」
ミナ様は微笑んで続けた。
「リリィさんは国の運営側として、私の隣で働いてほしいんです」
ミナ様はこちらを見た。私も目を合わす。
悲しみの色を浮かべながらも、底には希望が宿っている。この先がどうなるかはわからない。なら、より良くしていくしかない。
「ルウィーはこれから混迷の時代を迎えます。支えるのは私たち。幸い、この国に残ってくれる人たちは少なくないので大丈夫でしょう」
「願わくば、そうなってほしいものです」
そう、願わくば、国に尽くした女神様のように、この国を私の最期の場所としたい。ルウィーをあるべき姿にした後で。
そのためなら、私は悪魔にだってなってみせる。
△
光が差し込んできた。ぼんやりとした頭ではそれを認識するのでいっぱいだった。
窮屈さを感じて立ち上がろうとする。横になったまま、意識を失ってしまったのか。
そこで、私は奇妙なことに、ベッドに寝かされていると気づいた。無意識のうちに辿り着いたのだろうか。しかも、パジャマを着て、包帯を巻いて?
ふと、何かが流れるような振動を感じた。洗面所へ通じる扉から音が聞こえる。
私の部屋で誰かが水を流している。
歯を食いしばって上半身を起こすと、その振動が止んだ。代わりに誰かがそのドアへ近づく。
手の届く範囲には武器はない。
ノブが回される。ゆっくりとドアが開いて、現れたのは見知った人物だった。
「寝ていてください」
手をタオルで拭きながら、ミナ様がこちらに近づく。昨日から着ているであろう緩い私服には、普通ではない量の血にまみれていた。聞かずとも、それが私の血であることはわかった。
「ミナ様……これはあなたが?」
「はい。医者を呼ぼうとしたのですが、引き留められました」
「誰に?」
「あなたに、です」
そう言って頬をさする。残った力でミナ様を殴ったのだろう。綺麗な白い肌が青く内出血を起こしている。正体が他人にばれることを恐れて、無意識のうちにやってしまったのだ。
それよりもまずいことは……
「『悪魔』だってことを隠してたんですね」
単刀直入にずばりと言われた。ミナ様の心臓が今まで聞いてきたなかで一番跳ね上がる。
何かの間違いであってほしいと願っているのだろう。自分の秘書が、夜な夜な人を傷つける『悪魔』であるとは信じたくないのだ。
否定の言葉を待っていたミナ様に、私はこくりと頷いた。
「あなたが知ってたとしても、何も変わりませんでしたよ」
悪魔のスーツも戦いの傷も見られている。もう隠せない。
私が言ったことの意味、つまりリリィは『悪魔』だということを知らされて、ミナ様の鼓動が余計に早くなる。
「これは私が望んだことです。手順を踏んで、許可を貰っても、私の戦い方は変わらない。徹底的に痛めつけて、情報を得て、次の標的を叩きのめす。その繰り返し」
「どうして……どうして」
唇が震えて、次の言葉を発せないミナ様。私は察して口を開く。
「ブラン様も、ラム様もロム様もいなくなった。散るには若すぎました」
実際、彼女らが何歳なのかは知らないけど、どれだけ生きていたにせよ、死ぬには早すぎるし殺される理由もない。
だから理由が欲しかった。殺されなければならなかった理由と、それが隠された意味を。
「ブラン様とロム様、ラム様が死んだ原因は何なんですか? 犯罪神と相打ちになったのは本当のことですか? パープルシスター様に殺されたのは本当なんですか?」
「それは……」
「本当なんですね」
トリックの嘘ならどれだけ良かったか。たった一言『違う』とさえ言ってくれればそれだけで済んだ。あの動画も言葉も何の意味もない戯言だと一言でも証明してくれればじゅうぶんだった。
だけど言い淀んだこと、鼓動の早鳴りが何よりも雄弁に答えてくれた。
そのことよりも私が傷ついたのは……
「私を騙してた」
「違います! 私は……」
「知る権利があるって言いましたよね。真実を知る権利はなかったんですか? 私を利用したんですか。復讐心を利用した!」
頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出していく。次の瞬間、私は驚くものを見た。
「じゃあどう言えばよかったんですか!」
テーブルを力任せに叩いて、声を荒げるミナ様なんて初めて見た。顔を歪ませて、必死に訴えるミナ様なんて……
「『どうも、リリィさん。あなたの崇拝する女神様はまとめてネプギアさんの刃に貫かれてしまいました』とでも言えばよかったんですか?」
気圧されて、私の勢いが弱まる。
「もっと……言い方はあるでしょう」
「どう言いつくろっても変わりません。真実はあなたが思う以上に残酷なんです。そこまで背負わせたくなかった」
「ルウィーを支えていくのに、女神様の死の真実を背負う覚悟が無いとでも思ったんですか?」
心外だ。ずっと昔から女神様と共に戦ってきた私を、そんなにも見くびっていたのか。
「私が『悪魔』と呼ばれても戦ってるのは、何のためだと思ってるんですか。犯罪神がいなかったとして、いまも女神様たちが生きていると言えますか? 私には思えません。悪に染まる者がいる限り、危険は避けられない」
身体のどこが痛んでも、構わずにまくしたてる。
「女神様が死んだとあなたに教えられたとき、無力だと感じました。表に出る悪事を叩いて退けても、それは氷山の一角であると。大元を叩かないと、この世界は変わらない。私がやるべきは、法や規制を超えて犯罪を未然に防ぐこと。私ならそれができます」
「今まで『悪魔』の仕業と言われているのは、全てあなたがやったんですか?」
「そうです」
「人を、二度と立てないようにして、まともに喋れないようにしたんですか」
私だけじゃなく、ミナ様の語気も強まる。
「法があるのは人を守るためです。人が過ちを犯すのを留め、間違いを犯した人を更生させるチャンスを与えるためです。あなたはその番人であることに、誇りを持っていたじゃないですか!」
「その結果が!」
ここまで話して何もわからないの? 限界に達して、私もついには立ち上がって叫んだ。
「犯罪組織の台頭に、モラルの低下! 女神様も死んで、国としてしっかり機能しているのはプラネテューヌだけ! 悪魔と呼ばれても、この国をこんなことにした奴たちを痛めつけてやる。そして教えてやる、間違いを犯せば痛みが飛んでくると。殺しはしないのは、一生を苦しみで満たしてやるためよ」
「人には改めるチャンスを与えるべきです」
「ホワイトハート様とホワイトシスター様たちがああなってしまったのも、そうやって甘くしてたからです。更生するチャンスなんて、与えたところで何も変わらないのが現状よ! 女神様がいなくなって、混沌としたこの時代には、この国には悪魔が必要なんです!」
私の怒りは頂点を越えてしまった。犯罪組織の動きを掴んでいるのも、すべて私だ。私が『悪魔』として戦った結果は良いものとして反映されている。なのに、なんで、なんでこの人は否定するの?
「悪魔が戦ってくれたおかげで、犯罪は減っています。組織の動きも徐々に沈静化していっています。この国には、確かに悪魔が必要なのかも」
ミナ様は真っすぐに私を見て、努めて冷静になろうと静かに話す。
「でも、私にはいりません。私が必要としているのは、悪魔じゃありません。リリィさん、私にはあなたが必要です。悪魔なんかではなく、友人として」
それが全ての答えだった。その言葉を聞いてしまった瞬間、私の怒りも疑問もすっかり消えてしまった。
彼女はすとん、とソファに腰を落として、手で顔を覆う。手から透明の液体がこぼれ、肩が震えていた。
「あなたまで失ってしまったら、私はどうすればいいんですか」
ここまで話してきて、ずっと違和感があった。その正体は私とミナ様の違い。私は女神様やブラン様の部下として、そして『悪魔』として、この国を守る立場から語った。
だけど、ミナ様は友人として私と話していたのだ。彼女が主張とは全く逆のことをやってみせている私を、まだ友と呼ぶのか。
怒りも悲しみも憎悪も後悔も、負の感情がないまぜになって、彼女にふさわしい言葉を返せない。
床に転がっている『悪魔』のスーツ一式を持って、外に出ようとする。
トリックは私を亡き者にしようとした。なら、また姿を現すはず。いままで隠れていた敵を倒せるこんなチャンスはもうない。
だけど、怪我を抜きにしても足はとても重く感じた。
「もう放っておいてください」
「できるわけないじゃないですか!」
こんなふうに私は止めてほしかったのかもしれない。
誰かに間違いだと言ってほしかったのかもしれない。
けど、もう止まることはできない。私は『悪魔』になることを選んだのだから。
泣き叫ぶミナ様を置いて、私はその場を去った。