病院はひどく荒れたままだった。
応急的に片付けはされているものの、血はそこらじゅうにこびりついてるし、壁や床につけられた傷はそのままだ。
昨日の今日だから受付はしていなかったが、私は入ることを許された。調査という名目だが、実際は治療だ。
「今までで一番ひどい傷です」
いないと思っていたコンパは、私を見かけるなり寄ってきた。痣の残る私の顔を見て、ため息をつきながらもすぐに応急処置をしてくれた。
「いてくれて助かったわ」
彼女の腕でも傷つけられた身体全部は治せなかった。トリックの攻撃は、それほど強烈で深かった。
「誘拐されたって聞いたわ」
「はい。でも助けてもらって……」
誰に? とは聞かなかった。
あの経験はコンパに恐怖を植え付けた。処置するときは抑えているものの、それ以外では腕は小刻みに震えている。思い出させるのは酷だろう。
犯人や救出者について訊かないのは不自然だが、私は逸らした。
「怖いなら休んでもいいのよ。プラネテューヌに戻っても、誰もあなたを責めない」
コンパは首を横に振った。
「人がいっぱい殺されました。でも、まだ生きている人もいます。見捨てるのは私が嫌なんです」
使命だとか役割だとかを越えて、『嫌』。それが彼女の強さであり、弱さなのだ。見捨てることが出来たら、全員は救えないと納得できたなら、彼女はこんなにも苦しまなかっただろう。
「本当なら、リリィさんにも入院してもらいたいくらいですっ」
「いたた……」
医者の仕事の一つは、患者に不安を与えないこと。
包帯をぎゅっと縛ったコンパは、無理に笑顔を作った。
「でも、やるべきことがあるんですよね」
彼女は腕を伸ばして……ひっこめた。
「ここで留めるべきか、それとも行かせるべきか、私にはわかりません」
ルウィーとプラネテューヌの女神様の、生死をかけた戦い。あの場には、女神様とともに旅をしていたはずのアイエフもコンパも映っていなかった。
あれは世界の行く末を決める戦いでもあると同時に、女神様だけでつけるべき決着でもあった。
止めていたら、世界は終わっていたかもしれない。
先にある未来を背負うことは、コンパにとって耐えられないほど重いものだったのだろう。だから選ぶことができない。仲間とそれ以外を天秤にかける選択を、彼女はしたくないのだ。
「私は……」
コンパが私のことを心配してくれるのは痛いほど伝わってくる。だからこそ、必ず戻ってくるなんて無責任なことを言えなかった。
沈黙の中で、ぴりりりと音が鳴った。私の携帯電話だ。相手はアノネデス。
彼女とそれ以上話をしないまま、私は立ち上がった。
ブラン様。あなたもこんな気持ちだったのでしょうか。
帰りを待ってくれる人の温かさと、それに応えられないかもしれない切なさを抱えて、戦いに行ったのでしょうか。
なら、あの時の私は、いまのコンパのように涙を浮かべていたのでしょうか。
一体、私はこの国に何を残せただろうか。最後の約束すら交わすことができずに、残すもののない私は、誰に何を託せばいいのだろう。
「遅かったわね」
「だから、二、三日かかるって言ったでしょ?」
そうか、まだそんなに経っていないのか。
自分がやるべきだと信じることのために、友人も捨てて、命すら投げだそうとしている。最後にアノネデスに会ったときには、そんなことになるなんて思ってなかった。
「なにかあったの? お友達が誘拐された件かしら」
相変わらず耳が早い。そのことはまだ、ほとんどが知らないはずなのに。
「あの子は大丈夫。強いから」
自嘲気味にふっと息を吐き出した。
アノネデスは一枚の紙を差し出してきた。地図だ。とある一点に赤色の点がつけられている。
「これ、あれがどこに運ばれるの予定だったのかを調べたわ。モンスターディスクや薬はともかく、他の色んなものはここに運ばれてるみたいね」
ようやく敵の本拠地を暴けた。ここにトリックがいるはず。
これまで苦労してつかめなかった情報があっさり手に入ったということは、これは罠だと直感的にわかる。
奴らは『悪魔』を排除する気でいた。ここをその最後の場所にするつもりだ。でも私は行かなければいけない。止めなければルウィーは犯罪組織の手に落ちてしまう。
誰かがやってくれるなんて期待はこれっぽっちもできない。それが叶うなら、私はこんな選択をしなくて済んだはずだ。
罠に飛び込むのはやはり夜にすることにして、闇を待つ間に私は街を見て回った。
昨夜の事件はすでに知られていて、恐怖で街に繰り出す人は少ない。臨時休業する店だって多かった。
まるで、女神様がいなくなったときみたいね。
この国はまたしても振り出しに戻ってしまった。いや、もしかしたらずっと進んでいなかったのかもしれない。
ルウィーに住んでいながら、女神様をこき下ろす者だっていた。それが、いなくなったらいなくなったで不安に苛まれる。
人は現状に不満を漏らす生物なのだ、とトリックが言っていた。いまそれを身をもって感じている。
善の世界に悪が生まれ、悪の世界を正すために善が対抗する。繰り返して繰り返して繰り返して、ずっと終わらない戦いを生んでいるのが人の心なら、理想は手が届かないものかもしれない。
でも、私は残された者として、理想を掴み取る義務がある。
日が落ちてきたころ、自宅には誰もいなかった。
感情のままに飛び出して、お金もスーツも置いたままだった。ミナ様が残っていなかったのは幸いだ。きっといまごろは教会で仕事をしているのだろう。
着替える前に何かないかと冷蔵庫を開ける。ラップの巻かれた皿があった。もちろん料理を作った覚えなんてない。
ミナ様が作り置きしてくれたのだ。
『食べてください』と書かれた小さな紙が上に置かれている。なんでもないような一日のように、私がとても遅く帰ってきただけの日と同じように、他のものも他に書かれていることもない。
あれだけ言い合いをして、彼女の私に対する接し方は変わらない。
温めた肉じゃがを口に運ぶ。ぼろぼろと涙が溢れてきた。
全てを投げ出してしまいたかった。ただ楽観的に残りの人生を過ごして終わりにしたかった。
生きたい。
ブラン様も、ラム様もロム様も願ったはずだ。今際の際に願った一つの願いさえ、この世界では叶えられない。
私はもう一度決心する。
私がここでやめるわけにはいかないのだ。
驚くほどの静寂だった。
元々家電の試験場兼量産場であったこの建物は、いまはもう稼働していない。だが、その一階には数台のトラック、そして開けられた段ボール箱やコンテナがいくつも転がっていた。
振動覚をフルに活用し、待ち伏せがいないことを確認しながら三階に上がる。
電源はついているものの、照明はついていないから、頼りになるのは窓から差し込む月の光だけ。私は暗闇の中でも戦えるけど。
量産棟の三階に上がって辺りを見る。小さな休憩所や開梱場を横目に通り抜けて奥へと進む。
元のものは流石に全てのものが撤収されていて、見慣れた機材が雑に積まれている。前にトラックから回収した、あのスピーカーのパーツだ。
試験場とあれば、防音の設備も整っている。そこで実験されたんじゃ、外に音が漏れることはないからばれることもない。
試作場と書かれた横開きの扉を開ける。十五メートル四方の部屋に工具はまったくなく、中央には大きなスピーカーがつけられている。だが、それを囲うようにして防弾ガラスが設置されている。
その陰に隠れるように男が座っていた。鎖を首に巻いたトリックが、私を認めるなり立ち上がった。
たくさんの部下がいるはずなのに、わざわざ私をおびき出しておいて、この建物にはたった一人。それは私も同じか。
「来ると思ってたぜ」
「わざと情報を流したわね」
「そりゃもちろん。俺個人としても、お前の存在はやっかいそのものだからな。だが追おうとしてもお前は逃げおおせる。なら、おびきだすしかない」
「おびき出されてあげたわ」
ぐっと両の足に力を込めて、両手に警棒を構える。
「ここで決着をつけよう。お前か俺か、どっちかが死ぬまで終わらないぞ」
スピーカーからあの音が鳴る。断末魔のような不協和音。
ゆっくり話すつもりはない。正体を暴くなら、殺したあとでじゅうぶんだということだ。
悪の強化を一点に集めて叩きのめそうというのだ。昨日と同じように。
二度目だからか、不協和音は前よりも気にならなくなっていた。
先に動いたのはトリックだ。
彼のチェーンが伸びる。首へ跳んできたそれを、警棒で弾いた……つもりだったが、鎖は警棒に巻き付き、腕ごとか絡めとられてしまった。
グイっと引っ張られて体勢を崩しかけたところを、空中で一回り、着地してバランスを取り戻す。逆に引っ張ってやるが、トリックは少ししか動かない。
彼がにやりと余裕をかましている間に、ガラスに肘を打ち付ける。予想通りびくともしなかった。
ピンと張った鎖を、トリックが巻いていく。私が鎖を外したころにはすでに目の前に迫ってきていた。
鎖が巻かれた拳を避ける。追撃のラッシュも避けていくが、じりじりと後ろに下がりつつある。ついに壁に背中がついてしまった。ここぞとばかいの大振りパンチをこれまたしゃがんでかわす。
壁が砕けて、トリックの動きが止まった。腕が壁にめり込んだのだ。
足、脇腹、首に武器を打ちつけ、顔面を突く。後ろによろめきながらトリックはのけぞる。その隙をついて、今度はこっちが仕掛ける。あらゆる個所を立て続けに叩き、全てを潰そうとする。
どこも折れた感触はない。ならばと警棒の先を伸ばし、ワイヤーで首を絞めた。殺してしまいかねないほど強く絞める。
「まだだな」
攻撃をした場所すべてに、ダメージが通ってない。普通なら血が止まって意識がもうろうとしてもおかしくないのに、トリックは笑いながら近づいてくる。
「まだ足りねえ!」
あっけにとられた私の顔に、トリックの拳が飛んできた。強烈な一撃に私は吹き飛び、肺から空気が残らず吐き出される。
トリックはせき込む私の傍に立ち、容赦なく蹴りを浴びせ、鎖を叩きつけた。
一撃一撃が身に染みる。この脳に響く音は、異常なまでの力をトリックに与えている。
「なぜお前が負けると思う?」
ひとしきり攻撃を終えて、横たわる私に言った。
「弱いからだ。自分が正しいと思い込んで、正義は勝つと自惚れているからだ!」
もう一度、思い切り蹴られる。私の身体は転がり、壁にぶつかるまで止まらなかった。
意識が混濁して、上も下もわからなくなる。
△
「ホワイトハート様」
何故か、昔の景色が浮かんできた。
「その、ただの街の見回りとはいえ、護衛が私一人でよろしいんですか?」
「あまり大仰に人を連れるのは好きじゃないの。それにあなたなら信用できるわ。あなたの功績は私も認めてる。もう少し自信を持ちなさい」
「あ、ありがとうございます」
ルウィーの街を二人で回る。
これは……ブラン様が戻ってきてすぐのときだ。ラム様やロム様たちが奮闘して墓場から女神様を救出したあと、ブラン様は私を連れだしたのだ。
「お身体は問題ないのですか?」
「まだ本調子ではないけど、そんなこと言ってられないわ。この街がどれくらい変わったのか見ておかないと」
ブラン様らしい。こちらに戻られてからすぐだというのに、自分の身体より国のことを考えてくれている。変わらないことに安心すると同時に心配もする。
少しは安心してもらうために、これまであった事件と解決した経緯を説明しながら歩く。
「ミナ様もラム様もロム様も立派にこの街を守ってくださいました」
「あなたもね。みんなから聞いてるわ」
みんなというのが誰を指しているのかわからないが、ブラン様に認めてもらうのは心地が良い。
褒められたいとかいうつもりで仕事をしてきたんじゃないけど、この方の賞賛一言で報われた気分になる。
「ホワイトハート様と約束しましたから」
『戻ってこなければ、ルウィーと妹様たちの面倒を見る』。三年間ずっとその約束を守ってきたつもりだ。
「待ってくれる人がいるなんて、私は幸せね」
ブラン様が立ち止まる。さあ、と風が吹いて、彼女の短い髪を揺らした。
「ホワイトハート様?」
「ブラン。そう呼んでくれないと、返事してあげないわよ」
知らない仲じゃないんだから、と付け足して彼女は空を見上げる。そう呼べと言われて、呼ぶことを誓ったが、それは周りに誰もいないことを条件とした約束だ。いまは街中で、誰もがブラン様に注目している。手を振り、お辞儀する者だっている。
「……ブラン様」
だけど返事しないと言われれば、折れるしかない。そこにいるのに返ってこないなんて辛い。そんなのは夢の中だけでもうたくさんだった。
「あなたたちがいるなら、きっとルウィーは大丈夫よね」
独り言のように呟くブラン様の背中は……ものすごく小さく見えた。彼女の身体は、ルウィーによく降る雪のように溶けて消えてしまいそうで、その腕を掴んでしまいたい衝動に襲われる。
「変な気は起こさないでくださいね」
「保証しかねるわ」
即答してしまった彼女の心中には何が渦巻いているのか。鼓動はとても嫌な穏やかさを保っていた。
まだ戦いは終わってない。むしろ女神様が戻られたこれからが勝負だ。私だってそんなことくらいわかってる。
あなたがどこかに行ってしまうというなら、それでも構わないから……
「ルウィーの誰もが、あなたを必要としてます」
最後には、ここに帰ってきてほしい。
「私にも、あなたがいないと」
ずっとあなたの姿を見せてほしい。ずっとあなたの声を聞かせてほしい。ずっとあなたの鼓動を感じさせてほしい。
名前なら何度でも呼んでみせるから、私の名前を呼んでほしい。
そんな願いは贅沢かしら。平和を願うことは、そんなにも難しいことなのかしら。
戦わなければ叶わないほど、あなたとの距離は遠いものなのかしら。
△
私は弱い。
ブラン様が捕らえられたのも、それを助けに行けなかったのも、女神様が殺されてしまったのも、私が弱かったからだ。
そしてまた、私の弱さのせいで悪をのさばらせてしまう。
私に必要なのは、戦闘スーツに身を包むことじゃない。闇に紛れてこそこそと動き回ることじゃない。
ルウィーに蔓延る悪を、どんな手を使っても絶対に潰す。
無力な天使か恐れられる悪魔か。やるべきことを果たせるなら、私は迷わず『悪魔』を選ぶ。
意識が冴えてきた。身体の底から力が湧いてきて、ぐっと立ち上がる。アドレナリンのせいか、痛みも気にならない。
トリックはにやりとして手を動かす。とどめの一撃、そのつもりで飛ばしてきた鎖はひどく緩慢に見えて、掴むのは容易かった。
「まさか、お前……」
ぼろぼろのはずの身体で、強化された力を受け止められる。おののいたトリックにハイキックをかました。彼の口から歯が何本か転がり、血が流れる。
信じられないといった顔で呆けるトリックを、二本の警棒で同時に殴る。肋骨が三本折れた心地の良い感触を感じ、振りぬく。
悲鳴が気持ちいい。
足をしならせて、胸を蹴る。また骨が折れて、トリックはガラスに激突した。無理やり立ち上がらせて殴る。ガラスにバウンドして戻ってきた身体をまた殴る。
ぴしっ、と何かにひびが入った。全ての感情を警棒に、あるいは拳に、あるいは足に乗せて叩く。
ついにガラスは粉砕され、中にあったスピーカーごとばらばらになった破片にまみれて倒れるトリックは、笑っていた。
骨が折れた身体で笑うのは苦しいはずなのに、それでも彼は笑う。おかしくてたまらないといった様子でずっと笑う。それはあの不協和音よりも耳障りだった。
「何がおかしい」
「笑わせてくれよ。正義を語るお前が、本当に悪魔になっちまったんだからなぁ」
破片を蹴とばして、私は胸ぐらを掴んだ。
「なに?」
「認めたくないのもわかるよ。だけど、事実として、お前は俺に勝った。勝ってしまったことが、お前が正義じゃない証拠だ!」
「何を……」
何を言ってるんだ。そう続けようとしたところを、トリックは指を振って制する。
「いいや、お前は分かってる。わかってるはずだ。今この状況でお前が勝利すること、俺より強くなってしまったことの意味が!」
拳を突き出して鼻を折る。だけどまだトリックは笑い続ける。とめどなく血を流して朦朧としながらもにやける彼に、思わず手を離してしまう。
彼は恐ろしく緩慢な動きでふらふらと彷徨いながら、部屋を出てゆっくりと窓へ向かっていく。
「お前がどうなっていくのか、地の底から見させてもらうぜ。最高に楽しかったよ、『悪魔』さん」
最後の力を振り絞って、トリックが飛ぶ。パリンと音を立てて彼の身体が宙に浮く。もちろん浮いたままだけでなく、地へ落ちていく。
「待てっ!」
手を伸ばしたもののとっくに遅く、どん、という音がした。窓から下を覗くと、ぐしゃりと潰れた頭から血も脳も、骨だって飛び出していた。ひしゃげた顔の中で唯一残っていたのは口だけ。まだ角度が上がったままの口だけだ。
狂気だ。化け物だ。あいつは感情のままに動いていた。だが、それは最も人間らしいともいえる。
そうだ。人間は人間であるが、化け物でもある。
割れた窓の破片に、私が映っていた。一瞬、私のいるところに別の何かが立っているかと錯覚した。角に牙、長くギザギザの舌をもつそれはすぐに消えた。今ここにいるのは、灰色の戦闘スーツに身を包んだ女だけだ。
そんな私のことを化け物だと訴える目で見てくる奴らは何人もいた。ただの人間のことを、いるはずもない悪魔だと誰もが恐れる。
それでいい。私は悪魔でいい。人間たちに恐怖を与え、その心を追い詰める悪魔でいい。
怯えるがいい。それを生み出したのはお前たちだ。お前たちが生み出した、女神様に仕える悪魔が世界を平穏にする。
そのことを、世界は思い知ることになる。