遠坂桜は幸せだった。
幼い頃の記憶を、桜はもうほとんど忘れてしまった。
特に間桐桜に成り立ての数年のことは一切覚えていない。
それでも遠坂だった時のことは覚えている。生まれてからたった数年間の出来事だったけれど、彼女の人生の中で最上の時間だったであろうことは確かだ。厳しいが聡明な父と優しく美しい母、そして血を分けた愛おしい姉。
忘れようもない平穏な日々。
今でさえ、あの頃に戻りたいと考えることがある。そのくらい特別で美しい時間だった。
(もう戻れないけれど)
数年前、桜は間桐家を名実共に継いだ。間桐の血が一滴も流れていない自分が当主となり、間桐の穢れきった魔術を正す。それがかつて祖父であった者への復讐になると信じて。
その時から、もう遠坂に戻れないことを悟った。
目の前の状況が否応なしに桜を間桐であると自覚させる。相対するのは白い軍服に身を包んだ細長い男。このご時世にこの国で軍服という格好も目を引くものがあるが、それよりも存在感を放つのは彼の腰に納まる日本刀である。しなりと佇む男とは対照的に禍々しい魔力を放ち桜を圧倒している。
この異様な状況も間桐の宿命かと息を着く。
魔術師は魔術師を引き寄せる、良い例だ。
男はふにゃりと緩く微笑んだ。
「こんばんは」
「……どちら様でしょう」
会話に応えながら、桜はじりじりと後ずさる。男の刀の間合いに入らないように、男の殺意を刺激しないように。
「そう警戒しないで欲しいな、今日は偵察だから」
「物騒なものを下げながらよく言いますね、崇高な魔術師であるならば名乗るべきではありませんか?」
「見た目と違って饒舌なお嬢さんだ」
はは、と乾いた笑い声を上げる。
「しかし僕は崇高な魔術師ではないからね、それに僕の正体は凡そその左手が気が付いているのでは?」
「…………」
左手の甲をさする。この男が突然目の前に現れてから、桜の左手はずっと疼きっぱなしなのだ。覚えのある微かな絶望に見ないふりをしていただけで、確かに彼の言う通り桜は予感を抱いている。間桐に与えられたその権限を、彼女に届いた招待状の存在を、確かに感じているのだ。
桜は震える唇でその予感の名を口にした。
「サーヴァント……」
男は帽子をつまみ、深く優雅な仕草でお辞儀をする。紳士的でありながらどこか不遜に見えるのは、彼が貼り付けているわざとらしい笑みのせいかもしれない。
「今はまだ戦う時ではないが──」
「っ!!」
圧倒的な魔力が、背後から桜を羽交い締めにする。
(この禍々しい魔力は……なに?!)
悪意でも殺意でもない、ただまっさらな暗闇のような、静かで恐ろしい魔力に身動ぎをする。だが桜の意に反して彼女の肉付きの良い身体はぴくりとも動かなかった。
「──貴女の相手は僕がしたいものだ」
暗闇に、おぞましい鱗のようなものが見えた気がした。
呼吸をするのもままならない。
それは身体に染み付いた恐怖。
いや違う、もう祖父はいない。蟲に食われることも拷問のような調整を受けることもない。それならばこの恐怖は染み付いたものではない。桜の魔術師としての本能が、この相手には敵わないと警報を知らせているだけに過ぎなかった。
(落ち着いて、間桐桜)
ぎゅっと瞼を閉じる。
こんなものに打ち砕けてはならない。
それは桜が目指す間桐ではない。
(私はもう絶望するだけのお人形じゃない)
再び目を開ければ、微笑む英霊の背後に見慣れた正義の味方の姿が視界に入った。
「先輩!」
「桜に──」
駆けつけた士郎は大きく剣を振るった。
「桜になにをしてるんだ!!」
肌は浅黒く、髪には白いものが見えていて、彼の姿はここ数年で大きく変化してしまい、桜はそれを胸が張り裂ける思いで近くで見てきた。いつか彼が道を違えてしまうのではないか。全てを棄てどこかへ消えてしまうのではないか、或いは全てのために自らを棄ててしまうのか。
士郎の養女、久遠の周囲へ強く影響する魔力のために士郎はそうは成らないと決めたはずの道に進みかけていた。
桜は、彼が久遠を桜に預けて国外へと赴く度にそのまま彼が帰ってこないのではないかと危惧していたのだ。
でも……。
(先輩は、いつだって私のヒーローだ)
そんな心配は無用だった。
いつの間にか桜の身体は彼女に還ってきていた。
「桜、無事か!」
「はい!」
頬の熱を感じながら大きく頷く。
面白くなさそうなのは軍服の英霊である。
「不意打ちだなんて卑怯だなあ」
やれやれと首を振る身体には傷一つない。士郎の剣が彼に届く前に上手く避けたのか、或いは何か彼の能力なのか。
今はまだ分からない。
「さっきも言ったけど、今日は偵察だから何もする気はないよ、ましてや血の気の多そうなお兄ちゃんは好かない」
ああやだやだ、なんて言いながら肩を窄めた。
「聖杯戦争でまた、逢おうぜよ」
不敵な笑みのまま、男はすっと光の泡となって消えた。
残された桜と士郎は〝聖杯戦争〟という単語に呆然と互いを見詰め合う。二人とも耳を疑いたい気分だった。
六騎の英霊が競い争う聖杯戦争。
もう半分もの英霊が召喚を完了させていた……。
遠坂桜(とおさか さくら)
かつていた、幸福で平凡な少女。
今はもういない。