風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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第十七話 真誠に非ず

 

 

 

 ――消えることのない感情というものが存在する。

 

 それは例えば、相手への印象が一切変わらなかったが故に。その情念があまりにも強く根深かったが故に。或いは、感情の強さを保ったまま心の奥深くに封じ込めたが故に。

 

 “人は忘れる生き物だ”とはよく聞く表現であるが、それは妖怪にだって当てはまる。意識と記憶がある限りその生物は須らく“忘れる生き物“なのだ。例外と言えば、そういう(・・・・)能力を持った稗田 阿求ら御阿礼の子くらい。

 記憶と感情は生まれながらに結び付いている。記憶は薄れ忘れていくのだから、感情もまた、基本的には(・・・・・)忘れ得るのだ。

 

 しかし、そんな中でも“忘れ得ない例外”は存在する。

 例えば人生の核となった記憶。人生を左右するような選択を迫られた時、その決定に大きく関わった人物のことを、人間は忘れようとはしない。

 例えば強烈な情念に溺れてしまった記憶。情念に溺れ、忘れたくても忘れられなくなってしまったその強烈な記憶は、俗に“トラウマ”と呼ばれ生涯忌まれるものだ。

 

 或いは、こんな特殊な例も存在する。

 情念を強く保ったまま、その存在を封じ込めて忘れようとする場合。

 

 これもある意味ではトラウマと呼ばれるものなのだろう。ただ、その強さに耐え切れず逃避した結果とも言える。

 己を保つために。

 狂ってしまわないために。

 理由は様々だろうが、どれも無意識に行なっている傾向が強い。

 

 ――つまりは、爆発寸前で堰き止められているだけなのだ。

 沸騰した鍋に無理矢理蓋をしているに過ぎない。少しの衝撃でそれは爆発し、或いはドロドロと溢れ出し、当人ではどうしようもない情念の波に飲み込まれる。

 

 そう、ほんの少しのきっかけ。

 

 例えば、“仇が生きていることを知った”、とか。

 

 暴風のようでも、溶岩のようでもあるその溢れ出した感情。どうしようもないほど強烈な感情の波に揉まれ晒され、その指し示す方向にのみ突き進むのが、こういった記憶を背負う者の典型例。

 その視線の先にいる相手に、仮に与り知らぬことなのだとしても、そんな事は躊躇する理由にはならない。

 

 そう、その行為の名は――。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「――こんな感じでどうでしょうか?」

「ふむ……良い出来だな。これで良しとしよう」

「毎度ありっ、です!」

 

 吹羽が満面の笑みでそう言うと、刀を受け取った男は懐から貨幣を取り出し、彼女の小さな掌に乗せた。

 ここまでが一仕事――と吹羽は受け取った代金を大切に勘定箱へとしまう。

 普段と何も変わらない、仕事の最中の正午である。

 

 これでまたお金に困ることも暫くはなくなるだろう。鍛治というものは肉体労働である故、その一々で得るお金は他の職業よりも明らかに高い。それが風紋まで付いて、しかもしかも職人の腕が達人級ともなれば、今現在設定している代金はむしろ良心的なレベルだった。

 まぁ、多少はお金を貯めないと手を出せない高級品であることに違いはないのだが。

 

 それでも吹羽に仕事の依頼が来ない日は少ない。

 刃物の修理から作刀まで、凡そ“利器”に当てはまるものなら何でも請け負えるのがこの風成利器店の――ひいては吹羽の強みでもある。知名度が低いためやたらめったらと仕事が舞い込む事はないし、鍛治自体に長い時間がかかる。程よい忙しさ、というやつだ。

 なかったらなかったで風紋開発とかしていれば良いし。

 

 今日もまた、一振り刀の修理を終えたところである。

 仕事の終わりは即ち、また一振り分吹羽の手によって“風の良さ”というものを伝えられた、という事だ。この仕事に対する吹羽の誇りとはここにある。

 見れば誰もが恋してしまいそうなその満面の笑みは、それ故ものでもあった。

 

 しかし、まぁ、それはこの人(・・・)には今更なことでもあるのだが――と、笑顔の裏でちょっぴり残念に思う吹羽である。

 何せ、こう見えてもこの男性は烏天狗(・・・)なのだから。

 

「評判通りの腕だな。長年の愛刀がまるで打ち直した新品のようだ」

「そう言ってもらえると嬉しいです。ボクも愛を込めて打ってますからねっ! 愛を!」

「……その言葉が強ち嘘でもなさそうなのが、その実力の裏付けなのかもな」

 

 ふ、と少し微笑み、烏天狗は修理の完了した刀を改めて眺め始めた。

 実はこの天狗、先日大勢の天狗が里に降りてきた時先頭に立っていた一匹である。

 訪れた当初はさすがの吹羽も驚かざるを得なかったが、単なる依頼ともなれば話は別だ。今回はちゃんと翼も隠してきていたし、問題点は何もないのだから。

 こうして寡黙な雰囲気を保ちつつ喜びを露わにしてくれているのを見ると、それが例え誰であっても、職人の端くれと自負する吹羽は嬉しくなるのだ。

 

 ……まぁ、その修理した刀で誰かを傷つけて欲しくはないけれど。

 結局は文化の異なる天狗社会。口を出す事は、やはり叶わない。

 

 ――と、そう言えば。

 

「あの、椛さんは元気ですか?」

「ん? ああ、あいつか。そう言えば仲が良さそうだったな、君達は」

「はい! 友達なんですよ! でも最近は見かけないというか……天狗のお仕事が忙しいのは分かってるんですけど、あんまり会えてないなぁって……」

「ふむ……」

 

 椛は吹羽にとっても少し特別な存在である。何せ初めての妖怪の友達だ、なんなら毎日会っても全然構わないくらいだった。

 だが最近は全くと言っていいほど顔を合わせていない。お人好しな吹羽が彼女の健勝を願わないはずがないのだ。

 

 烏天狗は顎に手を当てて視線を宙に泳がせると、

 

「私もそれほど会ってはいないが……昨日見かけた時は少々元気がないように見えたな」

「えぇっ!? ま、まさか病気とかですかっ!?」

 

 なんと、それはいけない。悪化してしまう前に、早く行って看病してあげなければ。

 今日はもう大半の仕事を終えているし、早めに店終いしてしまっても問題はない。

 先ずは元気を付けるためにご飯と果物、薬などもあれば用意して持って行こう。効くかどうかは後で考えればいい。

 吹羽は大慌てで使っていた道具を棚へと放ると、髪を結んでいたリボンを解いて住居へと駆け出す

 

「おい、何を慌ててる」

「ぐえっ!?」

 

 ――事は出来ずに、服の襟を掴まれて引き戻された。

 むう、ここに留まっている場合ではないというのに、先にこの烏天狗さんをカタヅケないといけないらしい。

 目端に薄っすらと涙を浮かべて、吹羽は当然の抗議の声を上げる。

 友達の危機を前に引き止めるとは何事かッ!

 

「けほっ、えほっ……〜〜っ、何するんですか! 首が抜けちゃうかと思いましたよっ!」

「突然駆け出すのが悪いだろう。そもそも客を放っぽり置いて店主が店を空ける気か? 私はまだここにいるぞ」

「むぅ……」

 

 それを言われると弱いのだが。

 

「でも早く行かないと椛さんが!」

「だから、“元気がないようだった”と言ったろう。“病気だ”などとは一言も言っていない」

「え……あっ」

 

 ……言われてみれば、確かに。

 病気になると元気はなくなるが、元気がないこと自体は病気だという確証にはならない。吹羽の焦燥はまごう事なき早計というものである。

 

「(あわわ、やっちゃった……!)」

 

 は、恥ずかしい……っ!

 自分の慌てぶりを思い返して、吹羽は口をぱくぱくとさせて頬を真っ赤に染めた。

 普段から“自分は大人だ大人だ”と言っているだけに、こういう所を人に見られると恥ずかし過ぎて死にたくなる。

 しかもこの烏天狗はその“普段”すら知る由も無い。

 そんな人に見られたら、見られたら――今のが本来のボクだと思われちゃうじゃないかあっ!

 

「あ、あのっ! 今のはそのっ、椛さんが心配だっただけでですね! けっしてボクがあの、そそっかしいわけじゃなくてぇっ!」

「分かった分かった、そういう事にしておくさ」

「ソレ絶対分かってないですよねっ!?」

 

 何処か投げやりに呟く烏天狗の笑みはやはり微妙に歪んでいて。

 吹羽はその表情に若干納得が出来ないと頬を膨らませるが、これ以上説得(・・)するのもそれはそれで“必死感”が出て逆効果な気がするので、泣く泣く黙る事にした。

 これが世に言う、苦渋の決断というやつなのか。この世は理不尽でいっぱいだ。

 

「っ、もういいですよぅ! ボクがどれだけ大人なのかは霊夢さんとか阿求さんがよく知ってますからね!」

「ああ、博麗の巫女が認めるならそうなのだろうな」

「そうですよ! ボクはもう子供なんかじゃないんですからっ」

 

 そうだそうだ、あの霊夢が認めるのだから子供なんかではないのだ。年齢と見た目が子供なのは認めるが、内面ではそこらの大人と遜色ないはず。

 仕事は出来るし? 料理も出来るし? 極め付けに一人暮らしである。これを大人と呼ばずに何と呼ぶのか吹羽には全然分からない。

 つまり吹羽はまごう事なき大人なのである。異論は認めないし断固却下だ。

 現実逃避? そんなこと吹羽はしてない。ないったらない。

 

 

 

 ――と、そうして背伸び(・・・)する彼女を向けられるのは、当然烏天狗の微笑ましそうな瞳なのだった。

 

 

 

「まぁ君が大人なのは置いておくとしてだ」

「置いておかないでくださいよぅ!」

 

 吹羽の言葉を有意義に無視しながら、烏天狗は眺めていた刀を鞘に納めた。

 キン――……という甲高い音が、どこか興奮していた吹羽の頭をちょうど良い具合に冷却していく。“この話は終わりだ”と言外に示されたようである。

 烏天狗は改めて吹羽を見下ろすと、

 

「それほど会いたいのならば、手助けしてやらないこともないぞ」

「へ?」

「君を椛の下まで案内しよう、と言っているんだ」

「……はい?」

 

 唐突に過ぎたその言葉に、吹羽はすぐには反応できなかった。

 この天狗が決して悪人でない事は成り行きで理解しているが、そんな事をする理由が思い当たらない。

 悪人でない事とお人好しである事は決してイコールではないのだ。

 

 要領の得ない吹羽の心情を察したのか、烏天狗は何処か呆れたように再度言葉を紡ぐ。

 

「この間迷惑をかけた詫び、とでも思ってくれればいい。私は公平主義でね。受けた恩は必ず返すし、与えた非礼は同等の詫びで以って謝罪するのさ」

「あっ、あの時の……。迷惑だなんてそんな……」

「いいさ。誰だかは未だ分からんが、踊らされた我らが悪いのだからな。謙る必要も遠慮する必要もない」

「………………」

 

 ――要は、この間の詫びに望みを叶えよう、とこの天狗は言うのだ。

 別に渋る理由はなかった。椛に会いたいのは本当だし、先述の通り今店を閉めてしまっても問題はないのだから。

 だが同時に、それを受け入れる――つまりは“この間はお前達の所為で迷惑を被った”と認めるつもりもないわけで。

 だって、吹羽としてはそこまで気にしてはいないし、むしろ自分の風紋を認めて押しかけてきてくれた事には――もちろん口には出せないが――歓喜さえ感じていたのだ。

 いくら天狗が非を認めていたとしても、吹羽がそれを受け入れる理由にはならない。

 自分にメリットがあって、それを相手が受け入れるなら後はどうでもいいじゃないか――とはならないのが、吹羽がお人好しと評される所以の一つである。

 

 ただ、一見長所に見えるそれは、見方を変えれば短所でもあり――。

 

「ふむ、君はきっと幸せになるのが下手なのだろうな」

「……え?」

「別に謙虚なのを否定する気はないが、もっと現実を見た方がいい。君は今回、私たち天狗によって迷惑を被った。それを天狗が詫びようと提案している。――謙虚なことを盾に突き放すのは、我々の気持ちを踏み躙るのと同じことだぞ?」

「っ……お、大袈裟ですよ……」

「ああ、大袈裟に言ったのだからな。しかしそうでなければ、君のような手合いは理解し得ないだろう?」

「………………」

 

 ――そう言われると、益々断り辛い。

 少しだけ彼を恨めしく思いながら、しかし吹羽は仕方なく小さく頷いた。

 謙虚である事も一長一短だ、と。時と状況を考えて使うべき、“自ら下手に出ることのできる力”だ、と。

 どんな褒め言葉も、相手の気持ちを鑑みなければ賞賛にも皮肉にもなってしまう。受け取るべきモノは変に断らず受け取るべきなのだ。それが遠回しに、相手の為にもなる。

 

 そうして落とし所を見つけると、吹羽はおずおずと顔を上げて、

 

「じ、じゃあ椛さんの所まで……お願いします」

「心得た。準備してくるといい」

「はいっ」

 

 さて、何を持って行こう? 何を話そう? 元気がないというならば、一体何をすれば元気に笑ってくれるだろうか。

 吹羽はいつものように護身用の刀と“弾”を持つと、何をしようかと早速思考を切り替えるのだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 妖怪の山へと足を踏み入れると、やはり出迎えてくれたのは鮮烈な赤色をした紅葉の森だった。

 季節は秋、山を覆う木々の殆どが色付くこの季節には、やはり妖怪の山は紅葉狩りの名所なのだと毎年再認識する。

 

 隣に烏天狗が居るからか、哨戒を務める白狼天狗は誰一人として襲ってはこなかった。

 当然か。今や吹羽は天狗にとって客人そのものである。掟にすら記載されている一族の客人に襲いかかるような不埒者は天狗には存在しない――というより、縦社会であるため存在できない。

 結果として、今回は霊夢と来た時よりも余程安心して登山ができるのだった。

 

「いやぁ、やっぱり紅葉がキレイですねぇ……」

「たしかにそうだが、恐らくすぐに見飽きると思うぞ」

「そんなことないですよっ! 実際、毎年毎年遠目からこの紅葉を眺めてて飽きたことなんてないですもん!」

「これからは間近でこれを見れるのだぞ? 数回繰り返したら飽きがくるさ。実際私は飽きている」

「うーん、好きなものも食べ続けたら美味しくなくなるという事ですか……一理あるかもしれません……」

 

 目の前に視界を覆うほどの鯛焼きがある光景を夢想する。もちろん初めは大喜びで齧り付くかもしれないが、さすがの吹羽ももしかしたら途中で甘さに飽きて美味しくなくなるかもしれない。

 甘さとサクサク感が売りの鯛焼きなのに、そこに飽きてしまったら美味しくなくなるのは当たり前である。

 吹羽はそうやって天狗の言い分に一つ納得すると、“まぁそれでも鯛焼きなら三桁の数ぺろりといけそうかな”なんて思い直す。

 頭の中も意外とお花畑な吹羽であった。

 

「(いつかみんなでこの紅葉を見に来れたら、きっと楽しいだろうなぁ……)」

 

 霊夢と、阿求と、早苗と、魔理沙と。

 椛や慧音、文とか、この烏天狗とかも、知り合いをみんな呼んで、落ち葉の絨毯に座って。

 お酒はまだ飲めない吹羽だが、ちょっと高めのお茶とか料理とかを持ち寄って、宴会さながらに紅葉狩りをしたならば、きっと一生忘れられない思い出になるだろう。

 ――それって、どんなに幸せなことだろうか。

 

 大好きな友人に囲まれて、綺麗な景色をみんなで眺めて、頻りに笑い合うのは、単純にして純粋な、幸せの形なのではないかと吹羽は思う。

 いつか実現してみたい夢の一つである。

 

 ――と、そんな事を考えていた時だった。

 

「っ、風が強くなってきましたね」

「……いや、この風は……」

 

 唐突に吹きつけてきた風が、いつかのように赤い落ち葉を火の粉のように舞い上げる。

 次第に強くなっていくその風は、終いには周囲の紅葉すら千切り取って巻き込み、二人の周囲を旋回するように吹き荒ぶ。

 

 普通の風ではない。

 地表の温度差などによって流れ揺れ動く空気である“風”は、自然現象でこんな風に動いたりはしないのだ。つむじ風にも似ているが、あれは春先に多い旋風の一つ。気温も低くなってくるこの季節には考えにくい。

 それこそ、風を操ったり風紋を用いたりしなければ――。

 

「ふむ……文か」

『おお、御名答です!』

 

 呟きに応えるようにして、二人を囲んでいた旋風は眼前へと収束していく。巻き込んだ紅葉が寄り集まり、暗幕のようになっていた。

 そして次の瞬間、ブワッと旋風が放散すると、その中からは――烏天狗の少女、射命丸 文が姿を現した。

 

「こんにちは、お二人共。ちょっと予想外な組み合わせですね?」

「こんにちは文さんっ! ちょっと前に知り合いまして!」

 

 いつもの柔和な笑みで尋ねる文に、吹羽はちょっとだけ嬉しくなって答える。

 なぜ嬉しいかって、そりゃ予想外に友達と出会ったりすれば嬉しくなるものだろう?

 “棚から牡丹餅”という諺がある。

 ……いや、ちょっと使い方が違う気もするが、僥倖という意味では的外れでもあるまい。

 

「えっとですね! 今日は椛さんに会いに来たんですよっ! 元気がないと聞いたので、何かできればと思って!」

「ふぅん……それで連れて来てもらったわけですね」

「言い出したのは私だがな。なに、これでも罪滅ぼし(・・・・)のつもりさ」

「……ああ、此間の」

 

 烏天狗の言葉に、文は苦笑した。

 彼女も同じ烏天狗、此間の出来事(天狗の押し掛け事件)の事は多少なりとも聞いていたのだろう。

 それをきっかけにして距離を置かれても吹羽としては困ってしまうが、まぁ文ならばそんなことはしないだろう。別に無神経だというわけではなく、“遠慮の程度”くらい彼女ならば弁えているだろう、というのだ。

 それくらいの信用は吹羽から得ている文である。

 

「なるほどなるほど、それでお二人で……」

「……文さん?」

 

 隅を見つめるように考え込み始めた文。

 数瞬の間をおいて顔を上げると、文は態とらしくポンッと掌と握り拳を打ち付けた。

 吹羽を覗き込むようにしゃがんで、

 

「じゃあ、ここからは私が案内しましょうか」

「……ふぇ?」

「ここで会ったのも、そも私がお二人を見かけた偶然も、きっと何かの縁でしょう。このまま“じゃあ頑張って下さいね”で通り過ぎるのは些か浪漫が足りないなぁと思いまして」

 

 ――一理ある。

 折角出会ったのだから、そのまま軽く話しただけでサヨナラしてしまうのはちょっぴり寂しい。

 それに文だって椛と同じで、あまり頻繁に会える人物ではない――実は花札の日からあまり訪ねてこなくなった――のだ。折角ならもう少し話していたいのは吹羽の紛れも無い本音である。

 ただ心配なのは――、

 

 顔色を伺うように隣の烏天狗を見上げると、彼は普段の仏頂面のまま黙り込んでいた。

 

「というわけで、ここからは私が案内しますので、それで良いですよね? 吹羽さんも男性の方と一緒に歩くよりは、私と歩いた方が気が楽でしょうし」

「むう、何か強引な心地がするな。任せて大丈夫なのか?」

「大丈夫ですよぉ〜。あ、もしかしてアレですか? 心配するフリしてもう少し吹羽さんと一緒にいたいだけとか? ヤダなぁ〜もういくら吹羽さんが可愛いからってそんな烏天狗仲間にロリコンがいたなんて私としては胸の奥がじくじく痛くなる気分ですよぉ〜」

「ぐ、う……“ろりこん”というのはよく分からないが、何故か非常に不快な響きだな」

「……??」

 

 吹羽にもその言葉の意味は分からなかったが、それを語る文の表情が吹羽をからかう時の霊夢と良く似ていた為、「ああきっといい意味ではないんだろうな」と敢えて口を出さずにいた。無いとは思うが、文の矛先が吹羽に向いてしまっても困るのである。

 

「……まぁいいだろう。正論ではあるしな」

「はい♪」

 

 若干釈然としなそうな表情ではあったが、烏天狗は文の提案に賛同した。

 吹羽としてはそんなこと気にしないのだが、こういう事は当人達の気持ちの問題である。自分と一緒にいたがることが“ろりこん”とやらに直結し、それを彼が嫌がるというのなら、それに吹羽が口を出すのは筋違いというものである。

 ――はて、そうなると早苗はどうなるのだろうか。彼女ほど自分と一緒にいたがる人は今まで見たことがないのだが。彼女もその“ろりこん”というやつなのだろうか?

 

 ……なんだか考えてはいけないことのような気がしたので、吹羽はそこで思考を打ち切った。

 “見ぬは極楽知らぬは仏”という諺がある。

 世の中には知らなくていいこともあるのである。

 

「では吹羽、文の後に付いていくといい。私はこれで失礼する」

「あ、はい! ここまでありがとうございましたっ!」

「気にするな、私の自己満足さ。むしろ付き合わせて悪かった」

「い、いえ、そんなこと……」

 

 吹羽を見てふっと笑い、烏天狗は文を一瞥してから軽やかに飛び上がった。

 黒い翼の羽搏きと共に巻き上がった強風に一瞬目を瞑ると――開いた時には彼の姿は彼方へと消えていた。

 

「……さて、それでは行きましょうか、吹羽さん♪」

「あ、はいっ! よろしくお願いします文さんっ!」

「お任せあれっ! きっと無事に送り届けてみせますよ!」

 

 眩いほどの笑顔で言う文に、吹羽は少しばかりの安心を覚える。

 自分で気が付いていなかっただけなのか、男性と二人きりで歩くのには無意識に緊張していたのかもしれない。

 前を歩く文の後ろ姿にちょっぴり頼り甲斐を感じて、吹羽はとてとてとその後を追う。

 

 ――文の、僅かに歪んだ口の端には、気がつかないまま。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――時は、数日遡る。

 

 既に日も落ち、鈴虫たちが涼しげな合唱を奏でる妖怪の山の中。

 天魔の執務室ではいつものように鳳摩が溜め息を吐いていた。

 ただ、その内に籠る思いは。

 疲弊に喘ぐ天魔としてのものとは毛色を異にして、鳳摩は僅かに険しい瞳で薄っすらと雲のかかる月を見上げる。

 

 果たして――話しても(・・・・)良かったのだろうか、と。

 

「いや……もう遅いのう。あやつは既に関わっている(・・・・・・)。何も知らずに結末を迎えるのは、むしろ失礼というものか」

 

 先程この部屋を去っていった彼女を思い、鳳摩は諦観から目を逸らすように瞑目する。

 もはや自分がどうこうと口を出せることではなく、関わった者を引き止める資格も必要もない――それを鳳摩はよく分かっているのだ。

 

 ただ――きっと彼女は黙ってはいないだろう。

 例え自分に首を突っ込む資格がないと知っていても、こんな事(・・・・)を黙って見ていられるほどあの子は達観していない。

 それだけを少しだけ、鳳摩は心配していた。だからこそ、話しても良かったのかどうか今更に悩んでいる。

 

「おやおや、良い年した(じじい)が随分気を揉んでいるようだね」

「……おお、これはこれは」

 

 するりと自然に入り込んできたその声は、鳳摩にして久方ぶりに聞くものであった。

 声の方へと視線を向けると――彼女はやはり、執務机に座って足をぶらつかせていた。

 

「お久しぶりでございますな、萃香様。お戻りになったのは噂で聞き及んでいましたが、お元気そうで何より」

「よせやい、わたし達はこの山を捨てたんだ。今更上司面なんて恥ずかしくてできんよ」

「……では、これからは萃香殿とお呼びしますかな」

「おうおう、相変わらず硬ったい野郎だねぇお前は。そんなにわたしが怖いかい?」

「ご承知のことかと存じますが」

「……はぁ。もういいよ」

 

 不満気に唇を尖らせる萃香は、持ち歩いている瓢箪――伊吹瓢の酒を呷る。

 相変わらず酒ばかり飲んでるようだな――と、鬼らしいとも思えるその“癖”を想って鳳摩は僅かに口の端を歪める。

 「――ぷはっ」と気持ちのいい飲みっぷりを披露すると、萃香は一息吐いて、

 

「それで、どんな感じ(・・・・・)になってるのか聞かせてもらおうかね」

「……予想通り、のようでございます。憂慮していたことが、予定調和の如く」

「じゃ、近い内に……ってことか」

 

 それだけ交わして、黙り込む。

 大好物である酒も呷らず、萃香はただジッと遠い目で何かを見据えていた。

 

 鳳摩には、それが過去を懐古しているように見えた。

 遥か昔の記憶。きっと彼女が、人間というものに本当の価値を見出したある遠い日。

 それは鳳摩にとっても印象深い記憶であり、今起ころうとしている事の引き金となった出来事。

 

「全く、皮肉なもんだよねぇ。大嫌いな奴を思ってやる事が、一番そいつらしい(・・・・・・)行為だってんだから。……やっぱり、止められないのかい?」

「……止められはしますまい。今更歯止めを掛けようとしたところで、歯を砕き折ってでも一人回るだけでしょう。彼女がやろうとしていることは、まさにそう言うことでございます」

「“止められないに決まってるから止めない”ってか? 随分と軟弱者になったものだねぇ天狗ってのは。昔はもっと……強かったろうに」

 

 ――その言葉に、字面程の批判が映っているとは思えぬ口調で。

 きっと萃香も、止められると思って問うた訳ではあるまい。むしろ藁にも縋る思いで、悔しさをも呑み込んで絞り出すように発した、願いのようなもの。

 そして萃香が強かった故に(・・・・・・)起こってしまった一人の少女の悲劇を、己で受け止められないが故の果てしない自虐の言葉。

 それは人間の強さに恋した鬼としては、ある意味当然の想いとも言えた。

 

「――それで、なんでさっきの子にはこの事を話したんだい? 知らなかったんなら、別に教える必要なんてなかったはずだけど」

「……あれは己の力で辿り着いただけにございます。どうやら、書庫にきっかけを見出したようで」

「あん? 資料なんてあったのかい? 全部隠滅したって聞いたけどな」

「言い回しの違いで見落としていたようです。たった一文ではあるのですが……まぁあの千里眼ですから、言葉の羅列など物の数ではないのでしょう」

「ふぅん……」

 

 気の抜けた返事を返して、萃香はまた一口酒を呷ぐ。

 

「それに……関わりがない訳でもありません。我が天狗一族の中で、最もかの者と親しいのは彼女……きっとそのままにはしておきますまい」

「それは心配か? それとも希望なのかい?」

「…………さぁ、どちらでございましょうな」

 

 鳳摩自身、それが正しいことなのかどうかは分からない。だからこそ、先程ここを去ったあの娘がその邪魔をしようと傍観しようと、どちらを肯定することもできない。

 

 ――いや、恐らくは間違っているのだろう。世間一般の世論を持ち出すならば、確実にそれは間違っていて、無意味で、その先に何も生み出さず破滅するだけの道なのだろう。

 だが、当人にとってはきっとそうではない。

 例え間違っていようと、例え無意味だろうと、例え何も生み出さずとも例え破滅するだけとしても例え誰にどんな非難を浴びせられようと、成し遂げなければ心がどうにかってしまうと感じたから、その本能のままに行動する。

 ――それを他人が、本当に否定などしていい訳がないだろう。

 況してや鳳摩は、若かりし頃のあいつ(・・・)の――。

 

「……兎も角、我々にできることはありませぬ。少なくとも、我ら当時のことを知る数少ない天狗達は手を出さぬつもりです。ただ一つの不確定要素は――」

「さっきの子、だね。いいさ、そこら辺はわたしが調節するよ」

「……何かなさるつもりで?」

 

 萃香の言葉に僅かな干渉の意を捉えた鳳摩は、訝しげな瞳で尋ねる。

 別に彼女が何をしようと、鳳摩には止める義務はないし止められもしないが、出来れば余計な手出しをして欲しくないのが本音であった。

 萃香は横目で鳳摩を見ると、

 

「何、元はわたしが引き起こしたことだ、わたしが納得のいくようにケジメをつけるだけさ」

「ケジメ、ですか」

「ああ」

 

 そう、心に刺さった杭を撫でたような表情で萃香は言う。

 長い間想っていた楔を、もうすぐで抜き取ることが出来る――鳳摩は萃香の表情に、そんな言葉を聞き取った。

 そうして楔を抜いたあとにその傷が残るのか癒えるのかは、手を出さぬと決めた鳳摩には分からない。

 

 僅かに悲痛なその面持ちをふっと消すと、萃香は再度鳳摩を見遣って、

 

「……それにしても、よくお前は平然としていられるねぇ」

「……何がでございましょう?」

「そうやって澄まし顔しているが、分かっているだろう? もし成し遂げられてしまえば、それは風成の娘の死を意味する(・・・・・・・・・・・)。天魔として振る舞うのは確かに必要なことだが、本音も言ってみたらどうだい? これでもわたしは昔の上司ってやつだからね。聞いてやれることもあると思うよ」

「………………」

 

 分かっていることだ。

 萃香の言っていることは、分かっているからこそ目を背けていた事実であった。

 

 天魔は天狗族の頂点に君臨する長。全ての天狗を纏め、助け、統一し、その道を切り開くのが役目である。それには当然、思想を統一することも含まれる。

 大多数が風成へ抱く感情の中で、たった一人彼女(・・)が抱くそれは、ただ一つの膿と言えた。

 今回のことが成し遂げられれば、風成の子は死ぬことになる。それをきっかけにして、再び巡り会った戦友(とも)とは永遠に道を違えることになるだろう。

 だがそれによってその膿を取り除けるならば。

 天魔としては、それが正しい。

 

 だが一個人として……冴々桐 鳳摩としては――?

 

 萃香の言うように、役目のことなど何も考えずに、ただ思っていることを吐き出すならば。

 

 

 

「……無意味、と。ただそう……思います」

 

 

 

 ――それだけが、今形にできる唯一の言葉。

 

「迷うのでございます。例え天魔の役目を思考から排した所で、己が本当はどう思っているのかが分かりませぬ」

「それは……あの二人(・・・・)を追いかけていたからこそ、なのかい?」

「……そうでございましょうな」

 

 目を瞑れば、脳裏に焼き付いて離れないある二人の背中。

 追いかけ続け、遂に届かず、二人並んで立つ姿に羨望すら見出していた、鳳摩の憧れた背中。

 

「あの二人に憧れた。だが心の何処かで筋違いな“恨み”を感じる自分もいる。どちらが本当なのかが、私にも分からないのです」

「その恨みを“筋違い”だって分かってるなら、それが正しいんだろうさ」

「……そうですな。だからこそ、無意味だと私は思うのです」

 

 顔を上げ、浮かぶ月を見上げて呟く。

 

「成し遂げた所で、何も変わりはしないのです。元に戻るわけでも、悩みが解決するわけでもない。後にも先にも、本当の気持ちすら分からぬ自分が変わらず立ち尽くしているだけ」

「……割り切ってるんだねぇ」

「とうの昔に振り切りました。好敵手とは、得てして相手のことをよく見ているものです。奴が何を望んだのかを、私は理解が出来た」

「……それが、あの子はまだ出来ていないってことだね」

「そうですな」

 

 過去は変えられない。

 何をどんなに頑張ったとしても、過去は不変であり、事実なのだ。

 それを精算しようと努力しても、結局の所自己満足でしかなく、どこかで割り切るより他に道はないのだ。

 鳳摩はそれが出来ていた。

 彼女はそれが出来なかった。

 今はただ、それだけが事実なのである。

 

「無意味、ね。わたしもそう思うよ」

「左様ですか」

「ああ。だからこそ、それがせめて拳一発分くらいの有意味にはなるように頑張ろうかね」

「…………お願い、致します」

 

 鳳摩は萃香の方へと向き直ると、目を瞑って少しだけ頭を下げた。

 決して謙るわけではないが、昔の上司へ礼を尽くす程度に。

 それは、天狗の一統を纏める大妖怪――天魔としての鳳摩へ戻った証でもあった。

 ただ一匹の天狗、冴々桐 鳳摩として本音を零すのはこれまで。ここから先は天狗族の道を先頭に立って切り開く“天魔”である、と。

 格上だからといって急に畏る臆病者を、天狗達は頭領とは認めない。

 

「さて、これで少なくとも(・・・・・)三つの思惑が存在する訳だが」

「………………」

 

 “思惑”と括るべきかどうかも危うい、何も知らずに巻き込まれ、しかし無関係では決してない者。

 燻り続けた想いに終止符を打つべく動き出した者。

 その出来事を引き起こし、深く知り、一つの帰結を齎そうと画策する者。

 そして、或いは、その他に――。

 

「一体どれが正解で、どれがあいつ(・・・)の望むものなのかねぇ……?」

「それを知るものは、もうおりますまい」

「いたのなら、きっとこんな事にはならなかったろうさ」

 

 手に持った瓢箪を月に掲げ、しかしその見据える先は、きっとこの美しい夜空ではない。

 瓢箪の陰から覗く月に、萃香の瞳は揺らめくように輝いた。

 

「なぁ、お前もそう思うだろう?」

 

 

 

 ――先代天魔、射命丸(・・・)よ。

 

 

 




 今話のことわざ
()ぬは極楽(ごくらく)()らぬは(ほとけ)
 実際に見ない方が良いこともあり、また知らないでいれば心配する必要もないようなこともある、という意味。なまじ何も知らなければ、腹を立てたり悩んだりすることもない、というたとえ。

(たな)から牡丹餅(ぼたもち)
 思いがけない幸運が舞い込むことのたとえ。

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