風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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第三十三話 帰ってきた日常②

 

 

 

 静謐とした水面(みなも)に、青空の移りゆく様が映し出される。

 日は登り降り、月は降り登り、消え得ぬ天の燦光に照らされながら雲は絶えず青色を柔らかな白で彩る。時の流れを感じさせるようにゆっくりと流れていくあの雲は、果たしてどこへ向かうのだろう。どこで消えてしまうのだろう。

 雄大な姿で全てを見下ろし、包み、時に暖かく微笑んでは灰色に怒り荒ぶる。気まぐれで強大で、いつでもそこにいる――そんな蒼天の空は、何処か今の自分の在りようを表しているように思えた。

 

 雄大で偉大な青空を、心の水面に写し取る。静かに、微動だにせず、一滴の雫さえ落としてはならない。息のひと吹きさえ触れさせてはならない。己を平坦に引き伸ばして、己という“個”の情動をひたすらに鎮圧する。そうして写し取られた青空こそが、今の自分を表す――或いは、自分を保つために常に心の中になくてはならないものである。

 

 ――八坂 神奈子は、己をそう定義する。

 

 眼下の湖はどこまでも静かだった。風もなく、音もなく、虫も小鳥も木の葉さえその空気に中てられたかのように近付こうとはしない。近付いてはならないものなのだと定義されたかのように、この湖――守矢神社の裏手にある湖は全てを拒み、その中心で瞑想する神奈子だけを受け入れていた。

 

 ときどき神奈子は、こうして湖の中心に御柱を立て、その上に座って瞑想を行う。それは日課というほど忙しないものではなかったが、彼女には確実に必要なことだった。

 大昔から――それこそ生まれた(・・・・)その時から、神奈子はこの行為の重要性を理解していた。己に欠けてはいけないモノ。己が何者かを定義するために必要不可欠な思考。この行為を行う理由は、もはや生存本能的(・・・・・)ですらあった。

 

 神奈子は理解している。

 “乾を創造する程度の能力”という天を統べるかのような能力を生まれ持った自分は、ゆえにこそ神であると。ゆえにこそ神として存在できると。

 この大空のように雄大で偉大な己であらねば、きっと自分は大昔の矮小な存在に成り果ててしまうのだ。

 だから、自分が神であるために――自分が自分であるために、神奈子は蒼天の空を夢想し写し取る。この行為が、絶対に必要なのだ。

 

 ――ゆえに。

 

「……邪魔を、しないでもらいたいんだが」

 

 虚空に放たれた言葉は、空間が裂ける現象によって応じられた。

 そこからぬるりと姿を現したのは絶世の美女。金糸の髪を靡かせ、淡い桔梗色のドレスをふわりと揺らめかせて妖艶な笑みを浮かべるのは、妖怪の賢者 八雲 紫だった。

 

「よく分かりましたわね。正直、隠密には自信がありましたのに」

「分かるさ。水面が揺れた、風が吹いた、木の葉が舞った――私の裏を掻きたいなら“個”を滅することさ。まあ、それだけで私の意識から外れられるとは、思って欲しくないが」

「…………瞑想によって、自意識を空間に満たしているのですね。力を失ってもそれとは、末恐ろしいですわね、風神(・・)

「……それは昔の話だ」

 

 風神として力を振るっていたのは今は昔。大和の軍神となり、風神としての正しい信仰を失くしてからはもう久しい。その際路頭に迷った者はきっと多かったろうが、最早それも昔の話である。そして信仰も敬愛も、何もかもが薄れてこの地に逃げ延びてきた今の神奈子には、思い出として語るにも遠過ぎる過去だ。

 紫の皮肉染みた呼び方に、神奈子は遣る瀬無さを感じて溜め息を吐く。神に対して皮肉を放り、神の意識が満たされた場所――いわば神域を平気で侵す妖怪の方がよっぽど末恐ろしい。

 神奈子は整っていた姿勢を崩し、御柱の上で片膝を立てた。

 

「あら、瞑想は終わりですの?」

「神敵がいる場で隙を晒せと?」

「敵だなんて。私は等しく、幻想郷住民の味方ですわ。それが例え、対極の位置にいる神であっても」

「……ふん、まあいいさ。私も本気で神敵だなんて思っちゃいないからね」

「この世界では、皆が等しく対等ですわ」

「そうだったな」

 

 賢者のその確固たるスタンスを好ましく思いながら、神奈子は軽く目配せをした。

 世間話をしにきたわけではあるまい。要件があるならさっさと言え、と。

 紫は間違いなくその意図を察し、口元を扇子で覆った。

 

「……風成 吹羽、という少女をご存知で?」

「吹羽? 知っているが……それがなんだ?」

「彼女に関して、少し」

「………………」

 

 ――何か企んでいるのは明らかだった。

 口元を隠すのは表情を悟られたくない証である。或いはただの癖という可能性もあるが、それを抜きに考えても、妖怪の賢者の口から一人の人間の少女の名が出てくるなど普通ではない。

 神奈子は警戒心を剥き出しにして問い返す。紫は、目だけは変わらず澄まし顔だった。

 

「人間というのは酷く脆い種族ですわ。私たち人外が指先で小突けば簡単に吹き飛ぶような。ごく一部の者だけは心身ともに強固であることもありますけれど、そんなのはほんの一握り……少し辛い現実があれば、簡単に壊れてしまう」

 

 異論はない。神奈子は静かに聞いていた。

 

「でもそれは独りの話。人という字は支え合って成り立っている。――そう、人が人である限り、支えがあれば生きていけるのです」

「……何が言いたい?」

「“子”を想い、慮るのは親の仕事……そういうことですわ」

「子? 何の話だ」

「あら、忘れてしまったのですか? 神というのも薄情ですわね。……ああ、いえ、信奉者を路頭に迷わせる神など、薄情で独り善がりなのは当然でしたわね」

 

 こちらを煙に巻くような物言いに、さしもの神奈子も眉根を深く寄せて片眉を釣り上げた。

 会話が噛み合わない。しかし、当の賢者が話の辻褄を全て合わせた上で言葉を紡いでいるのは確かだ。彼女は他のどんな存在よりも頭が切れる。神奈子が彼女の超論理的思考を把握しきれていないだけなのだ。

 それはつまり、神奈子自身が何か見落としをしている、ということ。

 

 神奈子のそんな様子に、紫は愉快そうに目細めた。

 

「――なるほど、悠久の時というのは神の記憶さえ忘却の彼方へと誘なうものなのですね。人の精神(信仰心)そのものである神の記憶にすら影響するとは……興味深いですわ。まあ、瞑想しなくては自分を保てない成り上がり(・・・・・)には、当然なのかもしれませんが」

「……なんだと?」

「知っていますわ、八坂 神奈子。あなたの……成り立ちについて」

「!?」

 

 馬鹿な、そんなことあるはずがない。

 神奈子の世界がひっくり返ったかのような驚愕の表情は、複雑な推測など必要ともしないほどにその言葉を表していた。

 当然だ、神奈子という神が生まれたのは何千年も前の話。せいぜい千と数百程度しか年を数えていないはずの紫が知る訳はない。完全な神として存在が確立されている今、神奈子が“成り上がり”であることを知る者などいないはずなのだ。

 

 別に、その事実自体は問題視するべきものではない。過去など過ぎ去ったことであり、今自分が神としてある程度の力を持っている事実が全てだ。例え“成り上がり”だと広まり誹られても、ならば再度力を見せつけてやればいい。些細なことだ。

 だが――何故か知り得るはずのないそれを知っている八雲 紫。この構図が神奈子には度し難い。

 不気味な存在が、得体の知れない方法で自分の核たる事実を掌握している。その事象自体が、神奈子には油断ならないことのように思える。

 

 神奈子は驚愕に見開いた目を剣呑に細めた。

 

「……お前、一体何を考えている?」

「お答えする必要のない質問ですわね。直接的な関係はあなたにはないのだから。ただ私は、伝えたいことがあっただけです。……まあ、あなたは保険(・・)に過ぎないので、最悪分からずとも良いことですよ」

「ならなぜ――」

「言ったでしょう、“保険”です。失敗して失敗して、その最後の手札として残しておこうと思った、効果も効能も未知数の、保険ですよ」

「………………」

 

 繰り返し降ってくる“保険”という言葉。初めの“風成 吹羽を知っているか?”という質問。人が支え合わねばならない生き物だという真実。そして親は子を慮るものだという言葉。

 ――何かが引っかかる。遠い昔に忘れてしまった何かが、因果律が収束するように、今に繋がっている気がする。ただそれがなんなのかを思い出せない。

 

「そういえば、洩矢 諏訪子と東風谷 早苗は血が繋がっているそうですね。洩矢 諏訪子の遠い子孫が東風谷 早苗なのだとか……実に仲の良さそうな二人ですわ」

「……そうだが、それがなんだ」

「いえ、ね――……」

 

 もやもやとした心地に眉を顰める神奈子を尻目に、紫は実に挑発的な笑みを向けた。

 

「果たしてあなたは、仲良くできるのかなと……心配になっただけですわ」

 

 では、御機嫌よう――紫はそう言い残して、神奈子の前から姿を消した。

 己の領域に妖怪がいるという違和感も同時に消え失せ、再び湖は神奈子だけを受け入れる神域と化す。その中で、神奈子は堪らなくなって溜め息を吐いた。

 

「あいつ……もう少し素直でまっすぐなら、人に嫌われることもなかったろうに……」

 

 ふと御柱から飛び降りて湖の水を掬い上げる。ポツリとこぼした言葉と共に、神奈子は紫のいた空間にパシャリと水を放り投げた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 さて、慧音に会いに寺子屋へと足を運んだ後、次なる目的地は当然妖怪の山だ。

 普段から外に出ない引きこもり気質の吹羽には悲しいことに、本当の意味で数える程度の友人しかいない。その中で彼女が、改めて鶖飛に紹介しなければならない友達といえば、自然とごく最近に知り合った妖怪たちに限られる。

 

「え、妖怪の友達がいるのかい?」

「うん! 椛さんと文さんっていってね! 椛さんはもふもふで、文さんはなんだかふんわりするようになったの!」

「ん、んん? まあよく分からないけど、妖怪の友達って大丈夫なのか? その……安全面、とか」

「大丈夫だよぉ〜! 椛さんは気遣ってくれるし、文さんも優しく……なったし、お兄ちゃんは過保護過ぎだよっ。えへへ……♪」

「……それでも満更でもなさそうなのが吹羽さんですね……」

 

 鶖飛に反意を示しつつ、それでも過保護に心配してくれることが嬉しいのかちょっと気味の悪い笑いが漏れ出ている吹羽。今日だけでどれだけこの兄妹の甘々な雰囲気に放り込まれるのだろうと思うと、夢架は憂鬱で溜め息を吐かずにいられなかった。

 

 三人は今、妖怪の山の麓を登っていた。燃えるような紅葉が絨毯のようだった此間に比べて山肌は腐葉によって少し茶けてきており、三人の頭上で屋根の如く広がっていた葉々も所々隙間が目立つようになってきた。

 まだ標高も低いため寒くはないが、きっと山頂付近は冷え込んできているだろう。雨で霧がかからないことを祈るばかりだ。

 

「それにしても、夢架さんって体力あるんですね。この山って割と急勾配で歩きにくいと思うんですけど」

「侍従たる者、体は資本です。体力不足で倒れては主人に迷惑がかかりますから。まあ、胸が大き過ぎて歩き難くはありますが」

「むぅ……そんなセリフ、いつか言ってみたいです」

「吹羽さんは発育が割といいので近いうちに大きくなりますよ」

「ほんとですかっ!?」

「……なんだか、男には聞きにくい会話してるなぁ」

 

 合間合間にそんな雑談を挟みながら、三人は比較的和気藹々として登っていく。鶖飛は言わずもがな、夢架もこうして話してみると、棘のある物言いの中でも意外と話しやすい。鉄面皮に覆われた鉄壁の侍従にもやはり感情はあるらしい、吹羽は三人での弾む会話の中でそれを実感して、少し嬉しくなっていた。

 

「それで、どれくらいで着くんだ?」

「んー……道は覚えてるけど、もしかするとお仕事中かも――ぁあッ!!」

「……? どうしたんですか?」

 

 が、言葉の途中でヒステリックに叫んだ吹羽に、鶖飛と夢架は訝しげな視線を向ける。だが吹羽はそれを尻目に“これはヤバイかも”と焦りに焦っていた。

 だって、それは椛の仕事そのものであり、生真面目な彼女が妥協なんてするはずもなくて――。

 

 前回、霊夢と共にここを訪れた際のことを――言葉がフラッシュバックする。

 吹羽は辿り着いた推測にあわわわと震えながら、恐る恐る鶖飛を見遣った。

 

「お、お兄ちゃん。風紋刀……持って来てないよね……?」

「え? ああ、うん。まさか里の外に出るとは思ってなかったから」

「それがどうかしたんですか?」

「ま、マズイかも……椛さんは哨戒天狗なんです! ボクが来たときは、なにやら霊夢さんに免じてお話をしてくれたみたいで……ボクだけじゃ、もしかしたら――」

「御推察。さすがですね吹羽さん」

「ふぇ――……」

 

 刹那、銀色の剣閃が視界の端を掠めた。

 風の音さえも置き去りにして放たれた神速の斬撃は、吹羽の動体視力を以ってしても捉えること叶わず、彼女の隣にいた鶖飛を襲った。

 辛うじて見えたのは、振り抜いた後。放たれた斬撃が峰打ちだったということだけ。刀身は勿論、振るったはずの腕も、残像すらも見えない一撃。それは、瞬きの間に目の前に現れた少女から放たれていた。

 

「私の仕事をよく理解してくれているようで非常に嬉しいのですが、そうである以上体裁は保たせて貰います。見るべきもの(・・・・・・)も、持っていないようですし」

 

 凛々しくも可愛らしい鈴転の声音。頭の上で揺れるふさふさの獣耳。武勲を誇るかのように形を失ったままの左腕。そしてその傷口を人目から逸らすように肩から羽織られた、白地に赤の装飾を施された肩掛け。

 ――哨戒天狗が一、犬走 椛がそこにいた。

 

 衝撃的且つ突然過ぎる登場に呆然とするも、吹羽はハッとして土煙の方へと目を向ける。

 

「お、お兄ちゃんッ!」

「峰打ちだから大丈夫ですよ。吹羽さんの知人の首を不意に刎ねるのは気が引けたので」

「椛さん! 突然斬りかからなくてもいいじゃないですか!」

「ですから、仕事なので体裁だけは取り繕っておかないと。いくら吹羽さんの知人でも、一見して証拠がないなら侵入者です。初撃で立場を分からせるのが、侵入者に対する私たちの歓待なんです」

「ぅ……で、でも怪我したらどうするつもりですかッ! お兄ちゃんは普通の人間ですよッ!?」

 

 例え峰打ちでも刀は金属の塊。それなりの重量があるそれを先ほどのような速度で振るえば、人間など簡単にへし折れてしまう。

 そんなことも分からないのか、と吹羽は椛に初めて怒りの表情を向けるが、椛はむしろ優しげな――納得するような表情で。

 

「ああ、それは問題ありません。何せ、威力は完全に殺されていました(・・・・・・・・・・・・・・)から」

「……え?」

 

 不意に、土煙の方から軽い呻き声が聞こえてきた。

 それは激痛に咽び泣くようなものでは決してなく、況して“やられた”と嘆きながら痛みに耐えるようなものでもない。ひたすら軽く、まるで児戯をあしらった大人のような声だった。

 

「いてて、いきなり斬りかかってくるとは……峰じゃなかったら腕が飛んでたぞ?」

「……両手のバネで威力を殺し、木への激突にすら受け身を取りましたか。人間でそこまでのことができるとは驚きです」

「やった本人が何をいけしゃあしゃあと」

「素直な褒め言葉ですよ。あなた……相当な達人ですね」

 

 姿を現した鶖飛は見た目には何の傷もなく、道端で転んだ後のように服についた埃をはたいて落としていた。

 その様子にホッとする反面、吹羽は椛にすら達人と言わしめる兄に、改めて敬愛の念を抱いた。相変わらず剣術体術に関しては追いつける気がしない。昔から吹羽は、鶖飛とのその手の稽古や勝負で勝ったことはないのだ。

 

「ああ……こちとらそこの天才な妹と毎日のように打ち合ってたんでね。いやでも技術は身についたよ」

「なるほど、納得です」

 

 短くそう返すと、椛は静かに刀を構え直した。

 今度は刃を返し、正真正銘の真剣勝負に意気込むように。対して鶖飛は、愛刀も木刀も持っていないゆえ足元にあった丈夫そうな木の枝をひょいと持ち上げ、具合を確かめるように軽く振り回した後、逆手に持って構えた。

 

 椛はそれに少しだけ眉根を寄せるも特に言及せず、吹羽をちらと見遣って、

 

「吹羽さん、何か弁明はありますか?」

「うぅ……証明、できるものですよね……残念ながらないです……」

「そうですか。やはり仕方ありませんね」

 

 仮にそれらしき刀があれば、吹羽の時と同じように、椛はそれが風紋刀である可能性を考慮していきなり攻撃には出なかったろう。それを本物と断定し、鶖飛を正真正銘風成家に連なる者として迎え入れたはずだ。

 だが、それが今はない。そして吹羽の言葉だけで風成家の人間だと受け入れてしまえるなら、椛は警戒・選別・迎撃を担う哨戒天狗など勤めてはいない。水溶成分を全て通すセロハンなど、もはや半透膜ではないのだ。

 

 ゆえに椛は、その目で体で確かめるしか術がない。

 鶖飛が椛を恐れて引くならそれで良し。打ち合って椛に打ち勝つならそれでも良し。打ち合った結果椛が鶖飛を風成家の人間だと断定できたならば、それもまた良しなのだ。

 侵入者に対する哨戒天狗の歓待とは、むしろこれが常である。霊夢とここに訪れたゆえに椛との衝突を回避できた、あの時の吹羽たちが異例だったのだ。

 

 こうなってしまっては、吹羽にはどうすることもできない。椛が仕事に熱心であること、生真面目であることを知っていて、なおかつ同じ仕事人としてその邪魔をしたくないと思う吹羽は、この唐突に始まった鶖飛と椛の勝負に横槍を入れられないのだ。夢架などは言わずもがな。ちらと後ろの彼女を見遣ると、その視線に気が付いたのか、軽く両手を上げて「お手上げですね」と示してきた。

 

「一応お尋ねしますが、スペルカードルールは?」

「ん? なにそれ」

「……ご存知ないと。分かりました」

 

 椛は短く息を吐き出すと、キッと前方の鶖飛を見据える。改めて視界に収めた彼は、凡そ里の人間とは思えないほどの手慣れた姿勢で構えていた。

 極端な右自然体に体を据え、緩く逆手に持った木の棒を構える。対して椛は、腰を低く構え、刃を地面と平行にして顎のすぐ下に構える。それは剣士というよりいっそ獲物を狙う射手のように――向けた鋒を鶖飛に照準した。

 

 油断はしない。

 冷静に、冷酷に、獲物を定めた狼の如き鋭い眼光で、椛は短く呼気を吐く。

 宣言に次ぐ――開戦を。

 

「私があなたを斬るのが先か、あなたが私を認めさせるのが先か……勝負ですッ!」

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ――正直に言って、椛にはこの状況を楽しんでいる節があった。

 

 仕事仕事と生来の性格ゆえ真面目に取り組んではいるものの、それが楽しいかと言われれば断じて否だ。

 哨戒は陳腐にいえば延々と山中を飛び回る仕事である。目を凝らし耳を澄ませて空を駆り、侵入者を見つければ対処する――とは言っても、そんなもの滅多に現れない。だって、ここがそういう場所(・・・・・・)なのだと誰もが知っているから。

 ほとんど遭遇しない敵などもはや気苦労の種でしかない。いつ来るかも分からない相手に延々と気を付けるだけで精神的には酷く疲れるし、実際椛は何人かサボっている同僚を知っている。その気苦労を知っているから彼女もその同僚らに口出しはしない。

 

 娯楽というのは大切だ。生きるためだけには不必要とはいえ、何故そう言ったものに需要があるのかといえば当然心に余裕を持たせるためである。それは例えば将棋であったり、川遊びであったり、紅葉狩りであったり、はたまた風紋の開発なんてとんちんかんな趣味を娯楽とする者もいる。

 ――椛の娯楽はなんなのか、という話だ。

 

 椛は武人であった。その剣技は天魔ですら一目を置くほどで、気概や意志の強さに関しては大妖怪 伊吹 萃香のお墨付き。その技量だけでも中妖怪を逸脱している。それは椛が研鑽を積むことを誉れとする、生真面目過ぎて少々アノマリーな努力家だったからこその評価であり、結果なのだ。

 

 剣は命。剣は心。これを失くせば己は完成しない。

 椛の武人としての心は、鶖飛を見つけた瞬間にじくじくと疼いていた。此度の侵入者がどれほどの腕前なのかは知れない、しかし強者であることは間違いない。歩き方、呼吸の仕方、目の配り方、仕草の一つ一つ――無意識に読み取ったそれらが、鶖飛を強者なのだと判断させた。

 ゆえに椛は襲いかかった。剣を合わせてみたいと思った。

 “侵入者にはまず辞去を命ずべし”と掟に記されてはいるものの、それをしたらきっと吹羽たちは都合だけ付けて今日は帰ってしまう。それくらい彼女は相手を思いやれる子だ。だから椛は、吹羽と掟にちょっとばかり嘘をついて、鶖飛との勝負に臨む。

 

 果たして椛の期待は――間違いなく、凌駕された。

 

「ふっ……!」

「く――っ」

 

 横薙ぎに振るわれる棒の一撃を剣の腹で受け止める。樹皮であるため比較的柔らかいはずが、鶖飛の放ったそれは思いもよらないほどに重く、鍔迫り合いに持ち込むことさえ容易ではなかった。

 それを二度、三度、四度と打ち合い、時には腹を滑らせて受け流す。木の棒を相手にしているとは思えないほど苛烈で鋭い。椛は予想を大きく超えて攻めあぐね、苦戦していた。

 

「ぐ、重い……!」

「そっちは存外に軽いな」

「戯言を――!」

 

 数合打ち合い鶖飛の得物を下に弾いた瞬間、椛はすとんと姿勢を落とし、まるで鯉が滝を登り龍となるような勢いで刺突――“白爪”を放った。

 至近距離での風紋による刺突。風で形成される刃により見た目以上に鋒が長くなり、間合いを見測るのが極めて困難なそれは、容赦無く鶖飛の顔面を穿ち貫くべく天を衝く。

 ――が、鶖飛は僅かに目を見開いただけで、実に簡単な様子で対処してきた。

 

「――あぶねっ!?」

 

 下側に弾かれた得物を肘関節を支点に回し、椛の刃の腹を、刀で言うところの柄頭で打ち付けて強引に軌道を逸らした。

 棒の刀身部で刀を受けられないゆえに、柄頭で軌道を逸らして守りとする。予想外の防御法に咄嗟に目を見開く椛に構わず、鶖飛の動きは止まらなかった。

 そのまま自分の腕と得物の刀身部で椛の手首を搦めとるように手首を回して力を誘導すると、鶖飛は力の抜けた椛の足を強引に払って打ち上げた。

 

 絡め取られた手首を支点に、椛の体がふわりと宙に浮く。その絶大な隙を、鶖飛は逃さない。

 地につけたままの足で回転をかけるように跳び、棒の持ち手を順手に持ち替えた。竜巻を思わせるような美しく力強い螺旋を描いて、鶖飛の得物は狂いなく、宙に投げ出されて無防備な椛の腹へと炸裂する。

 

 ――が。

 

「ちっ、防がれたか」

「〜〜ッ、甘い、ですッ!」

 

 寸出のところで滑り込ませた刀がぎしりと軋む。椛はその力に逆らわず吹き飛ばされるも翼をはためかせて調節し、木の幹に着地してそのまま鶖飛に斬りかかる。

 爆速の勢いを乗せて“狼牙”による唐竹割りを放つが、ひらりと躱され、その背後の巨木が縦に割れて破片が散った。

 

「なぁ、妖力は使わないのかい?」

「ええ、あなたとは是非……剣で勝負してみたかったので……!」

「そっか。まあ、こっちは使ってくれて一向に構わないよ。勝つために使える手は全て使う……それが勝負だろう?」

「……油断は死を招きますよ」

「ははっ、違いないが――残念ながら油断でも驕りでもない」

「っ、その余裕、すぐにでも――ッ!」

 

 鶖飛の薙ぎに刀を合わせた刹那、椛は体を下にくぐらせる形で棒を受け流すと、背負い投げの要領で刀を振るって棒を地面に叩きつけた。寸前で鶖飛が棒を引いたために刃がずれ、折ることは叶わなかったものの、これは大きな隙である。間髪入れずに一歩震脚するように踏み出し、ごうと斬り上げた。

 

 が、鶖飛はそれを読んでいたのか、切り上げられる椛の刀にすら峰から棒を沿わせて振り上げ、軌道を逸らして回避してみせた。

 そして、間髪入れずに椛の顔面に向けて豪速の刺突が放たれる。

 

「――ッ!」

 

 それは完全に椛の隙を突いた反撃だった。軌道を逸らされてあらぬ方へと降り抜かれた刀は無様に宙を切っており、引き戻すにはあまりに時間が足りない。椛は迫り来る壁のような刺突に脂汗を吹き出しながら、しかし本能的に、反射的に首を傾けて奇跡的に回避する。先の尖った部分が、僅かに頰を掠めた。

 刺突を外された鶖飛はそのまま横に薙ぐが、それを側方空中回転の要領で回避して距離を取る。

 再び構え直し、椛はふー、と短い呼気を吐き出した。

 

「中々強いね。腕一本でよくやるよ」

「っ、……あなたも、齢十(よわいとお)といくつかでその領域とは……凄まじい天賦をお持ちと見えます」

「いいや、俺はなんてそれなり(・・・・)さ。剣を振るしか能がない。今も昔も……」

「……?」

 

 その時、椛は僅かに暗がりが射した鶖飛の表情に僅かな虚ろを見た。虚空であり遣る瀬無さであり、後悔のようにも見える。

 だがそれも一瞬。鶖飛はすぐに表情を元に戻すと、棒を左逆手に持ち替えて低く構えた。

 

「だからさ、様子見はこれくらいにしておくよ。君が強いのは分かった……だからここから、真剣に(・・・)いこう」

 

 何の構えかはすぐに分かった。刀を逆手に腰を低く構えるのは抜刀術の構え。例え剣の素人であろうと一目で分かるだろう。

 風紋刀を扱うゆえに、隻腕になる以前から椛が捨てていた型だ。腰に構える為に軌道が読まれやすく、受け太刀に向かない風紋刀で用いるには難があるのだ。もちろん、片手しかない現在では使うことすらできないのだが。

 

 ただ、当然それがどんなものかは知っていた。

 抜刀術は帯刀したまま座した状態からの一撃を想定して考案されたものであり、実践技法としては少々扱いにくいこと。初速はあるが片手での運用になるので威力があまり出ないこと。そして、相手の初撃をどんな形からでも受け流し二撃目で確実に斬り捨てるという、“受け”の技法であること。

 下手に用いれば隙を与えるだけ。剣の世界ではそれが致命的。扱いが難しいからこそ、実践でこれを効果的に使えるものは達人と称される。

 

「(……確かに、どう読んでも受け流されるのが目に見える……これが達人の居合ですか)」

 

 鶖飛の抜刀術の構えに対し、椛がシミュレートする一撃はどうあっても鶖飛に届かない。逸らされ流され、次の瞬間には一撃を見舞われる未来があまりにも見え透いていた。それは剣士にとっては――否、己の死ぬ未来しか見えないというのは、どこの誰にも恐ろしいことで、混じり気の一切ない絶望そのものだ。だからこそ、この構えを前に人は躊躇し、己の剣を納める。

 抜刀術が殺人剣ではなく、活人剣と呼ばれる所以はそこにあるのだ。

 

 ――だが。

 

「(選択を……間違えたようですね)」

 

 やはり人か、この状況で鶖飛は選択肢を間違えた。

 彼の得物が真剣だったなら、それはきっと最適解だったろう。椛が鶖飛に抜刀術を構える時間を与えてしまった時点で詰みに近い。なにせ先程の数合で、椛の剣術は事実として鶖飛に及ばないことを悟ってしまった。だからその構えに飛び込めば、十中八九真っ二つ。本当に剣を納める他になくなってしまう。

 

 だが、彼の得物は木の棒だ。それは彼の抜刀術から“一撃必殺の構え”という最強の事実を根元から消し去る致命的なファクター。

 木の棒なんかで、人間は斬れない。妖怪は斬れない。この世のあらゆるものは、鈍器では斬れないのだ。

 椛は足に力を込めて構えた。あの抜刀術が致死の一撃でない以上、椛が飛び込むのに躊躇する理由はない。例え受け流されて一撃もらったとしても、それで死ぬことは決してない。或いは吹き飛ばされるかもしれないが、その時は力をいなして反撃に転じるだけだ。一撃が重いと言っても、あの時の萃香ほどでは決してないのだから。

 

 これで、決める。

 単純な技量で圧倒される相手の犯した致命的なミス。それを突かずにどうやって達人など打倒できよう。

 椛は己を驕らない。少なくとも鶖飛がどの程度自分を超えているのかは理解しているはず。そしてかつての萃香との戦闘を経て、自分がどの程度のことができるのかを分かっている。

 長続きすれば、剣術で鶖飛には勝てないだろう。或いは妖力を行使すれば勝てるだろうが、剣のみで勝負をしたい椛にその選択肢はないのだ。

 

 ゆえに、次の一撃で決めるしかない。全身全霊の一振りで以って。

 そう覚悟を決めたからこそ――椛は、気が付かぬ間に、驕っていた(・・・・・)

 

「――……行きますッ」

 

 爪先に力を込め、足先の地面が僅かに陥没する。一太刀目がどうあっても防がれる以上、どんな太刀筋だろうと関係はない。振り抜きやすいように椛も左下からの斬り上げを想定し、呼吸と共に踏み出すべく一瞬の瞬きをした。

 

 その、瞬間。

 

 

 

 数間先にいた鶖飛は、椛の眼前にまで距離を詰めていた。

 

 

 

「――ッ!!?」

 

 眼前に迫る覇気。腰を一層低く落として椛の懐に入り込んだ鶖飛は、鋭い瞳で以って踏み出しかけた椛を見上げながら、川のせせらぎのように滑らかな動きで木の棒を抜刀する。

 

 そう、抜刀――椛にはそれが、ただ腰に構えた木の棒を振り上げるだけの動作には見えなかった。

 そこにあるのは一振りの刀。触れればあらゆるものを両断せしめる絶対必殺の業。なにもかも、一切合切、森羅万象、その一刀の前には抵抗が許されず、縦に割れて倒れるか袈裟に断たれてずれ落ちるか、或いは横に薙がれて宙を舞うか。その三択しか選択肢はなく、またそのどれにも生き残る術はない。

 

 

 

 鶖飛の覇気が、気迫が、剣圧が、剣気が。

 椛の脳に、ただの木の棒に究極の一太刀を幻視させた。

 

 

 

「〜〜ッ!!」

 

 このまま動作を続ければ確実に死ぬ(・・)。しかし既に、椛の覚悟を決めた一太刀は中断できるところにない。

 皮肉かな、一太刀で決めると意気込んで振るった太刀筋は、まさしく鶖飛に一太刀で決められる(・・・・・・・・・)結果に繋がった。

 

 氷が背中を滑り落ちるような中、互いに踏み込んだ二人は姿を交差させてすれ違う。

 しかし勝敗は明白だった。

 椛の手は力なく得物を持ち上げ、僅かに震えてさえいる。

 刹那の後に津波のように押し寄せてくるであろう痛みを予感して何もかもがさぁっと凍え切り――椛は、鶖飛の声にハッとした。

 

 

 

「あれっ? 手応えないと思ったら、折れてるじゃん……」

 

 

 

 思わず振り向いた先には、刀身部が丸々となくなった木の棒をあららと見つめる鶖飛の姿。そして肝心の刀身部は、二人のすれ違った地点で転がっていた。その断面は折れたと言うよりも、鈍い刃物で断たれたようになっている。

 

「(……振るう力に耐えられず……木が、鶖飛さんの手に置いていかれた、のですか……?)」

 

 でなければ、消えた刀身部がそんなところに転がっているはずはない。振るう瞬間――それこそ抜刀した瞬間に、その速度に耐えられず刀身部がその場に置いていかれて、手と柄部だけが振り抜かれたのだ。

 そしてその結果として――椛は、斬られなかった。

 

「まいいや。次は……ああ、これでいいかな」

 

 折れた棒を投げ捨て、次なる得物を手にとって軽く振り回す鶖飛の姿に、椛は戦慄を禁じ得なかった。

 木の棒を獲物にするなど、初めは訝しく思ったし、舐めるなよとらしくもなく少し憤りもした。だがそれで実力が測れるわけではないからと、己を落ち着かせて戦いに臨んだのだ。事実鶖飛は、木の棒を折ることもなく重い一撃を見舞い、また受け流して反撃してさえ見せた。

 この時点で椛は、ある程度鶖飛の態度の意味を理解し、見直していた。

 

 だが、それでもまだ、椛は鶖飛を測り切れていなかったのだ。

 

 彼にとってこの戦いは恐れるほどのものではなく、また本気になるほどのものでもなく、例え脆弱な木の棒を用いてさえ相手を制圧し得るただの児戯――もしくはチャンバラに過ぎない。

 その剣術、体術、戦闘における直感、反応速度――どれをとっても今の椛を、仰ぎ見ることすらできないほどに凌駕している。

 彼の力を理解できてなど、これっぽっちもいなかったのだ。

 

「“抜き足差し足”って聞いたことあるかな」

「っ!」

 

 声は真横から。

 前方で悠々と新たな木の棒を振り回していたはずの鶖飛は、いつのまにか椛の真横で木の棒を振り被っていた。

 咄嗟に避けた椛はバック宙で距離を取るも、一息吐いた次の瞬間には、彼は再び椛の懐に潜り込んで木の棒を振るってきた。

 

「音をさせず気付かれず、沼からそっと足を引き抜くようにっていう言葉なんだけど、これはそれの応用さ。相手の呼吸を読めるようになると、こんなことができるようになる」

 

 突然の事態だが、それでいつまでも慌てふためく椛ではない。また瞬時に潜り込まれることが分かっているならば、それに合わせて剣を振るえばいい。

 避けては現れ、受け流しては現れを繰り返す鶖飛に対し、椛はタイミングを合わせて剣を振り抜く。果たしてその一撃は――確かに鶖飛に襲いかかり、彼はそれを木の棒で受けた。

 

「呼吸が読めれば意識が読める。意識の向かない無意識を見つけて潜り込めば、行動を阻害されずに一方的に動けるって寸法だよ。――こんな風に」

 

 直後、剣が突然軽くなったかと思うと、鶖飛は全く違う体勢で棒を構え直していた。

 椛の目の前で。

 気が付けば構えを直して、別方向から攻撃を見舞ってくる。それが椛に対応を許すような甘い角度であるはずがなく、遂に椛は腹部に痛烈な一撃を受けて吹き飛ばされた。

 

「ぐ、ぅ……っ!」

「もう一つ講義と行こう」

 

 宙を翻って体勢を直すと、更に上空で棒を振り被る鶖飛が見えた。

 彼の兜割りを避けることはできず咄嗟に刀を滑り込ませてそれを防ぐと、重力が増したかのような衝撃が椛の体を地へと叩き落とす。

 次いで、土煙を穿って鶖飛の追撃が飛来した。投擲された棒を椛は横に回って回避する。

 背後でズドンと腹に響く音がした。

 

「さっき俺の構えを見て攻めようとしていたけど、読みが甘い。抜刀術は確かに受けの技巧だが、工夫さえすれば最高の攻めの型になる。その真髄は抜き打ちの速度、体を開く故の斬撃範囲の伸び、そして――全身に渡る脱力からの、爆発的威力」

 

 二合、四合、八合――鶖飛の“抜き足差し足”による苛烈且つ回避不能の連撃と打ち合い、僅かな隙に再度腹に一撃が打ち込まれて吹き飛んだその刹那――鶖飛は、再度椛の懐に現れた。そしてその構えは致命の一撃、抜刀術。

 

「ほら……目の前が(・・・・)、がら空きだよ」

 

 迫り来る絶対両断、必殺の太刀。今度こそは威力を制御され、棒を折ることなく降り抜かれるであろう最高最速の一撃だ。

 先ほどよりも体勢は安定しているものの、無意識を突かれたその一撃は既に不可避の領域。

 ――椛を襲ったのは、亜音速で飛ぶ石飛礫を腹に受けたかのような衝撃だった。

 

「っ、か――……は――ッ!!」

 

 まともな声すら出せず、椛は弾丸のように吹き飛ばされて巨木に厳かに衝突した。幹には大きなヒビが入り、あまりの衝撃に葉が全て弾け飛び散った。ぐしゃりと地に落ちても倒れ込まずに膝で立っていたのは、さすが大妖怪に認められた中妖怪というところか。

 しかし、そのダメージは甚大だ。

 

「なんで抜刀術に威力がないのかって、それはみんな脱力が上手くできてないからさ。全身の力を零から一気に百にすれば、それはもう大層な威力になるに決まってる。これを“受け”に使うなんて、俺から言わせれば勿体なさ過ぎるね。せっかく懐に潜り込む術があるんだから、もっと攻撃的に使うべきだ」

 

 朗々と持論を語る鶖飛に対して、椛はフラフラと震える足で立ち上がる。彼を睨め付けるその目は、驚愕と不可解に染まり切っていた。

 

「(なんなん、ですか……この人間は……!)」

 

 強過ぎる。

 あまりにも、理不尽なほどに。

 まるで大妖怪に相対したかのような絶対的な力の差、それも妖力や霊力に依らない個人の身体的力量差を、椛は突きつけられたように感じ取る。彼女程度の力では到底敵わないような実力をこの男は持っていたのだ。

 

 得物が木の棒でよかったと心底に思う。刀なら間違いなく両断されていたし、彼に愛刀というべき一振りがあるなら、もしかすれば消し飛ばされていたのかもしれない。

 ――否、彼が本当に本気で、これを真剣に殺し合いだと認識した一撃だったなら、きっと今の状況でも自分は塵も残さず斬り刻まれていた。例え木の棒でも彼ならそれを成し遂げるだろう。そんな不可能すら可能にしてしまうかもしれないという底知れなさが、彼にはある。

 不気味な予感が椛を青ざめさせ、また否応無く戦慄に凍えさせる。

 

 

 

 この強さは――異常(・・)だ。

 

 

 

「さて。驕りは消えたかな……椛、だっけ?」

 

 鶖飛の言葉に、椛はびくりと震えた。

 

「武人として剣での戦闘を楽しみたい気持ちはよく分かる。でもそれは、勝つか負けるか分からない拮抗した相手とのみするもんだ。……妖怪のくせに妖力も使わない驕った剣で、よくもまあ俺の相手が務まると思ったもんだよ」

 

 鶖飛の声音は優しく、しかし僅かな怒りがたしかに滲んでいて。

 

「君が強いのはよく分かった。でも上には上がいることをよく理解しな。相手の力量はちゃあんと測れよ。そして格上と戦うなら全力を振り絞れ。……武人なんだろう? 君のその刀は子供の玩具か?」

 

 鶖飛の言葉は、椛の胸を厳かに撃ち抜いた。

 剣での戦闘を楽しむ気持ちは武人として正しい。それが己を高めることにも繋がる。しかしそれを優先し切っていた椛は、いつの間にか鶖飛に対して礼を欠いていたのだ。

 格上と戦うならば、それをよく見て剣を合わせ、技を盗むくらいの気持ちで挑まねばならない。もちろん殺し合いならばそれよりももっと別の覚悟が必要となるが、今はそうではない。

 武道において大切なのは相手を敬う心。相手の実力を認めた上で相手をしてもらう(・・・・・)心意気。全力で挑むのは当たり前のことだ。

 

 ただのチャンバラで終わるならこの刀は玩具でいい。武人である必要はない。だがこの刀には椛の誇りがあって、その白銀の刀身には研鑽してきた己が写っている。それを振るってチャンバラを演じてしまえば、きっと椛は誇りを失ったという証左を示すことになる。

 それは――決して許されないことだ。

 

「(まさか、初対面の人間に思い出させられるなんて……)」

 

 吹羽ならきっと「“初心忘るべからず”という諺があります」と言うだろう。

 修練を積んで、強くなって、大きな戦いを乗り越えて。いつの間にか自分はそれなりの強者になったと調子に乗っていた。けど自分はまだ取るに足らない中妖怪で、当たり前のように上がいる。

 天才も努力家も、実力に胡座をかけば必ず追い抜かれ落ちぶれる。剣を始めた頃の強くなりたい気持ち、この剣で守りたいものを守ろうという気持ち、それを忘れて自分は強くなれない。

 強くなったと思ったこの自分は、そもそも吹羽を守りたいと思って戦ったあの時に完成したのだから。

 

「ふうぅ――……」

 

 椛は一つ息を吐き出した。こびりついていた煤を拭き剥がすように、積もった灰を散らすかのように。

 全力、全力、全力――口の中で反芻すると、何をするべきなのかが自然と分かる。

 椛は抑えていた妖力を解放して、真摯な瞳で鶖飛を見つめた。

 

「お……いいねぇ。それ(・・)なら俺も諭した甲斐があるってもんだよ」

 

 にやりと上機嫌に口角を上げる鶖飛に対し、椛は静かに刀を構えた。

 刃を上向きに、鋒を相手に向けて顔の横に据える。本来はあまり褒められた構えではないが、これは隻腕になった椛が最も刀に力を乗せやすい振り方の予備動作として、改めて剣術を研究した答えの一つだ。

 

 隻腕になったあの日から、何度も何度も夢想した。最後のあの一撃をどうしたら受け止められるだろう、どうしたら斬り裂けるだろう、と。

 結果として、今の自分では不可能という結論に至った。山を抉り取る威力の一撃など、自分では受け止めることなど到底できない、と。だがいつかアレを吹き飛ばせるくらいの一撃を身につけるためには、その“今”の研鑽が必要である。

 あの一撃を目標として。当然今すぐにはできないけれど、その第一歩として椛は一つの技を完成させた。

 それはまるで、屈強な狼が己の武器を極限まで研ぎ澄まし、力強く地を蹴って天空を飛ぶ鷹に襲いかかるような――。

 

「来い、椛」

「――“白爪(はくそう)昇腕薙(のぼりかいな)”」

 

 踏み出し、体を回す。円を描くように背中側へと回った刀は、風を巻き込んで風の大剣を形成する――が、それだけには終わらなかった。

 解放した妖力でなけなしの風を操る力を振り絞りありったけを刀身に撫で付けると、激しく風紋を揉み合い押し合い流れ流れ、風の激流が、あらゆるものを引きちぎり裁断する暴風の絶剣へと昇華する。

 樹齢千年を超える大木すら何本も消し飛ばせると思われるほどに強大になったその剣は、触れた地面を容易く斬り裂きながら鶖飛に迫った。

 

 “昇腕薙”は斬るだけの技ではない。鋒を先行させて下から振り上げる突いて斬る(・・・・・)技だ。

 刀は斬るにも突くにも適した刃物である。しかし力というものは引っ張るよりも押す方がより力を物体に伝えやすい。だから椛は、より力を伝えやすい刺突の形で斬り上げる術を見つけ出した。

 大狼が天を目掛けて豪腕を振り上げ空を断つように、暴風の絶剣は椛の爪となって、相手を突き上げ断ち割り終いに斬り捨てる。

 

 かつての戦いから想いを乗せた、椛の紛れもない“研鑽の成した一撃”だ。

 

「(もはや加減は、必要ないッ!)」

 

 歯止めは壊れた。鶖飛が紛れもない格上の相手であると認めた今、全力を彼にぶつけなければ武人として死んだも同然だ。

 椛の研鑽の証が、とてつもない威力となって格上に牙を剥く。山を抉り取ることも雲を喰い千切ることもないけれど、間違いなくその夢に一歩近づいた――そのために編み出した最高の技。

 

 不敵に口の端を歪めて待ち受ける鶖飛に向けて、椛は刀に全てを乗せて――遂に斬り上げた。

 

 

 

「はい、すとっぷ」

 

 

 

 ――バチッ。

 電気の迸るような、鋭い炸裂音が響いた。

 

 それに次いで、木々を薙ぎ倒そうかという威力の暴風が炸裂して暫し周囲に吹き荒れた。凄まじい風が木々をすり抜け、どこか遠くで発生した鎌鼬が木の幹を傷付ける快音が断続的に響いてくる。爆発と見間違うような暴風の後には、木々から千切られた葉々がはらはらと雪のように舞い落ちていた。

 

 今日何度目か、呆然と受け止められた刀を見つめて、徐に視線を上げると、

 

「自分を見つめ直すのも大いに結構。だが目的を見失っちゃ困るぜ、哨戒天狗(・・・・)。取捨選択するのが仕事だろ? マジで戦い始めてどうするよ」

「――……萃香、様……?」

 

 椛の刀、そして同時に鶖飛の木の棒すらも平然と受け止め遮った大妖怪――伊吹 萃香。

 彼女は感心したような呆れたような、ともかくどこか優しい声音をして、唐突に現れたのだった。

 

「剣を納めな、椛。鳳摩の奴が“通せ”だとよ」

 

 

 




 今話のことわざ
初心忘(しょしんわす)るべからず」
 何事においても、始めた頃の謙虚で真剣な気持ちを持ち続けていかねばならないという戒め。
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