風と神話の幻想譚   作:ぎんがぁ!

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第五十話 神話の嚆矢

 

 

 

 刃を伴った紫紺の風が頬を掠めると、鋭い痛みと共に鮮血が舞った。

 

 深くはないが、皮膚の表面を削られたような慣れない痛みが走る。まるで肌を直接鑢にでもかけられたかのような、人を精神的に追い詰める痛みである。

 この風に呑み込まれるのだけは回避せねばなるまい、と吹羽は肝に命じて身を翻す。全身をこんな痛みに襲われたら、いくら身構えていたとしても自分程度では耐え切れないと思った。

 

「“疾風”……っ!」

 

 苦し紛れに放った数発の釘は呆気なく鶖飛に回避され、反撃とばかりに再度紫紺の風が広範囲に襲い来る。今度は回避が間に合わないと悟りドクンと一つ心臓が跳ねるが、吹羽は冷静に、腰に下げられた小さな鉄に指を滑らせる。

 

 僅かな霊力を食らって顕現したのは、一本の杭。吹羽はそれ――“飛天”を鶖飛に向けて投げつけた。

 

 “飛天”は横殴りの竜巻を生み、風の砲撃を纏って飛ぶ杭だ。いくら魔力を含んだ風と言っても、突風が竜巻に敵う道理はない。

 風の砲撃は広範囲に撒き散らされた紫紺の風を強引に食い破り、鶖飛の下へと一直線に飛翔した。

 それに対し、鶖飛は刀を両手に大上段に構える。

 

「集え、禍風(まがかぜ)――“(せん)”」

 

 呟き、神速で振り下ろされる。その瞬間、風の砲撃がぱくりと縦に割れた。目を見開く吹羽のすぐ横を、鋭い紫紺の風――禍風が音すら置き去りにして駆け抜けた。

 後方には縦真っ二つに喰い裂かれた無数の木々。地面には地割れというには綺麗過ぎる深い切り傷。この大地に意識があったのなら、きっと泣き叫びのたうち回って大地震を起こしているだろう。

 吹羽は恐怖に竦みそうになる身体を、唇を噛んで叱咤した。

 

 動かなければ、次の瞬間には真っ二つ。吹羽は次々襲い来る風を、翻り、食い破り、爆散させ、あらゆる手を尽くして必死に凌ぐ。激しい運動で開いた傷がとてつもなく痛かったが、吹羽は死に物狂いで刀を振るった。

 死ぬのが怖いか傷付くのが怖いかといえば、当然死ぬのが怖いに決まっている。それに鶖飛がこうして吹羽を攻撃していてくれれば――それは隙を晒すも同然である。

 

「ッ!」

 

 吹羽へと禍風による斬撃を飛ばす中、ハッと鶖飛の瞳が見開かれた。即座に視線を走らせた彼の周囲には、いつの間にか光り輝く八角形が描かれていた。

 鶖飛は咄嗟に攻撃の手を止める。だが、もう遅い。

 

「『八方龍殺陣』ッ!」

 

 投げ付けられた符は追い縋る禍風をすり抜けて地面に刺さる。その瞬間、描かれた線が更に黄金に光を発し――その内側が、大爆裂を起こした。

 轟々と凄まじい衝撃音が響いているが、不思議と外側にはほとんど衝撃が来ない。描かれた線が黄金色の結界で衝撃を内側に圧縮しているのか、霊力の爆発は美しい八角柱を形作り、まるで闇夜の空を巨大な御柱が衝いているかのようだった。

 

 疲弊にがくりと膝を突いた吹羽の下に、ふわりと霊夢が着地する。

 

「はぁ……傷は大丈夫かしら」

「ぅ、くっ……大丈夫、です……」

 

 嘘。大丈夫なわけがない。

 以前の治療である程度コツをつかんだ霊夢によって必死の切り傷も段違いの速度で、より効率的に治療できたものの、やはり完治できたわけではない。そこに攻撃など喰らえば傷が開き、無視できないほどの痛みが生じるのは当たり前だ。

 腹部の服に滲んだ血が見られないよう、吹羽は僅かに屈みこんでから息を整える。

 吹羽も霊夢も命を賭けた戦いだ。彼女の集中を妨げるわけにはいかないと思った。

 

「っ! 来ます!」

「ええ!」

 

 炸裂する霊力の中に僅かな魔力の動きが見えた。

 次の瞬間、夜闇に突き立った霊力の柱に無数の剣閃が奔り、衝撃を留めておけなくなった結界が砕けて爆散した。

 間髪入れずに禍風が――“閃”が飛んでくる。それを予測していた霊夢が数枚重ねた結界で防ぐが瞬時に砕かれ、二人とも衝撃に吹き飛ばされた。

 吹羽は不安定な体勢を“韋駄天”の推進力でどうにか正して着地すると、牽制として“風車”と“疾風”を放つ――が、鶖飛の周囲を旋回する禍風にぶつかると一瞬で削り刻まれてしまった。

 

「っ、」

 

 青い燐光へと散る“疾風”を視界の端に、吹羽はすぐさま駆け出した。数瞬前までいたそこには強烈な禍風が津波のように押し寄せ、次々と空間を削り取る。時折隙間を見つけて牽制するが、全てが禍風に防がれてしまっていた。恐らく霊夢の方も似たような戦況だろう。

 

 いくら鈴結眼が人外の洞察力を誇ると言っても、予測材料が少ない風などを相手には当然精度が落ちる。隙間を見つけて弾を放っても、後から禍風に呑み込まれてしまったら鶖飛に届くわけもない。近接戦ならまだしも遠距離で、まして圧倒的物量で押しつぶしてくる攻撃を前に予測も何もないのだ。

 

 全範囲をカバーする殲滅力の化け物。それが鶖飛の操る禍風である。あらゆるものを飲み込んで塵へと返すその風があれば、一人でも幻想郷全土を相手にできるだろうとさえ思えた。

 一対一、あるいは個々に実力を備えた多数の敵を相手にすると絶大な効力を発揮する鈴結眼は、しかし殲滅力に物を言わせる相手には最悪の相性だった。

 

「(〜〜っ、埒があかないっ!)」

 

 避け、避け、反撃しては掻き消され、逆に斬られかけて離脱する。もうそれを何度繰り返したか分からないが、これ以外の戦法も思いつかない。

 吹羽は刀を用いた近接戦の方が得意だ。離れていても僅かな隙を突いて距離を一気に詰め、無理矢理に接近戦に持ち込む方がやりやすい。しかし、いざ完全な近接戦に持ち込んでも数秒後にはきっと細切れにされているだろう。それだけ鶖飛とは実力がかけ離れているし、今吹羽が生きていられるのは偏に遠距離戦が主だからだ。

 

 遠距離戦では埒があかない。しかし近接戦に持ち込めば死ぬ。ならばと遠距離で道を開こうにも、吹羽より弾幕や霊術によるそれに長ける霊夢が攻めあぐねるのに、吹羽がこの陣を崩せるわけもなかった。

 

 そして、そう思っていたのは鶖飛も同じだったらしい。

 

 禍風で吹羽を追いかけ回しながら、鶖飛は地を蹴って飛び出す。向かう先は――霊夢だ。

 

「ッ!」

 

 今までと同様、“抜き足差し足”によって突然目の前に現れた――ように見えた――鶖飛に、さしもの霊夢も冷たい汗を流す。

 襲いくる禍風を結界で受け止めながら、霊夢は大幣で斬撃を弾いた。

 硬質な音が響く。霊力の燐光が眩く散った。

 

「よく反応したな」

「じゃなきゃ……死ぬでしょうがッ!」

 

 弾かれた勢いをそのままに使って横に薙ごうとすると、それを鶖飛は、あろうことか素手で掴み取った。妖怪であれば触れただけで蒸発するそれを鷲掴みにしたまま、鶖飛は至近距離で禍風を纏った刀を振り抜いた。

 咄嗟に上へ跳ぶ。一瞬足が巻き込まれて血が繁吹くが、霊夢は鶖飛の頭上を取った。

 

「『結界殺・重畳』!」

 

 苦悶に顔を歪めながらも、霊夢は上空から鶖飛に向けて印を切る。すると彼女の目の前に畳ほどの大きさを持った黄金色の結界が発動し、鶖飛を押し潰さんと放たれた。それは一枚だけではなく、何枚もの結界が一列に連なっていた。

 ドドドドド、と地面を強く叩く音が響く。妖怪相手であれば呆気なく圧殺されるところだろうが――刹那、キン、と剣閃が一筋奔った。

 重ねられた結界がいとも容易く砕かれる。放たれた剣閃は吹羽の方にまで飛んできたが、観えていた彼女は間一髪で回避した。

 

 続けざまに衝撃が走って土煙が晴れると、禍風が渦を巻いて暴れ狂っていた。

 複雑にうねる禍風は、まるで紫紺の鱗を持った龍のようである。鶖飛の周囲でとぐろを巻き、目などないのに睨まれている気がした。

 

「喰い荒らせ――『禍蛇神土(マガツカガツチ)』」

 

 空を切る音が咆哮にも聞こえた。

 動き出した紫紺の龍は、その巨体からは想像もできない速度で舞い上がり、その長い尾を振り下ろす。それが厳かに打ち据えたのは、辛うじて斬撃を避けた霊夢だった。

 

「霊夢さんっ!」

 

 あまりに予測を超えた速度に反応しきれなかったのか、霊夢は結界を張る間もなく地面に叩きつけられた。

 身体中から血が噴き出たのが遠目にも見える。その光景にさっと青褪め、吹羽はすぐさま駆け出そうとするが、文字通り風の如き速度で暴れ狂う龍に遮られる。

 

 そして立ち止まった吹羽の目の前に、ついに鶖飛が肉薄した。

 

「そんなに心配か?」

 

 咄嗟に振り下ろした“太刀風”を鶖飛は難なく弾き返す。そして一瞬で納刀すると、鞘に納めたまま吹羽の腹を打ち据えた。

 一瞬意識が白く染まった。開いた傷の痛みと内臓の押し潰される苦しさに、なにがなんだか分からないまま吹羽は大きく吹き飛ぶ。

 

 何度も地面にぶつかって止まると、霞む視界の中に大口を開いた紫紺の龍が見えた。五体投地した吹羽の体を食い破らんと、上空から猛スピードで落ちてくる。

 

「(ま、ずい――……ッ!)」

 

 そうは思っても、自由に体は動かない。疲労と痛みと、既に朦朧とした意識では自分の体が鉛のように重かった。

 だがそれでも、“韋駄天”を一振りできたのは意地ゆえか、それとも生き足掻いただけだったのか。

 “韋駄天”に引きずられる形で間一髪龍の顎撃を回避した吹羽は命こそ助かったものの、突如肩に焼けるような痛みが走った。

 

 横目で見やれば、そこには自分の肩に突き立った刀身の銀光が見えた。

 

「ッ! ぁ、あぁあああッ!?」

「お前をずっと騙していたあいつが……」

 

 ぐり、ぐりと緩やかに傷口が抉られる。その度に痛みが頭を支配して、全身が無意識に暴れ回る。

 

「そんなに、大切なのか?」

 

 どこか悲しみを帯びた言葉を落とした刹那、大量の弾丸が飛来した。鶖飛はそれをことも無げに禍風で防ぐと、空間を裂いて現れた霊夢の振り下ろしを引き抜いた刀で受ける。

 

「『夢想封印』――ッ!」

「『禍蛇神土』」

 

 至近距離で衝突した二人の技は青と紫紺の火花を散らしながら一瞬拮抗したが、数秒の後に互いに弾け飛び、その衝撃で三人は距離を取った。

 片や傷一つない姿の鶖飛。

 片や血塗れで息を荒げる吹羽と霊夢。

 ――実力の差は、明々白々だった。

 

「吹羽、に……余計なこと、吹き込んでんじゃないわよ……!」

 

 傷だらけとは思えない強い言葉だが、霊夢がもう既に限界近くなのは吹羽にも分かった。

 先ほどの龍の一撃で身体中に赤い皮膚が覗き、絶えず血が滴っている。僅かに霊力を感じることから、それで咄嗟に魔力を相殺させながら受けたのだろう。

 だが、時折口の端から血が滴り落ちている。きっと内臓がいくつも潰れているのだ。

 吹羽は歯を食いしばって立ち上がると、傷口を抑えながら鶖飛を見やった。

 

「余計なこと? 事実を言ったまでだ。お前は吹羽の記憶を隠していただろうが」

「ええ、あたしは、っ、事実を……隠蔽したわ。吹羽にとっても大切なことをね」

 

 吹羽の両親がどうなったのか。兄と慕っていた鶖飛の非道。吹羽が霊夢に隠されていた事実は、確かに吹羽の根底を覆し得るものだった。

 だが、と霊夢は鶖飛を睨む。

 

「親友が壊れていくのを、黙って見ていられるわけがないでしょうが……ッ! その原因を作ったあんたに……口を挟む権利なんてないわッ!」

 

 いくら霊夢が吹羽に隠し事をしていたとしても、その隠せざるを得ない非道(・・・・・・・・・・)を働いたのは間違いなく鶖飛である。

 そんな奴に騙していただとか大切だとか、偉そうに問う資格はない。説く資格もない。愛していると口にしながら傷付けるより、隠してでも笑顔を守りたいと思う方がよほど正常だと霊夢は考える。

 

 もちろん、霊夢とて罪悪感はある。後悔もあれば遣る瀬無さもあるし、なにより強烈な無力感があった。

 きっと選択を間違ったのだ、と霊夢は思っていた。もっと模索すればより良い選択肢はあったのだろうと。間違った選択を盲信したまま突き進んでしまった故に霊夢は吹羽を辛い目に合わせたのだ。それは霊夢のこれからの人生で背負っていかなければならない厳然たる事実である。

 

 だが、吹羽を守りたかった気持ちに嘘偽りはない。その気持ちを“騙していた”と踏み躙られることだけは、許せなかった。

 なにより、自分の希望を通したいだけの愚か者には。

 

「あんたには、分からないわ……友人を想う気持ちなんて!」

「そうだな。俺が欲しいのは友人じゃない……たった一人の妹という家族だ」

 

 周囲の禍風が渦を巻く。しばし鶖飛の周りを揺蕩ったそれは、気が付けば先ほどの龍――“禍蛇神土”を形作っていた。

 

「友? そんな他人を思う気持ちなんて、とうの昔に切り捨てた!」

 

 鶖飛の叫びに合わせたように、紫紺の龍が砲撃の如き勢いで迫ってきた。

 一度散ったにも関わらずその巨体はさらに風を巻き込み、視界を覆い尽くすほどの大きさにまで発達している。本来であればすぐさま逃げ出すのが最善であろう圧倒的暴威を前に、しかし霊夢は動かない。

 その両肩は、怒りに震えているようにも見えた。

 

「その小細工も――」

 

 符を構える。それを徐に放ると、ひらひらと花びらのように霊夢の周囲を舞った。

 それは最早桜の如く。本来青白いはずの霊力が符という小さな形に押し込められ、飽和し、濃縮され過ぎて色を変え、そして溢れ出る。一つの花のようになったそれらは、薄紅色を呈していた。

 

「いい加減にしなさいよ、この大馬鹿野郎ッ!!」

 

 ――『霊符「夢想桜花封印」』

 

 桜の如き霊力の弾頭が、巨大な龍の顎門に突き刺さった。

 

「あんたのそれは……押し付け(・・・・)でしかないのよッ!」

 

 龍と桜は大地を鳴らして拮抗するが、それもわずかな時間だった。

 桜の弾頭は少しずつ龍を圧倒し、霊夢がひときわ力を込めるのと同時に突き破る。周囲の禍風をも消し飛ばしながら、ただ少しも衰えずに鶖飛の身一つに殺到した。

 

 薄紅色に炸裂する“夢想封印”。しかしこんなもので討てる甘い相手でもない。霊夢はすぐさま飛び出し、お得意のホーミングアミュレットと掃射する。満足な体術はできないが、霊術でならば彼女の右に出るものはいない。

 

「(防がれるのも予想のうち!)」

 

 その心の声が具現化したように、煙を晴らした鶖飛には傷一つない。どころか片手で印を結んですらいた。

 なんらかの術だろう。それも、これだけ魔力を扱える鶖飛がわざわざ印を結ぶということは、それなりに強力なものであることが予想される。

 

 備えて耐えるべきか、“刹那亜空穴”を用いて全力で回避するか――断じて否。

 わざわざ術の準備をしているならば、それそのものをぶち壊して優位を取ればいいのだ。

 霊夢は“刹那亜空穴”に飛び込み、瞬時に鶖飛の背後を取った。すぐ目の前に見えるそれは人間にとっての急所の一つ。太い神経系の通った――うなじ。

 

「させるか、っての!」

 

 底冷えするほどの霊力を込められた大幣で首を薙ぎにかかった。

 淡い光を纏う大幣はもはや鋭利な脇差の如き鋭さを誇る。だがしかし、刃物というのは往々にして、当たらなければ意味がない。

 

「その体で――」

 

 鶖飛は僅かに身体を後方にずらすと、印を結んでいた手で霊夢の腕を掴んで止めた。

 

「ッ!」

「よく俺に近接戦を挑んだもんだな!」

 

 魔人となった鶖飛の膂力は人間の比ではない。掴んだ腕を強引に引っ張り、鶖飛は背負い投げの要領で地面に叩きつけた。

 壊れた内臓から血が逆流する。溢れ出した血痰が、喉から勢いよく吹き出た。

 

「死ね」

 

 一言吐き捨て、鶖飛は霊夢の命を刈り取るべく“鬼一”を振り下ろした。壊れた内臓をさらに押しつぶされて動けない霊夢に避ける術はない。

 だが、為す術がないかと言われればそうでもなかった。

 

「!」

「だれ、が……死んでやるか、ってのよ……!」

 

 霊夢の首を狙った“鬼一”は、柔肌を搔き切る直前で青白い結界によって止められていた。それは小さい代わりに今までより何百倍も厚く作られており、いくら鶖飛でも斬り裂くことができないほどの強度を持っていた。

 

 一瞬、隙ができる。霊夢はそれを逃さなかった。

 

「はぁッ!!」

「ぐ……っ!」

 

 放たれたのは青白い衝撃波――霊撃である。内に秘めた力を瞬間的に解放して衝撃を生む霊夢のそれは、中妖怪程度なら瞬時に昏倒させられるほどのものだ。

 体術よりも霊術に長ける博麗の巫女の霊撃は凄まじい。それが至近距離で炸裂したとなれば、いくら魔人の体でもダメージは多少なりともあろうというもの。

 初めて聞いた気さえする苦悶の声と共に、鶖飛は霊夢から強引に離れる。

 

 しかしその先には、吹羽が待ち構えていた。

 

 鶖飛の吹き飛ぶであろう方向へと回り込んでいた吹羽は“太刀風”を正眼に構える。鋒は鶖飛を正確に捉え、鈴結眼がその挙動を正確無比に観測する。

 どこに、どう振るえば、どう当たるのか。

 それら全ての要素を完全に把握した吹羽は、諸手に持った“太刀風”を緩慢に振りかぶった。

 

 霊夢が決死で作った、恐らくは最初で最後であろう大きな隙。ここで仕留められなければきっと勝ち目はないだろう。

 吹羽はカッと目を見開き、飛来する鶖飛目掛けて刀を振り下ろす。

 

 ――その時だった。

 

「太刀か――ッ!?」

 

 

 

 刀が、止まった。

 

 

 

「(なっ、なに!? なにが――!?)」

 

 握る手も、一歩踏み出した足も、首を回すことすらできない。突如起こった不可思議に全ての思考が真っ白に染まる。

 

 動かなくなったというよりは止められたような感覚だった。それも込めていた力などないもののように、慣性の法則を裏切って体がピタリと止まっていた。さながら空間そのものに固定されたかのよう。

 なぜ。どうする。動け動け。まずい。斬られる。鶖飛は既に、目の前にいるのに――!

 

 あまりに唐突な現象に吹羽は少なからず狼狽する。そしてそこに飛来する鶖飛はひらりと体勢を整えると空中を蹴り、意識散漫な吹羽の目の前に瞬時に現れた。

 

 腰には鯉口の切られた刀。低く屈み込むような姿勢はまさに鶖飛の得意技――抜刀術の構え。

 

「裂け……『帰塵(きじん)』」

 

 胴が、消える。直感的にそう思った。

 鶖飛の抜刀は神速だが、鈴結眼にはやはり緩慢に映る。故にそこに込められた魔力や禍風も同様に見えるものだ。

 

 性質としては“閃”と似たようなものだろう。禍風を束ねて飛ばし、素の剣圧と合わせて長距離を切断する。だが今のこれは抜刀術。鶖飛が最も得意とする攻め(・・)の型。似たように用いればどのような威力になるのかは想像に難くない。

 

「――ッ、」

 

 数瞬後に迫った死の気配にゾッと顔を強張らせる吹羽だったが、咄嗟に赤い衣が視界に入り込んできた。

 赤い衣――霊夢が半ば地に落ちるような体勢で現れて結界を張ると、次いで凄まじい金切り音が響き渡った。

 結界と“鬼一”、引いては濃縮された禍風がぶつかっているのだ。触れたものを削り刻んでいく風が強固な結界を絶えず引っ掻き、火花の如き燐光を散らして受け止められている。

 ぼろぼろの霊夢は、震える足で立ちながら苦しい声を漏らした。

 

「ぐっ、――ぅぅうううッ!!」

「れいむ、さんっ!」

 

 徐々に結界にヒビが入る。それを確認したのか、鶖飛は禍風をぶつけたまま一歩下がると構えを変えた。

 鋒を前に据えたそれは、素人目にも分かる突きの構え。獲物を仕留める射手の如き瞳は、霊夢の心臓を狙っているように見えた。

 

 後ろには動けない吹羽がいる。吹き荒ぶ禍風を防ぐには結界が必要だ。だがひびの入った脆い結界に鶖飛の刺突が耐えられるわけはない。

 回避もできず、防御も貫く。心臓を狙い澄ました矢の如き刀は確実に霊夢を射止めるだろう。まごうことなき絶体絶命の危機――

 

 

 

 だから霊夢は、それを受け入れる(・・・・・)ことにした。

 

 

 

 刹那、放たれた刺突が結界を容易く砕き、霊夢の胸をも貫いた。

 身体の中に鉄の塊が入り込んでいる感覚に吐き気を覚え、霊夢は込み上げる血の塊を我慢もできずに吐き出した。刺突に続くように禍風が霊夢の肉を容赦なく削り取っていくが、もはや霊夢は痛みなどほとんど感じていなかった。それすら感じられないほどに脳内麻薬が分泌されているのだろう、霊夢の意識は白濁として、酩酊しているような感覚だった。

 ただ一つ感じるのは、肌寒さ。体温の元である血が抜けていくためか、それともそれが死の足音というものだったのか、今の霊夢には判断が付かない。

 

「ぁ、あぁああぁ……れいむ、さん……れいむさん!」

 

 微かに吹羽の声が聞こえた。それに少しだけ意識を引っ張り上げられ、霊夢は霞む視界で鶖飛を睨む。

 彼はなんの感情も読み取れない無表情で霊夢を見ていた。

 

「ようやく終わったか。お前の粘り強さには脱帽だよ」

「だったら……ずっと脱いで、なさい……まだ、終わってないわ……ッ!」

「? ……!」

 

 そこで鶖飛はようやく気が付く。霊夢を貫いている刀の、その始点と終点。そこにごく小さな結界があり、刀が抜けるのを強固に阻止していることに。

 そしてその刀そのものが、霊夢の傷に蓋をして流血をある程度抑えていることに。

 

「刀が、なけりゃ……あんたはただの、魔法使い……!」

「なに――」

「ぶっ飛べッ!」

 

 刹那、虹色の光が炸裂した。至近距離で霊夢が放った『夢想封印・瞬』が見事に命中し、鶖飛は声も上げぬままに吹き飛んだ。

 

「ぅ、く……」

「ぁ、あ、やだっ、れいむさん……!」

 

 がくりと膝を突く。術が解けた吹羽はすぐさま霊夢に駆け寄った。

 

「や、いやっ、れいむさん、死んじゃいやですっ!」

「落ち、つきなさい……まだ、大丈夫だから」

 

 目に涙を溜めて狼狽する吹羽の頭に手を置く。それでも潤んだ瞳で見つめてくる彼女に、霊夢は仕方なさそうに笑いかけた。

 

「そうやっ、て……心配しすぎる、のは……悪い癖よ」

「で、でも……刺さって……胸に……!」

「はは……あたしを、誰だと思ってるの。天下無敵、の……博麗の巫女、よ?」

 

 そう言うと、霊夢は血塗れの手に淡い光を宿らせる。それを胸に当てると、少しずつだが呼吸が楽になってきた。

 博麗の巫女も治療術くらいは心得ている。自分の傷も直せないのに妖怪退治などやっていられないからだ。

 霊力を身体に流し、浸透させて傷を繋いでいく。本来ならば応急処置程度であるはずのそれは、霊夢が行使することで十分に治療術として成立するようになっていた。

 

 刀は抜かず、切れた血管に蓋をしたまま他の傷を直していく。今抜いたら、流石の霊夢でも治す前に死ぬだろう。

 ゆっくりと流して、身体の調子を確かめて――そして霊夢は、戦慄した(・・・・)

 

「なに、これ……なんであたしの、中に――」

『そりゃ、仕込んだからな』

「ッ!?」

 

 声が聞こえた瞬間、霊夢は急いで身体に霊力を流し込み、入り込んだ“異質物”を排除しようと力を込めた。

 しかし抵抗止む無く、それが自分の体の中に染みていくのが感じられた。それと同時に、身体の主導権が手を離れていく感覚があった。

 まだ少しだけ動く瞳で、声の方向を睨む。案の定、そこには未だ健在な鶖飛の姿があった。

 

「効くまでここまで時間がかかるのは初めてだったが、まぁ良しとしよう」

「あん、た……なにを……!」

「『刺繍(エンブリム)』、糸の魔法。残念だが、あの時既に詠唱は終わっていた」

「っ!」

 

 あの時。それが、霊夢が鶖飛のうなじを薙ぎにかかった際のことだとはすぐに分かった。あの時印を結んでいた手で霊夢を投げたのはそうせざるを得なかったからではなく、既に詠唱が終わっていたからだったのだ。

 

 軋む首をなんとか動かして吹羽を見遣ると、先ほどの姿勢のまま動きが止まっている。よく目を凝らせば、僅かな魔力光が無数の糸となって吹羽の周囲に張り巡らされているのが見えた。

 先ほどの刀を振りかぶる彼女を止めたのも、同じ魔法だったのだろう。

 

 苦虫を噛み潰したように奥歯を噛みしめる霊夢。しかしその気持ちとは裏腹に、霊夢の足はゆっくりと鶖飛の方へと歩き出していた。

 

「もう一つ種明かしといこう。俺の能力は禍風を操ることじゃない。その真価は……俺の力を浸透させることにある」

「浸透……!?」

「ああ。内側に媒体が入り込めば浸透させ、操ったり力を与えたりすることができる。お前には糸を刺していた。細過ぎて気付かなかっただろうがな」

「……ちっ、そういうこと、だったのね……!」

 

 禍風は魔力を風に浸透させたもの。霊夢には糸を媒体にして魔力を浸透させて体を操っている。そこまで結論を出して、霊夢の中で全てが繋がった。

 

 初めの違和感は、あの中妖怪三匹だった。

 中妖怪になるまでこの世界で育ったくせに、ルールに不満を唱えて暴れ出した。普通に考えて“なぜ今更?”と疑問が出るところだ。

 答えは一つ。あの三匹は、鶖飛に力を与えられた。そしてそれがなぜなのかといえば、恐らくは鶖飛が体を慣らすための隠れ蓑にするためだ。

 

「魔人ってのは……大変ね。こんな魔力の薄い世界じゃ、満足に力をっ、振るえなかったでしょ。……その時に見つけていれば、ぶっ飛ばせたのに」

「ああ、苦労した。あの妖怪たち、気まぐれにしか襲わないもんだから全然満足に慣らせなんだ。まぁ、見つかる心配はしていなかったからな、ゆっくりさせてもらったさ」

 

 魔界はその名の通り魔に満ちた世界だ。その濃度はただの人間には毒にしかならず、また魔法使いにとっては至高の住処となる。そんな世界に生きていた者が突然幻想郷に来たりすれば、当然著しく身体能力が低下する。低地に住んでいた人間が急遽標高の高い山に移り住むようなものなのだ。

 

 故に、慣らす必要があった。しかし無差別に力を振るって他人を傷付ければ勘付かれる。だから中妖怪三匹に騒ぎを起こさせた。その影に隠れて体を慣らすために。

 魔界にいた頃と遜色ないほどに力を振るえなければ、到底目的など果たせないだろう。

 あの鑢にかけられたような死体は、禍風の跡。そうでないものは中妖怪たちの跡。

 

「まぁ、吹羽と再会する口実にもなったからな。無駄ではなかったよ」

「っ、……全部、仕組んでたってわけ」

「そうだ。そしてその仕上げを、今から行う」

 

 意思に反して進む足は、鶖飛の目の前で歩みを止めた。瞳が薄く紫色に染まりかけていた。それでも侮蔑を込めた視線で睨む霊夢を悠々と受け流しながら、鶖飛は刺さったままの刀を握る。その僅かな動きにさえ、霊夢の額には脂汗が浮かんだ。

 

「博麗の巫女も所詮は人間。これを抜けば、お前はまもなく死ぬな」

「っ、」

 

 分かりきったことを問うのは、霊夢にそれを自覚させるためなのか。

 鶖飛は霊夢から視線を外すと、吹羽の方へと向き直った。

 

「や、やめてっ! やめて下さい! 霊夢さんを……殺さないで……!」

「…………なぁ吹羽、最後にもう一度訊いてやる。……次はない」

 

 鶖飛は吹羽の縋るような瞳と声に目を細めると、少しだけ語調を強くして前置いた。

 

「俺と一緒に暮らそう。潔く来てくれるなら、霊夢と紫を――いや、紫を斬るだけで済ませてもいい」

 

 続く声音は、言っていることは非道そのものなのに、“余計に悲しんで欲しくない”という心遣いのようなものが感ぜられた。

 

「幻想郷は壊す。紫も殺す。その他の奴らは知らない。その上で、吹羽。君は霊夢をどうしたい? 生かしたいのか、死なせたいのか」

「ぁ、う……ぼ、ボク、は……そんな……」

「十、やる。決めろ」

「っ!」

 

 カウントダウンは無情に始まる。どちらを選んでも誰かが死んでしまうその事実に、吹羽の心は押し潰されそうなほどに軋みをあげていた。

 呼吸が早くなる。鼓動が激しくなる。悲しみ、焦り、責任感、様々なものが頭の中で入り混じり、ぶつかって、なんにも頭が回らなかった。

 ただただ涙が溢れていく。その間にも、鶖飛は静かに時を刻む。

 

「七」

 

 吹羽は未だ倒れ伏す椛と萃香を見遣り、そして霊夢を見た。

 誰も彼もが傷付いていた。皮膚は裂け、真っ赤な血を溜まりができるほどに流し、か細い呼吸は命の繋がりがごく短いことを実感させる。

 霊夢に至っては今まさに命が握られているのだ。鶖飛がその刀を引き抜けば、辛うじて生きている霊夢でさえも死んでしまうだろう。

 大好きな親友が、目の前で、死んでしまう。

 

「五」

 

 そんなのは絶対に嫌だと思った。嫌だと思ったけれど、他のみんなが死ぬのにも耐えられないと思った。

 潔く付いていくなら霊夢は助かり、その他も直接手は下されない。拒否すれば霊夢を含め全てが殺される。そこに生存の可能性は皆無だ。

 みんな、死んでしまう。

 自分の所為で、と思ったら、気を失ってしまいそうなほどに胸が苦しくなった。

 

「三」

 

 なんて酷いことを、と怒る気にもなれない。鶖飛がこんなことになってしまったのは、きっと自分の所為なのだ。

 あの日、鶖飛に寄り添ってあげられなかった自分の所為。兄が歪んでしまうほどに思い詰めていたことを察することができなかった、愚かな妹の所為。なんと声をかければ良かったのかは今でも分からない。でも、きっと、何も言わずに側にいるだけで、結果は違ったはずだ。

 

「二」

 

 後悔してももう遅い。取り返しなど付きはしない。いくら願ったところで時間は戻らないし、失った命は蘇らない。

 どうすればいい? そう問いかけても、答える声など一つもない。ただ空虚な自分の中で反響して、ずっとずっと同じ問いが聞こえてくるだけ。

 何もできず、何も為せない現実が覆い被さってきて喉元を締め付ける。所詮自分は非力な人間で、そんな自分が分不相応に手を伸ばした結果がこれだ。

 何も得ることなく、全てを失いそうになっている。自業自得だ、なんて嘲笑が内側から聞こえてきた。

 

「一」

 

 分からない。分かるわけない。

 何が正しい? 初めから間違ってたんだ。

 どうしたら良かった? 考えるだけきっと無駄。

 無力感、寂寞感、遣る瀬無さ、自分への怒り、呆れ、侮蔑――そんな暗い色をした感情が頭の中を支配する。

 だって、こんなに迫られているのに……未だに答えを出せない自分がいる。

 何を選んでも、大切な誰かが犠牲になる。全て自分の所為なのだ。自分の過失を片付けることもできない愚か者の所為。

 

 吹羽は、遂に答えを出すことができなかった。

 

「……残念だ、吹羽」

 

 鶖飛は視線を吹羽から外し、刺さったままの刀を持ち直した。

 霊夢が死んでしまう。自分の所為なのに、それを見ていられなくて、吹羽はきつく目を瞑った。

 

 ああ、また全てを失うのか。全て失って、自分はのうのうと生きることになるのか。二度と失わないように暮らしてきたのに、結局また、失うのか。

 

 からり、と首元で音がする。当主の証たる勾玉は、こんな中にあっても月明かりを反射して光っていた。

 

「(……ボクは、どうなってもいいんだよ……)」

 

 絶望に見舞われ、どうしようもなくなった時、人は縋る先を求める。もし、こんなにも無様で愚かな自分にも祈る権利があるのなら。

 

「……じゃあな、霊夢」

 

 ――どうか……どうか助けてください、氏神様。

 

 

 

『当然だとも。我が依り代よ』

 

 

 

 懐かしい風が、吹いた気がした。

 

 

 




 今話のことわざ

 なし

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