丘の小道を下っていった馬車を、見えなくなるまで見送ってから、行動を開始する。
――パジャマを脱いで、鏡に映った下着姿を眺める。
痩せた体つき。十七の娘にしては、やや長身。
全体のバランスから見て大きめの胸は、ひそかな自慢だ。
腰まで届く長い髪は、宇宙を閉じ込めたような薄い紫色。
瞳も、夜空を卵型に圧縮したような青紫色。
一つ深呼吸をしてから、室内着のドレスに着替え始める。エーテルは生まれてこの方、一度も外出したことがない。だからクローゼットには室内着しか入っていない。
ドレスを着ると、二回目の深呼吸をする。
「よし……」
――窓台に膝をつく。そして窓を押し開ける。朝の冷たい風が体にかかる。
ついそのまま下を見てしまった。地面がかなり遠い。ここは六階だ。落ちたら怪我では済まない。浅く息を吐いて、もう一度、だが決然と呟く。
「よし」
スカートをたくし上げると、片足をそろーりと空中に伸ばす。
つま先がなんとか外壁の出っ張りに乗った。だけど問題はこの後だ。この出っ張りの上に、全体重を乗せなければならない。三度目の深呼吸をして、エーテルは軸足で窓台を蹴った。自分のしたことを後悔した時には、もう体は宙に浮いていた。外壁の出っ張りに無事、着地を果たすと、全身からどっと汗が噴き出した。
「あぁ、だめかも……動けないかもぉ……」
極度の緊張から、その場でしばらく石化したエーテルは、四度目の深呼吸をする。そして、壁沿いを伝って歩きだす。半歩ずつ、なるべく下を見ないように、ゆっくりと……。
中庭では、猫車を押した庭師が徘徊していた。父の出立と入れ替わりに来るというのは知っていたが、予想よりもだいぶ早い。庭師を見つけた時は歯噛みしたが、こちらに気づく気配はなかった。あらかじめ城壁に最も色の近いドレスを選んでおいたのが、功を奏したようだ。
とにかく緊張から解放されたいという願いが、高所への恐怖を凌駕し、足を速めさせた。結果、エーテルは首尾良く目的の窓へと辿り着いていた。そして、自室のものと同じ構造の窓を前にして、ついさっき通った恐ろしい試練の再現を、覚悟していた。
執務机の背後のカーテンに、桜色の
その
エーテルは苦い顔をした。
ここに入るのは初めてだが、一般的な書斎に比べると広い造りだ。大きな書棚と姿見を置いていても、まるで手狭には感じない。この中から、目当ての物を見つけなければならないのだ。
時間は有限だ。
早速、手当たり次第に物色しはじめる。
一番怪しいのは、この執務机だ。だけどもし本棚の中――ページの間にでも挟まれていたら、探し当てるのは限りなく不可能に近いだろう。いや、机に隠されているにしても、引き出しは十四個もある。どちらにしろ一筋縄ではいきそうもない。
エーテルは机の中を調べていった。
この引き出しのどれかに
肌寒い季節にもかかわらず、額には汗が滲んでいる。引き出しの中身をひっくり返し、検分して元の位置に戻す。その繰り返しは、エーテルの細腕にはなかなかの重労働だった。だがいつ誰がやって来るか分からない状況下で、部屋を散らかす訳にもいかなかった。
引き出しが残り二つになったところで、居ても立っても居られなくなる。
そもそも、
父が肌身離さず持っているのかもしれないし、護衛の女に管理を任せているのかもしれない。いずれも、もしそうだとしたら、丸一年、考えに考えた計画はこれで終わりだ。
神にも祈る気持ちで、次の引き出しを開けて、中身を検分していく。
――ない。
(……ないの?)
エーテルは絶望の芽を摘みとって、最後の希望である引き出しを、開ける。
「誰かいるんですか?」
「ひあっ!?」
心臓が飛び跳ねた。ような気がした。
――ノックの音が書斎に響く。
「入室いたします」
扉が動く。
(ど、ど、どうしよう! どうしよう!?)
とっさに引き出しを戻したまでは良かった。
その次にすべきことが思いつかない。
何も考えずしゃがみこみ、場当たり的に机の下に飛び込んだ。
足音が近づいてくる。
(な、なんでこっちに来るのよっ!?)
そもそも、一介のメイドが父の書斎に一体何の用があるのか、エーテルには理解できない。
入室理由が清掃などであったら、最悪だ。
足音はどんどん大きくなる。
いや、入室の理由を問うなら、たぶん原因を作ったのは自分だ。メイドは扉をノックする前に
突然、黒い靴を履いた両足が、視界いっぱいに現れた。
(わきゃぁぁぁぁぁ!?)
悲鳴を上げそうになる口を、必死に手で押さえる。
心臓が早鐘を打っている。
(うわああ、まずいって。こんなとこで見つかったら言い訳できない!)
最善策は、おそらく実力行使だ。
相手は一介のメイド、魔法の素養などない。対するエーテルは全属性を使いこなす上級魔法士だ。ある憎たらしい
机の下から飛び出ようとした時、ふいに黒い靴のつま先がそっぽを向いた。
(――うっ?)
ギギギィ――バタンッ……。
(なに? あ! 窓っ!? 窓を閉めにきたんだ! あっ……危なかった……!)
メイドが立ち去っていく音を聞きながら、膝を抱えたまま、エーテルは長い溜息をついた。
椅子に手をかけて立ち上がると、軽く
……最後の、引き出しを開く。
中身は書類の山だった。
落胆しながらも検分していく。床の上に書類を取り出そうと持ち上げて、違和感を覚えた。
書類の間に何か挟まっている……。
抜き取ってみると、それは赤いカバーの本だった。表紙には何の記載もない。
見るからに怪しい……。
背表紙をつまんで振ってみる。
――くすんだ銀色の
「…………ああっ!」
エーテルはほぼ無意識でガッツポーズを決めていた。諦めかけていた分、喜びは大かった。
書類の山に、赤い本を挟んで、引き出しの中に戻す。
これで〝山〟を一つ越えた。
厳密にはここから自室に戻るまでが〝山〟なのだが、右手に鍵を握りしめていると、行きしなよりずいぶん、気が楽だった。
続きます( ˙ө˙