レミリア提督   作:さいふぁ

28 / 55
レミリア提督 幕間 Kaga

 それはふとした不注意が原因だった。

 

 場所は、艦娘艤装の整備工廠から司令室のある第一庁舎に抜ける道で、杉の木が両脇に並んで植えられているので少し見通しが悪いところだった。鎮守府内の敷地は若干起伏があるので、この道も第一庁舎から工廠へ向けて緩やかな下り坂になっている。その坂を海から駆け上がって来た風が思いの外強かったのだ。

 並木道になっているが、ちょうど風向きと道の延びる方向が一致したのか、風の通り道になったようである。耳元で唸りながら、悪戯小僧のような突風がレミリアにぶつかって駆け抜けて行く。その冷たさに無意識に身震いした時、注意が一瞬疎かになってしまって風に手から大切な日傘をかすめ取られてしまったのだ。

 あっと思った時にはもう遅い。大事に抱えていたはずの日傘は大きく宙を舞い、レミリアの背後数メートルのところに音を立てて落下した。

 

 間の悪いことに、道は南西‐北東方向に走っており、時間的に日が差す向きとも一致していたのである。秋とはいえ立派な直射日光。日陰のなくなっていた道路上でまともにそれを浴びることになったレミリアは、種族的な問題から、当然煙を吹くことになってしまった。顔面が燃え上がるような激痛に駆られ、慌てて日傘を拾い上げる。

 一旦日光を遮ってしまえば瞬く間に身体の修復は始まるが、それでもしばらく火傷を負ったようなじわじわとした痛みが残った。その痛みと、風の冷たさに気を取られて醜態を晒したことに顔をしかめながらレミリアは周囲を見回す。

 人っ子一人居なかった。時間が正午を過ぎてそこそこ経った頃合いだったこともあり、鎮守府内を移動している人は少ないのが幸いした。加えて、日光を遮るのには役に立たなかった並木が、人目から姿を隠してくれたので、この道路上に居なければレミリアの醜態を目撃することは出来ないだろう。危うく自分の正体がばれてしまうところだったが、運良く人に見られなかったようだ。

 身体のダメージはいくらでも回復出来るから、それだけが心配だった。レミリアはほっと胸を撫で下ろす。

 今度からは出来るだけ日陰を歩くようにしよう。いくら日傘があるといっても、今日のような些細なミスをまた犯さないという保障はないし、リスクは低減しておきたい。特に、晴れていて風の強い日などは要注意だ。

 

 と、そのような自省をして再び歩き出したところで、目の前、工廠の方から坂を登って来る人物が目に入った。青い袴が見えたので、彼女は加賀である。

 タイミング的に見られてはいないだろう。何食わぬ顔でレミリアは歩を進め、加賀との距離を縮めていった。

 

 

「あら? ご機嫌よう」

「お疲れ様です」

 

 レミリアが会釈すると、加賀もわざわざ立ち止まってお辞儀をする。その様子に別段おかしなところは見受けられないので、やはり醜態は目撃されていなかったのだと安堵した。

 

「暇そうね」

 

 加賀は手ぶらだったし、元々機嫌が良かったのもあってレミリアは彼女に話を振った。醜態のことを忘れ、気を紛らわせようという意図もあった。

 

「いえ。今、揚がったところなんです。これから赤城さんのお手伝いをしようと思いまして」

 

 と、加賀が言うのでよく見ると、彼女の白くきめ細やかな肌が少し潤っていた。今日は乾燥しているので内勤の仕事をしていただけなら表皮が水分を保持することは難しいだろうが、艤装を付けて海の上を走り回った後なら汗もかくだろう。もっとも息を切らしていないところを見るに、揚がってから少し経っているのかもしれない。

 

「訓練はいいの?」

「今日は終わりです。川内と四駆で哨戒に出掛けますから、私と金剛さんと七駆は待機に入るんです」

 

 と、聞けば即座に答えが返って来る。 この鎮守府の艦娘の日々のスケジュールを決めているのは加賀だった。

 普通、その手の仕事は秘書艦が担うものらしいが、赤城の負担減という名目で艦娘の訓練を取り仕切っているのは加賀である。だから彼女には今、誰が、どこで、何をしているのかがちゃんと頭に入っているらしく、彼女に予定を聞いて間違った答えが返って来たことがない。一方のレミリアはどちらかと言えば大雑把な性質で、家のことなんかも一切合切を使用人に任せっきりであり、細々とした人・物・金の管理はまるでやったことがなかったし、そういうことが出来る赤城や加賀が少しばかり羨ましかったりする。まあ恐らく、実際やろうとしても刺激の薄いルーチンワークは一日で飽きてしまって何にも出来ないのだろうけれど。

 それはともかくとして、加賀は空き時間に赤城の手伝いをしようというらしい。これもよくあることだった。

 

「へえ。赤城は今何しているかしら?」

「何かトラブルがなければ、秘書室で書類作成をしているところだと思います。この時間は大体そういう仕事をやっているので」

「ああ、そう。……詳しいのね」

「いつものことですから」

 

 舌を巻くレミリアに、加賀は淡々とした調子で答える。感情の起伏が穏やかなのか、あるいは単にあまり表に出ないのか、大概加賀は淡白で抑揚のない喋り方をするし、喜怒哀楽もほとんど見せない無表情でいる。それがあまり彼女を知らない者には“冷たい人”と映るようで、しばしばレミリアは彼女の不評や陰口を耳にすることがあった。実際、レミリア自身も初めは彼女をそういう性格の持ち主だと思っていたりもした。

 果たしてそれらの内、どれくらいを彼女が知り得ているのかは分からないが、きっと加賀は何を言われても気にしないだろう。気質は大人しいし、見た目通り精神的にも成熟しているのだろう。落ち着きと余裕を欠かさない彼女は、まず滅多なことでは怒らないはずだ。しかし、感情がないわけではない。

 

 一度だけ、レミリアは彼女が涙を流すところを見た。先日の戦闘で、赤城が気を失って目を覚まさなかった時、加賀は確かに泣いていたのだ。

 どうやら彼女は赤城の前では少しばかり情緒豊かになるようで、泣いたり怒ったり、当たり前の感情を表に出すらしい。それ以来、レミリアには加賀の心の動きが少し読めるようになっていた。

 とはいうものの、今日のように事務的に対応する彼女の内心を見抜くのは至難の業である。ぶっちゃけて言えば分からない。分かる必要もないのだろうけれど。

 

 

「いつもと言えば、提督」

 

 ところが、意外なことに加賀は自らの言葉で話の方向を変えた。

 レミリアと加賀の場合、大抵話の主導権を握っているのはレミリアだ。加賀は物静かに聞いているか、適当な相槌を打つだけのどちらかで、自分から話をすることはほとんどない。例えあったとしても、それは仕事に関する事柄で、雑談など話し掛けて来た覚えはなかった。

 だから、レミリアはまた何か用事があるのかと思って黙って頷いて先を促したのだ。

 

「晴れている日はいつも日傘を差されていますね」

 

 やっぱり意外なことに、仕事の話ではなかった。

 驚きつつも、こうして彼女とは駄弁るのは新鮮であり、少し嬉しくもある。聞かれたことが少しばかり答えるのに気を遣うが悪くは思わなかったし、だからレミリアも慎重に言葉を選びつつもさほど気負わずに答えた。

 

「ええ。そうね。私、肌が弱くて日に焼けたくないから」

 

 嘘ではない。物は言いようである。

 加賀は相変わらず何を考えているのか分からない無表情だ。当然、話を振って来た意図も読めない。

 

「そうですか。私も、あまり日に焼けたくないものです」

 

 と言う加賀。何だかこれで終わりそうな気配もするが、さすがにそれはないだろう。

 口下手なのは相も変わらずで、言いたいことが全然分からない。

 もし彼女がどこぞの魔法使いが酒の席で語る与太話のように、この無表情のままオチをつけたとしたら、本気で吹き出すに違いない。真顔で言われると、大して面白くない話でも面白いように聞こえるからだ。

 先を読めないからこそ、レミリアは加賀が何か面白いことでも言い出すんじゃないかと期待してみたりする。笑い話なら大歓迎であり、だからレミリアは聴覚に神経を集中させて加賀の言葉を聞いたのだが、

 

 

 

「ただですね。私は日の光を浴びて煙を吹いたりはしないのです」

 

 

 

 刹那、レミリアは停止した。

 いや、確かに二人ともその場に立ち止まって話をしているのだが、レミリアだけ心臓も呼吸も止まった。

 

 見られていたのだ。

 あの瞬間を。レミリアが人ではないことを証明する瞬間を。

 並木で見通しが悪いし、人影もなかったから大丈夫だ。などというのはあまりにもご都合主義であった。

 

 血が、音を立てて顔から引いていく。

 

 

「行きましょうか、提督」

 

 加賀は変化のない無表情でそう続けた。

 

 

 

 

 

 まずいことになったと思った。

 

 当たり前の話だが、正体が露呈すればレミリアはこの鎮守府には居られなくなる。それなりに目的があってここにやって来ているわけだから、その目的を達成出来ないまま追い出されるのは都合が良くなかった。

 どうすればいいのかと頭を巡らせてみる。

 もし、レミリアが日光を浴びて煙を吹いたのを見たのが今目の前にいる加賀だけなら、極論、彼女を暴力などで黙らせることも出来なくはない。いかに相手が艦娘と言えど、そして今が真昼間で吸血鬼の苦手とする時間帯と言えど、力でレミリアが負けることはあり得ないだろうし、加賀が足を使って逃げ切ることなど不可能だ。人目の付かないところで脅しておけばどうにかなりそうな気もした。

 だが、その方法はあまりにも暴力的に過ぎる。

 何よりも、レミリアは目の前を歩く彼女に対して乱暴なことをしたくなかった。気高い彼女を侮辱するようなことをすれば、かえって自分が惨めになる予感があった。

 

 先程から無言で少し前を歩く加賀の後頭部を見上げてみる。

 彼女はいつも同じ髪型だ。頭に左側で房を作っている。それがあまり着飾らない彼女の数少ないお洒落なのか、単に楽だから髪を結っているのかは分からない。いつ見ても大体同じ位置に房が作られている。

 彼女が一歩一歩、歩く度に揺れる房を眺めながらレミリアは対応を考えた。

 このまま、いっそのこと妥協して何らかの取引、つまりは口止めをした方がいいのかもしれない。問題は、黙ったままの加賀の狙いが想像つかないことだった。向かっているのは第一庁舎の方だが、まさか赤城に言いに行くわけではないだろう。そんなことになればもはや一貫の終わりなのだが。

 

 

「ああ」

 

 と、唐突に沈黙を破って加賀が声を上げる。「思い出しました」

 

「……何を?」

「吸血鬼です。太陽の光に身を焦がすのは吸血鬼ですね。名前が出て来ませんでした」

 

 レミリアは無意識の内に飲み込んでいた空気の塊をそっと吐き出す。

 何を言い出すのかと思えばこんなことである。拍子抜けた。

 

「ええ。正解よ」

「やりました」

 

 得意気な加賀。何というか、今一つ考えていることが分からず、ペースを奪われてしまった。

 どうやら今までの沈黙は「吸血鬼」という単語を思い出すために費やされていた時間らしい。もっと他に難しいことを言われるんじゃないかと身構えていたのが何だか馬鹿らしくなってきた。

 

「それで?」

 

 妙な肩透かしを食らったレミリアは意図の読めないことに若干辟易しだして先を促す。要求があるならさっさと言ってほしい。この話をあまり外で長い時間したくなかった。当然、誰かに聞かれる可能性があるからだ。

 

「はい」

 

 と言って、加賀は立ち止まってしまう。つられて思わずレミリアも足を止め、振り返った加賀の顔を見上げる。その目蓋が、いつもより若干閉じられていた。

 レミリアの言った意味が分からないと言いたそうな表情。「何でしょうか?」と言葉は遅れてやって来た。

 

「だから、私に何か要求があるのかしら? 口止めの代わりとして」

 

 苛立ちが表に出てしまい、やや語気が強かったかもしれない。言ってから「しまったな」と軽く悔やんだが、加賀の表情は変わらなかったし、却ってそれがほんの少しだけ不安を煽った。不用意な言動で彼女を刺激し、レミリアにとって不利な行動をされるのはまったく得策ではないからだ。弱みを握られるのは本当に厄介なことだと臍を噛むが、今更何をどうしたところで時間というのは戻らない。時間に関する能力を持っている家の使用人をもってしても、過去は変えられないのだから。

 

「……口止め、ですか」

 

 だが、加賀の口調は至って不思議そうな響きを持っていた。とぼけているわけでもなく、どうやらレミリアがどうしてそんなことを言うのか、本気で訝しんでいるようだ。両の眉がわずかに寄せられて眉間に縦皺が浮き立つ。どうでもいいが、普段すまし顔ばかりの彼女が眉をひそめると妙な迫力が出て、レミリアは自分がますます弱い立場に追い込まれていっている気がした。

 

「そうよ。さっき見たことは黙っていてほしいの」

 

 観念して懇願を始めると、加賀は首を傾げてから「それなら」と言った。

 

「赤城さんの負担を減らしてはいただけませんか。特に、明後日は赤城さん、非番日なんですが、彼女はいつも非番でも出て来るんです。そのせいで年中働き詰めで、全く休まないんですよ。明後日も当然休日出勤するでしょうから、提督からどうか休むように言って下さい。私が言っても聞き入れてくれないのです」

「……そんなことでいいの?」

 

 肩透かしは二度目だった。

 驚くレミリアに、加賀はいつものすまし顔に戻って「他にありませんし」と素っ気無い。

 

「いやでも、金銀財宝が欲しいとか、満漢全席が食べたいとか、そういうのはないの?」

「今のお給料に不満はありませんし、そんなに食欲も出ません。そもそも、私たち艦娘は海を守るために滅私奉公で戦う兵士でありますから、あまり我欲を追求するのは褒められることではありません」

 

 レミリアは唸らざるを得なかった。

 思わぬところで加賀の覚悟というものを知ることになったが、そうした献身的な姿勢には敬服せざるを得ない。特に、今は提督としてこの鎮守府に居る以上、命懸けで戦うことに誇りを抱いている彼女にはもう何も言えなかった。金や物で釣ろうというのは、そんな彼女に対する侮辱でしかないだろう。そして、誇り高い彼女の前ではそのような言葉は慎むべきだろう。

 

「……分かったわ」

 

 結局、レミリアが言えるのはこれだけしかない。「赤城には休むようにきつく言っておく」

 

「お願いします」

 

 と、加賀は頭を下げた。

 

 

 まったくもって、不可思議な娘である。幻想郷においては、誰かの弱みを握った途端、大はしゃぎで無茶苦茶な要求をしてくるならず者ばかりであるから、加賀のような礼儀正しく謙虚な者というのは、今までほとんど見たことがなかった。特に、レミリアの知り合いである幻想郷の住人の大多数とは性格が真逆であろう。

 

「というか、驚かないのかしら?」

 

 不思議といえば、いつもと変わりない加賀の様子である。何しろ見知った相手が太陽の光を浴びて煙を吹いたのを見て、「吸血鬼なんですか。そうですか」で済ませようとする加賀の精神性にレミリアの方がびっくり仰天なのだ。あまりにも普通な様子なので、口止めがどうとか欲求がどうとか言ってあれこれ考えたのだが、それらすべてはレミリアの空回りに終わってしまった。

 今、彼女が何を思っているのか。素直にそれが知りたい。

 

「確かにびっくりはしました」

 

 対して、加賀は平然として答える。

 

「けれど、世の中には深海棲艦のような化け物もおりますし、何より私たち艦娘自身が半分オカルトの塊のような存在です。ですから、この国に鬼や幽霊、西洋に狼男や吸血鬼が居てもおかしくはないんじゃないでしょうか」

「いやまあ、そうなんだけどさ」

「それに、提督が人間ではなかったとしても、だから何だという話です。提督が提督であることに変わりはありません。それとも、貴女は私たちの血を吸うためにここにいらっしゃるとでも仰るのでしょうか」

 

 これにはさすがにレミリアも閉口させられた。

 垣間見たのは強い信頼。こちらの内心を見透かす鋭い目に、何を言っても無駄だという気がした。

 彼女には覚り妖怪のように人心を読む力でもあるのだろうか。

 レミリアが黙っていると、加賀は目を合わせてきた。まだ何か言いたいことがあるのだろうと思い、レミリアもじっとその瞳を見上げる。

 

「ただ一つ確認したいことがあります」

 

 思った通り、加賀はまた話を切り出した。

 

「ええ。どうぞ」

「はい。

私たちは、兵士です。いつ沈んでもおかしくない戦場で、命を懸けて戦っております。運が良かったのか、私は初陣から今日まで十年以上生き永らえて来ましたが、次の戦闘で沈められる可能性はゼロではありません。だからと言って簡単に沈むつもりはありませんが、つまり私たちはそのようなリスクを背負い、覚悟を持って海に出ているのです。

そしてそれは私たち艦娘だけでなく、他の全ての将兵の方々も同様であります。『硫黄島』の乗員たちも、鎮守府の内勤の職員たちも、皆死を覚悟して戦っているのです」

 

 ――ですから、提督。

 

「私たちは、死ぬ覚悟のない者に“使われ”たくありません。私たちと共に戦う以上、私たちと生死を共に出来る方に指揮をお願いしたい。

失礼を承知で申し上げますが、提督にはそのお覚悟はおありですか?」

 

 

 二人の間を、少しも弱まる気配のない風が吹き抜けていく。先程のようにレミリアの手から大事な日傘を奪おうとするので、しっかりと手で傘の柄を支えなければならなかった。

 それでも、気を抜きさえしなければ吸血鬼の膂力が風如きに負けるはずもない。右手で傘を持ちながら、レミリアは空いていた左手を、袖口から先だけを日傘の作る影の外――すなわち日の光の中に差し出した。

 肉の焼ける音がする。灰白色の煙を吹きながら左手は見る見るうちに炭化し、黒焦げになって原型を失った左手はまもなく手首から捥ぎ取られるように落ちてしまった。粉々の炭と化した左手を風が攫う。

 加賀は、先程までほとんど変化しなかった表情を、明確に驚嘆の色に染め上げてその様子を凝視していた。どこか、怪異に慣れている様子を見せていたけれど、やはりこうして目の前で尋常ならざる光景を見せられては如何な加賀と言えど驚かずにはいられないらしい。

 一方で、レミリアは激痛に顔が強張るのを自覚していた。左手の感覚は完全に失われたが、手首から手前の神経が猛烈な痛みを伝えている。

 だが、それも束の間、左手を日傘の中に引き戻すと今度は修復が始まった。手首からまず骨が伸び、それに腱が張って、筋肉が付き、血管が絡んで脂肪そして表皮の順に、まるで巻き戻しのように失われたはずの左手が形作られる。

 修復に掛かった時間は二秒、三秒程度だ。完全に元通りになると、煩かった激痛もぴたりと止み、指を軽く動かしてみても全く違和感はなかった。

 加賀は、言葉を失ったように目を見開いていた。

 

 

「吸血鬼には弱点が多い」

 

 何事もなかったかのように、レミリアは修復したばかりの左手を、傘を持つ右手に添えた。

 

「日光はその代表格。他にも銀が苦手だし、折れた小枝や鰯の頭には近付けない。そして、流れる水も渡らない」

 

 加賀の目蓋がいつもくらいの位置に下りてくる。意外と早く衝撃から復帰したらしい。

 

「水は日光の次に苦手。空間全体に水が流れる状態になる雨の時は基本的に表に出られないし、川や水路も自力では越えようと思わない。海もそうよ。潮の流れがあるからね」

 

 レミリアは加賀から行き先へ、体を向けて歩き出した。

 辺りには相変わらず人影がなく、二人っきりだ。こういう話をするには好都合だった。

 

「そんな吸血鬼が、船を失って海に沈めばどうなるのか、実際に聞いたことはないけれど、恐らくは溺死すると思う」

「……不死身、ではないんですか?」

「不老長寿なのであって、死が用意されていないわけではないわ。まあ、人間ほど早く死には至らないでしょうけど」

「……」

「もちろん、人より頑丈なのは間違いないから、貴女たちでは死ぬような致命傷を負っても簡単には死なない。だから、そういう意味では貴女たちと本当に生死を共にすることは出来ないわ。

だけど、私だって目的があってここに来ている。守りたいものがあって、それを守るためにここに居る。命を賭している貴女たちからすれば、私の守りたいものなんてつまらないものかもしれないし、覚悟が足らないと言われるかもしれない。でも、決して私には蔑ろに出来ないもので、そのためには私はいくらでも必死になれる。それを守るためなら、何を捨ててもいいくらいには、ね。

それくらいの覚悟は、持っているつもりよ」

 

 加賀に対して、すべてを打ち明けることは出来ない。

 レミリアにはレミリアの事情で秘密にしていることがあって、覚悟を晒してぶつかって来た加賀に対して、やはり言えないものは言えない。けれど、言える範囲のことで正直になり、誠意は見せようと思った。

 それが彼女の信頼に応えたことになるのか、決めるのは加賀だ。結果的にレミリアが軽蔑されようとも、それは致し方のないことだろうと割り切るつもりだった。

 

 

 果たして彼女は、

 

「提督」

 

 と、レミリアを呼んだ。 

 立ち止まって振り返る。加賀は、深々と頭を下げた。

 

「ご無礼なことを言い、大変申し訳ございません。どうか、お許しください」

 

 足を揃え、両手の指の先まで力を張り詰めた、見事な最敬礼であった。

 

「加賀、頭を上げて」

 

 すっと、彼女は姿勢を戻す。

 表情が、いくらか和らいでいることに気付いた。

 

「最初から、何となく感じてはいたんです。貴女が人ではないことを」

「そう。やっぱり分かるものね」

「はい。ですが、私にとってそれは重要ではありませんでした。驚きましたし、貴女がここに来られた理由も見当が付きませんでしたが、それは些細なことです。貴女が提督として私たちの前に現れた以上、私が気になったのは司令官としての実力や資質。つまり、『命を預ける』に相応しいか、でした」

「加賀から見て、私はどうかしら?」

 

 今度こそ、加賀は薄っすらと笑う。

 

「これからも、どうぞよろしくお願い致します」

 

 と、また頭を下げた。

 

「そう。よろしくね」

 

 なかなか愛らしい笑い方をするものだと思った。

 頭を上げた加賀の顔にはまだ微笑みが張り付いていたが、幾分かそれは照れも含まれていたのかもしれない。微かに耳たぶの血色が良くなっていたし、再び歩き出した彼女の足取りは心なしか軽くなっているように思えた。

 そこに、無表情な加賀の本質を見る。彼女はその表現がいくらか出辛いだけで、本当は感情豊かな女性なのだろう。

 そして、恐らくはとても優しい心根の持ち主だ。要求がないのかと聞かれて真っ先に飛び出たのが赤城のことだったし、人ではないことを知って尚レミリアを受け入れる度量の大きさもある。まず第一、人のために泣けるのだから、優しくないわけない。

 

「それと、提督」

「何かしら?」

「さっきみたいなことは、その、もうしないで下さい」

 

 レミリアははっとする。加賀の言うことの意味が分かったからだ。

 そう、確かに彼女ならそう言うだろう。

 

「しないわよ。日の光を浴びるのは痛いのよ」

 

 レミリアも笑う。

 手を焼いた程度では吸血鬼は死なないが、加賀と言えば酷く心配そうな顔をするものだから、安心させるために、そして加賀のような部下に恵まれたことに、レミリアは満面の笑みを浮かべるのだった。

 

 

****

 

 

 

 

 第一庁舎から整備工廠へ続く並木の下り坂を歩きながら、加賀はまだもう少し気温が高かった頃に同じ場所であった出来事を思い出していた。

 あの時は逆に整備工廠から第一庁舎に向けて歩いていた時で、本当に偶然レミリアの日傘が宙に舞ったのを目撃したのだ。坂を下ったところは工廠に大型機械を搬入するために広場となっているのだが、その広場から坂へ上がっていくのに少し道が曲がっており、曲がり角のところにちょうど太い幹のヒマラヤ杉が立っている。その影に立ってしまうと坂からは見えなくなるのだ。レミリアが日傘を飛ばされた時、そして彼女が体から煙を吹いた時、加賀は思わずその木の影に隠れて様子を伺った。

 加賀の存在に気付かなかったレミリアは、その後加賀が何食わぬ顔で現れても平然としていたし、だから見なかったことにするようにも出来た。それをわざわざあんな話に持って行ったのは、やはりレミリアの正体が気になったからだろうと、後になってから思うのだ。

 結果的にあの時の出来事は悪い方向には向かわなかった。レミリアもそれなりの覚悟を持って来ているということが分かったし、それはそれで良かったと思う。他の誰も知らないのなら、二人の間だけの秘密にして今日まで過ごしてきた。

 

 

 けれど、秘密というのはいつか露呈するものなのかもしれない。

 レミリアが吸血鬼であることを、今日、赤城が知った。

 

 間が良いのか悪いのか、加賀はいつものように赤城の手伝いをしていて、その際に不意に赤城が仕事を中断して秘書室を出て行ってしまったのである。あまりにも急だったし、部屋を出ようとした彼女にそれとなく聞いても要領を得ない返事しか返って来なかった。赤城は代わりに加賀にいくつか仕事を頼んだのだが、彼女には悪いと思いつつも出て行った後に無断でパソコンを見た。

 無論、パスロックが掛かっていたが、赤城は意外と抜けているところがあって、パスワードはいくつか使い回しにしており見当付くものを適当に打ち込んでいたら三つ目でログイン出来たのである。

 まず、メールを見た。そこに加藤からの呼び出しがあった。

 何となく嫌な予感がした。

 ここ最近の鎮守府は、レミリアが指揮した南方での作戦が成功裏に終わり、非常に活気付いていて赤城の機嫌も良かったのだが、加藤の送ったメールは場所と指示が書かれたたった二行だけの素っ気無いもので、それが気味悪く思えたのだ。恐らく赤城も同じことを感じたのか、急いで出て行こうとしたのはそのせいもあるだろう。

 加賀は秘書室を出て、赤城が呼び出された部屋の前まで行く。

 そこは建物一階の小会議室。隣の部屋は倉庫という場所で、人が来ることも珍しい奥まったところにある。足音を忍ばせ、隣の倉庫に静かに侵入して壁に耳を当てると、くぐもっていながらもかろうじて会議室内の会話が分かる程度には音が聞こえた。この倉庫と会議室は元々一つの部屋であり、何年か前に庁舎のリフォームをした際に薄い壁で仕切ったはずだ。

 会議室の中に居たのは赤城と加藤と金剛の三人。

 嫌な予感は的中したと思った。

 以前から、加藤と金剛の二人が何かをひそひそと話している場面を見ており、その内容こそ分からなかったものの、何か良くないことであると感じていた。 それが現実になったのだろう。

 

 会議室の中で、赤城の声のトーンが上がる。

 彼女は驚き、少し取り乱しているようだった。会話の内容は断片的であるが聞き取れて、そこからおおよそのところは想像出来た。

 そして、そこまで分かれば次に何が起こるのか、三人が何を起こそうとするのかは予想するまでもない。話が終わって三人が会議室を出てからも、加賀は少しの間倉庫の中で佇んでいた。

 自分が何をするべきか考えないといけない。けれど、思考は上手くまとまらず、取り留めのない思い付きばかりが頭の中を巡る。

 いくら考えても答えは出そうになかったし、気付けば痛くなるほど唇を強く噛み過ぎていたらしい。わずかに血の味がした。

 とにかく何か飲んで落ち着こうと思い、そして秘書室を離れた言い訳を作るために、加賀は休憩所に向かった。

 

 がこん、がこんと缶飲料を補充する音が響いていた。そこに居たのは赤い髪の女で、この夏――ちょうどレミリアが着任した頃からここに出入りしている業者の者だ。

 彼女の名前は確か、

 

「紅(くれない)さん」

「あ! こんにちわ。お疲れ様です」

 

 紅と呼ばれた女は、いつものように威勢よく挨拶する。見る度に快活な挨拶をする彼女は鎮守府内でもちょっとした人気が出ていて、コミュニケーションの塊のような漣などはよく話をするらしく、加賀も彼女から女の名前を聞いたのである。

 変わった苗字だと思った。フルネームは「紅美鈴(くれない・みすず)」というらしい。字面を見れば中国人のような名前であるが、秘書室に保管されていた搬入業者の名簿を見ると、この字と読みで登録されている。

 

「私の名前、ご存知なんですね」

 

 紅は爽やかだ。いきなり名前を呼ばれても特に不快そうな様子は見せない。そのことに、加賀は少し安堵した。

 

「ええ。漣から聞きました」

「漣さんからですか! よくお話をするんですよね。貴女はひょっとして」

「加賀です。ご存知かとは思いますが」

「あはは。お噂はかねがね」

 

 紅の笑顔が愛想笑いに変わる。案の定というか、漣は加賀の名誉毀損すれすれのことを言いふらしているらしい。何はともあれ、それは後で絞めないといけない。

 

 

 

 閑話休題。

 

 加賀と会話する間も紅は手際良く空き箱を畳んでいた。仕事も早く元気もいいとあれば、彼女に好感を抱く人間は多いだろう。

 潜り込むにはうってつけの人材かもしれない。

 

「珍しいお名前だから記憶しておりました」

 

 和やかな雰囲気で話しながら、自然と本題に入るというような高等話術は、自他共に認める口下手な加賀には到底不可能なことで、話を切り出すとしたら単刀直入に言うしかない。口の上手い人ならそれでは躱されてしまうかもしれないが、加賀は別に彼女と敵対しようというつもりはないのだ。それさえ分かってもらえれば、どうにかなると考えていた。

 

「ええ。よく言われますよ」

 

 紅は愛想よく答える。

 警戒はされていないようだった。

 

「そうですか。ところで、私たちの提督のお名前も、姓が『スカーレット』。緋色を意味する言葉になります」

「えっと、『レミリア・スカーレット』将軍でしたっけ? 漣さんがよくお話に出される方ですね」

「はい。名前、同じですよね」

 

 紅は困ったような顔になった。

 加賀の言いたいことが掴めないらしい。あるいは、とぼけているだけなのか。

 

「それは、どういう……?」

「紅さん」

 

 いよいよ、加賀は本題を切り出した。彼女の名前を呼び、ほぼ間違いなくレミリアの関係者であろう紅に、決定的な一言を告げる。

 

「私たちの提督は、吸血鬼です」

 

 自販機の唸る音は、加賀の小さな声をうまいことかき消してくれるだろう。至近距離の紅にだけ届いたはずだ。

 目の前の彼女の表情が凍り付く。張り付いていた笑みが剥がれ、何も感じさせない無表情に変わっていた。

 確信があったわけではない。ただ、レミリアの着任と紅のやって来た時期。名前の一致。そして何より、レミリアから感じ取れる人ならざる気配と同じものが、微かに紅からも感じ取れたのである。

 それは勘と言ってもいい。だが、加賀は自分の勘を頼りにしていた。

 長い間戦場で生きて来られたのもその勘があったからで、故に信頼は絶大だった。

 紅もやはり人ではなく、そうである以上レミリアと何らかの関係があると思うのは不自然ではない。

 

「貴女は、一体……」

「別に、それについてとやかく言うつもりはありません」

 

 加賀がそう言い放つと、紅は不思議そうな顔をした。あるいは、訝しんで加賀の出方を伺っているような。

 どこかで見た反応だった。

 

「ただ問題は、提督の正体がまずい人たちにばれてしまったのです」

「まずい、人たち?」

「提督のことを良く思っていない人たちです。提督は今遠征に出られていて、帰って来られるのは来週の火曜日の予定です。その時に、彼らは提督を捕まえようとすると思います」

「……」

「私が手引きします。提督を、逃がしてください」

 

 お願いします、と加賀は頭を下げた。

 

 こんなことしか出来ないのが悔しいが、一方で来るべき時が来てしまったのだと思う自分もいる。ただ、その時にレミリアを犯罪者として逮捕させてはならない。

 赤城ではきっと止められない。混乱の中にいる彼女は加藤と金剛に流されて、レミリア失脚の片棒を担がされている。

 ならば、知ってしまった者の責任として、自分が何とかしなければならないだろう。紅が潜入していた目的は不明だが、彼女がレミリアの仲間ならきっと協力してくれるはずだ。

 

 

 

「……はい、分かりました。って言えないですね」

 

「え?」

「貴女の目的は何ですか? 貴女が、お嬢様に危害を加えないという保障はありますか?」

 

 さっきまでの爽やかさはすっかり影を潜め、代わりに鋭い眼光で加賀を威圧する紅がいた。

 その目に異様な力が籠っているのを感じて、やはり人ではないんだと確信した。

 

 

「私は、彼女の部下です」

 

 口八丁手八丁では紅は丸め込めない。そもそも、加賀にはそんなことは無理だ。

 ならば、愚直と言われようとも真正面からぶつかっていくしかない。必死で訴えかけるしかない。

 

「提督は覚悟を持って私たちと共に出陣してくださいました。共に戦ってくださいました。その御恩には報いなければなりません」

「それが信ずるに値するのですか」

「分かっています。言葉だけでは信用も信頼も得られません。でも、今の私にはこれ以上のことは申し上げられないのです。どうか、お願いします」

 

 もう一度、今度はもっと深く、紅に対して頭を下げる。

 彼女の協力がなければレミリアを逃がすことは出来ない。もしここで信用を得られなければ、何もかもが終わりだ。他に思いつく策はなかった。

 紅の視線が自分の頭に注がれている。加賀は頭を下げたままだった。

 もしこんなところを誰かに見られては、きっと変な噂が立つだろう。最悪、加藤に知られてしまうと面倒なことになる。

 だが、一歩も引くわけにはいかなかった。

 腰が痛い。足の筋肉が張って攣りそうだ。頭を下げ続けるというのはとても疲れる動作で、けれど加賀はいいと言われるまで絶対に頭を上げるものかと決め込んでいた。

 

 果たして、観念したような溜息が吐かれる。

 

 

「顔を上げてください」

 

 根負けしたのか、呆れたような紅の声。恐る恐る顔を上げると、彼女はどこから取り出したのか小さな紙片に何かを書き込み、それを加賀に差し出す。

 メモ帳の切れ端。罫線が引かれた紙に、十一桁の電話番号があった。

 

「仕事用です。お嬢様が帰って来る前日にその番号に電話してください。打ち合わせをしましょう。ただ、連絡をするのはそれ一回だけ。あまり何度も電話していると、貴女の方が怪しまれるんじゃないですかね」

「……分かりました。ありがとうございます」

「それでは」

 

 素っ気無く彼女は言い、荷物を片付けて開けっ放しにしていた自販機を閉めると、そそくさと休憩所を後にした。

 彼女の姿が見えなくなり、すぐにトラックのエンジンを吹かす音がして、それが去って行くのを聞いてから、ようやく加賀は肺に溜め込んでいた空気を吐き出した。取り敢えずひと仕事が終わったような、疲れが肩に残っているような、あるいは「くたびれた」という感想が浮かぶような心持ちである。

 だが、まだ何も解決していない。やるべきことはたくさんあって、全て完遂しなければならない。

 それから加賀はしばらくぼんやりと休憩所のベンチに腰を掛けて自販機を見上げていた。しかし、間もなくやって来た赤城に声を掛けられて我に返る。

 

「加賀さん。どこに行ったのかと思えば」

 

 どうやら彼女は秘書室に居なかった加賀を探し回っていたらしい。若干荒い息を吐きながら、ほっとしたような表情を見せる。

 

「ごめんなさい。ちょっと喉が渇いたもので、休んでいたの」

 

 加賀は、いつもの「加賀」としてのお面を被って答えた。全ての段取りは、赤城にも気付かれてはならない。

 隠し事は苦手で、特にこの竹馬の戦友に対して今まで何かを隠し通せたためしがない。もっとも、それでも不都合は生じなかったし、加賀は赤城と対立することなどほとんどなかったからそもそも隠し事をする意味は大抵の場合なかった。だから、やって来れたのだ。

 だが、今は違う。彼女との長い付き合いの中で、初めて加賀は赤城に決して悟られてはならない秘密を抱え込むことになった。

 

「それなら一言書き置いてくれればいいのに。お疲れなら手伝いはもういいですよ」

 

 声の調子は少し不機嫌そうであるが、表情を見る限りはそれほど気を悪くしているわけではなさそうだ。ただ、どことなくいつもの余裕ある顔付きに翳が差しているように思えた。

 もちろん加賀はその理由を知っているし、赤城が途方もない厄介事を抱え込んでしまい、これから当分の間それに頭を悩ませ、あるいはどのような結末に至ろうと一生の傷を抱え込んでしまうのは想像に難くなかった。そう、間違いなく赤城は傷付く。レミリアを慕っているからこそ、彼女は自らを呪うことになるだろう。誇り高いからこそ、自己の矛盾を許せないだろう。

 赤城の人を見る目は確かで、自分が真について行くべき相手しか慕わない。彼女の中で「敬服に値する」という枠組みに入れられた相手にはとことん付き従い、支持しようとする。一度誰かをそう分類すれば、その後何があろうとも決してその分類を変えることはないし、だからこそ彼女の人を見る目は厳しい。

 そして、加賀の知る限り赤城はレミリアに心を開き掛けていた。言うまでもなく、彼女がレミリアを受け入れ、慕っている証拠だった。そうでなければレミリアの冗談に付き合ったり、軽口半分で小言を言ってみたりはしない。その気になれば誰とでも雑談にふける程度にはコミュニケーションを取れるだろうが、性格的にそこまで社交的ではなかった。

 故に、赤城は大きな葛藤と矛盾から逃れられない。彼女のやろうとしていることは職務上全く正当であっても、心情においては到底受け入れられるものではないからだ。だからといって感情論で職務に背くような愚かなことはしないけれど、それはつまり逃げ道がないということで、赤城は必ず矛盾を抱えることになる。そして彼女はその矛盾を解消出来ず、さりとてそのまま受容も出来ず、一生自分を許すことはない。

 それが分かっていて、けれど何の手も打とうとしない自分は赤城の戦友失格かもしれないと思った。言うまでもなく加賀にとって最も大切な人は赤城であり、彼女が苦しんでいるのを見るのは自分のことのように辛い。

 しかし、もうどうあっても、誰も傷付かずに済む方法はないのだ。どうやったところで、赤城が苦しまないで済むことはないのだ。

 残酷な話。あるいはこれを運命と呼ぶなら、神は本当に冷酷な性格をしていると思う。

 なればこそ、たとえ赤城の意に反するようなことであっても、最大限傷が浅く済む方法を加賀は模索する。

 紅が居たのは不幸中の幸いと言えたかもしれない。もし目論見が上手くいってレミリアを無事に逃がせられたら、きっとそれが最善の結果になるだろう。少なくとも、赤城が必要以上に自分を責めてしまうことはなくなる。

 

「いいえ。もう少し手伝うわ」

 

 守らなければならない。

 レミリアが守りたいものは結局分からずじまいだったけれど、案外こんなふうに身近なもののために彼女はここに来たのかもしれない。

 とにかく、加賀には守らなければならない人が居る。その人に背を向け、真実を隠し通してでも。

 

「いいの?」

「行きましょう。さっき言われたこと、まだ出来ていないのよ」

 

 加賀はいつも通りを演じる。

 案外それは楽なもので、意外なほど平常心を保つことが出来た。勘の鋭い赤城と言えど気付いた様子はない。

 何気ない会話をしながら、何とか隠し通せそうな気がしたのだ。

 

 

 ――それが、つい一時間ほど前の出来事。

 赤城の仕事の手伝いは早々に終わったが、彼女は些細なミスを連発した。何でもないように取り繕って見せていたが、理由は嫌というほど心当たりがあったし、必死でいつものように仕事をしようと頑張る赤城を見て、加賀も不用意な慰めを言えなくなってしまった。

 彼女がタイプミスをする度、ファイルに書類を取り違えて綴じる度、電話口で言い回しや相手の名前を間違える度、彼女が動揺しているのが手に取るように分かって、加賀の胸は締め付けられるようだった。赤城は気丈だから、いつものように振舞おうと必死で努力していたけれど、その背中は雨に打たれているように濡れていた。

 いたたまれなくなって、加賀は強引に仕事を切り上げ、赤城に休むように告げたのだが、変に頑固なところのある彼女は逆に加賀に退室を促したのである。「もう大丈夫だから」とぎくしゃくした笑みを浮かべる赤城を見て、ついに加賀は引き下がらざるを得なくなってしまった。

 それも昔からよくあることである。

 

 赤城は、肝心な時に加賀の忠告を無視して無理を犯すという悪い癖があった。それが偏に彼女の頑固さのせいであるというのはとっくに承知していることだけれど、だからと言って加賀に出来ることは少ない。どんなに言葉を尽くしても想いを語り切るにはもの足らず、伝わらなかった分赤城は忠告を軽く捉えてしまい、無理を押し通す。そして、それでもなお体調も崩さず結果を出してしまうのだから、こんなに始末に負えないことは他にないだろう。

 赤城は頼りになって、何でも出来て、それ故一番身近な相手の心配に気付かない。

 今までは、ぎりぎりそれで上手くいっていた。けれど、今回ばかりはどうなるか予想もつかない。

 

 自室に戻る道を辿りながら考える。

 今加賀に出来ることはほとんどない。ただ最良の結果のために、時が過ぎるのをじっと待っているしかないのだ。

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 当日はいつもより一時間早く赤城が起き出した。

 「硫黄島」の到着が早朝、日の出前になるというのは事前に聞いていたからこれは予想通りである。

 

「おはよう」

 

 加賀は、さも今起きたかのように体を起こして赤城に声を掛けた。さほど広くない二人部屋の二段ベッドの上の段から、ごそごそと着替えを引っ張り出している赤城の頭を見下す。

 

「おはよう。起こしちゃったかしら?」

「ええ」

 

 白々しく頷いた。本当は、昨日の晩から一睡も出来ていない。ずっと眼が冴えたままだった。

 結局、隠し事は赤城にばれずに済んだ。昨日、言われた通り紅に電話をして到着時間の予定を伝え、段取りの打ち合わせをした時も、誰にも気付かれずに終わった。

 自分は赤城を騙していると思うと胸がチクリと痛んだが、止まるわけにはいかない。

 

「提督を迎えに行かなくちゃ。加賀さんは寝てていいわよ」

「いえ。目が覚めてしまったし、少し外の空気を吸って来るわ」

 

 適当なことを言って、加賀は赤城と一緒に仕度をした。寝巻から作業服に着替え、顔と歯を洗って髪を整える。赤城は艦娘の制服を着こみ、しっかりと化粧までしていそいそと出て行った。恐らくこの後工廠に向かい、艤装を身に着けるのだろう。言ってしまえば、彼女は不測の事態に備えているのだ。

 そんなこと、よく考えれば分かるだろうに。

 あのレミリアが赤城に危害を加えたりするものだろうか。無駄な抵抗はせずに逃げの一手を取るだろうというのは、昨日電話口で紅がそう言っていたし、加賀も同じ意見だった。

 

 吸血鬼という種族であるレミリアの実力がどれほどであるかは分からない。ただ、とても強いのだと紅は言う。人間はおろか、艦娘でも止められる相手ではないだろう、と。

 しかし、レミリアに限って暴力を無暗に振るうことはない。高潔な彼女は、きっとそんなことをしない。

 ただ、彼女も人と同じように傷付き、悲しむだけだ。

 

 今日、むしろ戦いに赴くのは加賀の方だった。

 誰もが傷付く中で、せめてその不幸の度合いを浅くするために、どう転んでも悪い方向にしか行かない結果を少しでもましなものにするために、加賀は勝負に出なければならない。

 

 

 艦娘寮を出て、加賀は第一庁舎に向かった。

 外から三階の司令室の窓を見上げると、厚手のカーテンが閉められていて中の様子は伺えなかった。だが、あの中で加藤と金剛がレミリアを待ち構えているのだろう。

 加賀はそのまま庁舎の三階に上がり、司令室の近くの適当な部屋に身を潜り込ませる。

 さすがに早朝のこの時間、建物の中は静寂に包まれていた。まだ、大多数は出勤前だ。これは好都合だった。

 そのままじっとしていると、やがて扉越しに話し声が聞こえて来る。

 言わずもがな。レミリアと赤城だ。

 二人はそのまま加賀の隠れている部屋の前を通り過ぎ、司令室に入って行った。

 どのようなやり取りがそこで行われるにしろ、レミリアは必ず逃げ出してくる。無暗な殺傷もしないだろうと、レミリアをよく知る紅は言っていたから、余程のことがなければ血生臭い展開にはならないという予測を立てていた。

 だがそもそもの話、もう現状自体が余程のことと言えるかもしれない。よく考えてみれば、本来部下であるはずの加藤や金剛がレミリアに対して手の平を返すというのだから。

 しかもその協力者は赤城だけではなく、足音を忍ばせながらも確かに司令室の前に現れた陸戦隊の兵士たちもそうである。彼らはきっと完全に武装しているだろうし、加藤からレミリアを躊躇なく撃つようにも指示されているに違いない。加藤は陸戦隊に対して大きな影響力を持つ男だった。

 いくら加賀と言えど、屈強な陸戦隊員に立ちはだかられては具合が悪い。彼らの登場は予想通りであったため、一応それなりに対抗手段というものは用意してきたつもりである。

 といっても、持って来たのは特殊警棒だ。

 これは加賀の所有物ではなく、漣の私物を借りてきた物だ。それも随分前の話だ。ちなみに、所有者曰く「護身用」とのことだが、一体全体何を思ってこんな物を持とうと思ったのか甚だ不明である。

 

 上着の中に隠して持って来た特殊警棒を取り出して伸ばす。戦闘術を体得している艦娘が持っているとなると、この狭い建物内の空間も考慮すれば、いくら陸戦隊員と言えど脅威に感じるだろう。威嚇するには十分事足りると思った。

 ただまずは様子を見て行動しなければならない。

 

「突入!」という、加藤の怒号は加賀の耳にもはっきり届いた。激しい足音が連続し、陸戦隊員が司令室になだれ込む。

 

 なるほど、と加賀は一人頷いた。

 まだレミリアは無事なのだ。そして、加藤はミスを犯した。

 レミリアの見た目に騙されて彼女を軽んじたのか、屈強な手兵に慢心したのか、司令室の中で事を済ませられると思ったようだ。彼は狭い部屋の中に人を集めてしまった。

 お陰で廊下は無人になっている。そっと隠れていた別室から出た加賀は、それから忍び足で階段の方へと向かう。

 

 

 その時だった。

 不意に鳴り響いた高い破裂音が鼓膜を震わせる。

 一瞬、心臓が跳ねた。まさかと思い、振り返ると無人の廊下があるだけ。慌てて階段の影に身を隠してその後の様子を伺う。

 その間にも激しい物音は司令室から響き続けていた。

 連続する銃声。続いてガラスの割れる音や男のものと思われる悲鳴。

 司令室の中で、何か穏やかではないことが起きていた。特に、さっきの銃声は間違いなく加藤か陸戦隊員が発砲したものであろう。

 程なくして司令室の扉が弾き飛ばすような勢いで開け放たれ、陸戦隊員の何人かが転がり出て来た。

 その光景に加賀はさらに驚かされるが、生憎悠長にしている場合ではなかったようだ。隊員と同時に廊下に出て来た赤い弾。材質が何なのかも分かりかねる球体で、発光しながらピンポン玉のように廊下を跳ね回り始めた。

 唖然とする加賀の目の前で、鍛え抜かれたはずの大男たちが赤い弾に叩かれて転げ回り、部屋からはどんどんと弾が溢れ出て来る。

 

 一体全体、何が起こっているのか。赤城は無事なのか。

 思わず飛び出そうとした加賀に向かって、疾風のように部屋から小さな人影が突っ込んで来た。

 

 

 

 レミリアだった。

 

 撃たれたのか制服に血を滲ませながら、彼女は小さな体躯に似合わぬ健脚で瞬く間に廊下を走り抜けて、加賀にも気付かず階段を駆け下りる。

 

「提督!」

 

 あっけにとられて反応が遅れた加賀は慌てて彼女の後を追い掛けた。

 レミリアが振り向く。

 今まで見たこともないほど必死な表情だった。いつも余裕あるそぶりを見せていたのに、今はそれが剥がれて端正な顔が歪んでいる。

 

「加賀!?」

「休憩所! 休憩所に行って下さい! 迎えが来ています!」

 

 とにかく伝えなければと、無我夢中でそれだけを口にする。

 果たしてそれで意味が通じたのか、レミリアは一つ頷いた。彼女の足は加賀の予想以上に速く、一階に降りる頃には小さな背中は廊下の角を曲がって姿を消した後であった。

 加賀も必死である。頭上で赤城がレミリアを呼ぶ声が聞こえた。

 今彼女に見つかるのは非常にまずい。せっかく隠して来たことがふいになってしまうと焦った。 

 半分逃げるようにして休憩所に飛び込むと、打ち合わせ通りそこには紅が居て、彼女は乗って来たトラックのドアを開けてレミリアを荷台の中に乗せるところだった。

 

「提督!」

 

 もう一度呼ぶと、レミリアはまた加賀を見てくれた。

 小さな吸血鬼は、普段の尊大な態度が嘘のような弱々しい笑みを浮かべる。

 

「ありがとう。元気でね」

 

 彼女は一つ、敬礼をする。それが存外、様になっていた。

 

「こちらこそ。ご達者で居てください」

 

 加賀も答礼し、細やかで味気ない別れの儀式は終わった。

 間もなく赤城がレミリアを呼びながら近付いて来たのが聞こえて、加賀は休憩所を離れてすぐ近くにあったトイレの中に身を隠す。同時に紅がトラックに乗り込んで、赤城が来たタイミングで車を発進させた。その音が、はっきりと聞こえた。

 すぐに、彼女の足音が去って行く。

 

 ああ、追い掛けるのかと思った。

 

 赤城はきっと自分の選択を後悔したのだ。今まさに彼女は傷付いている。

 だから必死で走るのだろう。どうやっても追い付けないトラックを追い掛けるのだろう。

 赤城との付き合いは長いし、彼女が考えていることも感じていることも手に取るように分かる。だからこそ、親友の心情を想像して嬉しいような悲しいような気持ちになった。

 最後の最後でレミリアを信じようとしたその心こそが、彼女を救うのだと思う。一方で、信じたからこそ傷付かざるを得ない。

 

 レミリアを追い掛ければ赤城は自分を恨んでしまう。自分の選択を間違ったものだと認識する。

 だけど、彼女は追わなければならない。自分が提督を裏切ったことを後悔しなければならない。

 

 

「泣いて、苦しみなさい」

 

 誰にも聞こえない独り言。タイル張りの狭い空間の中に、加賀のハスキーボイスは溶けて消える。

 それは赤城に対する呪いの言葉であり、救済の合図でもある。

 これが最良なのだと、加賀も信じているのだから。

 

 

 ゆっくりと、トイレを出た。

 何も急ぐ必要はない。今すべきことは明確だ。

 休憩所から外に出て、赤城が辿ったであろうルートを通り、彼女を追う。恐らく、裏門まで続く道中のどこかで赤城は倒れているだろう。

 警備隊の建物の角を曲がると、真正面が裏門だ。その手前で、地べたに直接へたり込み、髪を振り乱して慟哭している女の姿があった。

 

 胸が抉られるような気がした。

 あんなに泣いている赤城を初めて見たと思う。話に聞くだけでは、過去にも一度、彼女が姉を喪った時にも号泣したことがあるそうだ。

 

 つまりはそういうこと。

 そして、赤城が泣く理由の内、数割は加賀のせいであるのは間違いない。そう考えると、罪悪感が喉元を締め付けるのだ。堪らず、彼女の元へ駆け寄った。

 

 

「赤城さん!」

 

 

****

 

 

 

 

 

 その後は泣きじゃくったり、そうかと思えば急に不気味な笑い声を立てたり、とにかく情緒不安定に陥った同僚を寮室まで引きずって行き、とりあえず部屋に放り込んでから食堂に向かう。

 一夜越しの空腹で、すっかり元気がなくなっているのを自覚していた。その上、朝一番の騒動で走ったり叫んだりしたものだから、何か食べないと倒れてしまいそうな気がしていた。

 

 ところが、ある意味当然ではあるものの、残念至極なことに食堂が開いていなかったのだ。いつもならとうに朝食の準備を終えて料理が出て来ていてもおかしくないはずなのに、厨房には人影はおろか電気すら付けられておらず、真っ暗である。食堂で働くのは鎮守府所属の給養員たちなのだが、彼らの姿はそこになかった。理由は恐らく、レミリアの件で鎮守府自体が非常事態下に置かれたからだろう。

 そう思うと、紅は本当にぎりぎりのタイミングでレミリアを運び出したらしい。あと一歩遅ければ鎮守府は完全閉鎖、裏門が閉じられて大変なことになっていたに違いなかった。

 

 レミリアは運が良かったのだ。対して、食堂が開かなくなって食事にありつけない加賀たちは不幸であると言えよう。

 無人の食堂を前にして加賀はしばし考え込み、それから一つの打開策を思い付いた。

 踵を返し、艦娘寮に戻る。と言っても向かった先は自室ではなく、同じ寮の自室の一つ上の階にある第七駆逐隊三人の寮室であった。

 訪ねると、中には漣一人の姿しかない。

 

「こんな朝っぱらに何用ですか?」

 

 自分のベッドに腰掛けて雑誌をめくっていた彼女は、加賀が現れると胡乱な顔をしてみせた。

 普段はとにかく陽気で騒がしい漣だが、一人で居る時は意外なほど静かである。さらに、誰かと居る時でもその相手が加賀の場合は、皆で集まって騒いでいる姿からは想像出来ないくらい彼女は落ち着いた言動をする。しばしば意味不明なネットスラングを含む雑音のような冗談ばかり飛ばすその口は、加賀の前でだけ打って変わって寡黙で、そして時折知的な発言が飛び出したりするのだから、人というのはよく分からないものだと思う。

 あるいは、こちらの方が漣の本質かもしれなかった。とにかく彼女は、加賀と一対一の時はふざけない。

 

「借りていた物、返すわ」

 

 と言って加賀は懐から特殊警棒を取り出す。結局使わなかったが、持っていて少しだけ心強かったのは事実だ。

 漣は、たった今加賀が取り出すまで全くその存在を忘却していたかのように「あ」と声を漏らした。

 

「使わなかったんですか」

「ええ。でもありがとう。それと、何かないかしら?」

「はあ」

 

 嫌そうな表情と共にわざとらしく吐き出された大きな溜息。加賀ははっきりとした目的語を口にしなかったが、漣には言われずとも分かっているのだろう。

 

 アメリカの首都を「パリ!」と言うくらいのひょうきんな道化者という仮面は、加賀の前では脱ぎ捨てられる。その実漣が聡い娘だというのは、恐らく彼女の親友である曙や潮以上に加賀はよく知っている。何故ならこの姿は加賀の前だけで晒されるからだ。

 

「冷蔵庫の中ですよぉ。カレーパン三つとコッペパン一つ、焼きそばパン二つ、プチチーズもっちも二つ。後なんかあったはず。飲み物、『午後ティー』は潮のだから置いといてくださいねー。コーラは曙のだけど持って行ってもおk」

「米は?」

「ありません。買って来てください」

「そう。パン、貰うわね」

「お返しは?」

「考えておくわ。赤城さんが空腹なの」

「オーライ。分かりました」

 

 漣は読みかけの雑誌を閉じて、部屋の真ん中のテーブルに放り投げた。

 

 七駆の寮室には小型の冷蔵庫が据え付けられていて、その中にはいつもお菓子や軽食なんかが詰め込まれている。どうやら彼女たち三人は頻繁に売店で買い溜めをしているらしく、時々加賀も分けてもらうことがあった。

 赤城に言わせればこれらの行為は規則違反になるのだろうが、加賀が黙認しているためか、彼女も目を瞑っていた。その結果、漣から食料を頂戴することに成功したのである。

 

「あと二人はどこに行ったの?」

 

 冷蔵庫中のパンを物色しながら背中越しに尋ねる。

 

「川内さんたちの迎えです。今頃桟橋だと思うけど……」

 

 漣の言葉が尻すぼみになった。

 先程、加藤がスピーカーで発令させた命令のことだろう。彼は、鎮守府の敷地の隅々まで届く放送で、レミリアがスパイであり見つけ次第捉えるように繰り返していた。当然、寮室の中と言えど漣の耳にも入ったはずだ。

 

「行かないのね」

「行かないのではなく、ここで見張っているのです。スパイが寮に逃げ込んで来たりしないようにね」

「あら。では私たちも協力するわ。一人で見張るには、この寮は少々広いでしょうから」

「助かりまーす」

 

 加賀は適当なパンを見繕うと、顔を上げて部屋の中を見回す。

 余り私物のない加賀たちの部屋とは異なり、間取りと面積は同じながら三人の共用部屋ということもあって、七駆の寮室の中は物が多くて雑然としていた。それでなくとも、漣や潮なんかは買い物の頻度が高いタイプで、持ち物もたくさんあるのだろう。整理しきれていないのか、片付けられていない漫画本やら雑誌がタンスの上に積み上げられていて、ゴミ箱は溢れかえっているし、床にまで空箱が落ちている。

 加賀は机の上に放りっ放しになっていたビニール袋を手に取った。中には何も入っていなかったので、そのまま見繕ったパンを詰め込んだ。

 

「川内たちが来たら、自室で待機するように言って。後の指示は、たぶん赤城さんがするから」

 

 それだけを言い残して部屋を出ようとした。

 

 だというのに、漣が余計なことを言うので足が止まる。止まらざるを得なかった。

 

「加賀さんさ、何かやらかしたんですか?」

 

 問い掛けの意味が分からなかった。今のこの状況で、「やらかす」の主語が加賀になるのはおかしいのではないだろうか。むしろ、尋ねるべき事柄としてはレミリアのことだろうに。

 漣の意図が掴めず、加賀が黙っていると彼女はさらに付け足した。

 

「おかしくないです? こんだけ鎮守府が大騒ぎになってるのに、赤城さんが寮の中に居るんですよね。加賀さんも何だか落ち着いているし。お嬢様絡みで、加賀さんは何が起こっているのかちゃんと全部分かってるような気がしてさあ。良かったら、漣たちには状況がイミフだから教えてほしいなって」

 

 今度は加賀の方が溜息を吐きたくなった。けれど、そうしてしまうとすべてを白状するのと同じになる気がして、何とか吐き出したいものを飲み込む。それでも、何となく漣には分かってしまうのだろう。

 舌足らずな声や幼い見た目、頭の軽そうな言葉に騙されてはいけない。彼女は存外鋭い娘であり、だからこそ加賀とは相性が良く、一方で苦手でもあった。赤城と同じく、どんなに無表情を取り繕っても、漣は的確に加賀の内心を見抜くことが出来た。

 

「さあ? 赤城さんは朝から出迎えに行っていてまた戻って来たわ」

 

 それでも、加賀は嘘を吐く。嘘だということがばれると分かっていても、今まで隠して来ていたことを事後であっても明らかにするつもりはなかったし、何より形だけ見れば組織の意に反してスパイを逃がしたことになるのだ。それ自体が重罪であるし、まだまだ捕まるつもりはなかった。

 

「……そっか。ま、結局指示待ちってことですねぇ」

 

 何を悟ったのか、漣はそのまま追求することもなく、ベッドに身を投げる。

 

「そういうことよ」

 

 加賀はようやく部屋を出ることが出来た。漣も加賀から話を聞くことを諦めてくれたようで、これは運が良かったと言えよう。もっとも、彼女はそこまでしつこい性質ではないから、あっさりしている時は拍子抜けるほどあっさりしている。うるさくて煩わしいのは曙の方だ。

 それからようやく自室に戻ると、赤城はいそいそとファンデーションを顔に塗りたくっている最中だった。疲労を隠すための、いつもの厚化粧である。

 

「お帰り」

「もう、大丈夫なの? 今日くらいは体調不良で休んでいても」

「そんなこと、言ってる場合じゃないわ」

 

 化粧台に向いたまま放たれた言葉は、少し乱暴な調子だった。それは赤城が自分自身に向けているもののような気がして、加賀の中で不満が膨らむ。こうやって、赤城はまた無理を押し通そうとするのだ。いつか彼女が壊れてしまうんじゃないかという懸念は、日々大きくなるばかりで、だというのにいくら忠告しても赤城は聞きやしなかった。

 これが加賀でなかったら、きっとどんなに優しい人でも愛想を尽かしてしまうに違いない。親身になっても頑なに受け入れてくれないのだから、気を遣ってやること自体が馬鹿らしくなってしまう。

 

 だけど、加賀には放っておけない人だったのだ。

 だから、彼女の背中が欲しているものを自然と察して、そんなこと言ってやる義理なんてないのに言葉は無意識に口をついて出てしまう。

 

 彼女が後悔しないように。やり残したことを、伝え損ねた想いを伝えられるように。

 

 加賀は実に適切な助言をするのだ。

 

 

 

「私たちは空母よ。矢文という手もあるわ」

 

 

 

 と言うと、化粧の手が止まる。

 

 それから彼女は大慌てで、大切な化粧品が床に落ちて転がるのもいとわず、メモ帳の端を切り取って何かを走り書きして風のように寮室を飛び出して行った。

 後に残されたのは、一人になった加賀だけ。落ちた化粧品を拾って台の上にきちんと並べてやる。

 

 部屋の中は暖房が程よく効いていて居心地がいい。赤城が出て行ってすることも話し相手もなくなったので、先に食事を済ませようと漣の部屋から持って来たビニール袋を広げ、菓子パンを一つ取り出して包装を開ける。

 イチゴジャムとマーガリンを挟んだコッペパンで、齧るとケーキのような甘さが口の中に広がった。甘いだけでさほど美味しくもないコンビニの菓子パンだけれど、空腹は和らいだ。胃が膨らんでいくのを感じながら、咀嚼しつつ窓の外に矢が飛ぶのを見る。

 それでやっと、少しだけ苦労が報われたような気がした。

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。