レミリア提督   作:さいふぁ

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レミリア提督49 Recollection

 横須賀鎮守府は日本海軍最大の基地にして、世界屈指の規模を持つ軍港でもある。その立地は三浦半島中ほどの東側、東京湾に繋がる浦賀水道を面前にした場所にあり、リアス式海岸を切り開いて築かれた天然の要害は首都を守るまさしく「鎮守」の府に相応しい場所だ。ここは海軍の中枢でもあり、連合艦隊司令部が設置されている。現在のところ、日本海軍の主な作戦行動は連合艦隊司令部がその指揮を執っており、事実上ここは海軍の頭脳に当たると言えよう。

 同時に、横須賀鎮守府は目下、世界で最も対深海棲艦戦争が激しく行われている中部太平洋戦線への出撃拠点でもある。かつては敵味方入り乱れる激戦が幾度となく繰り返された南方戦線はここしばらくは落ち着いており、それに反比例するように太平洋の中央部に広く戦線が展開されていき、深海棲艦との戦いもそちらに比重が置かれるようになっていた。

 かつて「赤城」が所属していた小さな鎮守府が設置されたのもそうしたいきさつによるもので、彼女が南方戦線から引き抜かれ、新しく置かれた鎮守府より中部太平洋方面へ出撃することになったのは、まさしく海軍の視線が向かう先が南から東へと変わったことを象徴する出来事だった。この鎮守府は横鎮の負担を軽減するために設置されたのだが、昨年に破壊されて使用不能になってしまったため、今は中部太平洋戦線へ向かう拠点は横須賀のみとなっている。

 規模が大きく、しかも首都に近いというのもあって、横鎮は常に人が多い場所であるようだ。そんな中から、特定の人を探し回っていては無駄に時間を浪費するばかりであるから、予め榛名はアポイントメントを取っておいてくれた。ただし、目的の人物は朝から任務に赴いているようで、予定では鎮守府に帰港するのは二時ごろになるとのこと。昨晩、新幹線で神奈川まで移動してきて、朝から横鎮に入った二人に守衛はそう告げた。しばらく手隙になった黒檜は、先に別の用事を済ませたいという鈴谷について回ることにして、彼女も特に拒否しなかったので、二人並んで鎮守府内を移動していたのだが。

 

 

「ああー! 赤城さんじゃないですかーッ!」

 

 唐突に甲高い声が聞こえた時、黒檜はしばし考え事をしていた。これから会うことになる人物、木曾にはどういう挨拶をしたらいいのだろうかと。何しろ、黒檜としては彼女とは初めて会うのだが、木曾の方は「赤城」のことをよく知っているし、どうやら客観的に見て黒檜は「赤城」と同一人物であるようだから、自分は相手を知らないが、相手からすれば自分はよく知った元同僚という奇妙な関係になっている。この関係性において、黒檜がすべき適切な挨拶は何かと考えていたのだ。そうやって自分の思考に没入していたため、「赤城」と呼ばれることに慣れていない黒檜は、初めその声が自分を呼ぶものだということに気付かなかった。その点ではむしろ敏感な鈴谷の方が先に反応したくらいだ。

 

「赤城さーん!」

「大尉、呼ばれてますよ」

 

 音声は耳に入っていたが、状況を正しく認識出来ていなかった黒檜は鈴谷に言われてからようやく振り返り、後ろから駆け寄って来た緑の着物姿を目に留める。

 

「やっぱり赤城さんだ! お久しぶりです! 蒼龍です!!」

 

 蒼龍と名乗った彼女は微かに頬を上気させながら黒檜の前に立つ。その輝いている瞳が頭一つ分下の位置から見上げていた。女性の中では上背のある黒檜から見下ろすと、小柄な彼女は童顔ということもあって年頃の少女のように見えた。

 名前には聞き覚えがある。確か彼女は極めて練度の高いエース級の飛行隊を操ることで有名な第二航空戦隊の所属だったはずだ。一航戦と同じく長らく戦場を渡り歩いてきた古強者の艦娘であり、一航戦が没した今は空母たちを率いる立場に在ると聞く。

 だが、そんな大層な情報の割にどうやら二航戦の実物であるらしいこの艦娘は、年若い少女のように興奮気味な様子で、本当に歴戦の艦娘かと疑うぐらいにその仕草もどこか子供っぽい。

 戸惑う黒檜に気を払う様子もなく、蒼龍は一方的に捲し立てた。

 

「すごーい! え、何年振りだろ? 何かすごい久しぶりですよね? やばいよ、ちょっと感動してきちゃった」

 

 木曾に対してどのような挨拶をしようかという答えはまだ出ていない。それを考えているところで声を掛けられたからだ。そして、黒檜にとっては知らない相手でも、相手にとって黒檜、もとい「赤城」はよく知る相手というこの関係性は、蒼龍に対しても成立するようだ。さて、黒檜は彼女とどんな言葉を交わせば良いのだろう。

 興奮して喋っている彼女は、きっと何も知らない。二航戦の空母は「赤城」の後任のはずだが、先輩後輩の関係をあまり感じさせない距離感の近さは、二人がそれなりに親密だったことの証だろう。そうであるならば安易に真実を告白するのは機嫌良さそうにしている蒼龍を傷付けてしまうような気がして、黒檜は答えに詰まってしまう。ここで「ごめんなさい。私、あなたのことを覚えていないの」などと白状したら蒼龍がどういう感情を抱くのかは想像するまでもない。そして、黒檜は“知らない相手”をいきなり傷付けるような冷酷な性格ではない。記憶がないことを打ち明けるべきか否か逡巡した挙句、取り合えず当たり障りのない返事をしておくことにした。

 

「ひ、久しぶり、ね」

「ホントですよー! みんな寂しがってたんですよ。赤城さんと中々会えないから。あ、そうだ。飛龍も呼びましょうよ。多分近くに居ると思うんで」

 

 と言うなり、蒼龍は早速本人の了解を得ることなく黒檜の手を取った。振り払うわけにもいかず、鈴谷を振り返って助けを求めてみるが、彼女は素っ気なく首を振ってそっぽを向いてしまう。どうも気分を害してしまったようだ。

 

 本来であればここは蒼龍に断りを言うべきなのだろうが、生憎、我ながら情けないことに自分はこういう時、意外と優柔不断になってしまう。押しに弱いと言われればそれまでなのだが、どうにも喜色満面の蒼龍を無碍に扱うのも気が引けてはっきりした態度が出せない。そうこうする内に、蒼龍は鈴谷を無視してどんどん黒檜を引っ張って行く。結局、何も言い出せなかった黒檜もなすがままについて行った。

 

「あ、飛龍? 今どこ? うん。あ、近いね。実はさ、会わせたい人が居るんだけど来れる? うん。そう。じゃあ、司令庁舎の自販機のところでね。先行ってるからね」

 

 この忙しない艦娘は黒檜を引っ張りながら誰かに電話を掛け、手短に用件を伝えるとあっという間に電話を切る。彼女は首からPHSといくつかのIDカードをストラップに繋げてぶら下げていた。鈴谷や榛名のような特殊な艦娘でなければ、誰しも基地内の連絡用にPHSを持っている。だが、IDカードはセキュリティレベルの異なるあらゆる施設に入門するにあたって秘書艦のみに支給される備品だ。つまり、蒼龍は横鎮の秘書艦なのだ。

 二航戦の経歴を鑑みればその地位に居てもおかしくはない。子供っぽい仕草やものすごい勢いで相手を自分のペースに巻き込む強引さを含めても、彼女が横鎮の秘書艦であることに疑いの余地はないだろう。

 

 

 閑話休題。

 他愛もないおしゃべりに付き合わされながら、黒檜は蒼龍の言っていた「自販機のところ」に連れて来られた。先程彼女が電話で呼んでいた相手――聞こえた名前では二航戦の相方のようだ――との待ち合わせ場所らしい。横鎮司令部庁舎の一階にあるそこは、蒼龍の表現した通り自動販売機の並ぶ休憩所のようで、彼女は早速財布を取り出して「何か飲みます?」と尋ねた。「悪いわよ」と遠慮してしても、「ぜひ、奢らせて下さい」と押し切られてしまったので、渋々黒檜は一番安いコーヒーを指さす。

 

「じゃあ、その微糖で」

「はーい」

 

 後輩に奢ってもらう黒檜。しかし、終始嬉しそうな蒼龍を見ているとそんなに悪い気分にはならなかった。鈴谷には、後でちゃんと謝っておこう。

 

「あ、赤城さん」

 

 黒檜がまだ“今の名前”を名乗っていないので、蒼龍はまだ「黒檜」という名前を知らない。未だに黒檜は蒼龍に対して記憶喪失のことを打ち明けるべきか決めあぐねていた。蒼龍は記憶喪失のことを遅かれ早かれ知ることになるのだから、さっさと打ち明けてしまった方がいいに決まっている。ただ、そうしたくないというのが偽らざる本音だった。

 

「何かしら?」

「ついに戻って来られたんですか? しばらく前線に出られてなかったって聞きましたけど、いよいよ復帰されるんですよね。まあ、ここも最前線に向いているのに、常に戦力が逼迫してますからね。最近は特に深海棲艦の活動も活発になってきてますし」

 

 多分に期待の込められた目で詰め寄られて、また黒檜は答えに窮してしまう。そうだ。普通に考えればそういうことになる。何しろ、“元”一航戦だ。慢性的に戦力不足の海軍がこんな貴重な戦力をいつまでも遊ばせておこうとは考えないだろう。どうして深海棲艦になり掛けた自分が、記憶を取り戻すために帰国することを許されたのか、その理由が腑に落ちなかったのだが、案外裏事情はそんなところかもしれない。

 とは言え、いつまでも蒼龍に対して誤魔化しが続けられるわけもなかった。表面的に話を合わせるくらいは出来るが、このまま蒼龍ともう一人に捕まり続けて突っ込んだ話をされるとボロが出るだろう。いい加減鈴谷の下に戻りたかったが、どう見ても蒼龍は黒檜を解放してはくれなさそうだ。

 

 

「あ、お待たせー……って」

 

 そろそろ潮時かと考えていたが、幸運にも気の重い事実を告げる必要は新たな登場人物によって有耶無耶になった。息を切らして休憩所に入って来た人物、驚いて足を止めた彼女に振り返ると、今度は橙の着物姿がそこに立っている。

 

「え!? うそ……」

 

 目も口も丸くさせて絶句する彼女に、取り合えず黒檜は会釈した。多分、こちらも「赤城」だった頃から親しい間柄だった。彼女が蒼龍の相方、第二航空戦隊の飛龍であろう。

 

「いや、あ、赤城さん? うそ、どうして? めっちゃ久しぶりじゃないですか!?」

「ええ、そうね」

 

 同じような反応は二度目なので黒檜も落ち着いて相手することが出来た。蒼龍ほどでないにしろ、新しくやって来た彼女の顔もあっという間に彩られていく。

 

「うわー! 赤城さんだぁ。本物だぁ。え、すごいよ。ねえ、蒼龍! すごい、また赤城さんと会えたよ!!」

「でしょ? ホント偶然なんだけど、さっき見掛けてさ。すっごいびっくりしちゃった」

 

 甲高い声で相方が言うと、蒼龍も同じような声で答える。女三人寄れば姦しいと言うが、彼女たちの場合二人だけでも十分騒がしかった。元からこんな性格なのか、旧知の相手と出会えて歓喜のあまり感情の抑えが効かなくなっているのかは判別しかねる。

 ただ、そのままにしておくといつまでも静かになりそうにないので、少しばかり苦言を呈することにした。

 

「ねえ、二人とも。働いている人もいるし、少し静かにね」

「え? あ、ごめんなさい。私ったらつい興奮しちゃって」

「すみません、蒼龍の奴がうるさくて」

「いや、飛龍も人のこと言えないじゃん」

「私は良いの。ってかほら、赤城さん困っちゃってるじゃん」

「わ、ごめんなさい!」

 

 第二航空戦隊の二人は仲良さそうに言い争いながら、徐々にクールダウンしたようだ。ようやく落ち着き、蒼龍と飛龍は黒檜の左右に並んでベンチに腰掛ける。どちらが示し合わせたでもないごく自然な動作で黒檜は挟まれてしまった。二人とも顔つきは似ていないから実の姉妹ということはなさそうだが、仕草は似通っているし、動きもピッタリそろっている。余程息が合っているのだろう。

 

「いやでもホントにさ、こうしてまたお会い出来るなんて感動ですよ」

 

 と、未だ興奮が完全に冷めやらぬ飛龍が熱っぽく語り掛ける。

 

「一時は引退されたっていう噂まで流れてたから心配してたんです。お元気かなって」

「え、まあ、そうね」

 

 引退されたかと言われれば、認めていいのかどうなのか困るところだ。ただ、確かにこの一年ばかりは「赤城」ではなく黒檜として過ごしてきたし、それは今後も続くだろう。それがいつまでかは分からないが、引退したというのもあながち間違いではないと言える状況ではある。

 

「赤城さんは覚えてないかもしれないけど、あの鎮守府が壊滅した時、私たち二航戦は真っ先に現場に向かったんです。そういう命令だったし、何より私たち自身がすぐにでも向かいたかったから」

 

 とつとつと飛龍は語り出す。

 

「でも、到着した時には何もかもが終わってました。赤城さんたちは自力で襲って来た深海棲艦を撃退してましたけど、鎮守府は完全に破壊されて死傷者多数。鎮守府の司令官まで戦死されて、当の赤城さんも全身血まみれで……」

「あの時の飛龍の取り乱しようは酷かったよね。どこから出てんの? って言うくらい凄い声で泣いてた」

「もう! 言わないでよ。本当に、あの時赤城さんが死んじゃったんじゃないかって思ったんです。金剛さんに抱えられて全身が真っ赤になった赤城さんを見て、『加賀さんに続いて赤城さんまで』って。けど、慌てて駆け寄ったら、赤城さんはまだ辛うじて息をしてたんです。金剛さんが『ダイジョーブ、赤城は死んでない』って言ってくれたのもあって、その場に泣き崩れちゃいました」

「私は旗艦だったし、飛龍がありったけ泣いてくれてたからまだ落ち着いてたんですけど。でも、結構やばかったな。飛龍が居なかったら、私が訳分かんなくなって取り乱してたかも」

「うん。でもその後のことが全然分からなくなっちゃったんですよね。呉の榛名さんが、赤城さんの目が覚めたってことは知らせてくれたんですけど、その後は全然。どうも南方へ転属になったっぽいし、ずっと心配していたんですよ」

 

 潤んだ瞳でほっとしたように笑う飛龍を見ると、胸が締め付けられるようだった。

 

 彼女も蒼龍も、どちらも「赤城」を心の底から案じていたのだろう。だからこそ、今日黒檜を、「赤城」を見付けて、二人の感情のタガは吹き飛んでしまった。溢れ返る喜びを抑えきれなくなった。

 如何に「赤城」という存在が蒼龍と飛龍の中で大きいものかを知る。「赤城」と二人の間にかつてどんなことがあったのかを、残念ながら黒檜は“覚えていない”。だが、それでも二人にとって「赤城」が憧憬の対象以上の存在であったと察するのはさほど難しいことではなかった。そして、それが分かるゆえに黒檜はきちんと事実を二人に告げなければならない。逃げている場合ではないのだ。時に、悪役にならねばならないこともあるだろう。例え相手を傷付けることになっても、伝えなければならない事実というのは存在する。

 

「心配、掛けてしまったのね。ごめんなさい」

「いいんですよ。今日、元気な赤城さんを見れたので全部チャラです」

 

 蒼龍は朗らかに笑う。その笑顔に翳りを与えなければならないことに喉が萎んだ気がする。

 

「そこまで言ってもらえるの、本当に嬉しいわ。だけど、もう一つあなたたちに謝らないといけないことがあるの」

「え? 何ですか」

 

 不穏な黒檜の言葉を察して、蒼龍の顔が引き攣る。残酷な事実を告げられることを酷く恐れているような表情。ああ、まさにその通りだ。

 

 

「ごめんなさい。私、『赤城』だった頃の記憶がないの……」

 

 刹那、蒼龍の視線が黒檜から飛龍に移される。蒼龍の方に顔を向けていた黒檜には視野外の飛龍の表情は分からなかったが、二人は何がしかのアイコンタクトを図ったようだ。一つ小さく頷いた蒼龍がまた黒檜に目を戻して、今度は柔らかく微笑んだ。そして、意外な一言を告げる。

 

「知ってますよ」

「え……?」

「実は、榛名さんから聞いていたんです。赤城さんは『記憶をなくしてるかもしれない』って」

「そ、そうなの?」

「はい。私たちとしては否定したかったんだけど、やっぱり事実なんですよね」

「……ええ。ごめんなさい。『赤城』だった頃のこと、何も覚えていないの」

「いえ。赤城さんが謝ることじゃないですよ。ただ、私たちらしく元気に振舞えば何か思い出せることもあるんじゃないかって思ってちょっとテンション高めにしてみたんですけど……。すみません、無神経でしたよね」

 

 悲しそうに首を振る蒼龍に、黒檜の胸が痛んだ。

 なるほど、あの騒がしさは彼女たちなりに考えてのことだったようだ。騒がしいだけだと思っていた自分が恥ずかしい。同時に、二人の思い遣りがじんわりと染み込んできて、不覚にも目元が熱くなってしまった。

 

「加賀さんのことも、思い出せないんですか?」

 

 今度は反対側から、飛龍に尋ねられた。振り向くと、悲しみとほんの少しの刺すような光を湛えた黒目がちの瞳がそこにある。

 

「一心同体って言っても言い過ぎじゃない。あれだけ仲が良くて、息が合っていて、強い信頼で結ばれていた加賀さんのことも、忘れちゃったんですか?」

「ちょっと飛龍! 失礼だよ」

 

 表情と共に言葉を厳しくする飛龍に、蒼龍は止めに入った。同僚に非難されると、飛龍は黒檜から目を外して床を睨む。その仕草に、彼女がどれ程加賀を慕っていたのかが垣間見れた。

 

 一航戦というのが空母たちにとって如何に大きい存在だったか、蒼龍の空元気や飛龍の苦悩した表情を見るだけで十分実感出来る。もちろん、その名声と実績は黒檜とて“知識”の上で頭の中に情報として仕舞い込まれているし、壊滅してからまだ一年程度しかたっていないからか、噂はそこここで耳にしていた。だから、一航戦が数多の畏怖と敬意、そして憧憬の対象となっていたかというのは理解しているつもりだ。

 黒檜は、かつてその内の、海軍中の艦娘の尊敬を集めていた一航戦の一人だったのだ。だが、どうしても自分が過去に「赤城」という偉大な艦娘だった実感が湧かない。どちらかと言えば、そんな「赤城」に対して一人の軍人として敬意の念を抱いてしまうくらいだ。「赤城」は確かに凄かったのだろう。加賀もそうだったのだろう。「凄い人たちだったんだ」という、とても他人事じみた感想ばかりが浮かび、自分がかつてそうだったなんてちっとも実感出来ない。

 故に、今の黒檜は「赤城」とは違う。

 

「ええ」

 

 白いシーツに包まれ、やたらと“小さく”なってしまった加賀の容貌を思い出しながら頷いた。

 

「思い出はおろか、顔すらも思い出せません」

 

 加賀のことを覚えているかと言われれば、黒檜として一度対面した時の記憶はあるのだから、その時見た眠る彼女の顔は覚えている。しかし「赤城」として、共に戦っていた気の置けない戦友のことを覚えているかと言われれば、それは否である。彼女がどんなふうに話し、どんなふうに表情を変えたのか。よく笑う人だったのか、はたまた感情を表に出さないタイプだったのか。「赤城」はよく知っていたであろうことを、黒檜はただ一つも覚えていない。そしてこのことは目の前の二人にははっきりと告げてやらねばならないことなのだ。

 

 

「そんなの、あんまりじゃないですか」

 

 床を睨んでいた飛龍は声を震わせながらまた黒檜を見る。

 蛍光灯の光を反射する双眸は、きっとコンテナの中で加賀に縋りついていた誰かと同じもの。

 

「毎日命がけで戦って! なのに深海棲艦に殺されて! その上、一番深く繋がっていた人からも忘れられて! そんなの、加賀さんが可哀想過ぎます!!」

 

 飛龍は今度は声を張り上げた。感情のコントロールがつかなくなっているのだろう。

 黒檜は彼女の肩に手を伸ばし、熱をもって小刻みに震える身体を抱き寄せる。このやり方が正しいのかは分からないし、そもそも“黒檜”にとっては初対面の相手で、そんな相手の肩を抱くのは不躾じゃないかという気もしたのだが、幸いにして飛龍は体重を預けてくれた。そこに、彼女と「赤城」との間に結ばれていた強い信頼関係を垣間見る。

 

「待っていて欲しいの」

 

 右肩に頭を押し付けて鼻を啜る飛龍に囁き掛ける。

 

「いつか必ず、全部思い出すから。それまで、待っていて欲しいの」

「……待ちますよ。赤城さんの頼みなんだから」

 

 約束ですからね。と、飛龍は付け加えた。もちろん、黒檜も拒んだりしない。抱き寄せていた彼女の肩を離すと、飛龍は身を起こした。それと、成り行きを見守っていた相方が立ち上がって目の前に移動するのは同時だった。見上げると、妙に蒼龍の顔が緩んでいる。

 

「何、笑ってんの? 気持ち悪い」

 

 目元を腫らしたまま飛龍が刺々しい言葉を投げ付ける。しかし、蒼龍は意にも介さない様子で、「いいこと思い付いちゃったんだぁ」と嘯いた。

 

「この後、弓道場に行きましょうよ。弓に触れば何か思い出すかもしれませんよ。だって、あんなに打ち込んでいたんだもん。きっと得るものがあるはずです」

「弓道場……?」

「お! 蒼龍、たまにはいいこと言うじゃん」

 

 飛龍の表情が一転して明るくなる。相方の賛同を得られたからか、蒼龍はますます表情を弛緩させた。

 

「でしょでしょ。ね? いいよね。赤城さん」

 

 と言われては、黒檜も頷くしかなかった。

 知識の上では、「赤城」が弓矢を持って戦うタイプの空母娘であったことは知っている。それ故に、人生の時間の少なくない割合を弓道に打ち込むために費やしていたことも、その実力が抜きん出ていたことも。

 今のところ、“記憶を取り戻す”方法が不明である以上、やれることはやっておくべきだろう。蒼龍の提案は的外れなようには思えなかったし、二人を何度も落胆させるのも気が引けた。時間を確認しつつ、「少しだけなら」と答えた。

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 ひと口に空母娘と言っても、砲艦と違って種類に違いがある。砲艦の艦娘ならば、戦艦であろうと駆逐艦であろうと、大小の艦砲を持ってそれを放つのが基本的な戦い方になり、大きさの違いがあれど主砲・副砲で機構や操作に極端な違いがあるわけではない。威力は異なれど、砲弾という運動エネルギー兵器が彼女たちの矛という事実に差異はないのである。

 だが空母の場合、その艦娘自体に直接的な打撃力があるわけではなく、あくまで攻撃の主体を担うのは艦載機だ。艦上戦闘機が制空を、艦上攻撃機が雷撃を、艦上爆撃機が急降下爆撃を、それぞれ役目に従って遂行することで、航空優勢の奪取と敵への遠距離攻撃を実現する。これはどんな空母も同じであるが、種類分けされるのはそれら艦載機を如何に母艦から送り出すか、その方法の区分けである。

 艦載機の発艦方式は大きく分けて二つ。一部の軽空母や正規空母の雲竜型が採用している陰陽式と、祥鳳型軽空母や雲竜型を除く正規空母が採用している弓術式である。

 前者は艦娘の中でも最も神秘的な御業と称される式神を用いた艦載機運用法であり、多くの艦娘研究者が「原理不明・解明不能」と匙を投げる摩訶不思議な方法だ。他方、後者は弓矢を用いるという、まだ常人にも理解しやすい方式だから、空母娘と言えば弓を引いているイメージが強く持たれている。また、空母娘として露出が多かった一航戦が、同時に弓術式空母の代表格だったのもその理由の一つに挙げられるかもしれない。

 そして、このような弓術式空母が所属するのは海軍基地の中でも一定以上の格式と規模を求められる「鎮守府」という場所であり、それら空母娘の所属する鎮守府には必ず弓道場が設置されている。というのも、弓術式の空母が己の練度を高め、維持するのに弓の鍛錬を必要とするからだ。

 とりわけ、日本最大の海軍基地である横須賀鎮守府にある弓道場は民間のそれを含めてもトップクラスの規模を誇る施設だった。28メートルの12人立ち近的場と60メートルの10人立ち遠的場が併設されている。ここでは日々二航戦を始めとした空母娘が己の技に磨きをかけるため鍛錬を行い、またすべての弓術式空母が育っていった場所でもある。

 無論、言うまでもなく空母娘のパイオニアであり、その戦術と運用法を確立した一航戦こそがこの弓道場の設置者だった。まだ方式の分類はおろか空母の運用法すら定まっておらず、すべてが手探りで回されていた時代、活躍と戦果からようやく発言権を獲得するに至った一航戦の二人が軍上層部と折衝し、建設されることになった弓道場こそ、横須賀鎮守府射的場なのである。

 つまり、「赤城」にとっては因縁が深いどころか、自らが建てたような弓道場と言って差支えがない。今はその主たる利用者が二航戦の二人のみとなっているようだが、かつてこの横鎮に所属していた一航戦の影は至る所に垣間見られた。

 

「あの額に入っているの」

 

 と、飛龍は上座の天井近く、射場を見下ろすように掛けられている「一矢入魂」の書が入った扁額を指す。書家に依頼して書いてもらったものなのか、墨痕淋漓として大変立派である。随分と格式高い書だ、と感心していると、隣で説明する飛龍の口から思わぬ名前が飛び出て我が耳を疑うことになった。

 

「あれ、加賀さんが書いたんですよ」

「え? そうなの?」

「そうそう! 加賀さん、ものすっごく字が綺麗なんですよね。筆握らせたら、ああいうのをさっさっさって書いちゃうんです。書道家になっても食べていけたんじゃないかな」

 

 今度は蒼龍が興奮気味に頷いた。

 これ以上吃驚を率直に口に出すのはどうかと思って黒檜は言葉を飲み込んだが、加賀の意外な特技を知って驚愕したのは事実だ。もちろんこのことは「赤城」はよく知っていただろうから、あまり驚きを表に出すのもおかしいような気がしたのである。

 

「懐かしいなあ。結構署名とかお願いしてたよね」

「飛龍は字が下手だからね。まあ、加賀さんが上手すぎたんだけど」

 

 二人は扁額を見上げながら懐かしむように言い、それから蒼龍の方が「弓、取って来るね」と告げて射場の隣にある部屋に入って行った。

 

 近的場というのは文字通り的が近い弓道場のことだ。二航戦の二人も普段は近的場を使うのだという。というのも、実戦において空母娘に求められるのは矢で敵を射掛けることではなく、矢を艦載機に変化させて、あるいは矢を艦載機に“戻して”、その艦載機で敵を撃沈することである。必然的に、矢それ自体の飛距離というのはあまり要求されるものではなく、せいぜいが風に乗せて空に打ち上げ、少しでも艦載機の高度を確保するために用いられる程度だ。

 つまり、身も蓋もないことを言えば、空母娘はそこまで熱心に弓道の鍛錬に打ち込む必要性はないのである。何しろ、空に矢を打ち上げられる程度に弓が扱えれば事足りるのだから。それでも、一航戦が自己の鍛錬のためにと弓道場の設置に熱意を捧げたのは、単なる弓道の鍛錬以上に、その行為によって艦娘自身の精神力を高めるためなのだと、飛龍は説明した。加賀が書いた「一矢入魂」の四文字にその心髄が込められている。この書を加賀に依頼したのは、弓道を精神鍛錬の過程と捉えていた、他ならぬ「赤城」だった。

 

「ごめーん。奥に仕舞っちゃってたから取り出すのに苦労したよ」

 

 と言いながら戻って来た蒼龍の手には、小柄な彼女の身長を超す長弓と矢筒。

 

「それ、やっぱり?」

「うん。赤城さんの」

 

 二人の会話を聞きながら黒檜は首を傾げた。「赤城」が横鎮に在籍していたのは随分と前のことであったはず。それが、どうしてここに弓が残っているのだろうか。

 その答えは飛龍が教えてくれた。

 

「赤城さん、ここを去る時にこの弓を残していったんですよ。『皆さんの鍛錬に使ってくださいね』って。でも、畏れ多くて誰も使うことなんて出来なかったんですけど」

 

 黒檜は、かつての自分の弓だというそれを蒼龍から受け取る。

 竹で出来ているからか、長弓は大きさの割に軽かった。相当使い込まれたと思しき弓で、そこかしこに擦り傷や擦れた跡があって、手触りはつるつると滑らかだ。大きく反った成りの端っこに小さく墨で「ア」と書かれている。

 不思議なもので、弓を握ると思った以上に手に馴染んだ。あたかもこの両の手は弓を握るために存在するように思える。

 記憶をなくしても知識はなくならない。同様に、頭の中から記憶が消えたとしても、何万回と同じ動作を繰り返した身体はやはり同じように覚えているものだ。試しに軽く弦を引いてみると、違和感やぎこちなさが感じられなかった。平仮名の書き方や箸の持ち方を忘れなかったように、弓の引き方も忘れてはいないようだった。

 

「やってみますか」

 

 その様子を見て、同じ感想を抱いたであろう飛龍が提案する。黒檜は無言で頷いた。

 

「射法八節は覚えていますか?」

 

 今度は首を振る。「それじゃあ」と二人して射に至る所作を教えてくれたが、黒檜の身体は教え直されるまでもなくやはり覚えていたようで、射法八節も頭で考えずに身体の動くままに任せると、二航戦はその内に沈黙するようになった。

 どの道、思い出そうとしても記憶がないのだからそれに意味がない。ならばと思い、黒檜は目を閉じる。そうした方が精神が研ぎ澄まされる気がしたし、目を開いたままにしていると脳が余計なことを考えて集中が乱れそうだったからだ。的と身体の位置関係だけしっかりと覚えて目を閉じ、弓を引く。

 

 タンッ、と小気味良い音が射場に響いた。背後で、二航戦の内のどちらかが息を呑む音が聞こえ、黒檜は目を開いて矢の場所を確認する。見るまでもなく的に当たったのは分かったが、それでも中心に命中していたことには少なからず驚いた。やはり、この身体は数えきれないほど打ち込んだことをちゃんと記憶していたのだ。

 

 

「今……目、つぶってたよね」

「うん。見てなかった……」

 

 相当な熟練者と思われる蒼龍と飛龍が絶句する。確かに、これは自分でも出来すぎだと思わないこともない。

 

「いや、凄すぎですよ!!」

 

 いやいやいや! と、今まで以上に興奮して蒼龍が騒ぎ立てる。その隣では飛龍が目を瞬かせて的に突き刺さっている矢を凝視していた。

 

「も、もう一回! もう一回やってみてください!!」

「え? ええ……」

 

 蒼龍の勢いに押される形で黒檜は再び矢を番えた。

 感覚というのは非常に繊細なものだ。特に、弓で矢を射掛けて的に当てるような作業は、殊更の緻密さや丁寧さを要求される。だから集中だってひと際保たなければならないし、ちょっとした狂いで結果がまるで変ってくるだろう。少なくとも、今の黒檜にとってこの「射」という行為あるいは技を為すのに視覚は邪魔なものでしかなく、なので第二射においても目を閉じて弓を引いた。

 何となく、的を見ない方が当たる気がしたのだ。頭に記憶はないのだから、「射」を完成させるに至る一つひとつの動作を覚えている肉体に主導権を委ねた方が上手くいくのだろう。案の定、また小気味良い音がして矢は過たず的を貫いたようである。

 

「やばっ。ちょ、飛龍、赤城さんヤバイよ。神掛かってるよ」

「何で? 何で目を閉じて当てられるんですか?」

 

 二人とも弓の道に居るからこそその凄さというのが分かるのだろうが、いくらなんでも持ち上げ過ぎである。「神掛かってる」とまで言われれば、さすがに嬉しさより気恥ずかしさが優るというもの。「そんなことないわよ」とやんわりと否定するが、蒼龍はぶんぶんと首を振った。頭の両横で結んだ房が動きに合わせて振り回される。

 

「そんなことありますって。素晴らしすぎますよ。こんなの見たことないです」

「卓越してますよね。見てて思いましたけど、弓を極めた人の技です。射法も綺麗だし、姿勢が美しいって言うんですか。ケチの付けようがない、まさしくお手本です」

 

 溢れ返る賛辞。二人は手放しでそれを容赦なく浴びせかけてきた。

 それ自体は嬉しいような気恥しいような、むず痒い感覚にさせるものだ。ただ、どうにもこうして褒め称えられたことに、そしてそれを受けて随分と照れた覚えがある。もちろん、覚えがあるというのは脳裏のどこかで記憶に引っ掛かったものがあるということで、黒檜はふと意識を頭の中に向けた。

 

 

 賞賛の言葉。

 

 ―― Brilliant!! 素晴らしいわ!

 

 手を叩く誰かの声。

 

 

 

「あ……」

 

 間違いない。覚えていた。黒檜としてではない、「赤城」の記憶。

 いや、あるいは取り戻したというべきか。

 

「え? 赤城さん?」

「あ、まさか。何か思い出したんですか?」

 

 蒼龍と飛龍が詰め寄って来る。

 女性にしては上背のある黒檜に対して、二人は比較的小柄だ。必然、黒檜から見ると二人を見下ろす格好になる。

 ただ、記憶の中で「赤城」を褒め称えた誰かはもっと小さかった。

 

「えっと、うん。ちょっとだけ」

 

 はぁぁ、と蒼龍は口で息を吸い込みながら両手を当てた。心なしかその目が潤んでいる気がする。彼女は感極まっていよいよ発すべき言葉を失ってしまったようだ。

 もちろん、相方の飛龍も喜びをこらえきれないように顔を綻ばせ、今度はこちらが目を輝かせる。

 

「良かった。何を思い出したんです? どんなことを思い出したんですか?」

「えっと、昔、同じように褒められたことかしら?」

「誰にですか?」

「それは……」

 

 記憶の中の誰かの顔がはっきりしない。

 場所は思い出せる。夕暮れの静かな弓道場。矢道に差し込む夕日がわずかに舞う誇りを反射していた。よく磨かれたニス塗の木板の床を二人でモップ掛けしたはず。「赤城」は二人で掃除することに驚いたのだ。まさかその相手が掃除を手伝ってくれるなんて思いも寄らなかったから。

 誰かは、小さくて、柔らかくて、温かかった。

 そうだ。まるで、彼女は姉のようだった。姉のように、優しく、抱擁してくれたのだ。

 赤城もまた彼女を抱き締め、その時に彼女の柔らかさ、温かさを知った。あんなに小さく華奢な体付きなのに、とても大きな存在に手を回して縋りついていたような気がした。

 

 あの、月明かりしかない部屋の中で。

 

 

 

「赤城さん?」

「ご、ごめんなさい。私、不躾なこと訊いちゃいましたよね!?」

 

 突然慌てふためき始めた二航戦の声で我に返る。酷く心配げな顔が二つそこにあって、しかし黒檜には彼女たちがどうしてそんな様子なのかまるで見当つかなかった。

 どうしたの? と言おうとして、懐からハンカチを引っ張り出した飛龍にようやく察する。目元を拭ってみると、思った通り指が水分を拭き取った。

 

「嫌なことだったんですか? すみません、思い出させちゃって」

「……いえ、そうじゃないわ。そうじゃないの」

 

 これ以上二人を不安にさせないように黒檜は微笑みを作った。

 この涙は自分のものではない。「赤城」のものだ。何しろこの思い出は彼女の記憶なのだから。

 

「気にしないで。ちょっと、不安定になっているだけだから」

 

 黒檜がそう言うと、蒼龍はほっとしたような表情を見せ、飛龍はまだ少し怪訝そうにして何か口にしようとした。だが、彼女より先に発言をした者が居て、飛龍は結局言い損ねてしまった。

 

 

 

「虚空を見つめながらいきなり泣き出したら、そりゃ誰だって心配するだろうよ」

 

 声は黒檜の背後から聞こえた。この場に自分たち三人以外の人物が居たことに驚きながら振り返ると、弓道場の入り口横で腕を組みながら壁に背を預けている姿が一つと、開きっ放しになっている入り口を塞ぐようにして立っている鈴谷が見えた。

 刹那、驚くべき速度で剣呑な雰囲気が弓道場を満たしていく。その発生源は蒼龍と飛龍の二人。彼女たちは入り口に立つ二人と黒檜の間にさっと身を滑り込ませた。まるで、この突然の乱入者から黒檜を庇おうと言わんばかりに。

 

「あんたら、自分らの世界に入り込み過ぎだぜ」

 

 入り口横で腕組みしていた何者かは少しばかり揶揄を含んだ言葉を放つ。仮にも横須賀鎮守府の第二秘書艦を前にしてこの言い草である。ふてぶてしい言動にふさわしく、その見た目も男女の判別を難しくさせるくらいに厳つい。寝ぐせだらけのぼさぼさの髪に、幅の広い両肩。何より一目見て忘れ得ぬくらい強烈な印象を持たせているのが、右目を覆う黒い眼帯と、荒々しい外見の中でひと際光を放っている勝気な瞳だ。雄々しささえ感じられる風貌だが、折り目の正しく付けられたプリーツスカートの下からすらりと伸びる美脚は、彼女が女性であることを主張してくれていた。

 

「ちょっと、勝手に入らないで。ここは空母以外立ち入り禁止だから」

 

 一歩前に出た蒼龍が、棘も毒も含んだ言葉で二人を威嚇する。さっきまで黒檜に向けていた声色とはまるで違う。恐ろしくなるような態度の変貌ぶりだ。

 

「それを言うなら、その人だって厳密には空母じゃないだろう。シンガポール基地所属、黒檜大尉。そうだろ?」

 

 白いセーラー服の艦娘は蒼龍に構うことなく壁から背を離して歩み寄って来る。反論を受けて背中越しでもはっきりと苛立ちを見せた蒼龍の肩に手を置いて諫める。

 考えるまでもなく、彼女こそが黒檜が横須賀に来た目的。まだ午前中なので、彼女の仕事は聞いていたよりずっと早く終わったらしい。鈴谷がわざわざ連れて来てくれたようだが、どうして黒檜がここに居ると分かったのだろうか。

 そんな小さな疑問を抱きつつ、とはいえ目的の人物と早々に出会えたようなので、黒檜はひとつ胸を撫で下ろした。

 

「そうです。あなたが木曾さんですね?」

 

 木曾は黒檜の前に立ち、そして顔を背けて吹き出す。面を食らった黒檜が反応する前に、飛龍が怒りを爆発させて怒鳴った。

 

「あんた! 赤城さんをバカにしてるの!?」

「ハハッ。悪い悪い。ちょっと可笑しくてな」

「何が可笑しいのッ!」

「いや、こっちは相手のことをよく知ってるのに、相手からは強張った顔で見られるのなんて、初めてだったからさ。何もそんな顔しなくたって、こっちは取って食おうなんて考えちゃいないのにな、って思って」

 

 歴戦の二航戦の怒声にもまるで怯むことなく(飛龍の剣幕は黒檜から見ても相当なものだった)、木曾は釈明を述べた。その様子に嫌味なところはなく、したがって黒檜も不愉快な気分にはならなかったので、この小さな粗相については目をつぶることにする。

 

「ごめんなさい。“私”としては初対面になるから。変な顔になってましたよね」

 

 剣呑な雰囲気で木曾に威嚇している後輩二人を諫めつつ、黒檜は穏やかに答えた。北海道から来た艦娘は肩をすくめ、スカートのポケットに片手を突っ込んで中に仕舞い込んでいた物を引っ張り出す。

 

「じゃあ、改めて自己紹介しよう。球磨型軽巡洋艦五番艦の『木曾』だ。かつて、あんたと同じ鎮守府に所属していた」

 

 彼女が掲げた右手の人差し指から紐付きの小さなビロード袋が垂らされた。

 

 

 

 

 

 

 

****

 

 

 

 

 

 

 「誰にも話を聞かれない所に行く」と告げた鈴谷は黒檜と分かれている間に車を用意していたらしい。弓道場の前には古びた軍用ナンバーのセダンが停めており、鈴谷が運転すると言うので木曾と共に後部座席に乗り込んだ。

 運転中も鈴谷は口数が少なかった。元々そんなに話す仲でもないが、どう見てもこれは機嫌を損ねているからだろう。蒼龍に流されて置いて行ってしまったことを陳謝したが、彼女は言葉短く気にしていない旨を告げただけだった。

 さりとて、隣に座る木曾とも会話が弾まない。名を名乗りながら意味深に取り出して見せたビロード袋について尋ねても、「後で説明するよ」とはぐらかされてしまって、それ以上やり取りが続かなかった。目的地までは五分程度かかったので、なかなかに居心地の悪い車内を味わうことになってしまった。

 

 さて、黙ったままの鈴谷に連れて来られたのは、広大な横須賀鎮守府の敷地の中でも端っこにある白い平屋建ての建物だ。一旦鎮守府の正門から出て、市街地を通りらなければたどり着けないような辺鄙な場所である。そこは水際まで飛び出している小高い丘の影になっているような場所で、鎮守府の中心部からは山陰になって見えないようになっていた。小さな川が流れ込む河口の脇で、陸地に切り込みを入れたような入り江に面している。こんなところまでが鎮守府の敷地だと言われれば驚くような立地で、実際建物の周囲には敷地と外部を遮断する二重の有刺鉄線付きの高い柵が周囲を囲っている。柵の向こうには民間企業の造船所が見えた。

 ただ、場所の割に建物は新築らしくピカピカで、大きなステンレス製の自動ドアが三人を出迎えてくれる。ドアの脇にはプレートが付けられており、そこに「先進技術センター 追浜支所」という聞き慣れぬ名前があった。さらにそのプレートの横にカードリーダーが据え付けられており、鈴谷が懐から取り出したカードを読み込ませると電子音が鳴ってドアが滑るように開く。

 外観と同じく中も新品ばかりで、出来たばかりの企業のオフィスのような内装だが、観葉植物のひとつも飾られていないので酷く殺風景だ。あまり大きな建物ではないので中もそこまで広くはなく、片側に部屋が並んだ廊下が奥へと続いている。鈴谷は廊下を進み、突き当りから一つ手前の部屋の前で立ち止まった。その部屋の入口の横にもプレートが掛かっており、「保管室」という味気ない文字が刻まれている。

 セキュリティはこちらの方が厳重だった。ドア横の認証端末にはテンキーと生体認証用のセンサーがあり、鈴谷は暗証番号を入力してからセンサーに右目を近付ける。認証端末が小さく鳴って緑色のランプを点灯させ、ロックが解除されたことを示した。鈴谷はスライド式のドアを開ける。

 

「どうぞ」

 

 久しぶりに口を開いた鈴谷が言ったのは、そんな素っ気ないひと言だった。促されるままに入室すると、そこは保管室の名に違わぬ部屋であった。

 黒檜たちがくぐった入り口とは別に左手の壁に大きな自動ドアがある他、四方の壁には黒塗りの棚が据え付けられており、棚には見慣れぬ様々な機械部品のようなものが所狭しと並べられている。部屋の中央には作業台があり、その真上からランプが一つ吊るされている。作業台の上にはいくつかの部品が散らかっていて、前回部屋を出るまでに部屋の主は何かの作業をしていたようだ。

 

 

「ここは?」

 

 興味深げに部屋の中を見回している木曾に代わり、黒檜は尋ねた。

 

「見ての通り、私の作業場です。置いてある物には触らないでください」

 

 鈴谷は淡々と答えた。黒檜も棚に置かれている物を観察してみるが、艦娘が扱うようなものとは思えない、使用用途すら思い浮かばないような謎の機械品ばかりである。「私の」と言うくらいだから、この部屋の主は鈴谷で間違いないのだろうが、黒檜が見慣れた艦娘の艤装やそれに関わるような物は一切見当たらない。肩書から普通の艦娘ではないことは分かっていたが、この特殊な部屋に入ってみて改めて鈴谷の異質さというものを実感する。

 具体的なことは何も知らないし、知りようもないが、鈴谷が海軍という組織が持つ暗部の一部を背負っているのは察している。鎮守府の片隅で人目を憚る様に建てられたこの建物の、さらに奥で厳重に守られているこの部屋はまさにそれを証明していると言えよう。

 

 鈴谷が作業台の上を片付けている間、黒檜と木曾は部屋の中をしげしげと観察していた。見る分には鈴谷は特に止めたりはしなかった。棚に置かれている物はほとんどすべて怪しい機械やその部品ばかりだったが、ある一画にだけ他とは趣の違う物がある。

 それは小さな写真立てと花の絵柄があしらわれた木の小箱だ。この、武骨で物々しい部屋の中でただ一つ、主人の女性的感性を示す物体だった。写真立ては本のように開く二面式で、左右それぞれに写真が収められており、右の写真には腕を組んで仲睦まじい様子の二人の少女が写っている。どこかの遊園地での一幕のようで、二人とも私服で背後にはジェットコースターが写り込んでいた。一人は屈託なく笑いながらピースサインを作り、もう一人は淑やかな笑みを浮かべている。二人とも随分と楽しそうだ。ピースしている方は、双子の姉妹などでなければ、この部屋の主であろう。一方、左の写真には、右の写真で鈴谷と腕を組んでいる少女が一人だけで写っている。こちらではその少女は今の鈴谷と同じ制服を着て、艤装を装着し、凛と澄ました表情だ。

 亜麻色の髪を後頭部の高い位置でひと纏めにした彼女には見覚えがない。鈴谷と同じ制服を着ているのなら、彼女と同じ最上型の艦娘なのだろう。最上型は一・二番艦と三・四番艦で艤装の型が少し違うと聞いたことがある。鈴谷は三番艦なので、彼女と一緒に居るとしたら四番艦ということになる。だが、いつにどこで耳にしたかは忘れたが、最上型は三番艦までしか居ないとも聞いたことがあった。

 不意に背後から伸びてきた手が写真立てを閉じてその場に寝かせる。振り返ると笑い方を忘れたような冷ややかな目をした艦娘が立っていた。

 

「ブラックでいいですか?」

 

 感情のこもっていない平らな声で鈴谷は尋ねた。気圧されて黒檜は無言で頷く。苦いのはあまり好きではないのだが、何も言えなかった。コーヒーを淹れに行くのか、鈴谷は部屋を出ていく。

 彼女の事情に踏み込んではならない。そう思えど、姉妹艦のことが気になってしまう。写真の中で年相応に明るく笑えていた鈴谷に何があったのか。「最上型四番艦」はどこに行ってしまったのか。脳裏をよぎるのは嵐と萩風の顔だった。

 

 

「おお、こいつはスゲェな」

 

 そんな黒檜の内心を知らぬもう一人の艦娘が棚から何かを取り出して歓声を上げた。木曾の目の前の棚にはファイルや本が並べられていて、彼女が手に取ったのはその中の一冊のファイルのようだ。

 

「手を触れないように言われてるでしょ」

「ちょっとだけさ」

 

 黒檜が咎めても木曾は聞く素振りを見せない。それどころか、広げたファイルを見せてきた。

 

「見ろよ、こいつを」

 

 彼女が開いた場所に閉じられていたのは、何かの機械の設計図のようだ。内部構造を詳細に記しているために書き込みが多い。一見すればそれは艦砲の設計図に見える。

 

「これは?」

 

 自制心より好奇心が上回って、思わず木曾に尋ねてしまった。気付いた時にはもう遅い。木曾は嬉々としてこの設計図の説明を始めた。

 

「レールガンだよ。艦艇搭載用の対深海棲艦兵器さ」

「何ですか、それ」

「何年か前にそういう話を聞いたことがあるんだよ。艦娘に頼らず、深海棲艦を撃沈出来る兵器を開発しようっていう計画が立ち上がったらしくて、そこで白羽の矢が立ったのがレールガンって代物だったらしい。その後は何も聞かなくなってたから、終わった話だと思ってたんだが、ここに設計図があるってことは実は開発が進んでいたのかもな」

 

 さらに木曾はページを捲る。もうそろそろ鈴谷が戻って来そうだが、彼女はお構いなしだ。

 

「これは何だ?」

 

 木曾がページを捲る手を止めて呟いた。黒檜ものぞき込むと、そこにもやはり何かの図が書かれていたのが、今度は何なのか察しがつかなかった。

 図というより、ラフスケッチのような線画である。人型とその背中から生える翼の全体図。全体図の下には、翼部分を拡大した別の線画が描かれている。ページには文字が書かれておらず、すべて線画だけであり、これが何を表しているのかは分からない。何かの装置のスケッチのようだ。人型が描かれているところから、艦娘に関わるものなのだろうか。

 

「木曾さん、もう止めましょう。鈴谷さんが帰って来ますよ」

 

 黒檜の忠告は残念ながら間に合わなかった。ドアが開き、部屋の主が戻って来る。彼女はすぐにファイルを盗み見している二人を見つけると、眉間に深い皺を刻んで、殺意が籠っていると言っても差し支えないほど剣呑な眼で睨み付けた。

 

「触らないでって言ってるでしょ? 機密漏洩で捕まりたいの?」

「ああ、悪い悪い」

 

 だが、木曾は気にした風もなく、軽い調子でそう答えてファイルを戻すだけだった。鈴谷はわざとらしく大きなため息を吐くと、手に持っていたトレーを作業台に置く。そして、トレーに乗せていた湯気の立つ紙コップ三つを作業台に移した。

 

「次やったら承知しないから」

 

 空いたトレーを脇に挟み、手近な棚に背を預ける。木曾も黒檜も、それを呆けて見ていた。すると、鈴谷は少し首をかしげて、「椅子、あるでしょ? 早く始めたらどうですか?」と言った。

 確かに鈴谷の言う通り、椅子がある。ホームセンターで安く売っているような小さなものが二つ。三つはないから、鈴谷は立っていることにしたらしい。

 言葉に甘えて木曾と共に腰を下ろす。鈴谷のことはいろいろと気になるが、木曾から聞かなければらなないこともたくさんあって、今はそちらの方がずっと優先順位が高い。

 

 

「さてと、どこから話したものかな」

 

 木曾はそんな言葉と共に長い話を始めた。

 

 

 

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