その①
アンツィオ高校との戦い以降、みほは暇さえあれば膝を組むことが多くなった。自分が人より気が短い人間なのはよく理解しているところである。カッと血が頭を巡り、情が激して来ることはしばしば。しかし、これを悪いこととは思っていなかった。自分の怒りは正しい怒りである。卑怯、卑劣に対する憤り、自分や周りの人々を侮辱された時の憤り、怒るべくして怒っているから、何を弱点だの欠点だの世間が勝手に評価するように貶めなくてはいけない。寧ろ、自分はこういう時に正しく怒れる人間なのだと誇りにすらしていた。
それが今回は仇となる。
みほにしてみれば、次の対戦相手であるプラウダ高校のカチューシャは、忌々しいことこの上ない相手であった。わざわざ自分を怒らせることを狙ってやって来る人間なのである。アンチョビから詳しい話を聞かせてもらったが、カチューシャは相当に口が達者らしい。一度口を開けば、あれよあれよと頭の引き出しから侮蔑の言葉を引き出して来るようだった。
腐っても鯛は鯛なように、戦車道は戦車道である。例え自分の欲望を丸出しにするような人間はいようとも、表向きの礼儀を疎かにするような人間はいない。だと言うのに、カチューシャなる者はそれすらもないようなのであった。
(おのれッ! 人として当然の礼儀を知らん輩め!)
と、まだ見ぬカチューシャへと敵意を燃やす。
しかしこういう怒りすらも抱いてはいけないのだと、みほは自分を厳しく戒めていた。カチューシャと相対するには平常な気持ちを維持し続けなくてはいけない。感情の振れ幅が大きいと付け込まれるのである。怒りやすい性格を直すとまではいかないが、怒りをなるべく抑える必要があった。最悪、怒っても良いが、自分を見失うほどに激怒してはいけない。
そのためにも一に打座、二にも打座とばかりに膝を組み結跏趺坐するのである。頭の中で想像上のカチューシャから侮辱の言葉を掛けられ、怒りを堪えて、払いのける。これを何度も何度も繰り返すことで、精神を鍛え上げるのだ。
また限りある時間を有効的に活用するため、立って移動している間も打座をしているつもりで工夫を凝らした。
そのためだろうか、街や校内を歩いている時、人に避けられることが多くなった。常に眉間に皺を寄せているので、機嫌が悪そうに見られるのだ。いや、事実機嫌は悪いのだが、とにもかくにも次の試合のため、みほなりの対策に励んでいるのである。周りの仲間たちも事情を聞けば止めさせることは出来なかった。特に前々から短気なことに思うところがあった杏や優花里などは、進んで協力をしていた。
効果のほどは不明である。本番にならない限りどうなるかは分からない。もしかしたらまったく効果がないかもしれないし、多少改善されるかもしれない。
こんなみほの様子を見て、沙織が言った。
「こんなことしなくても、顔合わせなきゃ良いだけじゃん」
馬鹿正直に顔を合わせて侮辱の言葉を静々と受けるから問題なのであって、顔を合わせずに、話し掛けられようとも無視をしてその場を直ぐに離れれば良いのではないか。何となれば自分たちがみほの盾となり壁となり守護すればそれで良い。
沙織の意見には方々から賛成の声があがったが、強く反論する者がいた。みほの弟子とも言える後輩、梓である。
「相手側に何か落ち度があるのならそれでも問題はないのでしょうけれど、今のところ、そのカチューシャさんがみほさんに無礼を働いた慮外者というわけではないのです。だと言うのにみほさんが顔も合わせず無視を決め込むとなれば、非礼に当たってしまいます。みほさんは礼を重んじる方ですから、そんなことは出来ません。それに、カチューシャさんを避けるというのは、逃げているようじゃないですか。みほさんにはさせられません」
流石にみほから教えを受けているだけのことはあった。梓はみほの心の内を完璧に読んでいたのである。まさしく梓の言う通りなのだ。
いくら虫唾が走るような人物であろうとも、それは話に聞いただけなのである。勿論、アンチョビは嘘を言うような人物ではないことは、承知のことだ。直接言葉を交合わせ、横に並んで食事を摂った仲だからこその信頼があった。であるからカチューシャが、みほにとって好感を持てない人物なのも確かなことだろう。
だからと言って、今の段階で自分に何かしたわけではないのだ。何かしてくるのは明白だが、したわけではない以上、非礼を犯すわけにはいかない。謙信として、西住として、何より人として。勿論、逃げるわけにもいかない。と、するならば受けて立つしかないのである。これもまた一個の戦いなのだ。断じて負けるわけにはいかない戦いなのであった。
ある日のこと。
その日もみほは眉間の皺をいつもより深いものとしていたが、想像上のカチューシャによる侮辱を受けてのことではなかった。
アンツィオ戦の前に見つけ出された、長砲身のⅣ号戦車への取り付けと、ルノーB1bisが修理し終わったという報告を、つい先ほど自動車部の面々より受けたのだ。これで戦力が増強されることになったのだが、みほには悩ましいことがあった。
すなわち、誰をルノーに乗せるべきかということである。
当然のことだが、今の履修生たちに余裕はない。五輌の戦車に対して丁度良い人数で纏まっているため、ルノーに割く人員はいないのだ。だから新しく履修生を増やす必要があるのだが、これをどうしようかと悩んでいるのだった。
うんうん唸っていると、背後より声を掛けられた。
「ちょっと良い?」
振り返ると、そこにいたのは前髪と後ろ髪をきっちりと切り揃えた、清潔感溢れる少女であった。みほはこの少女を知っている。大洗女子学園でこの少女を知らない者はいないが、特に知っている仲なのだ。
園みどり子と言って、大洗で風紀委員長を務めている。大洗の秩序を守るため日々奮闘するみどり子の姿に心を打たれて、みほが声を掛けたのが関係の始まりだった。みどり子にしても、自分に敬意を抱き、人よりも殊更礼儀正しいみほに惹かれるものがあって、以来友好が続いている。
「おや、みどり子さん。こんにちは」
「ええ、こんにちは」
互いに軽い挨拶を交わすと、友好の証明とでも言うように、打ち解けた様子で話を始めた。話は専ら、みどり子の風紀委員長としての活動の事が主だ。こういう校則違反者が居ただとか、どうすれば違反者が居なくなるのかなど。
これに対してみほが、それはけしからん輩が居るものだと同調したり、こういう風にしてみれば良いんじゃないかとアドバイスをしたりする。
(真面目な方だ。しかし、今の世の中、こういう者が往々にして損をし、煙たがられたりするもの。嫌な世界だな)
と、思いながらみどり子の話に付き合う。彼女のような人間には、何とか力になってやりたいと思ってしまうのが、みほの性分だった。
五分ほど話し込むと、突然みどり子の表情に影が差す。悩み事でもあるのか訊ねてみると、逆に質問が帰ってきた。
「何かあったのはそっちでしょう? ここ最近、ずっと浮かない顔をしているじゃない。貴女がそんな顔をしていると、校内の雰囲気が悪くなって、仕舞には風紀が悪くなるのよ」
みどり子はみほを責めているような調子で言った。
「申し訳ありません」
それは悪いことをした、とみほは素直に謝罪した。
みどり子にしても本気で責める気はなかったようで、直ぐに愁眉を浮かべて訊ねて来た。
「それでどうしたのよ。悩み事があるのなら私に話してみなさいよ。力になれるのか分からないけど、いつも貴女には助けてもらってばかりだから、たまには私が助けたいわ」
話すべきか迷うところだ。
話したところでみどり子にはどうしようもないような話だが、彼女は本気で心配してくれている。それを思うと、ここではぐらかしてもさらに心配を深いものとしてくるだろう。それに、第三者であるみどり子に話をすれば、根本的な解決にはならずとも、何か進展はあるかもしれない。そう考えて、話すことにした。
「そんな奴がいるのね。校則違反よ。この学園にいたらパパっとしょっ引いてやるのに」
先ずはカチューシャのことを話した。アンチョビから聞いた人物像をそのまま話して、次の対戦相手にこういう人物がいるから困っていると続けた。侮辱されても耐えきるよう精神修行をしていたとも。その話の感想である。
どういう人物をみどり子が想像したのかは定かではないが、不快な人物を想像したのだろう、眉を顰めた。
みどり子の感想にみほは苦笑した。
「大洗に口を取り締まるような校則はなかったかと思われますが」
「ふん。ないなら作れば良いのよ」
胸を張るみどり子。続けて呆れたような顔でみほに言った。
「まあ、理由は分かったけど、だからと言って風紀上の問題があるのよね」
「私も努力しておるのですが……次の試合までのことですので、どうかお見逃し下さいますよう」
「仕方ないわね。特別よ、特別。貴女じゃなかったら絶対に見逃さないわよ」
「ありがとうございます。それともう一つございまして、今日はそちらの方で頭を悩まされておりました」
みほはもう一つの悩みである、ルノーに乗せる人員をどうしようか悩んでいたことも、みどり子に明かした。
話を聞き終わったみどり子は、僅かに時間を掛けてからみほへと答えた。
「私でも戦車って乗れる?」
「乗れるかどうか実際に乗ってみなくては何とも、乗れなくはないと思いますが」
一瞬、みどり子の真意を計り兼ねたみほだが、直ぐに言葉の内容を考え理解した。私がそのルノーとか言う戦車に乗ってやろうじゃない、とみどり子は言っているのだ。
これは渡りに船なのでは、とみほは思った。みどり子ならば人員として申し分はなく、こちらからお願いしたいぐらいだ。
大会も二勝し、そろそろ履修生たちにも浮ついた心が見え始めるだろう。みどり子のように、生真面目で場の空気を引き締める様な人物が必要なのかもしれない。
ふと、みほはみどり子のような人物が黒森峰にも居てくれたら、と想像した。少なくとも、まほや自分の負担は減っていただろう。まあ、別の問題もあるかもしれないが。
兎にも角にもみどり子なら是非にと言った具合だ。確認を取る。
「よろしいので?」
みどり子は顔の前で拳を握った。
「力になるって言ったでしょ。私の力で良ければ貸してあげるわよ。他ならぬ、貴女のためなんだし。それと良ければだけど、風紀委員から数人動員するわよ」
ありがたかった。これで人員の問題は解決される。みどり子に話をして良かった、と心から思った。
「是非、お願い致します」
みほは深々と頭を下げるのであった。