みほの姿が視界に飛び込んで来た時、杏たちは真っ先に幻覚を疑った。しかし、直ぐに本物だということに気付く。その場にいるだけでひしひしと周囲に圧力を感じさせるのは、本物のみほを置いて他にはない。
最初に戦車から飛び出したのは桃だった。その動きに合わせてみほもⅣ号戦車より飛び降りる。すると、桃はみほの前までひたかぶと駆け出し、おもむろに地面へと膝をつき、さらに両手をつき揃えた。
「済まん。本当に済まん!」
壊れたレコーダーの如く何度も何度も繰り返す。
桃に遅れてはならない。杏を含めて他の者たちもわらわらと戦車から降りて、桃に倣った。皆、額を擦り切れろとばかり地に擦り付け、謝罪の言葉を口にする。その声は震えていた。
短な時間、この様子を凝視してから、みほは一言発する。
「面を上げて下さい」
重厚感のある低い声だった。
杏たちの身体がピクリと震えた。先ほどの通信では優しそうだったが、やはり怒っている。それはそうであろう。越権に独断専行、おまけに戦況不利の手土産。これで怒らない人はそうはいない。人より感情を激しやすいみほなら猶更だ。
左衛門佐が隣のおりょうにだけ聞こえる声で呟く。
「……介錯を頼む」
「……私もされる側ぜよ」
戦々恐々。二人の気持ちは平伏する者たち全員の気持ちである。
ゆっくりと顔を上げた。そこにあったのは般若の形相……ではなく、柔和な菩薩の笑みであった。そうして次にみほの口から出た言葉は、表情同様に柔らかなものであった。
「皆、ご無事で何より。間に
胸がギュッと締め付けられた。
何と優しい言葉か。軽蔑、罵倒、失望、これらの言葉が吐き捨てられることを予想していただけに、鮮やかに胸へと響く。
行人包みの下より覗くみほの瞳は、ひたすらに温かみがあった。
「た、隊長……」
典子の声は変わらず震えているが、これは別の震えである。罪悪感からの震えではなく、感動からの震え。身体の震えもまた同じ。
感極まったのだろう。桃は大粒の涙を瞳に浮かべた。涙が筋をひいて、頬を伝う。伝った涙は地に落ち溶け込んで行った。
「にじずみぃ……」
それから桃は、ワッとみほの足に縋りついた。
他の者たちも感激の涙を隠せなかった。桃と同じようにみほへ縋りつく者、目元を腕で押さえて涙を堪えようとする者、みほへと祈りを捧げるように両手を組む者、様々な反応を見せる。それらに対して、みほはただ優しく笑みを湛えていた。
その時である。この感激の涙を絶望の涙に変える言葉が、Ⅳ号戦車の中で無線に耳を傾けていた沙織の口から飛び出した。
「みほ。何か、天候が悪いから試合を中止するかしないかで協議中って、審判から」
穏やかな微笑みは瞬時に険しくなる。足には桃たちが縋りついているため、みほは上半身だけ振り返り外の様子を確認した。激しい。ビュウビュウと風が鳴き、雪は荒れている。天候は何時の間にか吹雪に変わっていた。
「お、おお……!」
思わず呻く。
何かただ事じゃないことが起きている。みほの様子から感じ取り、杏の赤くなった目に疑問の色が浮かんだ。
「西住ちゃん、どうしたの?」
「いえ、面倒なことになったものだと」
「どういうこと?」
戦車道のルールでは、悪天候などにより試合を中止する場合、その試合の勝敗は審判が決めることになっている。両チームの残存戦力を比較、また、どちらの方が優勢であったかなどを審査の判定基準とするのだ。
「今のところプラウダの方が優勢だからな。判定負けの可能性は極めて高い」
そう言ったのは麻子だ。のそりのそりとⅣ号戦車から這い出て来る。残りのⅣ号戦車の乗員、M3中戦車リーの乗員、ルノーB1bisの乗員も続いた。誰も彼もが眉間に皺を寄せて、険しい表情である。
その険しい表情は、杏たちには自分たちへの非難のように思えた。プラウダの策にまんまと嵌りさえしなければ。感激もそれまでに再び罪悪感へと飲まれ、顔を俯ける。
「どうしよう……」
弱々しく言ったかと思うと、桃は縋りついていたみほの足を揺すり始めた。細いように見えて、しっかりと鍛えられ、猛獣のようにしなやかな足は大木のように動かない。それでも夢中で揺する。どうしよう、どうしよう、と。
桃はみほ同様に感情が激しやすい。いや、以上かも知れない。自分の所為で負ける。自分の所為で大洗が廃校になる。そう思ってしまうと、もう自分で自分を抑えられない。繊細な心は重圧に耐えきれないのだ。十にも満たない小さな女の子のように、喚き出した。
「どうしよう、西住! どうしたら良いんだ!? 助けて! 助けてくれぇ! 私は嫌だぁ! 負けたくない! ここまで来たんだ! お前のお陰でここまで来れたんだ! だから負けたくないんだ! 嫌だよ、西住! このまま廃校なんて絶対嫌だぁ!」
超然として落ち着いた性格という擬装が剥がれ落ちている。
わんわんと泣き喚く桃。無意識に言葉を選んでいるためか、自分で何を言っているのか気付いていない。顔を涙でくしゃくしゃにして、鼻水まで垂らしている。
杏と柚子は天を仰いだ。言ってしまった。出来る事なら秘密のままにしておきたかった大洗の廃校、よもやこんな風に露見してしまうとは。
気付いていないわけはないであろう。現に履修生たちは目を瞠って桃に視線を集中させている。廃校という単語がぽろぽろと口から零れ落ちている。これでは誤魔化しようがない。腹を括るべきだ。この際、全てをぶちまける。
「廃校とはどういうことですか?」
疑問を口にする梓は視線を桃から杏に移していた。
この調子では桃が冷静に事実を語ることはあるまい。そして廃校ということを桃が知っているならば、生徒会長たる杏が知らない筈もない。詳しい話を是非お聞かせ願いたかった。
良い振りをくれた。ここぞと杏は一息に語った。
「我が校は今年度いっぱいで廃校が決まっていてね。まあ、古いだけで特に目立った功績がある学校じゃないからさ、仕方ないっちゃ仕方ない。でも私たちは仕方ないで終わらせたくなくてね。無駄に足掻いてみることにしたのさ。それが戦車道。お上がこいつに力を入れていることを知ったから、優勝を条件に廃校を取り消してもらおうと思ったってわけ。普通だったら無理だけど、何の因果か、黒森峰から隠遁のような形で転校して来た西住ちゃんがいてくれた。だから私は助けを求めた。西住ちゃんは快諾してくれてね、こうして今に至るってこと」
履修生たちは仰天した。優勝を条件に廃校を取り消すということは、負ければ廃校は決定的。廃校という事実だけでも驚きだと言うのに、それを負けるかもしれないというこの局面で明かされれば、驚きは一入である。
一方で、梓と優花里はそこまで驚いている風でもなかった。先日、鍋を馳走になった際、垣間見えたみほと生徒会の特別な関係。どのような秘密があると思えば、なるほど、こういうことであったか。
場が静まり返った。くぐもった桃の泣き声がよく聞こえる。
「あの、これを」
沙織が桃の肩を叩き、ティッシュを手渡した。桃は奪い取るようにそれを受け取ると、涙を拭き取って、大きな音を立てながら鼻水をかんだ。
そこで凍ったように動きを止める。場の異常さと、何より今までの自身の狂態に気付いたのである。使用済みのティッシュを握りしめ、ぎこちなく周囲を見回した。
「ああ、河嶋。廃校の件、暴露しちゃったから」
自身が原因でありながら状況を把握していない桃に、さっぱりと杏は言った。
拭き取った涙が、また溢れ出しそうになる。絶望の表情。終わりだ、全て。穴があったら入りたい。いや、死にたい。桃は責任感が強い。であるから窮すれば極端である。
そんな桃にカエサルたちが言った。
「河嶋先輩だけの所為ではないさ。私たちも同罪だ。なあ、エルヴィン?」
「その通り。貴女一人に責任は押し付けんよ」
「腹を斬る時は皆で斬ろう」
「短い人生だったけど、自業自得ぜよ」
追撃を指示したのは桃であるが、それに乗っかったのは他でもない自分たちだ。これで負けて廃校が決まったとしても、桃一人の責任にはしない。そんなこと出来はしないのだ。
典子たちもカエサルたちと同じ気持ちだ。
「お腹斬るの、痛そうですね~」
「キャプテンがいつも言っているだろう。根性でやるんだ」
「本当に切腹なんてするんですか?」
「大洗が消滅し、私たちの悲願であるバレー部再興が露と落ちた暁には、それもまあ悪くないかもしれん」
口々に悲観的な言葉が飛び出して行く。
教会に陰気な空気が漂い始める。嫌な流れだ。既に敗北の気が出て来ている。梓たちやみどり子たちにも、この嫌な気は伝播し、士気は最悪な状態であった。
いかん。そう思ったのはみほである。これでは勝てる戦いも勝てなくなる、と。
みほは勝利の道を諦めてはいない。このまま天候不順で試合中止の令を出され、負けることなどはあり得ない。何故ならば、天は正しき者の味方だからだ。これまで天に背かれるような生き方をした覚えは微塵もない。欲の世界で誰よりも義を貫き通して来たつもりだ。だから天は何時だって味方なのだ。そうでなくては、何を信じて生きていれば良いのか。
だからこの吹雪も天が自分たちのために降らせてくれているのだろう。そうに違いない。天のお膳立てだ。ならば自分は応えなくてはいけない。
差し当たっては、低下した士気を高め直す必要がある。
「者ども、聞け!」
声を張り上げた。みほは視線が集中するのを感じた。つい口調を取り繕うことを忘れたがもういい。このままでいこうと、先を続けた。
「何を悲観しておるのかは知らぬが、特に案ずることはない。お前たちが腹を召す必要も、廃校に嘆く必要もない。此度の戦いも我らの勝利に終わろうぞ」
「だけど、このままじゃ」
M3中戦車リーの砲手、大野あやが俯き気味に言った。
みほは大口を開けて笑い飛ばす。
「ハハハ! それこそまさに案ずる必要のないこと! 天は我らの味方だ! カチューシャの如き礼節知らずの輩にその恩恵を与えようなどとありはせん! あの吹雪はカチューシャめに怒りを叩き付けておるのだ!」
皆が顔を見合わせる。
そんな筈はない。そんな筈はないのだけれど、断言口調にみほが言えばそうだと信じたくなって来る。落ち込んでいた気が、急速に持ち直して来た。
気は自らの正しさを信じて疑わぬところより生ずる。無茶苦茶な理論でも何でも、信じさせることが重要だ。まあ、みほにとっては無茶苦茶でもなく真理の言葉であるが。
ともかく立て直して来ている。みほはたたみ掛けた。
「私を信じろ! 神に誓って私は嘘は申さぬ! 勝たせてやろうとも! 救おうとも! お前たちを、大洗女子学園を! 故に信じよ! それでも心から不安を消せぬと申すならば、祈れ! 神に、天に祈るようにこの私に祈れ! 勝たせてほしい、救ってほしいと祈るのだ! 私に、私の中の毘沙門天へと祈りを捧げよ! さすれば、願いは叶うであろう!」
履修生たちの眼に輝きが戻り始めた。猛然と身体の内から熱が沸き出す。
最後、みほは大きく息を吸った。一拍。出て来た言葉は、履修生たちの身体を雷に打たれたように痺れさせ、地震が起きたように教会内を振るわせるもので――
「三位一体! 我は西住みほなり! 我は不識庵謙信なり! 我は、毘沙門天なり!」
瞬間、履修生たちは腕を突き上げた。示し合わせたわけでもなく、心を一つに、えいえいおー、と鬨の声を上げる。
そうだ。不安に思う必要はないのだ。勝てる。勝てるぞ。だって私たちには最強の味方が付いているではないか。負けた時のことなど考えなくてもいいのだ。
「えいえい!」
「おー!」
「えいえい!」
「おー!」
丁度十回、鬨の声を上げると、その勢いを冷めさせぬままに言った。
「どういうわけか先ほどからプラウダめの攻撃がない。恐らくは我らがこの教会を出た時に勝負を仕掛けて来る腹積もりであろう。正々堂々の力比べをしたいと申すならば、カチューシャめも可愛げがあるというものだが……まあ良いわ。優花里!」
「はいっ!」
「お前はこれより吹雪に紛れ、プラウダの陣営をつぶさに見て取って参れ。危険ではあるが、お前ならば出来よう。頼むぞ」
「はい、任せてほしいであります!」
みほが優花里へと指示を出すと、左衛門佐、桃、典子の三人も同様の任を希望した。プラウダの罠に嵌った各チームは自責の念が深く、その償いをしたがっていることは明らかである。三人はその代表だ。みほは嬉しく、そして可愛いと思うばかりだった。
「左衛門佐。お前は優花里と共に行け! くれぐれもしくじるでないぞ」
「かしこまる!」
「河嶋さん、典子。優花里と左衛門佐と同様。二人協力して情報を」
「西住、いや、隊長。任せてくれ」
「了解」
「よし。皆、行け!」
四人は勇躍して教会を出、吹雪の中に消えて行く。
みほはそれを見送ると、他の者たちに言い渡した。
「皆はいつ何時出撃出来るように、暖を取り身体を温め、戦車を調整し、支度しておいてくれるように。よいな」
はい、と皆が答えた返事は、教会内どころか外へも轟かんばかりであった。