軍神!西住不識庵みほ   作:フリート

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その④

 決勝戦前の最後の練習が終わったのは、陽が沈み始め、蒼空が茜色に覆われた頃であった。いつもであれば星々の輝きが地を照らし出す時間までやるのだが、疲労を溜めて明日の障りとなっては大事だとしたのである。

 明日の準備を滞りなく終えると、みほは皆を集めて言った。

 

「私は黒森峰におったから、彼女たちの力量を最もよく知るところである。姉上の下に一つとなったきゃつらは、世辞でもなく天下に並ぶ者なしの軍団であろう。然れども臆することはない。大洗とて尋常にあらず。実力以上を発揮する必要はない。実力以下を発揮するでない。実力の限界で臨めば、大洗に栄光の旗が掲げられることであろうよ。では、本日はこれで解散と致す。今日は身体をゆっくりと休めると良い」

 

 その言葉でこの日は締めくくられた。

 皆はみほに言われた通り、学校に居残り練習をするでなく、それぞれのチームで揃って帰路につく。梓も例外なく一直線に家へと帰った。

 自身の家へと帰り着いた梓は、バッグを放るとベッドの上にどっかりと寝転んだ。窓から部屋の中へと差し込む、赤々とした陽光に眩しさを感じながら、茫然と天井を眺める。

 

「はあ……明日かぁ……」

 

 黒森峰との決勝戦が――ではない。確かにそれも、梓に憂いを帯びた悩まし気な吐息を吐き出させるのに十分だったが、それではない。

 彼女の心を支配しているのは、師のみほのことである。明日だ。明日、敬愛する師は自分の下から離れて行ってしまう。それを思うと、今日は休もうにも休めなかった。

 

(仕方のないことだよね……だってみほさんはそう言う人で、そう言う人だから黒森峰の人たちを見捨てようにも見捨てられなくて、私もそんなみほさんだから……)

 

 一度、黒森峰を見限っておきながらも非情に徹することは出来ない。この前みほに勧められて読んだ本に、佐藤義清(さとうのりきよ)という人物の話が載っていた。この人物は別名を西行法師と呼び、歌僧として日本の歴史に名を残している。その義清は出家する時に、自分に取りすがる妻子を縁側から蹴り落として家を出たと言う。義清はそれほどの覚悟を持って出家の道を進んだが、みほには自分に縋る者たちを蹴り落とすほどの覚悟はなかった。いや、覚悟と言うよりは、非情さがなかったのだ。

 

(私が縋れば、みほさんは大洗に、私の傍に残ってくれるかな)

 

 考えて、何を馬鹿な事をと首を振った。そんな事をしたところで、みほを無駄に苦しめるだけである。梓は自分の我儘な心に嫌気を覚えた。

 そんな心を払うために、目を瞑る。けれどもどうにもならない。払い除けようとしても、どうしても払い除けられず、みほのことがよぎっては心を掻き乱して行く。益々酷くなるばかりであった。ついには、

 

「逢いたいなあ」

 

 と、胸が焼けつくようになった。

 このままでは、明日の試合にも差支えがある。これでは実力の半分も出し切れない。そしてそんなことになれば、当然みほは梓に失望を抱くだろう。普段可愛がられているだけに、失望の幅も大きそうだ。そんな事は絶対に嫌である。

 

「よし、逢いに行こう」

 

 逢いに行く他はない。そうでもしない限り、明日という日に万全な状態で臨むことは出来なかった。だから、逢わなくてはならない。

 そうと決まれば梓の動きは速かった。ベッドから飛び降りると、着の身着のままに家を出て、みほの住まう寮へと向かう。もう何度も足を運んでいるから、道は慣れたものだ。

 梓がみほの寮へと辿り着いた時には、太陽はすっかり沈み終えていた。

 走った所為か、それとも別の理由からか、胸が高鳴る。この高鳴りを抑え、荒い息を整えると、梓は三回ドアをノックした。反応はない。もう三回ノックした。でも反応はない。

 

「あれ?」

 

 留守なのだろうか、と思っていると、部屋の中から声がする。厳かなその声は、間違いなくみほの声であった。梓が聞き間違える筈はない。

 ドアノブに手を当てると、鍵は開いていた。どうしようか逡巡した梓は、もう一度だけ大きくノックをし、それでも反応がなかったので、失礼だと思いながらも部屋に足を踏み入れた。

 

「失礼します」

 

 部屋の中に入ると、先ず香の甘い匂いが梓の鼻腔をくすぐる。匂いの心地よさを存分に堪能してから、部屋の奥へと向かうと、やはりみほは居た。

 毘沙門天象の前に結跏趺坐し、一心不乱に祈りを捧げている。

 

「オン・ベイシラマナヤ・ソワカ。オン・ベイシラマナヤ・ソワカ。オン・ベイシラマナヤ・ソワカ。オン・ベイシラマナヤ・ソワカ。オン・ベイシラマナヤ・ソワカ」

 

 梓にはまったく気付いていないようで、振り返りもせずに真言を唱え続けている。

 声を掛けようか掛けまいか悩んだが、みほにとって祈りがどれほど大切なことか梓はよく聞かされているので、邪魔にならないところに腰を落ち着け、終わるのを待った。

 ニ十分後、みほの声が止まった。本来であればまだまだ続くのだが、ようやくのこと、梓の存在に感づいて止めたのである。

 

「如何致した?」

 

 振り向かないままに、みほは訊ねた。

 訊ねられた梓は言葉に詰まって口を紡ぐ。逢いたいと思った。そうして思い立ったまま来たので、どうしたと言われても答えが出ない。かと言って何時までもだんまりとしているわけにはいかないので、正直に逢いたかったから来たと答えようとした。

 

「みほさん。本当に黒森峰に帰るのですか?」

 

 しかし、梓の口から出たのは別の言葉である。自分で自分に疑問が浮かぶが、このまま言葉を続けることにした。

 

「帰るとするならば、あのような態度で仰ることではないと思います。みほさんにとって、大洗とは何なんですか? あんな、休み時間に話すような戯言の感覚で仰るなど、大洗を離れることは、みほさんにとってその程度ということなんですか?」

 

 言い切って、しまったと梓は口を押さえた。こんな事を言うつもりではなかった。こんななじるような事を。けれども心の奥底では、なじる気持ちがあったのだろう。だから、言葉になってしまったのだ。

 みほが、私は黒森峰に戻るのだと、猫田の質問に答える形で履修生たちに伝えた時の軽い調子。あれでは、大洗を離れる事など、どうという事でもないようであった。

 知らず知らずの間に、梓の心にムカムカとしたものが湧き上がる。ただの苛立ちや怒りじゃなかった。憎悪にも似ているかも知れないが、少し違う。不思議な感情だ。自分じゃ理解出来ないこの不思議な感情を、梓は言葉に乗せる。

 

「みほさんにとって、私はその程度の存在だったんですか?」

 

 と、震える声で言った。弟子だ、唯一の理解者だと言っていたくせに。三日間悩みに悩んだ末の決断なのを知っていても、あんな風に言われたら、唯一の理解者という言葉も詭弁に思えてしまう。今までのみほとの思い出が夢、幻のよう。みほにとって自分は何なのであろうか。分からなくなって来た。

 みほは何も言わない。黙って、梓に背を向けている。

 梓も沈黙した。先ほどは心地よかった香の匂いが、今は鬱陶しい。

 幾ばくもかからずして、みほは梓の方に向き直し容を正した。緊張の色が浮かんだ梓の瞳を真っ直ぐ見据えて、口を開く。

 

「そうだな。先ずはお前をどう思っておるのかだが、これは愚問の事。私は、お前をこれ以上にないほどに大切に思っておる。師が弟子に抱くように、親が子に抱くように、兄姉が弟妹に抱くように、私はお前を大切に思っておる。誰がお前を軽く見ようか」

 

「でしたらッ!」

 

「しかし、大洗を離れる事は、それほど重く考えておらん。それ自体は気楽だ。何も深く思い悩む気持ちはない」

 

 みほは梓に進み寄って、肩を掴んだ。

 

「何故ならば、お前がおるからだ。私が居なくなった後にお前がおるから、安心して黒森峰に戻れる」

 

「私が、居るから?」

 

 梓はじっとみほの瞳を見つめた。みほの梓に対する親愛と信頼が、これでもかと言うほどに伝わって来る。

 

「うむ。私の心を受け継いだ、澤梓よ。お前がおるから、私は無責任な女とならずに済む。優勝旗を捧げて、これで良いな、ではさらばだ、と無責任なことをせんで済むのだ。お前という後を任せられる後継者がおるお陰で、私は何の憂いなく黒森峰に戻れるのだ」

 

 後継者という言葉に梓は目を見開いた。

 

「私が、後継者……?」

 

「何を驚くことがあろう。お前以外に私の後継者は務まらん。三年生は言わずもがな、優花里や沙織たちでは私の後継は務まるまい。お前しかおらんだろう。そして私は、お前以外に任せる気は毛頭ない。誰が何と言おうともな。まあ、誰も文句は言うまい、お前が私の後を継ぎ、大洗戦車道を引っ張って行くことに」

 

 梓はみほの言葉を聞いて理解すると、目くるめくような気持ちになった。身体中が炎になったように熱い。先ほどみほに対して抱いてしまった、もやもやとした不思議で嫌な感情も、この熱い炎で燃やし尽くされてしまった。思わず、みほに腕を伸ばす。

 

「私は……私は、私は、私は……」

 

 熱に浮かされたように繰り返し、腕を伸ばしながら上体を前のめりにして行く。とん、と梓の頭はみほの肩にもたれかかった。

 

「嬉しいです。みほさんにそう思って頂けて、本当に嬉しい。疑っていました。みほさんは私の事なんか何とも思っていないと。ただ気が向いたから付き合ってやっただけだと……馬鹿なことです。本当に私の馬鹿……そんな事ある筈ないのに、私は……好きです。愛しています。お慕いしています。敬愛しています。私は、私は……」

 

 梓は夢中になって喋り続けた。いつしか瞳から熱が滴となって頬を伝う。それを払うこともせずに、梓はみほの肩に顔を埋めた。

 

「そうか、そうか。お前は私にとって唯一無二の存在。弟子であり、後輩であり、妹のようであり、私自身の分身のようですらある。大洗は任せたぞ。何か困った事があれば、遠慮なく私に相談しろ。嫌になって何もかも捨てたくなった時は、そうだな、黒森峰に来ると良い。私のようにな、ハハ。歓迎するぞ」

 

 涙を擦り付けるように梓は頷いた。

 みほは両腕を梓の背中に回した。それを受けて、梓も迷いなくみほの背に両腕を回す。二人は、お互いを力強く抱きしめた。梓の身体は熱く、みほの身体も同じぐらい熱かった。

 

「今日は泊って行け。私が夕食を作ってやるから、一緒に食そう。風呂も容れるから、一緒に入ろうではないか。そうしてから一緒の寝台で寝よう。初めての事だ。私は意外とこういう事に憧れていた。良いか?」

 

 梓は何も言わなかったが、みほの肩から少し頭を離して微笑を浮かべた。それが返答であり、梓はもう一度みほの肩に顔を埋める。

 涙はもう、止まっていた。

 

 

 


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