その①
女心とは複雑なものなのか。それとも男女に限らず人の感情が複雑に出来ているのであろうか。みほにはそれの答えは見えてこない。身体に籠っていた熱も、寝台に横になる頃にはすっかり冷めきっていた。明日の朝も早い、もう寝てしまわなくてはならないなと、電気の消えた天井を見ながら思った。
反対に梓の熱は強くなる一方である。みほに覆いかぶさるように抱き付き、頬を身体に擦りつける。みほの反応がないのを感じると、さらに強く抱きしめ、さらに激しく擦りつけた。
みほはそんな梓に愛しさを覚えると、その背に両腕を回す。そして言った。
「何故、私は女の身に生まれてしまったのであろうか。男であれば、きっとそなたを妻にしておったであろうに。恨めしいことだ」
その言葉を聞いて、梓はそっと顔を上げた。暗闇に慣れた瞳が、みほの顔を捉える。
「梓……私の梓よ。明日の試合、そしてこれからの大洗のこと、期待しておるぞ」
梓は無言で涙を頬に伝わせた。声もなく何度も何度も頷く。
よく泣く女だな、とみほは小さく笑った。と同時に、梓の頬を伝い流れる涙に、何かが胸へとこみ上げて来るのを感じる。冷めていた筈の熱が再び動き出す。
手を伸ばして、梓の涙をすくった。
美しい。そう感じた時には、行動に移していた。
梓の顔を自分の顔に近づけて、額に自身の唇を押し当てる。
そっと手をはなして梓の顔をまじまじと見つめると、梓の白い肌が瞬時に赤々と染まっていくのが分かった。
「口吸いは、そなたを妻とするだろう男のためにとっておいてやろう。まあ、そんな男がこの世に現れるかは定かではないがのう」
「ふふ、そんな人は絶対に現れませんよ」
今度は梓の番であった。頬を染める赤色をさらに強めて、みほが反応する間もなく唇を合わせる。熱い。お互いに唇の熱をしっかと感じる。
唇をはなして梓はみほの耳元でささやいた。
「みほさん、私は言った筈です。貴女のことをお慕いしていると……ですから、未来永劫そんな人が現れることはありません」
梓の呼気がみほの耳をくすぐる。
みほはめくるめくような気持に襲われた。呼吸を荒くし、気付けば梓を乱暴に抱きしめる。それから梓の唇を吸った。先ほど自分が言ったことも忘れ、ただただ夢中になってむさぼり吸った。
しばらくしてから、ハッとなって、みほは行為をやめた。
「済まなんだ。私は何ということを……」
「いえ、私はうれしかったです」
梓は笑っていた。柔らかに微笑んでいた。
「黒森峰との試合が終われば、貴女は私から離れて行ってしまう。ですが、その前にこうして心を通じ合わせることが出来て……思い残すことはないと言えば嘘になってしまいます。出来ることならば、ずっと貴女の隣にいたい。貴女とこうして通じ合っていたい。このまま離れ離れになるなんて実に儚いこと……でも私の心は満ち足りています。みほさん、私の愛しい人……」
甘く、魅惑的な梓の言葉。
何と可憐な女なのであろうか。恋も愛も経験したことのなかったみほだが、自分の今抱いている感情を正確に理解していた。つくづく男として生まれなかったのが残念だったが、しかしそんなことはもうどうでも良いように思える。ただ、今は、目の前の女と離れたくなかった。
そなたも私と一緒に黒森峰に来い。思わずそう言ってしまいそうになるも、目を閉じ深い呼吸を数度行うことで抑えた。やがて目を開くと、梓を抱いてから自身の隣に横たわらせ、低い声で言った。
「何も案ずることはないではないか。織姫と彦星であるまいに、会おうと思えばいつでも会える。声とて聞きたいときに聞ける。何も問題は無い。何より、心はいつも隣合わせだ」
それは自分自身に言い聞かせているようであった。自分の中に生まれた欲を必死にこらえようとしている。
「もう寝るぞ。明日も早いのだから」
「はい……」
微かに答えると、梓は素早くみほの手を握った。
「お休みなさい、みほさん」
寝つきが良いのであろうか、それとも愛する人の隣であることに安心感を抱いているのか、直ぐに寝息を立て始めた。
みほは眠る梓に表情を柔らかくする。
「良い夢を見るのだぞ」
梓に向けて呟きながら、みほは訪れた眠気を隠すことなく大きくあくびをした。それから、握られた手より梓の温もりを感じながら眠りについた。
夢を見ていた。
どことも知れない道を歩いている。広大な平野だ。草がゆらゆらと踊っている。まるで緑色をした海のようだった。空を見上げれば、吸い込まれるような蒼天である。天地、海に挟まれているような奇妙な感覚。御伽に伝わる竜宮の世界のようだった。
みほはそんな道を歩いている。周りには誰の気配もなかった。たった一人で景色を楽しむように一歩一歩地を踏み締めていく。
(ここは良いところだ。俗世の穢れをまったく感じない。いずれは、そうさな、梓と二人でこのような場所に身を置き静かに暮らすのも悪くない。私は御仏の教えと共に、梓と静かな生を送るのだ)
そうしてひたすらに歩いていると、突如として気配が現れた。何だと思っていると、前方より緑を踏み散らしながら馬が走って来る。無粋な奴と思いながら見ていたその馬は白かった。そして、それに跨る人物も白い。だが、馬上の人物の瞳は爛々と朱い輝きを放っていた。
(おお!? あの男は間違いなく不識庵謙信!)
馬上の人物が何者か直感すると共に、もう一つみほは気付いた。
(むっ? 女? 何だ、あの女は……)
白馬には謙信以外の人物も跨っていた。女だった。その女は謙信の後方にあって、両腕でがっちりと謙信にしがみついている。
白馬がみほの隣にやって来た。謙信も女もみほの存在を認識していない。みほが見上げれば、そこには男と女の笑みを浮かべた二人がおり、ただ事ならぬ関係のように思える。
(謙信にも、女がおったのか……?)
唖然としているみほをしり目に、白馬は駆け抜けて行った。
さっと駆け抜けて行った方へと振り向いたが、もうみほの視界には映っていなかった。
訝しいこともあったものだが、謙信とて男だもの、歴史上では妻がいなかっただけで恋人はいてもおかしくはない。そう思いながら視線を元の位置に戻すと、先ほどの女が目の前に立っていた。
「なっ、いつの間に!?」
みほが身構える。
もう一度振り返り後方を確認する。そこにははるか彼方にまで続く平野が広がっているばかりだ。一体何がどうなっているのか、みほは困惑しながら女を見た。
神聖なる美がそこにはあった。黒々と宝石を散りばめたように輝く髪。合わせるだけで魅入られそうになる瞳。尋常の美しさではない。異常だ。
女は不思議な表情をしていた。自分を愛欲の眼で見つめておきながら、一方で母が子に向ける様な柔らかな眼でもある。どうしてそんな顔で自分を見つめるのか。
すると女が口を開いた。
「これもまた運命なのでしょう」
神秘的な声である。この声とて到底人の出す声とは思われない。みほは聞き入ってしまっていた。
「我が夫の加護を受けた貴女が、我が加護を受けたあの子と結ばれる。これは運命なのです。みほ、貴女があの子と結ばれたのは決して偶然ではないのです。必然、なのですよ。この必然の前には、如何なる障害もあって無きようなもの。みほ。西住みほ。我が夫の化身を称する少女よ。あの子のことは任せます。そして己の義を貫き通しなさい。さすれば、貴女の道は良き方向へと開かれるでしょう。私が貴女に言いたかったのはこれだけです。では、また遠い日に再会しましょう」
みほはこの異常で神秘的な女の正体を理解した。自身に加護を与える者と言えば、それは毘沙門天に他ならない。その毘沙門天を夫と呼ぶ女。そんな女はたった一人しかいない。
「もしや、貴女様は!」
言葉を続ける。
「吉し―う―て――」
しかし言い切る前に視界が歪んでいく。
まだだ。まだ聞きたいことがある。もうしばし待て。そう願うも叶うことはない。やがて女の姿も歪んではっきりと見えなくなり、視界が揺れた感覚に気持ち悪くなって目を覚ました。
閉じられたカーテンの隙間から、自然の明るさが見える。どうやら朝が来たようだった。みほは、壁に掛けられた時計を一瞥して呟く。
「不可思議な夢だったな……」
次いで隣に視線をやった。
梓が無垢な表情を晒して眠っている。その寝顔が天女のように思えて、また、夢の女に重なって見えた。
みほは、寝ている間もずっと握られていたらしい右手に少し力を込めてから、上半身だけを起こし梓の頭を左手で撫でた。そうすると、梓はみほの名をこぼしながらにへらと笑みを浮かべる。
「梓……」
みほも梓の名を口にした。
続けて夢の女に言われたことを頭の中で繰り返す。繰り返すこと五度、みほは一つの答えに辿り着いた。答えに辿り着くと髪が震え、肩が震えた。あまりにも驚いてしまったが、辿り着いた答えは、そう、必然なのである。
この澤梓という女はみほにとって、弟子であり、後輩であり、妹分であり、自身の分身のようなものであり、何より、
「そなたは、私の吉祥天であったのだな」
と、言ってから、何も考えずにゆっくりと梓の顔と自身の顔の距離を縮めるのであった。