「メイドインアビス」のナナチと、同作者様が描いた「スターストリングスより」の主人公が少しの間だけ触れ合う物語です。

後者はpixivに掲載されてますので是非読んでください。面白かったですよ。

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メイドインアビス、言葉に表せないほど面白かった。本気で好きになった作品ってまどマギとひぐらしだけだったんですけど、一個増えました。

メイドインアビスの同作者様が描いた「スターストリングスより」はpixivに掲載されていますので是非読んでみてください。そっちも面白かったですよ。




切れない絆

 星と星を繋ぐ糸。広い広い宇宙の、広い広い銀河の、大きい大きい惑星を繋ぐ長くて不思議な強い糸。心地良い振動を伝える奇跡の糸は、今日も一人の少女の運命を繋ぐ。

 

 自分“以外”を目指して、温かな音色を目指して、彼女が十数度目に辿り着いたのはとある惑星のとある場所“アビス”。南海べオルスカの孤島に位置する世界最大の縦穴。この世の何処よりも魅力的で、この世の何処よりも残酷で、この世の何よりも不思議な神秘の縦穴。

 

 ようやく辿り着いた、あるいはここが彼女の終着点なのだろうか。星を繋ぐ糸は『消して切れない糸』。この街『オース』の人々が見ればそういうだろう。

 

 糸は彼女が街の上空付近に降りてきた頃、ほどけるようにして消えた。けれど彼女は確かに見たのだ。風に煽られて落ちていくそのさなかでも、視線は消えゆく糸を見た。糸の先は大きな大きな縦穴の深くに繋がっていたと。求めてやまない『誰か』は、暖かな音色の『誰か』は、自分をきっと待ってくれていた『誰か』はその先にいる。

 

 誰かと話したかった。最初はただそれだけで、けれど今は違う。糸の先から聞こえるメロディーを、果てからの便りを求めて幾億とも知れぬ旅路を彼女は手繰り寄せていた。

 

 記憶の無い頭。重い怪我を負っても回復する体。お腹は空くけれど、長期間の空腹にだって耐えられる。『コロル』は自分が何者かも知らない。それでも彼女は糸の先を目指すのだ。

 

 

 彼女は何も知らない。“アビス”の恐ろしさも、原生生物の恐ろしさも、そしてそれを踏破し蹂躙する探窟者の恐ろしさも。深く潜れば潜る程に取り返しのつかない、侵入者を逃さない魔窟。

 

 “アビス”も彼女を知らない。たった一つを求めて幾つもの星を、険しいという表現すら生温い道を踏破してきたコロルのことを。燃え盛る星も、嵐が吹きすさぶ星も、何もない星も、氷の星も、色んな星があった。彼女は全てに適応し、ため息をつく暇もなく糸の先を巡った。

 

 旅を続ける限り、孤独をはねのける強さが彼女にはあった。糸から伝わる音色が強さを与えてくれたのだ。

 

 落ちる、落ちる、コロルは落ち続ける。“アビス”に入っても彼女は落ち続ける。“アビスの淵”を過ぎ、“誘いの森”を越え、“大断層”を落下して“巨人の盃”へと。

 

 人の身でこれを成し遂げようとすれば、都合五つほどの命があれば成し得るだろうか。“巨人の盃”までに障害物はあまりなく、中心部に近いところを落下し続ければそのまま下層に到達することは有り得ない話ではない。

 

 一層“アビスの淵”では――“月笛”以上であればたとえ落下中でも耐えうるかもしれない。ツチバシの群れに襲われてもなんとか生き永らえる可能性はある。

 

 二層“誘いの森では――“黒笛”であっても死は免れないだろう。人は空を飛べないのだ。落ちながら、生きながら啄まれて死ぬ未来は避け得ない。あるいは巣に持ち帰られて雛の餌と化すか。飛行船を使おうとも人は“アビス”に敵わない。

 

 三層“大断層”では――“白笛”ですら空の塵と消えるだろう。此処は翼なき者は自由を許されない天地の獄。この階層以降は、人間の最高峰たる彼等ですら弱者となる。知恵と技術と“アビス”の恩恵なしには歩くことすらままならない。『落下し続ける』ということすら奇跡がなければ成し遂げることはできないのだ。

 

 四層“巨人の盃”では――そう、落下し続けられた奇跡を前提とするならばここが終着点となるだろう。巨大な盃のような植物『ダイラカズラ』がその身を受け止めるからだ。落下の衝撃で死に、運が悪ければダイラカズラに溜まる酸の湖で溶け死ぬか。

 

 都合、四回か五回は死を免れない。入り口から落下し続けたところで、体の破片すらここに到達させるのは至難の業だ。

 

 けれどコロルは此処へ落ちた。奇跡は何度もあったろう……そしてそれだけでもない。星を巡る度に危険なことなどいくらでもあった。糸が手を離れ落下し、石が腹を突き破ったこともあった。獰猛な生物に骨を嚙み砕かれたこともあった。それでも彼女は人知を超える何かによって生きてきた。そもそも星を越える際の凍える風や暴風を耐えてきたのだから“今更この程度で”と、彼女は襲い来る気流や生物を潜り抜けたのだ。

 

 高所から岩肌に叩きつけられても彼女は生きていた。水が満ちる盃に落ちたところで大丈夫――と彼女は自分に言い聞かせ立ち上がる。一万メートルを落ちれば水だろうが岩だろうが変わらないということを、彼女は知る由もない。けれど大事なことは生きていることで、酸の湖に落ちる不幸も免れた。

 

 『糸はどこへいったのだろう』。体よりも先にそんなことを考える。それは――ここ“アビス”ではなによりの悪手。常に意識を張り巡らし、警戒を怠らないことが生きるための最優先事項。どれだけ頑丈でも、傷の治りが早くとも、弱者であることに変わりはないのだから。

 

 ダイカズラから出る湯気に隠れ、彼女に忍び寄るは原生生物“タマウガチ”。探窟者を百人以上も仕留めてきたきた生粋の殺戮獣。巨大なハリネズミのような外見とは裏腹に、素早い動きと毒を分泌する強力な針で獲物を仕留める危険な生物だ。頑丈な彼女の体であっても、刺し貫かれ、体の穴の数が十倍以上になってまで生きていられるかといえば否だろう。

 

 ――確実な死が彼女に近付いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここどこなんだろう……こんなに落ちたのは初めてだなぁ…」

 

 白い髪に紫のヘタを被せたような、個性的な色合いの頭。白いメイド服に青と緑をあしらい――全体の装いがフルーツのような少女『コロル』。濡れた服を絞りつつ、頭を振るわせて周囲を観察する。今度は何かが違うと胸に期待を躍らせて、糸の先を探した。

 

 ――瞬間、パシャリと水音が耳に響く。ようやく出会えたのだろうか……そんな想像を一瞬だけ過らせて、彼女は振り向いた。

 

「っ…!」

 

 キュリ、キュル、と鋼を擦り合わせたような不快な音が響き渡る。巨体に針の山、顔に黒い穴のようなものが五つ。それだけがコロルに許された時間で考えついた感想だ。それ以降は彼女にとって“反射”になる。

 

「わぁーっ!!」

 

 糸の先に猛獣がいたのは何度目になるか、コロルは数えていないが経験は蓄積されている。野生の獣はおしなべて大きな音に怯むのだ。小さな肺から絞り出された精一杯の声は、予想と違わずタマウガチの体を一瞬停止させた。巨大で大量の針に串刺しにされて生きていられる自信は彼女にもない。選択肢は逃走のみ――そう判断し、コロルは水の抵抗をものともせず走り出した。

 

「がっ!! ひゅっ…!」

 

 ――が、単純な運動能力の差がそれを許さない。大きさが違えばそれだけ歩幅も変化し、いわんやコロルの何倍もあろうかというタマウガチが……この階層の中でも圧倒的に危険度の高い生物が、非力な少女に追いつけぬ筈もない。大した労力もなく彼女に追いついた獣は、自身の針を獲物の腹に打ち込んだ。

 

 激痛と、異物感。ぐちゅりと己の体になにかが挿入され、熱い液体を下腹部に感じるコロル。それはいつか見た灼熱の星が体のナカに入ったと錯覚させる程の熱。

 

 毒が彼女を冒す。ずるりと太く巨大な鉄の棒を抜かれ、彼女は吐血した。腹圧で腸が露出しそうになり、そして倒れこんだ先の水を赤く染める。タマウガチは獲物の死を確信し、悠々と彼女に近付き始めた。

 

 刺された部分から血が流れ――出る前に、コロルの腹が膨れだす。どのような種類であるのか、タマウガチの毒は患部を酷く腫れさせるのだ。それによって失血死を免れるというのは、獲物側からすれば喜ばしいことではないだろう。

 

 今は妊婦のように腹部だけが膨れ上がっているだけのコロルも、そのうち全身が膨れ上がり目も当てられない姿で死に果てる。

 

「う、ぐぅ……い、ぎぃっ…! あう゛っ!?」

 

 五つの黒い穴――顔とは表現し難い部分が彼女に近付く。巨大な足で腕を踏みつけられ、もはや抵抗もままならない。孤独を耐え、寄る辺もなく、たった一人で死を迎える。そんなものが旅の終焉なのか……混濁する意識の中で、血とも涙ともつかぬ液体を瞳から溢れさせコロルは歯を食いしばる。

 

 “そんな訳がない”。こんなところで殺されるために糸を辿ってきたわけじゃない。“待っている”。温もりをくれたメロディーを糸に乗せた誰かは自分を待っている。ならば死ぬわけにはいかないだろう。

 

 タマウガチの感覚器官。人の意志を感じ取る――正確には『人の意思に反応して揺らぐ力場』を感じ取る器官だが――器官を司る五つの黒い穴。無意識でなければけして掴めることのないその部分を、彼女は押しつぶされようとしているほうとは逆の腕で思い切り握る。

 

 もうコロルにはなにも見えていない。宙を掴む確率の方がよほど高かっただろう。けれど彼女はそうやって、諦めずに生を掴み続けてきたのだ。ならばここで死ぬ道理はない。

 

 死にかけの獲物に出せるような力ではない……有り得ない、とタマウガチはのた打ち回る。気味の悪い鳴き声を響かせ、千切り取られそうな感覚器官を必死に守る。全身の針を一点に――コロルへと集結させるその一瞬前に、その獣の頭部は強引に剥ぎ取られた。

 

「――――」

 

 この世のものとは思えぬ絶叫を響かせ、タマウガチはあらぬ方向へと駆けだす。絶対的な殺戮獣を逃走に追い込んだ非力な少女は……既に死に体だ。自分が何をしたかもわかっておらず、自分がどうなっているかもわからない。理解できるのは、このままでは死ぬということだけだ。

 

 冷たく、孤独だった。一番最初の記憶にある寂しさ。星をぐるりと一周して、誰にも出会えなかった寂寥感。そんな冷たさがじわりじわりとコロルの体を蝕んでいき、暗い意識に溶けていく。“やっぱり、糸なんて掴まなければ”――もう二度と思うまいと誓った言葉が脳裏に過ったその瞬間、彼女の耳に奇妙な声が聞こえた。

 

「んなぁー…」

 

 人生の終わりは『んなぁー…』か、とよくわからない思考を最後に、コロルは意識を閉ざした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第四層上部“アビス”の端。子供の作った隠れ家のような場所でコロルはぱちりと目を覚ました。適当に置かれたよくわからない器具を見渡し、彼女は体の様子を見る。体を蝕んでいた毒も、腹に空いていた穴も塞がっているようだ。最初に降りた星で腹に穴が空いた時は、塞がるのに三か月かかった。何度目かに降りた星で腕を砕いた時は一か月。酷い環境に身を置く度に彼女の体は強くなっていた。

 

 糸が力を与えているのだ、とコロルはポジティブに考えていたが本当のところは誰にもわからない。ただ星と星の間の暗い空間で糸から手を放せば、たちまち死んでしまうことを考えればあながち間違っていないのかもしれない。糸は彼女の心を支えている――故に、体を支えていても不思議ではない。

 

「生きてた…」

「んなぁー」

「んなっ!?」

「目ェ覚ましたかー?」

 

 一通り体の無事を確認したコロルは、ほうとため息をついた。そんな安堵の瞬間を見計らったかのように後ろから声がかけられ、彼女は飛び上がる。慌てて振り向いた視線の先には、自分と同じような……それでいて最初の星にいた兎にも似ている一人の少女がいた。

 

 ふわふわの体に、心地よい匂いを纏わせた獣のような少女。

 

「んなぁー……あれで生きてるとは流石のオイラもたまげたぜ。おまえ人間だよな?」

「えーと、うん、たぶん…」

「たぶん?」

「気付いたら一人だったから、わからないの。糸の先に言葉を話す人がいたのは初めてだから……えーと…」

「糸の先ぃ? お前どこからきたんだ? オースじゃねぇのかー?」

「おーす? …ううん、私は空の上の遠い遠いところから糸を辿ってきたの。糸の先の温かな音色を追って…」

「…」

「…ほ、ほんとだよ!」

「んなぁ、だいたいわかったぜ。もしかしたらオイラと似たような存在なのかもなー」

 

 獣のような少女は『ナナチ』と名乗った。“アビス”の呪いと祝福の申し子、良い匂いのナナチ。必死に生きようとするコロルを見捨てられず、ナナチは自分の住処へと彼女を連れ帰ったのだ。けれど彼女は『なにもしていない』。なにをせずともコロルの体は少しづつ正常な状態へと戻っていったのだ。

 

 それはまるで不死の呪いを受けた自分の友人――大事な大事な宝物と同じようで、彼女はどうにもコロルが気になった。死なないのか、死ねないのか、様子を見ていた時は確かに命を落としそうになっていた。助ける義理はなかったが、今まで見た誰よりも生を渇望するその姿にナナチは揺り動かされたのだ。

 

 ナナチから見たコロルは不可思議だった。人間のようだけれど頭の先が果物のよう。どう見ても探窟者ではあらず、けれどただの人間がここまで生き永らえる筈も、そしてタマウガチを追い払うことなどできはしない。言動は怪しさそのもので一瞬言葉を失ったが――ここが“アビス”であることを考えれば自明の理。

 

 “アビス”の呪い……上層から下層に向かう際の“逆”。下から上を目指す時、一部の例外を除き全ての存在に呪いは降りかかる。下層であればあるほどにそれは深刻な症状となり、この三層や四層付近であれば幻聴や幻覚などは付き物だ。

 

 天空の更に上から、糸を伝ってやってきたなどという世迷言はまさに幻覚のあらわれに相違ない。ナナチが怖れ、そして憎む白笛――『黎明卿』新しきボンドルドの実験動物だったようには見えない。しかし一層からそのまま落ちてきたという言は信じられるものではない。

 

 つまり少し“イカれて”しまったのだろう、とナナチが思うのは必然であった。

 

「こっちへこいよ。オイラの大事なミーティを紹介してやるぜ」

「ミーティ?」

 

 とはいえ会話に不都合は生じていない。そして治った以上、持て余し気味になるこの客人をどうしようかとナナチ考える。まずは――まずは友人を紹介しようと、彼女はコロルを案内した。

 

 ――友人の“成れの果て”のところへ。“アビス”の呪いを二人分、一身に受けた『ミーティ』を彼女はコロルに紹介した。生物とは思えない、崩れた肉の塊のような彼女を。まともな人間が見れば吐き気を催すような“化け物”を。

 

「えーと、あなたがミーティ? 私はコロルだよ……よろしくね」

「…ぁー……なー…」

「コ・ロ・ル・だよ!」

「…! …驚かねーのな……オイラを見た時もそうだったけどよ」

「なにに?」

「んなぁ……なんでもない。ミーティは喋るのが苦手なんだ。勘弁してやってくれ」

「そうなんだ…」

 

 コロルは自分以外に喋る存在を見た事がない。自分以外の知的生物を見た事がない。自分が人間だということ、植物が“植物”だということ、必要な知識――強かに生きる術は最初から持ち合わせていた。けれど、自分以外の誰かが同じ姿であることを当然と思える経験は持ち合わせていない。ごく普通の人の感性というものを、彼女は知らない。

 

 故に悍ましい姿をしたミーティを忌避する様子もなく、自然に接した。それがナナチの心をほんの少しだけ癒す行動であったことは知る由もない。ただ彼女は自然であっただけだ。

 

「それで――おまえこの先どうするんだ? “アビス”って単語すら知らねえんなら、ここ出りゃたぶん死ぬぜ」

「えっと、さっきみたいなのがいっぱいいるのかな…」

「んなぁー、それよりもっとえげつないのもな」

「うぅ…」

 

 とても温かなところだ。コロルの身を案じてくれているナナチの心はとても温かで、険しい旅路を送ってきた彼女を癒してくれる……けれど此処ではないのだ。そして優しくて良い匂いの彼女ではないのだ。コロルは糸の先、音色を送ってくれていた――自分に勇気を与えてくれた、自分を待ってくれている誰かを求めていた。

 

 下層が地獄の釜だと聞いても、そこに糸が続いていた可能性があるならばコロルは目指したい。

 

「どうしてもってんなら止めねェけど……せめて準備くらいはしていけよ。少しくらいなら手伝ってやるからさ」

「あ……ありがとう!」

 

 どうしたものか、とナナチは考える。いまだコロルの幻覚――あるいは思い込みは続いている。下層に降りたところで、待ち受けているのは祭祀場という名の実験場。“息はいくらでも続く”などという生物の範疇から外れる彼女の言葉を信じるならば、六層へ到達することは不可能ではないが……やはり見捨てられない。

 

 だからとりあえず準備を始めた。

 

 ボロボロの服を新調して。

 

 ボサボサの頭を柔らかくして。

 

 頑丈な手袋を用意して。

 

 ツギハギだらけのリュックは捨てて、壊れ果てたお土産だけを新しいリュックに移して。

 

 必要ではなさそうなものを必要と断じ、ナナチは時間を稼ぐ。壊れた少女が治ることを期待して、直ることを期待して。どこまでも前を向いて笑う少女は眩しくて、その度ナナチは苦笑い。目指すところは友人の死、その後は己の死――ああ、自分とは大違いだ、と。

 

 たとえ根源が妄想であってもコロルはどこまでも強く輝いていた。ナナチは少し楽しくなっている自分に気付く。三人一緒に寝て、三人一緒に起きた。『今日はあの原生生物を仕留めて皮を剥ごう』『次はあの花を原料にして薬を』『次は』『次は』

 

 引き延ばして、今日を延ばす。共に過ごす日が続けば続く程行かせたくないと、逝かせたくないという気持ちは強まった。コロルが募らせる未知への探求は、まるで探窟者。まだなにも知らなかった自分を鏡で見ているようで、だからこそナナチは彼女を行かせたくなかった。此処は進むも戻るも地獄の“アビス”なのだから。

 

「んなぁー……そうだな、次は――」

「ナナチ」

「…なんだ?」

「もう充分だよ。これ以上引き留められちゃうと私――ずっとここにいたくなる」

「…いればいいだろー?」

「ダメなの……ずっとずっと私を待ってくれている人がいる。だから私はそこに行かなくちゃ」

「…」

 

 コロルは幸せだった。記憶が続いている瞬間から今この時までで一番幸せだった。きっと最初の星にいた時の彼女ならこれで満足して、ずっとナナチと共に過ごしたことだろう。

 

 けれど彼女は糸の先を目指す。幸せを捨ててまで求める価値はあるのか……彼女にだってわからない。ただ一つ知っているのは、誰かが待ってくれているということ。“待たせたくない”

 

 一日前から見えるようになった光の糸を、一日放置したのは迷いの現れ。此処ではなかったという落胆と、新たな出発への奮起と、別れへの逡巡が日をまたがせた。

 

「此処じゃなかったみたい――また出発しなきゃ。空の向こうの星に」

「んなぁ…」

「これ以上待たせたら消えちゃうかもしれないの。糸の光が消えちゃうかもしれない…」

「…糸なんて見えねぇぜ」

「――私には、はっきり見える。光の螺旋が呼んでるの」

「んなぁ…」

 

 装備を整えて、寂しそうに笑う彼女をナナチは引き留めようとする。糸などどこにもないのだ……踏み出せばそこは奈落、みすみす彼女を死なせるわけにはいかないのだ。

 

「ナナチ、ミーティ」

「…」

「私の大事な宝物……初めての宝物。きっとまた会いに来るから、戻ってくるから、少しだけお別れだね」

「――っ!?」

 

 コロルが宙に手を伸ばしたその瞬間、ナナチは見た。“アビス”を満たす呪いが……力場の波が、一本の筋を中心に吹き飛んでいく様を。糸も光も見えはしないけれど――絶望をも吹き飛ばしてしまうような希望がコロルの手に掴まれている。

 

「――“待っててね!”」

「ん、なぁ…!」

 

 その言葉はナナチへ向けたものか、糸の先へ向けたものか。昇っていくコロルをただただ見上げることしかできない。少しづつ、少しづつ、けれど確実に進んでいく少女……ナナチにはとても眩しく見えた。

 

 隣の友人もコロルから目を離さない。

 

 いつ戻ってくるというのか――長い時の果てに再会を果たすのはミーティにとって幸せなのか。自分にとって幸せなのか。自死を目指し望むナナチにはわからない。

 

 ミーティと共に昇ったのは地獄の始まり。コロルが今昇っている先には何が待っているのか……彼女の幸運を祈らずにはいられなかった。

 

 あるいはただの夢だったのだろうか。孤独に耐えられなかった、終わりの見えない絶望に耐えられなかった泡沫の夢。それでもナナチの心にはほんの少しだけ、温かい希望の種が残った。友人の死という、希望と絶望を終えたその先に――芽吹くかもしれない希望の種が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――チ……ナナチ…!

 

「ん…」

「起きた? ほら、出発の日だよ!」

「んなぁ、張り切ってんなー」

「ナナチはもう少し気を張るべきだ」

「オイラはいんだよ、レグ」

 

 あの日見た“出発”。眩しく見えたそれを、今度は自分が進む。方向は真逆で、再会の約束は果たせるかもわからない。

 

「なに書いてるの?」

「んなぁー……目印だぜ」

「目印?」

 

 もし此処へ帰ってきたならば、そんな奇跡があったなら。それだけ彼女が強いなら。下層に行く自分を追うことくらい訳はないだろう。だから目印だけを置いていく。“オイラも進む”と。

 

 止まっていた時間は動き出したのだから――




 え? 他の作品?

 …もうちょい待ってください。感動する作品に出合うと色々手につかなくなっちゃうのは昔からなんですよね…


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