俺は飛んだ。慧瑠を抱えて、とにかく遠くへ。飛んで、飛んで、飛び続けて……遂に限界に達した俺は、大きな自然公園らしき場所へ着地する。
「はぁ…はぁ……っ、降ろすよ…慧瑠…」
緩い坂となっている場所へ足を付けた俺は、ゆっくりとその場に慧瑠を降ろす。
霊力的には、まだ飛べる感じがある。でも、超長距離を飛び続けるなんて事は初めてで、ずっと全方位へ気を張り続けるというのも初めてだった。だから、俺が今感じている疲労は、どちらかと言うと精神的な部分が大きい。
「…先輩…大丈夫、ですか……?」
「一応、大丈夫…。このまま飛ぶと…最悪、制御ミスって墜落する危険があったから降りただけ…。…慧瑠こそ、大丈夫…?」
「…これ、大丈夫に見えます…?」
慧瑠の隣に俺も腰を下ろし、邪魔になる武装は一旦縮小。取り敢えず、追っ手がいない事に一安心した俺だけど……慧瑠の言葉で、すぐに現実に引き戻される。
そうだ、慧瑠はゼリアさんに背中を斬り裂かれていて、そこから綾袮さん達とも一戦交えている。そんな状態で、そんな事をして……大丈夫な、訳がない。
「…ごめん、慧瑠……」
「先輩が謝る事じゃないですよ…。それに…自分こそ、ごめんなさい…折角、先輩が買ってくれた服なのに……」
「気にするなよ、そんな事…それは、慧瑠のせいじゃない……」
「なら…お互い様、ですね……」
そう言って、慧瑠は笑う。だけどその笑みに元気はない。その表情に、いつもの掴み所がない感じもない。浮かんでいるのは…苦しそうな、歪んだ笑顔。
(どうしたらいい…どうしたら、慧瑠を助けられる…?)
見ていたくない、こっちまで辛くなるような表情。でも目を逸らす事は出来ない。これは現実だから。目を逸らして、見ないようにしたら……俺はその先で、慧瑠を失ってしまうから。
だから考える。どうすれば、どこに行けばいいんだって。思考して、思案して、考えを巡らせて……いや、違う。今はまだ、逃げる事を優先しなくちゃいけない。ある程度休憩出来たら、もう一度飛ぶんだ。もっと距離を取って、完全に振り切って、それでやっと次に進める。どうすればいいかは、その段階になってから考えたって遅くはない。
「…先輩…夜空、綺麗ですね……」
「…あぁ…綺麗、だね……」
俺が休息を取る中、ぼんやりと慧瑠は空を見上げる。いつの間にか、完全に夜となってしまった空を。
夜空が綺麗だと、慧瑠は言った。でも俺は…それ以上に、見上げる慧瑠が綺麗に見えた。儚げで、目を離せばすぐに消えてしまいそうな慧瑠が…酷く綺麗に見えていた。
けれどそんなのは、嬉しくない。どんなに絵になっていたとしても…こんなの、嬉しくなんてあるものか。
「…無茶苦茶、し過ぎですよ先輩……」
「…そうかな?」
「そうですよ…敵である自分を守る為に味方と正対するわ、あの状況で自分を連れて離脱するわ……やってる事、殆ど裏切り行為じゃないですか…」
「う……それは、確かにそうだけど…」
呆れたような、困ったような、慧瑠の言葉。裏切りじゃないかと言われた俺は、一瞬答えに詰まってしまう。
慧瑠の言う通り、俺がしたのは利敵行為だ。どんな理由があろうと、それを協会が肯定してくれる訳がない。そして俺だって、所属している組織に反する事の意味位分かってる。…でも……
「…それでも俺は、そうしたかったんだよ…協会や綾袮さん達を裏切りたいとは微塵も思わないけど…それ以上に、俺自身の願いを裏切りたくはなかった…ただ、それだけだよ」
「…………」
「…慧瑠?」
「…格好良いですね、先輩…元々面白い人だとは思ってましたが…今日一日で、更に評価うなぎ登りです…」
それでも貫きたい思いがある。守りたい人がいる。だから、俺はそうしたんだ。それ以上でも、それ以下でもなく…何よりも、俺自身の為に。
なんて部分まで言うのはちょっと恥ずかしかったから(夏には言った気もするけど…あの時はそんな事考える余裕もなかった)、そこまでは言わずに締めた俺。すると慧瑠は俺を見つめた後…言ってくれる。俺が、格好良い…と。
「そ、それは…その、ありがと……」
「…ほんと、やっぱり先輩に会いに来て…最後に会おうと思って、正解でした…こんな傷なんて、どうでも良いと思える位…自分は、満足です……」
嬉しかった。恥ずかしいけど、嫌な気はしなかった。けれど続く言葉に感じるのは不穏な空気。まるで、もう思い残す事はない…そんな感じの空気が慧瑠にはあった。
「…最後なんて、言わないでよ…ほら、そろそろ移動するから、もう一度掴まって」
そんな空気を誤魔化すように、俺は立ち上がって手を伸ばす。本当は、もう少し休みたいところだけど…このまま話をするのは怖かったし、休み過ぎて追い付かれた…なんて事になったら目も当てられない。
そして後者の理由は、慧瑠だって分かってる筈。この手を掴んでくれる筈。…そう思って、俺は慧瑠に手を伸ばした。だけど……慧瑠は、首をゆっくりと左右に振る。
「……っ…どうして…」
「…もう、いいんです…自分はもう、満足…しましたから……」
「……──っ!」
儚く、悲しそうで、けれど穏やかな顔。…そんな顔で、慧瑠は言う。もう、満足したって。もう、いいんだって。
「満足って…なに、言ってるのさ慧瑠…それじゃあ、慧瑠は……」
「はい…自分はもう、十分生きましたから…。それに…こう見えて、実はかなり限界なんです…正直…もう、持たないんです……」
「そ、んな……」
声が掠れる。心が締め付けられる。慧瑠の怪我を見れば予想位はつく筈なのに、慧瑠の口振りはいつも通りのままだったから……いや、それ以上に俺がそれを信じたくなかったから気付かなかった現実が、はっきりと言葉で突き付けられる。
そして、言われて気付く。離脱する前よりも、更に慧瑠の表情に浮かぶ陰りが強くなっている事に。
「……ッ…いや、まだだ…まだ諦めちゃ駄目だよ慧瑠…!まだ手を尽くした訳じゃないんだから、諦めるのは……」
「…違いますよ、先輩…自分は、無理だから諦めるんじゃないんです…もう十分だから、満足したから…もういいって、言ったんです……」
「満足って…何が、何がさッ!?」
「全部、です…言いましたよね、自分…自分は物凄く、長生きだって…人の何倍以上も生きてるんですから…悔いがなくても、おかしくは…ないでしょう……?」
認めなくない。受け入れたくない。そんな思いで声が荒くなってしまう俺に対し、慧瑠の声音は穏やかなまま。…その声からは、否が応でも感じてしまう。本当に、悔いなんてないんじゃないか…って。
「だったら…だったら、なんで俺にいつかまたなんて言ったんだよッ!あれは俺を納得させる為の、建前だったって事!?」
「あれは……はは、痛いところ…突いて、きますね…。…建前、なんかじゃ…ないですよ…あれは自分の、本心です…」
「なら……ッ!」
「…けど、分かったでしょう…?いや…分かったん、ですよ…前までと違って、霊装者にも…魔人側にも目を付けられている今はもう、隠れ続けるのは難しいんですよ…仮に隠れられても、今日のように…自分は争いの種になる…それは嫌だって、言ったじゃないですか……」
いつかまたなんて、嫌だと思っていた。いつかまた会えるから別れてもいいなんて、そう思える程俺は大人じゃないから。
…そう、思ってた事までも引き合いに出して、俺は慧瑠に言葉をぶつける。やっぱりまだ死ぬ訳にはいかないって、終わりにはしないって言ってほしくて。…だけど、慧瑠の思いは変わらない。変わらないし…逆に俺が、何も言えなくなってしまう。だって…あまりにも俺の思いは利己的で、慧瑠の思いは利他的だから。
「いつかが無くなってしまうのは、悲しいですけど…それ以上に、自分が争いを招いてしまう事は嫌なんですよ…それに……長く長く生きて、ずっと一人で生きてきた果てで、一緒に居たいと思えた相手に看取られて死ぬんです…そう考えれば…悪く、ありませんから……」
「……ぅ、くッ…なんで、だよ…なんでそんなに割り切れるんだよ…ッ!なんで、そこまで…思えるんだよぉ…ッ!」
感情的な俺と違って、慧瑠の言葉はまるで俺を諭すよう。そんな声で俺に訴えながら、今日何度目かも分からない優しい笑顔を俺に向けてくれる慧瑠は、本当に本当に優しくて……だから、諦められない。利己的だって分かっていても……俺は慧瑠を諦めたくない。
「それは…まぁ…長く生きてるから、ですか…ね……」
「分からねぇよ、そんな理由じゃ…ッ!慧瑠だって、死にたい訳じゃないだろ…ッ!?そうするしかないから、仕方なくそうするってだけだろ…ッ!?なのに、なんでそんな……」
「…そんな、落ち着いた顔をしているのか…ですか…?」
「……そうだよ…まだ何か、方法があるかもしれないじゃないか…まだ終わりにしなくたって、いいかもしれないじゃないか…なんで、それを探そうともしないんだよ…」
熱くなって、それから理路整然とした事の言えない、ただ感情的に訴えかける事しか出来ない事が切なくなって、俺は拳を握り締める。それを見た慧瑠は、少しだけ申し訳なさそうな顔になって…でもやっぱり、首を横に振る。
「…無理ですよ、先輩…何のリスクも、何のデメリットも負わず…ただ望む事だけを得るなんて…それこそ、魔王だって出来はしません……」
「…だとしても、俺は…俺は慧瑠を、諦めたくないんだよ……ッ!」
「そんな事、言われたら…自分だって、困りますよ……自分は納得してるのに、これでいいって思ってるのに…先輩が、そんな辛い顔するんじゃ……」
「……っ…!」
その瞬間、その言葉で俺の心にのし掛かる、強い自己嫌悪。どう考えたって一番辛いのは慧瑠なのに、今も苦しんでいるのに、余計慧瑠を困らせてしまった自分が情けなくて、思わず謝ってしまいそうになる。
…でも、謝らない。謝らない。ここで謝ったら…きっと俺は、そのまま流されてしまうから。そしてそうなった時…俺は慧瑠を失ってから、きっと死ぬ程後悔するから。
「…お願いです、先輩…分かって、下さい……」
「…駄目だ、慧瑠…それだけは、慧瑠の頼みでも聞けないよ……」
「なら……あの時の約束を、行使させてもらいます…」
「あの時……?」
「約束、じゃないですか…自分が、先輩の探し物を見つけたら…要望を一つ、聞いてくれるって…。…だから、先輩…自分からの、要望です…。最後に、笑って下さい…笑顔で自分を、見送って下さい……」
その言葉と共に、伸ばされた右手が俺の頬に触れる。まだ温もりのある、慧瑠が生きている事を証明してくれる、温かな手が。
確かに俺は約束をした。あの時は、誤魔化す為の話の延長で、流れで何となく言っただけだけど……間違ってない。だってその探し物は、自分自身という形で今日、確かに俺の前に用意してくれたんだから。そして、もしかしたら……あの時点でもう、慧瑠は全て分かっていたのかもしれない。
(ああ、狡い…狡いよ慧瑠…そんな事、言われたら…そんな顔で、そんなお願いをされたら、俺は……)
揺らぐ、揺らいでしまう。頷いてしまいそうになる。これは本当に心から望んでるんだって、伝わってくるから。きっとそうすれば…慧瑠は、最後を幸せな思い出にする事が出来るから。
分かってる。仮に死なない道を俺が見つけたとしても、その道は絶対平坦じゃないって。俺のエゴで、慧瑠を苦しめるだけになるかもしれないって。……だけど、それでも……
「…ごめん、慧瑠……それは…聞けない」
「…やっぱり、そう…ですか…。出来る範囲じゃ、ないん…ですね……」
溢れそうだった涙を袖で拭って、俺ははっきりと言い切る。出来ないって。そして慧瑠も、薄々分かっていたように小さく呟く。
そう、俺は言った。俺が出来る範囲の要望なら、って。単なる予防線として言っただけだけど…言葉にした事には変わりない。そして…今も言葉にした事で、漸く俺の中で吹っ切れる。嗚呼、そうだ…無理だ。どうしたって、どう考えたって……俺は慧瑠を、諦められない。
「……慧瑠、俺は受け入れないよ。見送らないよ。俺は絶対に、慧瑠の事を諦めない」
「それは……」
「あぁ、そうだよ。これは慧瑠の為じゃない。慧瑠じゃなくて…俺は俺の為に諦めないんだ。これは俺の我が儘だ。だから……代わりに、何があろうとこれから慧瑠に降りかかる災いは全て俺も一緒に背負う。慧瑠が、なんて言おうと…ね」
そう言って、俺は慧瑠に手を伸ばす。慧瑠を抱え、再び移動する為に。まずは、何とか慧瑠の傷を癒す為に。
「…酷い言い草ですね、先輩…先輩は、自分の意思を踏み躙ってまで…自分自身の望みを、貫こうとするんですか……?」
「そうだよ。けど、違う。踏み躙るんじゃなくて探すんだよ。慧瑠が、死ななくてもいい道を」
「…一緒に背負うなんて、聞こえの良い事を言ってますが…そもそもここで終わりになれば、自分は何も背負う必要がないんですよ…?」
「それもそうだね。だから、俺は全部背負って、その上で慧瑠を抱えたっていいと思ってる」
「……自分の為じゃなく、他人の為でなく…自分がそうしたいから、嫌だから助けようと…いや、生かそうとする…それが、どれだけ傲慢で身勝手な事なのか…先輩は、分かってますか…?」
非難するような、問い詰めるような…その裏側で心配するような表情を浮かべて、慧瑠は言う。言って、俺を見つめてくる。
俺は答える。実を言えば、自分でも漠然としてると思うような…けれど混じり気のない、俺の心そのままの言葉で。そして、最後の問いには……何も言わず、ただ慧瑠の瞳を見つめ返す。
これが、俺の意思だ。もう揺らぎようのない、本気の思いだ。
「…本気、なんですね……」
「本気だよ」
「…はは、驚きました…まさか、ここまで言い切るとは…先輩に、こんな一面があったとは…。…全く……」
「……そこまで言われたら…そこまで言ってくれるのなら…いいですよ、先輩。自分も…もう、躊躇いません」
小さく笑って、ゆっくり首を横に振りながら俯く慧瑠。驚いたような、でもどこか感心したようにも聞こえる声で、俯いた慧瑠は全く、と呟く。そして、慧瑠が顔を上げた時……そこには、不敵な笑みが浮かんでいた。さっきまでの、諦観や申し訳なさの籠った笑みじゃなく……いつも俺に見せてくれていた、捉えどころのない笑みが。
「…躊躇わない、って…それは……」
「言葉通りの意味ですよ。でも、まずは……すみません、先輩…。さっき、無理だの何だの言いましたが…あれは、嘘です。実は…方法、思い付いてます…」
「な……っ!?」
そう言いながら、更に慧瑠は笑みを深める。けどこれは、俺を安心させようと…なんて、殊勝な意図によるものじゃない。これは、この笑みは……驚く俺を見て笑ってるだけだな…!
「……っ、たく…もう…やってくれるね慧瑠……」
「ここまで散々無茶苦茶な事をされたんです…ですから、自分だって…ちょっと位、いいでしょう…?」
「それとこれとは話が……いや、それは後だ。方法があるのは本当なんだね?だったらすぐにでも……」
「待って下さい。…その前に、確認です先輩。…確かに、方法は思い付いていますが…これは確証も前例もない、机上の空論一歩手前の策です…。やった事ないけど、多分出来る…って位のものです…。成功する保証なんてありませんし…仮に成功しても、先輩は死んでしまうかもしれません…多くの大切なものを失ったり、死ぬまで苦しみ続ける事になるかもしれません…。そしてそれは、失敗した場合でも十分起こり得ます…。……それでも、先輩は…自分といる事を、望みますか…?」
気持ちを逸らせた俺を落ち着けるように、慧瑠は俺の眼前へ手をかざす。
それから慧瑠は言った。意思の確認を。俺への忠告を。本当に…これだけの危険や不安があっても尚、俺の心は折れないのか、と。
それを聞いた俺は、迷った。でも俺は、やるかどうかについてじゃない。そんなのは、もう決まってるんだから。俺が迷ったのは、どんな形で返答をするかで……一瞬の沈黙の末、ゆっくりと俺は頷いて言う。勿論だ、って。
「…その言葉、待ってました。今の先輩は…先輩史上、一番格好良いです…」
「ありがと。…で、俺はどうすればいい?」
「先輩は、じっとしていて下さい…それだけで、大丈夫です…」
言われた通り、慧瑠の方を向いたままじっとする俺。するとさっきと同じようにまた慧瑠の手が伸びてきて…その指先が、俺の首筋に触れる。
「少し…いえ、そこそこ痛いと思いますけど…我慢、して下さいね…」
「…何するかは、訊いても…?」
「何、って…先輩は、自分に背中が斬り裂かれたままでいろと…?」
「あ……ごめん、どうぞ…」
返答からまずは治癒をするのか、と考えた俺は、首を触れられていない側に傾ける。すると、探るように慧瑠の指が首筋で動き……止まったと思った次の瞬間、首に走る鋭い痛み。
「……ッ、ぅ…!」
「…先輩、辛くなったら言って下さい。自分…直接するのは、久し振り…ですから…」
「あ、あぁ…分かって…うぁ……っ!」
首への痛みを感じる中、慧瑠の顔が近付いてきて、ふにゅんと温かく柔らかい何かが首筋へと触れる。…いや、勿論分かってる。今触れたのが…慧瑠の、唇だって。
(……っ…こ、これは…ドキドキ、するな…)
変な意図があろうとなかろうと、慧瑠がしたのは首筋へのキス。そんなの、平然となんてしていられる訳がなくて……けれどすぐに、首筋から全身へと力の抜けるような感覚が襲いかかる。
多分、これは霊力を吸われた事によるもの。血液を介して吸っているのか、俺の体内に触れる事で吸っているのかは分からないけど……力の抜けてく感覚は、あまり気持ちのいいものじゃない。
「…ふ、ぅぅ……」
ゆっくり息を吐いて、深呼吸。初めは脱力感があって、途中からは上手く形容の出来ない、何かが出入りしているような感じもあって……気を抜いても、気を張り過ぎても、内側から何かが崩れてしまいそうな気がしてくる。…でも、駄目だ…崩れる訳にはいかない…折れる、もんかよ……!
「……慧瑠…俺が、慧瑠を助けようとするのも…失いたくないって意思を通すのも…全部、俺の勝手だ…俺の我が儘だ……」
「…んっ…ふ……」
「だから……慧瑠は、何も気にしなくていいから…慧瑠だって、俺に我が儘をぶつけてくれていいから…。…俺は、ただの…ちょっと霊力が多いだけの、霊装者だけど……慧瑠を守るって意思は、覚悟は…絶対に、何があろうと貫くよ…慧瑠……」
崩れそうな感覚に対抗するが如く、俺は慧瑠に向けて言葉を紡ぐ。そして、俺の肩と二の腕を掴んでいる慧瑠の身体を、半ば無意識に抱き締める。傷に触れないように優しく、けれど無くさないようにしっかりと。
抱き締めてから、慧瑠に嫌がられるんじゃないかと思った。デートだなんて言ったけど、あれは冗談で、俺と慧瑠はそういう関係ではない筈だから。でも…俺が抱き締めた数秒後、俺に応えるように慧瑠の掴む力はほんの少しだけど強くなった。
(…でも、意思や覚悟だけじゃ駄目だ…もっと、もっと…俺は、強くならなきゃ……)
それから俺は空を見上げる。脳裏によぎるのは、さっきの俺。状況が味方をしてくれなきゃ、きっと何も出来なかった俺自身。
どんなに偉そうな事を言ったって、どんなに意思や覚悟があったって、力がなくちゃそれを実現する事は出来ない。もっと強くならなきゃ、今あるものだって守れやしない。だから、もっともっと俺は強くならなきゃいけない。慧瑠は勿論の事……他にも俺には、守りたいものや貫きたい事があるんだから。
……そうして、数分…或いは、十分以上の時間が過ぎた。ここまで吸われた事はないからなのか、俺は気付けば不思議な感覚が身体の中にあって……そこで漸く、慧瑠の唇が俺から離れる。
「……ぷはぁ…はぁ……」
「…慧瑠、もう大丈夫そう?」
「……ふふっ…♪」
「…慧瑠……?」
「凄く…美味しかったです、先輩……♪」
「ちょ、ちょっと…慧瑠……?」
口を離して吐息を漏らした慧瑠に向けて、特に何か考える訳でもなく訊いた俺。そんな俺に対して返ってきたのは……これまで慧瑠からは見た事もないような、蠱惑的な笑み。自分の唇を舐めて、笑みを深めて…表情から、声から、雰囲気から……得体の知れない、異質な何かを俺に感じさせてくる。
その時、一瞬俺は思った。このまま俺は、喰われるんじゃないかって。だけど、次の瞬間…慧瑠は笑みを浮かべたまま……俺の腕の中で、崩れ落ちる。
「…え……?…慧、瑠…?……慧瑠ッ!?」
元々強く抱き締めていた訳じゃない。だけどおかしい、そんな訳ない。だって…ついさっきまで、慧瑠はちゃんと自分の力で自分の身体を支えていたんだから。俺を掴む手にも、力が籠っていたんだから。
なのに、時間をかけて霊力を吸っていた筈なのに、俺の目の前で…俺の側で崩れ落ちる慧瑠。その姿に俺は混乱して、頭が一瞬真っ白になって……叫ぶ。
「…は、は…すみません、先輩……久し振りに…直接、したからか…ちょっと…気分が、舞い上がっちゃい…ました……」
「そ…そんな事はいいよッ!それより、それよりなんで…ッ!?」
「…大、丈夫…です、よ……」
「何が大丈夫だって言うのさッ!?何が……あ、あぁ…っ!?」
唖然としながら肩を抱いた俺に対して、慧瑠が口にしたのはさっきの蠱惑的な笑みに関する謝罪。けど、そんな事はどうでもいい。どうだっていい。
慧瑠は大丈夫だと言う。けれど、今の慧瑠が大丈夫なようには微塵も見えない。ちっとも大丈夫だなんて思えない。なのに、それだけでも俺の心は締め付けられるのに……気付く。気付いてしまう。慧瑠の身体が…ゆっくりと、消え始めている事に。
「どう、して…そんな…なんで……ッ!?」
「…先、輩……」
「慧瑠……く…ッ!まだ足りない!?足りないの!?だったら…だったら俺の事は気にしないで吸って!俺なら大丈夫!だから……ッ!」
魔物と……あの時の魔人と同じように、慧瑠の身体が光の粒子となって消えていく。理由は分からない。だけど、今俺の目の前で起きているのは疑いようのない事実。
だから咄嗟に、俺はもっと吸うよう言った。足りないなら、足りるまで吸ってくれればいいって、起き上がる事も出来ないなら俺が自分から手首を切って、それで吸ってくれればいいって思った。…だけど、慧瑠は首を横に振る。
「…いいん、です…もう…全部、やりました…から……」
「やったって……まさか、失敗したの…!?出来なかったの…!?」
「…いいえ…何も…何も、心配する事も…悲しむ必要も、ないんですよ…先輩……」
「そんな事…そんな事、ある訳ないじゃないかッ!だって、慧瑠は……ッ!」
頭の中に浮かぶのは、失敗の可能性。治癒だけじゃなく、慧瑠の言っていた『方法』も始めていて……けれどそれが、叶わなかったという可能性。
狼狽える。居ても立っても居られないなる。だけどやっぱり、慧瑠は穏やかに言う。訳が分からない。どうしてこれに心配も悲しみも不要なのか、これっぽっちも理解出来ない。
この時の俺は、きっと酷い顔をしていたんだろう。だからか、また…慧瑠の手が、俺の頬に触れる。まだ温かい…けれど震える、慧瑠の手が。
「…先輩…自分、先輩の言ってくれた言葉…凄く、凄く…嬉しかったです……自分、正直…人の感情なんて、分かりませんけど…きっと、今の自分は…先輩を、大切な相手だって…大事な人だって、思ってるんです……これからも、先輩と…一緒に、いたい…それが…自分、の…気持ち、です……」
「慧瑠……あぁ、あぁ…!俺もだよ、俺だってそう思ってるよ…!だから、だから…ッ!いなくならないでくれよッ、慧瑠……ッ!」
「だから…大丈夫、ですから…先輩……」
紡がれる慧瑠の言葉は、本当に本当に嬉しい。俺は慧瑠に、そこまで思ってもらえていたのかと、心の中がじんわりと暖かくなりそうになる。
でも、なりそうになるだけ。嬉しいけど、慧瑠の言葉はまるで今生の別れを伝えようとしているみたいで、慧瑠の身体もどんどん消えていっていて、心が押し潰されそうになっていく。
だから言う。だから叫ぶ。嫌だって、いなくならないでくれって。だけど、だけど……もう、遅い。
「…自分は、ずっと…先輩の、側に…います、から……」
はらり、と俺の頬から落ちていく手。俺の手の中で、崩れて消える慧瑠の肩。最後に慧瑠が見せてくれたのは、最高の……だからこそ、絶望してしまいそうな程の温かな笑みで……
「慧瑠ッ!慧瑠!慧、瑠ぅぅ……!あ、あぁ…あぁぁぁぁ……ああああああああああああああああッ!!慧瑠ぅううううううううッ!!」
闇夜に響く俺の声。心の底から慧瑠を呼ぶ、俺の叫び。だけど、もう誰も反応しない。誰の声も返ってこない。俺の手の中で、俺の目の前で、慧瑠の身体は崩れ去って……
────その日俺は、初めて……大切な人を失う痛みを、経験した。