転生河童の日常譚   作:水羊羹

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第十三話 家族の絆

 フランドールとの戦闘終了後、私達は客用の寝室に訪れていた。

 拘束を解いた彼女はベッドに寝かせ、残りの面々は楽な姿勢で力を抜いている。

 

「ふぅ……」

 

 片腕で崩れたバランスを取りながら、私は咲夜が淹れた紅茶を口に運ぶ。

 鼻から入ってくる清涼な香りに、口内で広がるさっぱりとした味。

 疲れた身体に染み入る良いもので、思わず目尻を緩めてしまう。

 

「妹様の様子は?」

「大丈夫そうよ。気持ちよく眠っているだけ」

 

 美鈴の問いにそう返したレミリアは、優しい微笑を零して妹を一撫で。

 フランドールの寝顔は穏やかで、一定間隔で胸が上下している。

 とりあえず、魔道具の効果がちゃんと表れていて一安心だ。

 レミリアとの連絡が途絶えた時は焦ったが、終わりよければすべてよし。

 諸々の代償には目を瞑りつつ、まずはこの達成感に酔いしれよう。

 鼻からゆるーく息を吐いていると、レミリアがこちらに流し目を送ってくる。

 正確には、私の隣で図々しくもクッキーを貪っている文に。

 

「それで、何故この場に天狗がいる?」

「あ、どうもレミリアさん。このお茶請け美味しいですねー」

「質問に答えろ」

 

 剣呑に光る、吸血鬼の紅い瞳。

 小さな体躯から暴力的な威圧が漂い始め、呼応してか咲夜の表情も冷たく張り詰めていく。

 対して、パチュリーは読書しながら我関せずを貫き、唯一美鈴だけが慌てた様子で間に割って入る。

 

「お、落ち着きましょうよ、お嬢様! まずは冷静に抑えて抑えて!」

「私は冷静だ」

「そうですよー。偉大な吸血鬼様が、たかだか天狗一人如きに心を乱すわけないじゃないですかー」

「……私は、冷静だ」

「お嬢様!?」

 

 悲鳴を上げる美鈴をよそに、レミリアはベッドに座ったまま足を組んだ。

 右手を曲げて口元に添え、愉快げに目を細める。

 文の方も挑発的に見つめ返し、室内に重苦しい圧力が降りかかってしまう。

 このまま一触即発な状態が続くかと思われたが、意外な事に咲夜がこの場の空気を変えた。

 

「あっ」

「どうした、咲夜?」

「今日の夕御飯の仕込みを忘れておりました」

 

 辺りに微妙な空気が充満した。

 片眉を上げていたレミリアは肩をずっこけさせ、美鈴達もなんとも言えない面持ちだ。

 咲夜がミスをするとは思わなかったが、彼女も人間という事だろう。

 お茶目にしては、夕御飯抜きとか規模が酷いが。

 というか、これって私達のご飯もないのだろうか。

 

「申し訳ございませんが、今夜はサラダのみで」

「私はきゅうりが出れば文句はないけどさ……」

 

 レミリアなんてあからさまに不満そうな顔つきだし、美鈴に至っては絶望感に満ちた表情だ。

 胃袋を掴まれていると一目でわかるその様子に、パチュリーは呆れてなにも言えないらしい。

 嘆かわしそうに首を横に振っている。

 

「あやや。これは一本取られましたかね」

「んー? どうしたん?」

「いえいえ、なんでもありませんよー」

 

 朗らかな笑顔で流した文は、コホンと咳払いを落とした。

 自然と場の雰囲気が引き締まり、全員の視線が彼女に集う。

 ようやく本題に入れそうだが、果たして文が紅魔館に戻ってきた目的はなんだろうか。

 可能性としてありそうなのは、特ダネの取材といったところだが……

 

「私がここにいる理由は──ずばり!」

「ずばり?」

「特にありません!」

「……はぁ」

 

 自信満々に胸を張った、天狗の少女。

 その話を信じたのか、問いただしても無駄だと悟ったのか。

 レミリアは深いため息をつくと、膝の上で頬杖をついたまま、手の甲に顎を乗せた。

 姿勢をやや前屈みにしながら、艶のある唇の片側を上げて八重歯を見せつける。

 

「貴様に問うた私が愚かだった。まあ、大まかな予想はつくがな」

「ほほう、その心は?」

「そう急かすな。あっさりと答え合わせをするのは芸がないだろう? もう少し、腹の探り合いを楽しもうではないか」

「……いやー。やはり、レミリアさんは面白い方ですねぇ」

 

 文の笑顔の質が、変わった。

 表面上は変化がないように見えるが、私だけには理解できる。

 張りついている仮面の奥に宿り始めた、猛禽類が獲物を捕食する色が。

 

「あ、あのぉ。みずはさん?」

「あいあい、どうしたの?」

 

 なにやら黒い笑みを交わす二人を眺めていると、こっそりと近寄ってきた美鈴が肩を突っついてきた。

 肩越しに振り向いた私に、彼女は切実な眼差しを送ってくる。

 

「なんとかできませんか? 咲夜さんはいつの間にかいなくなっていますし、正直今すっごく胃が痛いです」

「残念だけど、レミリア達が満足するまで見守るしかないよ」

「そんなぁ……」

 

 そんな泣きそうな声を上げられても、無理なものは無理なのだ。

 例え、美鈴が捨てられた子犬の目で見つめても、オモチャを強請る子供の表情で縋っても、私が両者の間に入る余地はない。

 大人しく、二人が満足するのを待っているべきである。

 複数の意味が込められた会話をしている腹黒妖怪を尻目に、私は懐から取り出したきゅうりをポリポリかじっていく。

 

「かー! 運動後のきゅうりは最高だねぇ!」

「あ、私にも一つください」

「どうぞー」

「ありがとうございます……うま! なんですかこれ、めちゃくちゃ美味しいんですけど!」

「花妖怪曰く五十点のできらしいけどね」

 

 いつになったら、百点満点のきゅうりを作れるのか。

 やはり、きゅうり道の奥は深い。きゅうりは魔法に通ずるほどの難しさだ……新たに、きゅうりの哲学書でも書いてみようか。

 きゅうりとはなにか、その概念から紐解いていく。

 これはこれで面白そうではあるが、他にもやりたい事が沢山あるので、実現するのは難しそうだ。

 まあそもそも、幽香の満点が百点とは限らないわけで、千点中の五十点という可能性も十二分に存在するのではないだろうか。

 幽香ならやりかねないと思うのは、私だけではないはずである。

 ドS混じりの顔で言われても、おかしくはない。

 

「みずはさん?」

「いや、ちょっと悲観に暮れていただけだから」

「それ大丈夫じゃないような……?」

 

 美鈴と会話しながらポリポリしていると、視界の端に映るフランドールの身体が動いた。

 レミリア達も口を止め、遅々とした動きで瞼を開く彼女に注目する。

 ぼんやりと天井を見つめるフランドールの瞳は、純粋で綺麗な紅色だった。

 

「フラン、起きたのね」

「……おねえさま?」

「そう、貴女のお姉様よ」

「あれ……私、たしか……ッ!」

 

 先ほどまでの事を思い出したのだろう。

 瞬く間に顔色を真っ青に染め上げるや、飛んで逃げようとしたフランドール。

 しかし、レミリアに抱き締められた事により、唖然とした様子で固まってしまう。

 

「大丈夫。もう、フランが怯える必要はないの」

「で、でも!」

「貴女の狂気は収まったから。だから、もう独りでいなくてもいいのよ」

「えっ……?」

 

 困惑気味に見上げるフランドールへと、レミリアは慈愛の微笑みを向けた。

 右手は愛する妹の頭を撫で、左手でリズム良く背中を叩いている。

 ここから見えるその横顔は、止めどない家族愛に溢れていた。

 

「今までごめんね。貴女を独りぼっちにして」

「……もう、独りじゃなくてもいいの?」

「ええ」

 

 じんわり、と。

 フランドールの両目が滲み始め、透き通る雫が垂れていく。

 

「……お姉様と遊べるの?」

「ええ」

 

 対するレミリアも瞳を潤ませおり、涙声の彼女に向けて何度も頷いている。

 

「……みんなと、一緒にいてもいいの?」

「ええ」

「本当に、嘘じゃない?」

「もちろんよ。フラン──これからは、ずっと一緒よ」

 

 その言葉が限界だったのだろう。

 唇を震わせていた幼き吸血鬼は、堰き止めていた感情のダムを破壊した。

 顔をくしゃくしゃに歪めながら、大好きな姉に縋りついて声なき泣き声を響かせ始める。

 室内に木霊する産声──確かにこの瞬間、フランドールは生まれ変わったのだ。

 狂気に蝕まれていたかつての自分から、レミリア達と道を歩む新たな自分に。

 

「う、うぅ……お嬢様ぁ!」

「ちょ、顔を拭きなさい! その汚い顔でフランに近づかないでよ!」

「私は……私はぁ!」

 

 感極まったのか、釣られて泣いていた美鈴がレミリア達の元に突っ込んだ。

 なにやらレミリアの悲鳴が聞こえるが、これは嬉しい悲鳴というものだろう。

 いつの間にか、彼女達の側でハンカチを目元に添えている咲夜もいるし、読書を続けている振りをしているパチュリーも、先ほどから頻繁に鼻を啜っている。

 この光景を絵にでもすれば、家族愛という題名がピッタリだ。

 私も少しもらい泣きしそうで、なんというか本当に良かったと思える。

 

「……これ以上見ているのは、無粋かな」

「どこに行くので?」

「ちょっと散歩」

「そうですか。では、ごゆっくりー」

 

 笑顔で手を振る文に手を振り返した私は、静かに室内を後にした。

 廊下を少し進んだところで壁に背を預け、天井を見上げながら呟く。

 

「ハッピーエンド、かな?」

 

 フランドールの狂気は解決していないが、今後不用意に発症する事はないだろう。

 レミリアの依頼は完遂したと言っても問題なく、多少の犠牲を無視すれば最高の結果だ。

 

「腕は予備が家にあるからいいとして……」

 

 眼帯を撫でた後、ため息を漏らす。

 紫に貰った触媒……滅多にない高品質だったのだが、能力を使った時に壊してしまった。

 あの時の行動は全く後悔していないけど、やはり彼女に対して罪悪感は抱いてしまう。

 せっかくの好意を踏みにじってしまったのだから。

 

「……よし、正直に言って謝るしかないよね!」

 

 腹を括った私は、勢いをつけて壁から離れた。

 すると、なにやら柔らかい物に顔をぶつけ、咄嗟に手を伸ばしてそれを掴む。

 手のひらから零れる大きさに、安心する暖かみとほどよい弾力。

 同時に艶やかな香りが肺に流れ込み、このまま永遠に触りたい気持ちにさせる。

 というか、これはなんだろうか。

 揉む手が止まらないのだが、どこかで覚えがある感触な気も。

 暫く指を動かしながら思考を巡らせていると、突如として脳裏に走る電流。

 まさに天啓と呼ぶべき閃きが私に舞い降り、自信を持ってこの素晴らしい物体の答えを告げる。

 

「これは──紫のおっぱいだね!」

「いい加減にしなさい!」

「いたぁっ!?」

 

 頭頂部に激痛を感じた私は、うずくまって頭を押さえた。

 涙目で視線を上げると、こちらを睨みつけている紫の姿。

 とはいえ、頬が仄かに赤く色づいており、微妙に着崩れた服装と相まって、非常に可愛らしいという感想しか抱けない。

 私が自分に気づいた事を察したのか、スキマ少女は服を正して口を開く。

 

「まったく……いつやめるのかと思ったけど、まさか真面目な顔で胸を揉み続けるとはね」

「いやだって、気持ち良かったんだもん。……特に、紫の胸はおっきいし」

 

 思わず自分の胸に手を当てるが、目の前の母性の象徴には到底及ばない。

 平均……人並み……そこそこはあると思うが、私は決して巨乳と言えるほどはないのだ。

 今生しての年月も長く、この辺りの機敏も女性由来の物が備わっている。

 巨乳を見れば嫉妬を抱くし、貧乳を見て優越感に浸ったりもするのだ。

 また、それとは別に一般的な女性より胸の関心も大きく、つまり男と女二つの感性を宿しているのである。

 なにより、自分の胸を揉むのは飽きた。そもそも、楽しくもなんともない。

 だから、紫達の胸を触りたいと思う私の考えは、至極真っ当なはずだ。

 

「はぁ……もう一度、いく?」

「遠慮しておくよ。それより、なんでここに紫がいるわけ?」

 

 そう尋ねると、紫は艶然と笑った。

 扇を広げて口元を隠し、辺りの空間を張り詰めた空気へと変える。

 紫水晶色の瞳に先ほどまでの友好の色はなく、こちらを射抜く視線は叡智が覗いていた。

 

「さて、どうしてでしょうか?」

「……なるほどねぇ」

「あらあら。自己完結なさらないで、是非とも私にご教授願いたいですわ──貴女様が察した、私がここにいる理由を」

「聞かなくても、君なら察してるだろう?」

「見解の相違は悲しみを生みますわ。お互いの認識を擦り合わせるためにも、しっかりと会話をするべきだと愚考いたしますの。それこそが、言葉を交える知性ある生物の特権。そう思いませんか、ねぇ?」

 

 深淵から伸びる、不気味で恐ろしい無数の黒い手。

 私の影からゆっくりと這い上がり、足元から包み込んでいく。

 捕らえた獲物は絶対に逃がさず、己が満足する言葉を聞くまで数を増し続ける。

 そんな錯覚を抱かせている原因は、眼前で微笑む大妖怪だ。

 雰囲気一つで主導権を握り、言葉一つで相手を追い詰める手腕。

 これでも、紫は充分に手加減をしている。

 本来の彼女ならば、この程度の不快感では済まないだろう。

 恐怖すら覚えてしまうほどの幻覚を、視線一つで与えられるのだから。

 

「……見ていたんでしょ?」

「あら、酷い言い草ですわ。私に覗き見なんて悪趣味はありません」

「一度、感じたんだよね。あの時は気のせいと思っていたけど、あそこに紫がいたからなんでしょ?」

「……うふふ」

「へっ!」

 

 私の言葉を耳にした紫は、少女然とした笑みを浮かべた。

 あどけなさが残る可憐な笑顔に、今まで見た事がないほどの艶が乗る。

 愛おしげに目を細めるや、紫は流麗でしなやかな指を私の頬に添える。

 きめ細かい手袋越しに感じ取る、彼女の暖かな体温。

 身をゆだねたい心地良いぬくもりだったが、素直に力を抜けない恐ろしさも含まれていた。

 

「ああ、いいわ」

「っ……」

 

 妖しい輝きを灯したその瞳に見つめられ、私は蛇に睨まれたカエル状態だ。

 文字通り反応できないでいると、紫はどこか陶酔した様子で呟く。

 

「本当に、素晴らしいですわ。あんなものを見せられてしまうと──」

「ゆ、紫?」

 

 高鳴る心臓を鎮めながらなんとか声を上げれば、眼前まで迫っていた美貌が止まった。

 鼻先が触れ合っており、紫色の宝石が視界いっぱいに広がっている。

 瞬きを一つ二つ、三つ。

 長い睫毛を震わせた紫は、はっとした様子で飛び退く。

 頬はりんごのように真っ赤で、珍しく動揺を露わにしていた。

 

「ご、ごめんなさい。みずはを見ていたら、感情が高ぶっちゃって」

「そ、そうなんだー。紫にそんな風に言われて、私とっても嬉しいなー」

 

 手を仰いで頬の熱さを冷ましながら、なんとか返事をした。

 まさかこんな事になるとは思わず、先ほどから心臓の鼓動がうるさい。

 紫は気の置けない友人だが、恋愛感情を持ってはいないはずだ。

 今のはノーカン、空気に流されたからノーカウント。

 あれはさっきの仕返しだから、私をからかうためにしただけに違いない。

 そう考えて心を落ち着かせ、目を泳がせている紫に声を掛ける。

 

「そ、それで、結局紫は釘を刺しに来た感じ?」

「おほん……ええ、そうよ。みずはの科学技術を紅魔館に披露するのは、正直目に余る行為だわ」

「一応聞いておこう、理由は?」

「吸血鬼姉妹や魔女に、時間を止めるメイド。他にも人間の武術に精通する妖怪に、小さな力だけど悪魔もいたかしら」

「改めて並べると、荘厳な顔触れだよねえ」

 

 肩を竦めた私を見て、幻想郷の賢者は厳かな面立ちで頷く。

 

「ええ。侮れない勢力よ──だからこそ、貴女の科学技術がつくと、幻想郷のパワーバランスが崩れかねないの」

「私が機械を渡さなくても、科学技術を見た事による発想から、ブレイクスルーが起きるかもしれないしね」

「ご理解が早いようでなによりですわ」

 

 そう告げると、扇を持たない指で空を切った紫。

 同時に私の目の前の空間が裂け、スキマからなにかが落ちてきた。

 咄嗟に右手で受け止めると、以前貰った触媒と同系列な物らしい。

 感じる力は随分と落ちているが、これがあれば義眼を創造できる。

 

「いいの?」

「これは、みずはに無理を言ったお詫びよ。前のほど良い物ではないけど、それがあればそれなりな義眼にはなるでしょう」

「貰えるだけでありがたいよ! 本当にありがとう!」

「喜んでいただけて嬉しいですわ。では、用も済んだ事だから、この辺りで私はお暇するわね」

「あいあい。多分、近いうちに紅魔館で祝賀会があると思うから、紫も来てよ」

 

 スキマを開いた紫の背中に提案すれば、数瞬悩むような間を置いた後。

 振り返った彼女はウインクを零し、楚々とした仕草でこの場から消え失せた。

 どうやら、紫も来てくれるようだ。勝手に決めてしまったが、レミリア達は許してくれるだろうか。

 

「まあ、人数は多い方がいいし……ん?」

 

 自己弁護していた私の視界に、近づいてくる文の姿が映った。

 彼女は手を振りながら笑みを浮かべ、側に着くと声を掛けてくる。

 

「気分転換にはなりましたか?」

「口調は素の方でいいよ」

「それもそうね。で、なにか私に聞きたい事があるんでしょ?」

「流石は文。話が早い」

 

 肩を竦めていた幼馴染に、私は気になっていた事柄を問う。

 

「なんで、私の義眼が必要だと思ったわけ?」

「そりゃあ、備えあれば憂いなしだからよ。あの吸血鬼から話を聞いた時、これは必要になるなって直感したからね」

「じゃあやっぱり、私のためにわざわざ取ってきてくれたんだ!」

 

 思わず文の手を取って笑顔になる。

 私の事を理解してくれて、嬉しいことこの上ない。

 それだけ付き合いが長いとも言うし、絆が深いから行動してくれた……と、思いたい。

 やはり、持つべき者は友達だ。なにかお礼をしなければ私の気が済まないので、文にして欲しい事がないか尋ねてみよう。

 

「お礼……お礼ねぇ」

「可能な限りなんでも聞くよ。文の頼みだから、特に気合いを入れて頑張るし」

 

 左手を口元に添えて目を伏せていた文は、顔を上げるとにんまりと微笑んだ。

 軽やかな宙返りをして私を飛び越え、慌てて振り返った私に手をひらひら。

 そして、背中を向けたまま、歩き始めた。

 

「お礼ならもう貰ったから、あんたが気負う必要なんかないわ」

「へ? なんかしたっけ、私?」

「──これ、なーんだ?」

「そ、それは!?」

 

 文の右手にある物を見て、私は驚愕の声を上げてしまった。

 機械に包まれたガラスの瓶。

 中には液体が入っており、文が揺らす振動に合わせて美味しそうな音を立てている。

 また、瓶にはラベルが貼られていて、特注鬼酒と書かれていた。

 そう──あれは、私が千年以上をかけて熟成している、大切に大切に保存しているお酒なのだ。

 

「貴女の義眼を取りに行った時、ついでにこれを見つけてね」

「待って! 大人しくそれを返したまえ!」

 

 悲鳴に似た私の言葉を耳にした文は、半分だけ顔をこちらに向けた。

 イヤらしく目を細めながら、小さく舌を出す。

 

「お代。確かにちょうだいしましたー」

「逃がすかぁ!」

「あやや。危ない危ない」

「ちっ!」

 

 地を蹴って殴りかかったのだが、羽ばたいた文にあっさりと躱されてしまう。

 きめぇ丸の表情を張りつけている天狗に、思わず私は舌を打って宙に浮く。

 片腕で心もとないとはいえ、ここで彼女を逃すわけにはいかない。

 秘蔵のお酒、奪われてたまるか。

 

「ではではー。レミリアさん達にはよろしくお願いしますね」

「行かせるわけないでしょ!」

「また会いましょう!」

 

 風になって逃げる文と、それを追いかけていく私。

 こうして、吸血鬼の館で鬼ごっこが開始されるのだった。

 

 

 ▼●▼●▼●▼●▼●▼●▼●▼●

 

 

 闇に包まれている、紅の館。

 淡い月光がそこに降り注いでおり、不気味さと幻想さが入り混じる雰囲気が漂っていた。

 中では、レミリア達が祝賀会の準備をしているのだろう。

 どこか明るい活気がこちらまで伝わり、見下ろしていた紫の口元に微笑が浮かぶ。

 

「あらあら」

 

 紅魔館から少し離れた上空で、紫はスキマに腰掛けていた。

 開いた日傘をくるくると回しながら、()い輝きを放つ右目を細める。

 彼女の瞳は普段の紫水晶色ではなく、マリンブルー色をしていた。

 

「感度は良好。後は布石を打つだけ……それで、なにか御用かしら?」

「──いやいや。私は風に誘われて来ただけですよ」

 

 紫の前方に、一人の少女がやってきた。

 闇夜でも栄える黒い翼を開き、完璧な笑顔で頭を掻いている。

 しかし、朗らかな笑みの底に潜む、不快感と警戒。

 普通の人なら見逃しかねないその色を、紫は敏感に感じ取っていた。

 

「相変わらず、自分を取り繕うのがお上手ですこと」

「あやや。紫さんに褒められると、嬉しいですねぇ。まあ、貴女の胡散臭さには到底及ばないものですけど」

「そんな事ありませんわよ? 貴女の整いすぎて気味が悪い笑顔は、私にはとてもとても真似できない個性だと思いますの」

「清く正しい笑顔ですからねー。心が汚れている人には気味悪く見えるのかもしれません」

「まあ、なんと酷い言葉でしょう。清涼な心を持つ私は、悲しくて泣いてしまいたいですわ」

 

 扇で顔を隠すと、紫はおよよとわざとらしい泣き声を上げた。

 もちろん、嘘泣きである。

 天狗の少女……文とは、それなりな付き合いがあるのだが。

 大抵はこのような、皮肉の応酬が繰り広げられるのだ。

 顔見知り以上、友人未満。

 紫達の関係を表すならば、そう例えるのが妥当であろう。

 みずはとは違う、ある意味腐れ縁とも呼ぶべき間柄だった。

 

「はぁ……本当に、紫さんは面倒臭い人ですねぇ」

「か弱い乙女に向かって面倒臭いとは、心の機微に欠ける人ですわ」

「か弱い乙女って、ちょっと盛りすぎではないですか?」

「みずはなら、大いに頷いてくれますのに」

 

 扇を下ろした紫の言葉を聞き、バツが悪そうに目を逸らした文。

 

「あの子はほら、ちょっと抜けていますから」

「それには同意しますけども」

 

 どことなく微妙な空気が満ち、二人の間に沈黙が舞い降りた。

 あのきゅうり狂いの河童は、俗に言うポンコツな部分が多い。

 現に今回の件も、詰めが甘かった。

 上手くいったから良かったものの、下手すれば取り返しのつかない事になっていた可能性がある。

 とはいえ、致命的な失敗をした事はないので、そういう意味ではみずはは持っているのだろう。

 自分の都合の良い結末を手に入れる、幸運とも呼ぶべき要素を。

 

「なんか気が抜けましたけど、改めて本題に入ってもいいですか?」

「構いませんわ」

「では──」

 

 そこで言葉を止めると、文の纏う空気が研がれていく。

 触れれば鋼鉄だろうと容易く切断するだろう、恐ろしく鋭い威圧感。

 にこやかな笑みを湛えたまま、天狗はスキマ妖怪へと問いを投げかける。

 

「──今回、私に義眼を持っていくように頼んだ理由はなんですか?」

「もちろん、信頼されている貴女が適任だと考えたからです」

「紫さんが持っていけば直ぐに渡せましたのに?」

「ええ。実際に間に合ったのですから、私の判断は正しかったと思いませんか?」

「ギリギリ、らしかったですけどねぇ」

 

 当然だ──あえてそうなるように、紫は時間を調整していたのだから。

 元々、みずはに渡していた触媒は、今回の件で壊させる目的があった。

 短時間で妖力を込められれば、触媒の方は持つはずがない。

 そうしてみずは自身に破壊させた上で、紫は新たな触媒を渡す。

 彼女は罪悪感を抱くだろうし、改めて大事にこれを義眼として使ってくれるだろう。

 現に紫の目論見通り、みずはは大切そうに懐に仕舞っている。

 紫との繋がりを持った、触媒を。

 また、一度紫の能力が入った触媒を使わせる事で、みずはと自身の妖力を同調させる目的もあった。

 より強く、繋がりを保つために。

 

「安心してくださいまし。貴女が危惧しているような事は全くありませんとも」

「あやや。一体、私がなにを危惧していると仰るのですかな?」

「心配、なのでしょう? 彼女が」

 

 紫が意味深に笑えば、文の片眉が上がる。

 常の営業スマイルが微かに崩れ、内心で満足していた紫だった。

 対して、意趣返しされた結果になった彼女は、微笑みを深めて肩を竦める。

 

「見当はずれにもほどがありますよ。私とみずはさんは、ただの知り合い。私が彼女を慮る理由など、これっぽっちもないです」

「あらあら。そういう事にしておきましょう」

「……ほんっとうに、癪に障るんですよねぇ。その余裕面を見ていると」

 

 剣呑に目を細めると、吐き捨てるように呟きを落とした文。

 片手を額に押し当てており、酷く疲れた様子だ。

 くたびれたキャリアウーマンを思い出すその姿に、紫は胸中で愉悦を沸かす。

 実は、先ほどの乙女否定を根に持っていたので、笑いが止まらないのだ。

 器が小さいと思うことなかれ。少女はいつまでも、乙女でいたいのである。

 胡散臭いと思われるのは許容しようと、乙女否定やおばさんと思われるのは許さない紫だった。

 

「もう用は済みましたか?」

「ええ、ええ。これ以上貴女と話していると、こちらまで胡散臭さが移りそうですし」

「既に胡散臭いですよ。その、人の神経を逆撫でする笑顔は」

「あやや。子供には人気なんですけどねぇ……ああ、乙女ではない紫さんじゃあ、この笑顔の純粋さが理解できませんでしたか。察しが悪くて申し訳ないです」

「あらあら。どうやら、機敏以上に目までが悪くなっているようですわ。いえ、貴女は鳥目なのでしょうから、それも仕方がありませんね。あるいは、鳥頭の可能性もあるでしょうか?」

「いやいや。貴女の胡散臭さを一度目にしたのならば、例え鳥頭だったとしても決して忘れませんとも。ここまで乙女という言葉が似合わない女性は見た事がない、とね」

 

 打てば響くような、会話のドッヂボール。

 仕留めるつもりで投げているが、相手にキャッチされて返されてしまう。

 ある意味、似た者同士なのかもしれない。本人が聞いたら首を揃えて否定するだろうが。

 暫く皮肉を言い合っていると、不意に文が両手を上げた。

 

「やめましょう、時間の無駄です。とりあえず、もう行きますから」

「ええ。また会いましょう」

 

 その言葉に嫌な顔をした文は、天狗の名に恥じないスピードで去っていった。

 瞬く間に遠のく彼女の背中を見送った後、紫は日傘を回して微笑む。

 眼下に映る悪魔の館を眺めながら、楚々とした仕草で扇を閉じる。

 瞬間、紅魔館の中央で亀裂が走り、上下に分断されていく。

 

「まったく、世話が焼けるんだから」

 

 苦笑いしていた紫の前で、粉微塵に砕けた館は粒子となって舞う。

 残った跡には──先ほどと寸分違わない、建物の姿があった。

 なんて事はない。

 つい今しがたまで、紫は紅魔館周辺に結界を張っていただけなのだから。

 みずはがやろうとしていた事を予想し、紅魔館のメンバーの趣向を想定し、両者が邂逅した後の行動に見当をつけていく。

 万が一みずは達が失敗した事を考え、紅魔館を結界で隔離。

 次に、触媒を使わせるために、文にみずは秘蔵のお酒の情報を流して、遣いに向かわせた。

 無事に紫の想定通りになり、概ね満足した結果となる。

 何故、こんな縁の下の力持ちのような行動をしたのか……

 

「罪悪感、といったところかしらね」

 

 後ろめたい気持ちがあるのだろう。後悔はしていないとはいえ、無断でみずはを監視する行動を取ったのだから。

 あの触媒を義眼にすれば、紫は彼女といつでも視覚を共有できる。

 ついでに釘を刺し、二度目はないと言っておく。

 しかし、みずはは必ず同じ過ちを犯すだろう。彼女の性格上、後味が悪い結果は見過ごせないのだから。

 

「温情の次は枷、かしら」

 

 紫の思考は巡る。

 それこそ光の速度と間違えるほどに、高速で思索にふけていく。

 幻想郷の事、みずはの事、不穏因子の事。

 全ては、愛する宝物を守るため──今日も、妖怪の賢者は幻想郷を暖かく包み込む。

 

「うふふ……」

 

 この瞬間に浮かべた紫の笑みは、誰よりも可憐な恋する乙女のようだった。

 

 

 

 

 


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