慧音の歴史講習は強敵だった。
こちらから頼んだ事なので、訪れる眠気に頑張って耐えていたのだ。
というか、私は何徹もできるのに、慧音が話し始めた瞬間から眠気が襲ってきたのだが。
リュックの中にあった刺激的な薬草を食べた事で、なんとか最後まで授業は受けられた。
慧音、凄く感動していたっけ。
初見で全部聞いてくれた人がいなかった、とかなんとか言って。
思わず目頭を押さえたのは、記憶に新しい。
ともかく、こうして楽しい初体験は無事に終了したのだ。
前世の学校を思い出し、少し哀愁を抱いたのは内緒だ。
「えーっと……」
今日の私は、ある場所へと飛んでいた。
リュックにはお土産を持参しており、これから会う人を思うと楽しみである。
暫くすると、黄金色の絨毯が目に入る。
いつ見ても荘厳だ。
幻想郷は素晴らしい風景が沢山あるが、ここはその中でも格別に美しい。
柔らかな風が吹くと、絨毯に一本の白い筋が駆け抜ける。
風そのものが意思を持っているかのように、黄金の景色を際立てようとしているのだ。
高度を下げて近づくにつれ、眼下の景色が克明になっていく。
最高級の絨毯かと思われたそれは、太陽の方に向いている向日葵だった。
どの花も力強く咲いており、生命力に満ち溢れている。
また、向日葵の花弁一つ一つに艶があり、吸い込まれそうな魔性を宿している。
この花達の様子を目にすれば、育てている人の愛情の深さがわかるだろう。
花を愛で、花もそれに応えて一生懸命に輝く。
植物は育て主の鏡、とどこかで聞いた覚えがある。
その言葉を加味すると、向日葵を育ている人の心は綺麗に違いない。
まあ、人里では恐れられているようだけど。
千金にも勝る向日葵の群れ──太陽の畑に降り立った私は、清涼な香りに迎えられる。
「すぅ……はぁ……」
両手を広げて、全身にこの場の空気を行き渡らせていく。
質の良い土の匂いに、暖かみすら感じられる向日葵の匂い。
他にも様々な花の香りが混ざり合い、しかしそれぞれの芳香はお互いを邪魔せず、控えめに自己主張している。
本来、匂いとは混ざれば混ざるほど、嫌な臭いになっていく。
だけど、鼻から流れ込む空気は、悪臭になっていない。
いつ嗅いでも……いや、いつまでも嗅いでいたい場所だった。
「さて、あんまり待たせすぎるのもあれだよね」
気を取り直した私は、太陽の畑の中を進んでいく。
暫く歩いていると、一軒の小洒落た家を見つける。
玄関前には、白いテーブルに同色の椅子が二脚。
そして、椅子に座ってティータイムを満喫している、一人の綺麗な女性。
優雅な手つきでカップを持っており、彼女は穏やかな微笑を浮かべている。
肩に乗せて差している日傘と併せて、まさに深窓の令嬢という言葉が似合う。
かたん、と置かれたカップの音がやけに大きく響く。
緑色のショートボブを揺らした女性は、私に深紅の目を向ける。
「遅かったわね」
「あれ、そう? 時間通りに来たと思ったんだけど」
「また、入口で花の香りを嗅いでいたからでしょう」
「あっはっは……ご名答」
近づいて頬を掻く私に、女性は向かいの椅子に手を差し向けた。
ありがたく座らせてもらうと、ティーポットを持った彼女がカップに紅茶を注ぐ。
なみなみと液体が満ちていき、やがて最後の一滴が落ちる。
そっと私の目の前にカップを置いた後、頬杖をついて微笑む女性。
「どうぞ」
「いただきます……うん、美味しい」
本当に、それしか言葉が出てこない。
前世のグルメ番組等で、ひたすら美辞麗句を並び立てる芸能人がいるが。
今の私からすれば、彼等の言葉は薄っぺらく感じてしまう。
単に私の語彙力がないだけかもしれないが、少なくともこの紅茶の味を言葉にする事はできない。
相変わらず、素晴らしいお手前だ。
「美味しそうによく飲むわねぇ」
「いや、だって幽香の紅茶美味しすぎるんだもん」
「当たり前でしょ。私が育てたハーブで作った紅茶なんだから」
当然だろう、と眉尻を上げた女性──幽香。
口調からも強い自負が漂っており、自分の紅茶に絶対の自信を持っている事が窺える。
まあ、幽香なら突然だ。
なんたって、二つ名にフラワーマスターという名前がつくぐらいだし。
さもありなんと頷き、私はカップを置く。
「さて、じゃあまずはここに来た目的を果たそうか」
「そうね」
リュックから袋を一つと、タッパー容器を一つ取り出した。
最初にタッパー容器の方を渡し、フタを開ける幽香に笑いかける。
「今回は、中々良い出来だよ」
白魚のような指で、中から取り出した物を口に含む幽香。
口元を手で覆いながら咀嚼しているだけなのだが、食べる姿一つを取っても優雅だ。
また、どこか艶やかさも漂っている。
そこらの美女なんて、裸足で逃げ出しそうな色気。
今生では同性である私でも、幽香の仕草一つ一つにはドキッとさせられてしまう。
ただ、今は別の意味でドキドキしているのだが。
目を伏せて吟味している幽香を、緊張で手汗を滲ませながら見つめていると。
顔を上げた彼女が、ハンカチで指を拭いて告げる。
「……ま、及第点といったところかしら」
「えー、採点厳しすぎない?」
「むしろ、これでも甘めよ」
思わず口を尖らせるのだが、幽香の表情は涼しげのまま。
残念だ。
今回は、上手くいったと思ったのだが。
先ほど幽香に食べてもらった物は、私が作ったきゅうりのぬか漬けである。
幽香は植物関連に深い造詣があるので、こうしてアドバイスを貰ったりしているのだ。
ちなみに、きゅうりの栽培方法等を教授してくれたのも、なにを隠そう目の前にいるフラワーマスターである。
しかし、採点基準が厳しいので、中々合格点が貰えない。
「おっかしいなぁ。今回のぬか漬けなら、幽香も美味しいと言ってくれると思ったのに」
「不味くはないけど、それだけね」
「ちぇー」
とはいえ、幽香は不味い物は不味いとはっきり言うタイプだ。
最初のぬか漬けを食べた時なんか、眦を吊り上げて襲いかかってきたっけ。
植物を冒涜するとはいい度胸しているじゃない、と。
私個人は全くそのつもりはなかったので、ひたすら謝って許しを乞った。
結局、色々とあってなんとかなったのだ。
あの時は肝が冷えた。
今生でベストスリーに入る、恐ろしい出来事だったと思う。
ともかく、一応進歩はしているのだろう。
激マズが普通──ただし、幽香基準である──になるぐらいには。
「まあ、貴女のぬか漬けからは、きゅうりへの愛を感じるからマシな方ね。植物をただの食料としてか認識していない者共の多いこと。花を愛さない奴も多いし……」
「ちょ、落ち着いてよ幽香!」
嫌な事でも思い出したのか、幽香の全身から不穏な空気が流れ出す。
ずしんと腹に来る威圧感。
彼女の背後の空間が歪み、陽炎のようにゆらゆら揺れている。
そして、微かに漏れている妖力。
幽香本人にとっては、ただの絞りカスなのだろう。
しかし、目の前にいる私にとっては、恐ろしい力としか感じられない。
慌てて手を前に出す私を見て、目を据わらせていた幽香は嗤う。
「どうしましょう。身体が火照って辛いわ。ねぇ、みずは。この火照りを、貴女が鎮めてくれない?」
「セリフを卑猥にさせても、やる事はただの戦闘でしょ!?」
「あら、ヤるなんてみずはも乗り気じゃない」
「幽香のやるは殺す方のやるでしょーが!」
瑞々しい唇に手を添え、淑やかに微笑む幽香。
この場面だけを絵画として切り取れば、世の男は前屈みになってノックアウトするだろう。
だが、煌々と光る殺意の瞳と、指の間から垣間見える三日月状に裂けている口元。
どこからどう見ても、めちゃくちゃ元気な殺人鬼としか言いようがない。
わたしゃしがない河童なのです。
そこそこ平穏な日常に、ほどほどの刺激がスパイスとしてあるだけで充分なのです。
決して、誰かと死闘を繰り広げたいわけではないのである。
「貴女とは、以前から
「あー……あれは若気の至りというか。ただ単に調子に乗ってただけだから」
痛いところを突かれた私は、思わず目を逸らして左腕を撫でた。
河童なのに、天狗になっていた私。
当時の私は絶頂期であり、できない事はあんまりないと有頂天になっていたっけ。
で、結局ボコボコにされて、少なくない代償を払ってしまった。
まあ、代わりに掛け替えのない人と出会えたし、今では良い思い出でもある。
……思えば、あの時から妖怪の山でも浮いている存在になっているような気が。
文達以外の天狗とは親しくないし、むしろ避けられているような。
「あら、どうしたの? 突然悲しい顔をしちゃって」
「私って、あまり好かれてないのかもしれない」
「今更?」
「ひどい! あんまりにも、あんまりだよ!」
こんなところで、ドSな幽香は求めていないのだが。
口をへの字に結んだ私に、サディスティックレディーが呆れた表情を向ける。
「自分で言うのもなんだけど、私って人間の間で恐れられているのよ? そんな気難しい妖怪に好んで会いにいく河童なんて、貴女の同類や天狗からすれば狂ってるようにしか見えないわ」
「えぇー。それは、あいつらの見る目がないだけじゃん」
確かに、幽香は気まぐれにイジメと称して妖怪達を殺す事がある。
それは、仕方のない事だ。
妖怪である私達にとって、気分で殺戮するのは呼吸と同意義である。
ただ、理性がある大妖怪ともなれば、その本能を掌握して表に出さないのだが。
幽香本人の場合、あえて本能に従って暇つぶししているのだろう。
しかし、幽香は協調性もしっかりとある。
最近は妖怪を殺す機会も減っているし、幼い人間や妖怪には穏やかに接している。
子供に甘い、という事だろう。
つまり、私はこう思うのだ──幼子に優しいゆうかりん萌え!
「ふっ!」
「あぶなっ!?」
反射的に両手を合わせると、間一髪のところで幽香の日傘を止められた。
あと一瞬でも反応が遅れていれば、私の顔はザクロのように弾けていただろう。
頬を引き攣らせながら、私は目を細めている幽香に声を掛ける。
「な、なぜに私を殺そうとしたのでしょうか……?」
「貴女が不愉快な考えをしたからよ」
「いや、それは幽香の勘違いだと思います、はい」
「それならそれでもいいわ。愉快な河童の死体が一つ増えるだけだから」
「その考えは怖いって!」
本心で言っているのか、冗談で言っているのか。
私の切な叫びにも、幽香は艶然と微笑むだけであった。
相変わらず、幽香の手の早さにはびっくりだ。
少し気を抜いた矢先に、これだからね。
友人としては好ましいが、こんな殺伐とした関係性は好きではない。
まあ、それも含めて幽香なのだが。
「それで、私と
「滅相もございません! それより、ほら。新たに品種改良した土を検分してよ」
「…………仕方ないわね」
一生懸命袋の方に目を向けていると、ようやく諦めてくれたらしい。
迸る威圧を消した後、日傘を引いて差し直した幽香。
袋を開いて中身を見ている彼女を尻目に、冷や汗を拭った私は安堵の息をつく。
今回は、いつもより肝が冷えた。
これが幽香なりの冗談だとわかっているが、やはり身に浴びると怖いものだ。
とりあえず、待っている間は残りの紅茶を楽しもう。
時間が経って冷めているが、それでも非常に美味しいし。
口内に広がる芳醇な舌触りに感嘆しながら、私は幽香の姿を眺めるのだった。