階段を降りた先は、暗闇であった。
両脇にあるランプが辛うじて光を保っているが、廊下全体に漂う澱んだ空気。
妖怪である私でも、ここに長くいると気が狂いそうになるだろう。
こんな場所に、フランドールは四百九十五年、一人ぼっち。
狂わないと思う方が、無理がある。
「とはいえ、本当に狂ってるのかはわからないけど」
狂っている振りをしているかもしれないし、そもそもここにフランドールがいない可能性もある。
厳重に警備されているから来てみただけで、ここに彼女がいると決まったわけではないのだ。
まあ、十中八九この地下室にいるのは間違いないだろうが。
迷路のような通路を飛びながら、とりとめもなく考えていると、妖精さんの視界に大きな扉が映る。
ここまで近づく事で、改めて察する狂気。
扉の隙間から漏れ出ており、可視化しそうなほど密度が濃い。
「さて、どうやって入ろうかな……おろ?」
扉の一部分が欠けており、ここからなら潜り込めそうだ。
妖精さんを下ろして扉に近寄ると、積まれた埃が目に入る。
どうやら、瀟洒なメイドはこの地下室に行かせてもらえていないようだ。
つまり、フランドールは生きた人間と会った事がない、と。
まあ、だからなんだという話だが。
ともかく、部屋に入った私は、直ぐに上昇して室内を見回す。
「これは、中々強烈だねぇ」
一見すると、普通の女の子らしい部屋だ。
可愛らしいぬいぐるみや、絵本等が納められた本棚。
雰囲気もファンシーな感じで、ここまでならば微笑ましいだろう。
しかし、所々壁にこびりついている血や、辺りに散らばる骨の残骸。
ちぎれ飛んでいるぬいぐるみの破片等もあり、どこか薄ら寒くなるような光景だ。
少女らしき無邪気な内装と、己の破壊衝動を表に出した末路。
まるで、綺麗な二面性に分かれているかのように、両極端な部屋となっていた。
一頻り観察し終わったあと、私はベッドの上にいる少女に注目する。
彼女はベッドに腰掛けており、ぼーっと焦点の合わない瞳で虚空を見つめている。
少女が僅かに身じろぎするたび、背中に生えている七色の羽が揺れ動く。
キラキラと小さな光を放ち、今にも消えそうな少女の姿と相まって、どこか幻想的な雰囲気だ。
身体年齢に見合わない表情を浮かべているのは、私の知っている通り──フランドール・スカーレットである。
「うーん」
実物を見られて嬉しいのだが、同時に若干なんともいえなくなってしまう。
前世での明るいフランドールを知っているからか、それとも傲慢さからの思いからか。
端的に表すと、私はフランドールに同情していた。
いつからこんな風になったのかはわからないが、少なくとも長い間この表情だったのだろう。
植物のような在り方──まさに、生きる屍だ。
今生は面白おかしく楽しんでいる私とは、正反対の思いを感じる。
「やりたいようにやればいいのに」
フランドールは、吸血鬼だ。
しかも、破壊という一点においては、他の誰の追随も許さないほどである。
妖怪としての種族に優れており、また能力の才能にも恵まれている。
何故、こんな場所に篭っているのか。
思うがまま、外に出て暴れれば良いのに。
前世では特に気にならなかったのだが、改めて目にすると疑問を抱く。
狂気を宿しているはずのフランドールが、どうして大人しく地下室にいるのか、と。
「……戦っている?」
外に出たい狂気と、レミリアを困らせたくない純粋なフランドールの気持ちが。
それならば、ここにいる理由も納得できる。
仮に、私の推測が正しかったとすると、四百九十五年の間、独りで自分の狂気と向き合っていたのだろう。
「強いね」
身体はもちろん、その心も。
だけど、気に入らない。
誰かに気を遣っているその様子が、どうしようもなく腹が立つ。
妖怪らしく傲慢に、全てを見下せばいいのに。
「……そうだ」
私が──フランドールの狂気をなんとかしてやろう。
そうすれば、こんな暗い場所で閉じこもる事もなく、外で吸血鬼としての力を振るうだろう。
気の赴くまま、自由に生を楽しんでくれるはずだ。
こんな無機質な表情は、見ていたくない。
フランドールには悪いが、私のやりたいようにやらせて貰う。
自然と笑みが浮かびながら、私はフランドールの前に妖精さんを飛ばす。
ゆっくりと降りてきた視線と絡み、彼女は微かに目を見開く。
『あなたは、だぁれ?』
「私はしがない妖精さんさ。この館を散歩していると、君を見つけたのでね。興味が湧いて来てみたんだよ」
『ふぅん』
興味なさげに呟く、フランドール。
相変わらず目の焦点は定まっておらず、表情筋がピクリとも動いていない。
これは、思ったよりも重症だ。
自分の中で、全てが自己完結している……例外が、レミリアの言いつけなだけで。
心を動かさないようにしているのだろう。
感情面を表に出しすぎると、狂気が外に溢れてしまうから。
半ば当てずっぽうの憶測だが、あながち間違っていないと思う。
というか、狂気を内に溜め込みすぎているから、こうして危うい状態になっているのではないだろうか。
ある程度発散すれば、もう少し笑ったりできると思うのだが。
フランドールの様子を観察しつつ、私は言葉を繋ぐ。
「君は、どうしてこんなところにいるのかな?」
『お姉様がここにいろって言ったから』
「黙って外に出ればいいじゃないか。少しぐらい外に出たって、大丈夫だよ」
『ダメなの。私がここにいないと、全部壊しちゃうから……』
途中で言葉を区切ると、フランドールは胸を押さえた。
堪えるように目を伏せており、徐々に妖気が立ち上っていく。
ほの暗く、それ以上に邪悪な妖力。
禍々しさすら感じるそれを、彼女は一生懸命抑えようとしていた。
対して、私は右眼に妖力を集めて意識を鋭くしていく。
これは、チャンスだ。
フランドールの、意識と狂気がせめぎ合う狭間。
二つの感情を同時に見られるのは、今を置いて他にない。
『ぐ、ぐぐ……』
苦しげな呻き声を上げる、フランドール。
室内に重苦しい威圧感が漂い、重力が何倍にもなったような錯覚に陥る。
妖精さんを通じて、私にも彼女の威圧は届いていた。
額に一筋の冷や汗を垂らしながら、私はひたすらフランドールに意識を傾けていく。
見る。
観る。
視る。
覗る。
看る──みえた!
同時に、視界の端にあるぬいぐるみが、なんの前触れもなく破裂した。
「っ!」
思わず肩を震わせた私は、傾けていた意識をフランドール全体に広げる。
いつの間にか彼女は右手を閉じており、笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
『フフッ』
子供のような無邪気な笑顔とは裏腹に、フランドールの表情は恐ろしい。
内から滲み出る狂気に彩られ、その形相は醜いとすら思ってしまう。
これが、フランドールの狂気か。
想像以上に、堕ちている。
鬱憤が溜まっている、とありありとわかる面持ちだ。
仕方ない事だとわかっているが、レミリアもフランドールの気晴らしに付き合えば良かったのに、と柄にもなく悪態をついてしまう。
数瞬で呼吸を整えた私は、ゆっくりとした口調で尋ねる。
「いきなり、どうしたんだい?」
『ねぇ、妖精さん。わたしと遊びましょう?』
「遊び?」
私の問いかけには答えず、フランドールはベッドから下りる。
空に飛んでくるくると回り、七色の光を降り注いでいく。
この光景だけを見れば、思わず見惚れるぐらいに良い風景だろう。
その中心のフランドールが、狂の貌を宿していなければだが。
『妖精さん。今からわたしが掴まえるから、それから逃げてね』
「いや、私はまだやると言ったわけじゃ──」
『じゃあ、いくよ!』
話が通じていないのだろう。
一方的に言い切ったフランドールは、回るのをやめると右手を突き出した。
瞬間、私の背筋に物凄い悪寒が走る。
視界に映る光景がスローになっていき、フランドールの右手が遅々と閉じられていく。
まずい。
あれは、いけない。
止めなければ。
止めなければ、なんだ?
死ぬ。
あっさりと、殺される。
アリを潰すように、呆気なく命を摘み取られてしまう。
だけど、どうやって止めればいい?
フランドールの手は、もう閉じられようとしている。
このままでは、間に合わ──
「ぐぅぅぅぅぅぅうううッ!」
咄嗟に、妖精さんとのリンクを切る。
だが、フランドールの能力は私の元にまで届き、右目が爆発した。
訪れる激痛を耐えながら、私は目を押さえて歯を食いしばる。
もがいた事で湯のみが肘に当たり、倒れ込んでお茶を零す。
涙で滲む左目を動かし、タオルを探していく。
直ぐ手前にあるのを見つけたので、それを取って右目に添える。
いまだに酷く痛いが、幾分か慣れて状況を省みる余裕ができた。
「……末恐ろしいね」
能力については、知っていた。
フランドールの【ありとあらゆるものを破壊する程度の能力】。
彼女だけに見える目を握る事で、文字通りあらゆるものを壊す事ができる能力だ。
あまりにも規格外な能力に、私は口の中で笑みを殺した。
この身に受けて、実感した。
あの能力は、妖怪としての存在をも揺るがす物だと。
被害は
あと少しでも判断が遅れていれば、私の顔右半分は粉微塵になっていたに違いない。
そして、破壊された事が自然だと身体が認識して、顔が再生しないままになっていただろう。
可憐な少女が持つには、とてつもなく恐ろしい能力だ。
「はぁ……とりあえず、治療をしよっと」
ため息をついた私は、救急箱を取りに向かうのだった。
♦♦♦
右目を中心に包帯を巻いた後。
テーブルの汚れも拭き取り、私は椅子に深く寄りかかっていた。
チクチクと刺さるような痛みにも慣れ始め、ひとまずは一安心といったところだろう。
治癒能力の高さは、流石妖怪といったとこか。
あるいは、妖怪の再生能力を持ってしても、容易に治せないフランドールの能力を賞賛するべきか。
どうでもいい事を考えながら、私は思考を整理していく。
恐らく、妖精さんはフランドールによって破壊されただろう。
あの能力を受けて、無事で済むはずがない。
しかし、収穫はあった。
私の眼にはしっかりと、フランドールの内面が映し出されていたのだ。
「あとは、二つのバランスをどう崩すかだねぇ」
狂気に覆われた心の中に宿る、小さな光。
あの輝きを引っ張りだせば、フランドールは自身の狂気を抑え込めるだろう。
そこは、私の腕の見せどころってね。
一頻り笑った後。
いまだに昂っている感情を鎮めながら、私は目を細めて呟く。
「それで、いるんだろう?」
「──あら、見つかってしまいましたか」
向かいの椅子に、一人の女性が座っていた。
まるで、アニメーションのコマとコマの間に入り込んだかのように。
いつの間にか──という言葉すら、生ぬるい。
初めからそこいた、と脳が認識するほどの自然さで、彼女はここに現れたのだ。
扇で口元を隠している女性は、紫水晶色の瞳をこちらに向けている。
座っているだけで感じる、底知れない雰囲気。
先が見えない奈落の底を覗いているかの如く、あるいは果てのない天を仰いでいるかの如く。
彼女からは、圧倒的な威厳が自然と滲んでいた。
女性の背後にも、一人の女性がいた。
伏し目がちに佇むその姿は、目の前にいる女性に心からの敬意を表している。
両者共に幽香に並ぶ妖力を持っており、同時に私の知り合いだ。
「今日は気配が敏感になっててね。紫の気配がなんとなくわかったんだよ」
「なるほど。それならば、納得ですわ」
絹のような黄金色の髪を揺らし、女性──紫は小さく頷いた。
細められた瞳は叡智が渦巻いており、凄まじい速さで思考をしているのだろう。
紫の演算能力は、恐らく妖怪一だ。
こちらが一つの事を考える間に、彼女は千の物事を考えている。
それほどまでに、紫とそれ以外に隔絶された差があった。
「ほい、お茶」
「いただきますわ」
「藍もどうぞ」
扇を閉じて湯のみを持つ紫を尻目に、私は背後の女性──藍にも勧めた。
しかし、彼女は申し訳なさそうに首を振るのみ。
今この場では従者としている、と言外に示しているようだ。
プライベートならもっと気安いのだが、これは真面目な話でもするのだろうか。
もてなしが終わった私が席につくと、見計らったように紫が口を開く。
「異変は解決しました」
「おろ? そうなんだ? いやー、ここからだとよくわかんなかったけど、解決したのなら良かった良かった」
頭を掻いて朗らかに笑う私を、紫はじっと見つめていた。
宝石そのものと言えるほどに輝き、人間味を感じさせない瞳で。
無言で視線を絡ませあってから暫し、不意に紫が表情を和らげる。
すると、先ほどまでの張り詰めた緊張感は消え失せ、代わりに穏やかな空気が満ちていく。
「随分と、酷いしっぺ返しを食らったようね」
「あー……わかっちゃう?」
「当然ですわ。みずはの存在が揺らいでいますもの」
「え、マジ? そこまで危険な状態だったかぁ」
予想以上に、私は危なかったらしい。
一撃で河童を殺しかけるとは、流石吸血鬼といったところか。
まあ、一週間ほど安静にしていれば、大丈夫だろう。
長年の経験からそう結論づけ、お茶請けの饅頭を口に運ぶ。
そんな呑気な私の様子を、呆れた表情で一瞥した後。
気品溢れる所作で、紫は宙に指を滑らせた。
相変わらず、見惚れるような動きだ。
幽香を動の妖艶と表すのならば、紫は静の妖艶といったところだろう。
大和撫子のような淑やかさな仕草の節々に、とてつもない艶やかさが含まれている。
また、交渉時に覗かせる胡散臭さと合わせれば、年齢不詳の絶世の美女という感想に落ち着く。
見た目は少女なのだが、雰囲気が大人っぽく見せているのだ。
不意に、前世での言葉を思い出す──ゆかりんさんじゅうななさい。
「みずは?」
「うぇい!?」
「今、なにを考えていたのかしら?」
「えっと、紫ってすっごく綺麗だよねぇって」
「……そう」
思った事を素直に告げると、珍しく返事までに間があった。
紫の顔を見てみれば、頬が微かに赤く色づいている。
これは意外だったのだが、なんと紫は誰かに褒められた経験が少ないらしい。
普段の胡散臭い雰囲気が全面に出ているからか、誰もが彼女を敬遠しているのだ。
しかし、フタを開けてみればどうだ。
こんなにも少女らしい、可愛らしい反応を見せるではないか。
幻想郷の人達の見る目がない、と思ってしまう私であった。
自然とニヤニヤしていると、紫は一睨みしてから手のひらを上に向ける。
そこには、一粒の球が乗せられていた。
「これは?」
「触媒よ。これには私の妖力が込められているから、今まで以上の眼になるはずだわ」
「……紫には敵わないなぁ」
苦笑いを一つ。
誰にも言っていなかったのだが、私の絡繰はお見通しのようだ。
紫が察した通り、元々私の右目は義眼だった。
こうなってしまった経緯は当然あるのだが、色々と苦い記憶と共にある。
私の左腕と右目を失った出来事。
思えば、紫ともその時からの付き合いだ。
そう考えると、彼女が知っていてもおかしくはないだろう。
「幻想が込められた触媒と、それを否定する科学技術。一見矛盾している二つを組み合わせ、義眼を創造する──その手腕には脱帽ね」
「私からすれば、紫の地頭の良さの方が凄いと思うけどねぇ」
「あらあら。みずはに褒められちゃった」
「全然嬉しそうな顔をしないくせに」
紫にとっては、当然の賞賛だからだろう。
他人に呼吸ができて凄いと言われても、素直に喜べないものだ。
彼女の中では、そういう次元なのである。
紫の偉大さを再認識した私は、ありがたく球を受け取って仕舞う。
「渡す物は渡せたし、もう行くわね」
「あいあい。またいつでも遊びに来てねー……あ、そうそう。藍には用事があるから、少し借りてもいい?」
そう尋ねながらも、私の視線は藍のある部分に釘付けだった。
ゆらゆらと柔らかく揺れている、九つの金の絨毯。
ここからでも質の良さは容易に窺え、正直もう辛抱たまらない。
無意識に手をワキワキさせている私に、紫はため息をついて口を開く。
「好きにしなさい」
「よっし! らーん! こっちにいらっしゃいっ!」
「わ、わかったから御手柔らかに頼む……本当に」
「善処するー!」
藍の九尾は魔性なのである。
一度触れてしまえば、中毒になるほどのめり込んでしまう。
流石は傾国の美女だ。
ここまで私を虜にしてしまうとは……藍しゃま、侮れぬ。
藍と戯れ始めた私を見て、紫はもう一度ため息をつくのだった。
▼●▼●▼●▼●▼●▼●▼●▼●
無数の目玉が覗く、不気味な空間。
普通の人間がこの光景を見てしまえば、理性が容易く打ち砕かれて発狂してしまうだろう。
そんな恐ろしい場所を、日傘を差している紫は我が物顔で進む。
当然だ。
この空間は、紫によって創られたスキマなのだから。
境界を操ってスキマを創造して、あらゆる場所へ行ける移動手段になっている。
もちろん、紫の能力の規模はこの程度ではない。
恐らく……いや、ほぼ間違いなく、紫の【境界を操る程度の能力】は、もっとも応用力に優れ、それ以上に強力な能力であろう。
局地的には、この能力を上回る物があるかもしれない。
しかし、総合力として考えると、紫以上の能力はないと言ってもいいだろう。
ただ、紫は何名か己に匹敵する……あるいは、それ以上の能力者を知っているが。
スキマを通り過ぎると、自分の家であるマヨヒガの居間にたどり着く。
藍はみずはの元に置いてきたので、現在は紫一人だけだ。
縁側に歩いて腰を下ろし、ししおどしの音色を楽しむ。
「……」
かこん、と小気味よく響く。
自然と癒されるような雰囲気が漂っていたが、紫の顔色は芳しくない。
扇の先を唇に添えながら、眉根を寄せて思案していた。
紫にとって、みずはは良き理解者である。
昔から自分の夢を手伝ってくれて、今も紫が愚痴を零しに来ても、嫌な顔一つせずに聞いてくれる。
友人の名前を述べよと言われれば、何人かと一緒にみずはの名前が挙がるぐらいだ。
それほどまでに信用しているし、また信頼もしている。
好意もある。
様々な者から胡散臭い妖怪と思われる中、みずはは変わらずに接してくれているからだ。
もちろん、その他の有象無象にどう思われようと、紫にとっては心底どうでもいい。
しかし、やはり心を通わせる友人がいるだけで、自分は救われていると理解していた。
藍もみずはの事を好ましく思っており、できれば末永く仲良くしたいところだ。
「ふふっ」
しかし、それ以上に──みずはには利用価値があった。
彼女の能力による閃きに、紫をして警戒せざるを得ないその眼。
みずはの眼……いや、能力には、比喩でなく森羅万象を見通す力がある。
彼女が河童という種族だからこそ、その能力が劣化して閃きだけに収まっていた。
紫の脳裏を過ぎるのは、みずはの能力が開花した時。
左腕を引きちぎられ、右目を抉られ、今にも死にそうだったあの日。
確かにその瞬間、みずはの中でなにかが変わったのだろう。
少なくとも、傍から見ていた紫が一目でわかるほど、彼女の雰囲気は異質であった。
「うふふっ」
不意に思い立った紫は、スキマを使って幻想郷の中心に転移した。
スキマに腰を下ろし、空から眼下に広がる景色を見つめる。
紫にとっては、恐れるに足らない人妖が住まう楽園。
ずっと焦がれて、ようやく手に入れた大事な大事な宝物。
自分の宝を壊そうとする者が現れたのなら、紫は幻想郷を愛する者として対応するだろう。
それこそ、誰に喧嘩を売ったか、文字通り死ぬほど後悔させるまで。
ただ、普段の異変に関しては、博麗の巫女に任せる所存であるが。
「貴女の目には、幻想郷はどう映っているのかしらね」
己の式と戯れている河童に思いを馳せ、紫は少女然とした笑みを浮かべる。
彼女の性格ならば、紫が誘導しなくとも幻想郷を守ってくれるだろう。
また、自分が困っている時には、その能力を惜しみなく使ってくれるはずだ。
それ以上に、友人だからという理由で、自分を支えてくれる確信がある。
「幻想郷は全てを受け入れるのよ」
一体、みずはは自分になにを魅せてくれるのだろうか。
己の手のひらで転がる内は、愉しませてもらおう。
だが、手のひらから余るような存在になるのなら、その時は──
「紫様」
「あら、もういいの?」
「はい。みずはには満足していただけましたので」
「そう」
瞬時に主としての面立ちに戻り、紫は頭を下げる藍を一瞥する。
彼女の手には二つのタッパーが握られており、みずはの迂闊さにため息を漏らす。
どこから知識を仕入れているのかわからないが、彼女は外の世界の物を造っている事がある。
今回のタッパーが良い例だ。
本人は隠しているつもりなのだろうが、紫にとっては子供の誤魔化しにしか思えない。
今度、一つ忠告でもしておこうか。
顔色を真っ青にして慌てるみずはの姿を幻視して、自然と紫は口元に弧を描く。
「紫様?」
「なんでもないわ。それで、そのタッパーの中身はなにかしら?」
「稲荷寿司ときゅうりのぬか漬けです」
どこか、藍の表情は嬉しげなのは見間違いではないだろう。
九尾が左右に揺れており、よほど稲荷寿司が喜ばしいと理解できる。
また、紫もみずはのぬか漬けが大好物であり、浮かべていた笑みに歓喜の色を宿す。
「じゃあ、しばらくはこれが食べられるわね」
「はい。私も、楽しみです」
笑顔で頷き合う主従。
スキマを開いて入り込み、閉じる間際にもう一度、紫は幻想郷を眺める。
改めて自分の気持ちを再確認した後、居間に戻ってスキップしそうな藍の背中を見送る。
これから、ご飯の支度をするのだろう。
紫の目からでも、彼女の機嫌の良さは一目瞭然だ。
「まったく……」
二人がみずはに友好的なのは、もしかしたら胃袋を掴まれたからかもしれない。
ふとそんな考えが過ぎった紫は、心の中で苦笑いをするのだった。
自分も柔らかくなったわね、と思いながら。