なんとなく後ろ髪を引かれながら、ぼくは研究教室まで戻ってきた。
電気がついていないと暗くて埃っぽい。早々に埃だけでもなんとかしないと。
途中で倉庫に寄ってきたので、多少の掃除道具はある。
ハタキに雑巾に、繊細な器具や瓶を拭き取るための雑巾より柔らかい布、バケツや箒などなどだ。
あとは綿棒なんかで細かいところにまで入り込んだ埃を除去する。
まだ夜時間まで時間があるし、それまでできるとこまで掃除しよう。
まずは中央のティータイムに使っているテーブルを改めて水拭きし、その上に棚からひとつひとつ取り出したガラス瓶や器具たちを細かくふき取ったり綿棒でポンポンしながら並べていく。大量の容器があるためすぐにテーブルの上がいっぱいになるけど、そうなる前に空いた棚の部分をハタキで埃をはたいて落とし、雑巾で綺麗にする。
テーブルの上に乗り切らなくなってしまった分は棚の上部を掃除し、そこに再び置くことにした。
上から下へ、細かい部分を掃除しながら効率良く、そして二度手間にならないように。
材料は精油として抽出する前に腐ってしまいそうなものを中心に廃棄するか、すぐに食べてしまえるように仕分ける。パイにしたりコンポートにしてみたりすればまだまだ食べられる段階だからね。明日のおやつとして大量に作っちゃおうかな。
みんなに食べてもらうかどうかは…… 事情を伝えたうえで食べたいって言ってくれた人限定ということで。
そうして棚をピカピカに磨いてガラス瓶たちを元に戻す。
心なしか輝いて見えるみたいだ。ぼくの宝物たちも喜んでくれている気がするや。
あとは壁を軽くはたいていって、最後に床の掃除をする。
箒ではいて、隅に寄せたものをチリトリで回収。こんもりと埃が集まってしまった。数日で結構埃がたまるもんなんだなあ。
ゴミ袋に廃棄するものと、集めたゴミを入れて口をしっかりと閉じる。
「ああ、そういえばこっちの引き戸…… えっ?」
前にシャンプーやリンスを作った際のサンプルが床に面した引き戸に入っていたはずだから、二度手間だがそこも掃除してしまおうと開けたら…… そこには、変わり果てた姿の彼がいた。
「お、王馬くん…… ?」
俯いて彼の顔はよく見えない。
微動だにしない彼に、さすがのぼくも心配になり屈み込む。
まさか…… またここで殺人、なんてことは。
「王馬くん、ねえ、王馬くん?」
鼻をくすぐる微かな血の匂いに顔を青ざめさせながら手を伸ばす。
「にしし」
気づいたときには、彼がぼくの伸ばした腕を掴んでぐっと引き寄せ、立場を入れ替えるようにぼくは倒れ込んでいた。
「香月ちゃんの大事なものみいつけた」
引き戸の手前に倒れこんだぼくとは違い、王馬くんはぼくの腕を支えにするようにして立ち上がったようだった。頭上から声がするものだからそっと目線を上げると、王馬くんが悪い顔をしながらぼくの動機ビデオを持って笑っていた。
「ま、待って!」
「おっとー、香月ちゃんってなにもないところに顔面からダイブしちゃうほどドMだっけ?」
「ほ、本当に、それだけはやめて! 変な冗談言わないでよ!」
「あらら、普段怒らない女性が怒ると怖いって本当なんだね」
決死の覚悟で王馬くんにタックルしても、いくら手を伸ばしても、動機ビデオは取り戻せない。
「きみ、怪我してたんじゃないの?」
「あれ、分かる? あ、まさか血の匂いでもする? さっすが香月ちゃん! 超高校級のアロマセラピストは犬並みの嗅覚まで持ってるんだね!」
彼が見せてきたのは左手の甲だ。擦りむいたような、結構派手に血が出た跡があった。派手な出血をしているとはいえ、擦り傷程度でぼくの嗅覚は反応してしまうのか…… 厄介な。おかげで見事に騙されてしまった。
「なんと、この学園にまでオレを狙う刺客が潜んでて、さっきまでその攻撃を受けていたんだよ! 秘密裏に処理してモノクマに引き渡しちゃったけどね!」
「嘘つき……」
外部の人間が潜り込めるなら、それこそどこかから出られるかもしれないという希望に繋がる。悪趣味な嘘だよ。
「そうだよ、嘘だよ! ホントはね、春川ちゃんが人でも殺せそうな顔で追ってくるもんだから怖くて怖くて、不幸にも途中で転んじゃってさー」
「それも嘘かな」
だって、それが本当なら彼は今頃春川さんに捕まっていてもおかしくない。あんな必死な春川さんに転ぶ、なんて隙を見せたら速攻で捕獲されそうだもの。
「えー、ホントだよ」
「嘘か本当かはどうでもいいから、早くそれ返してよ。他のみんなの分があればいいんじゃないの?」
「どうでもいい?」
「どっちにしろ教えてくれないなら、訊くだけ無駄だよ。絆創膏くらいは渡すけど、それだけは本当に…… 返して」
王馬くんはキョトンとして少し考えたあと、わりと真面目な声で言う。
「香月ちゃんって案外臆病なようで、自分勝手だよね。自分の秘密さえバレなきゃ他の人のことはどうでもいいんだ?」
「…… それはっ」
ダメだ。彼相手にはどんな取り繕いかたをしてもバレる。そういう嘘は、すぐにバレる。
ぼくはなにも言えなかった。
「別にいいけどね。自分に素直なのはいいことだよ! 正直者のオレが言うんだから間違いないよ!」
「きみのどこが正直者なんだよ……」
「うん、嘘だよ! あんまり八方美人してても限界があるんじゃない? ワンマンプレイってロマンあるけど取り返しのつかないことにもなりやすいし。そういう意味では赤松ちゃんもそうだけど、香月ちゃんも危ういよね」
あれ、もしかして忠告されてる…… ?
いやいや、ぼくはともかく赤松さんまで危ういなんて、そんなの嘘に決まってる。
それに、見事に話が逸らされているじゃないか。
彼はこのまま動機ビデオのことはうやむやにして帰るつもりなんだ。それだけは止めないと。
「誤魔化されないよ。返して」
「もう、強情だなー」
「強情なのはどっちだよ…… だから返して」
「うーん、こういうときの香月ちゃんはつまんないね。普段のキミならわりとつまらなくないんだけど」
「……」
彼から言われると結構傷つくな。
悪かったね、強情で。
「まあいいや、返してほしかったらオレに追いついてみせるんだね!無理だろうけど!」
そう言って王馬くんが走り出す。
扉を乱暴に開けて夜の植物園の中へ、そして外へ。
「まっ、待って! …… ああ、もう!」
あれが見られるのは本当にまずい!
幸い掃除もひと段落ついていることだし、ぼくも王馬くん捕獲作戦に参加しよう。
掃除道具を隅に寄せて、走り出す。体力はないから、きっと追いつけないけど…… いろんな人が彼を探し回っているなか、1人追っ手が増えるだけでも違うだろう。
あれ…… そういえばゴン太くんや入間さんはどうしたんだろう。もしかしてもう捕まっていたりして……
走りながら、まずぼくは寮を目指した。
「…… えっと、王馬くんならまだ来てないよ」
けれど、王馬くんの部屋の前にいたのは赤松さんだった。
「赤松さん?」
「最原くんが、1人は逃げ場所を塞いでおいたほうがいいって言ってたから、私がここを見張ることにしたんだよね」
「なるほど」
「さっき寮の前を走っていくのが見えたから追いかけようと思ったんだけど…… 私がここから離れるわけにはいかないから」
ということは、学園のほうへ向かったんだろうな。
「ありがとう赤松さん、王馬くんが学園のほうに向かったことさえ分かればなんとかなると思う」
「そっか、最原くんに会ったら、もう休もうって伝えてもらえるかな?さすがにもうすぐ夜時間になるし…… 王馬くんも帰ってくると思うし」
「分かったよ。そうだよね、もう時間も遅いもんね」
あと少しで夜時間だ。
マジックショーのリハーサルも既に終わっているだろうし、様子見がてら王馬くんの搜索でもしようか。
「それじゃあ赤松さん、また明日ね」
「うん、また明日」
適当に学園の一階部分と体育館までの道のりを捜索しながら行こう。
ぼくはそうして小走りで学園の建物まで向かった。
到底王馬くんを捕まえられるとは思ってないから、せめてゴン太くんあたりが懐柔されて王馬くん捕獲に力を貸してくれればいいんだけど。
「誰にも会わない……」
夜の学園。誰にも会わないとなると地下でなくとも薄暗くて怖い。
なんだか上階のほうで物音がするので、もしかしたらみんなそっちにいるのかもしれない。
実はもう王馬くんは捕まっていて、上のどこかの教室で尋問を受けてるとか……?いや、それにしては彼の嘘泣きが聞こえない。
どんな基準だよとは自分でも思うが、聞こえるのは足音のようなわずかな音なので、上で追いかけっこをしてきる可能性のほうがまだ高いだろうな。
「体育館には、もういないかな」
いや、体育館には明かりがついたままだ。
ギリギリまでやっているのだろうか? それにしてはとても静かなのだけど……
「舞台の裏かな」
なんとなく、変な匂いがする気がする。
水槽の横の、隠されたカーテンの裏。そこを開けるだけなのに、嫌に心臓の音がうるさい。
いや、大丈夫だ。大丈夫だ。もしかしたら3人ともお手洗いに行って静かなだけかもしれないし……
ごくりと、生唾を飲み込んで首を振る。
こんなにも静かだから余計に不安になるんだ。大丈夫、大丈夫……
「…… ゆ、めの、さん」
今度こそ、心臓が止まったかのような錯覚を覚えた。
階段の横に設置されていた花瓶は無残に割れ、中身の花たちをそこら中にぶちまけている。そして、その下にうつ伏せで倒れている夢野さんのマントは左胸の辺りを中心に血が散っている。変な飛び散り方をしているような気がして、悲鳴を押し殺しながらぼくはそれを確認しようとして…… やっぱりできなかった。
1人で、この状況で、マジマジとこんな状態の人を見るなんて怖くてできない。
顔を青くしながら少しだけ目線を外しながら状況確認する。
血の跡は背中全体に擦れたような跡があるけど…… 肝心の左胸の部分以外には外傷は見受けられない。なにか刺さっているようだけど、それを確認できるほどの勇気はなかった。
彼女は背中の血さえなければまるで階段から転んで落ちたようにも見える格好だ。
そしてマントを着替えようとしている最中だったのか、右手にマントを掴んだまま倒れ込んでいる。
花瓶は倒れた時に引き倒してしまったのか、カケラは全て彼女の上に乗っているか、周りに散らばっているようだ。
そして彼女は当たり前のようにずぶ濡れである。
やはり水中脱出のマジックのリハーサル中に…… でも、だとしたら真宮寺くんとアンジーさんはどこに?
ぐるぐると混乱した思考でキョロキョロと辺りを見回す。
どうしようもなく不安で、でも疑われたとしても今ここで少しでも情報がほしくて、手がかりを探す。
「そういえば…… ハンガーが見当たらないな」
それに、さっきからなんだか嗅いだ覚えのある匂いがする。
たくさんの花の匂いに混ざってよく分からなくなっているが、日常でよくある香りだ。それは、夢野さんの背中と、そして階段のほうから漂ってきているようだった。
「階段…… に、なにかある?」
夢野さんの生死確認をするのが先だろうが、ピクリとも動かないし、そもそも、心臓の真上からあんなに血が出ているのでは…… いや、まだ死体発見アナウンスがまだだから、発見者がぼくを入れて2人だけなのかな。
なら、真宮寺くんかアンジーさんはまだ彼女の状況を知らない可能性が高い。
どちらかは恐らく、この状態の夢野さんを発見して他の人を呼びに行っているのか、それとも犯人として逃走しているのか……
発見していない1人も、お手洗いだったとしてもすぐに戻ってくるだろうし……
ああもうっ! もうすぐ夜時間なのに、こんな時間から新たにここまで来ようとする人なんていないだろうし…… どうしよう。
「ぼくが、先に証拠を、集めない、と」
先の裁判では、ぼくは役立たずだった。
反論ばかりして、自己弁護ばっかりで、真実に向き合おうとせず、目を逸らし続けた。
今、ぼくができることを。そう、最善の行動を。
今やるべきことは、動揺して泣いていることじゃない。
ぐっ、と歯を食いしばって、再び夢野さんの死因を確認しようとしたとき、気づいた。
階段の下のところから夢野さんのところまで水が滴り落ちているのを。
「まさか、水中脱出のマジックって……」
階段の一番下の部分、そこをあーだこーだといじくりまわし、とうとうその口がパックリと開かれる。
夢野さんくらいなら簡単に這い出てこれそうな、そんな階段の内部構造だ。
内側になにか落ちているのが見える。
「ハンガー?」
夢野さんが新しいほうのマントをかけていたハンガーだ。
本来なら、夢野さんが着替えようとしていたであろう外に落ちていないと不自然だけど…… そう思って階段の中に上半身を入れて手を伸ばす。
うーん、ぼくの体だとわりと狭いな。
そうやって階段の中に入ると、ますます日常でよくあるその香りが気になった。
「これ、ケチャップ?」
匂いの元まで辿り着くことはできたが、残念ながら暗くてよく見えない。匂いの強さでなんとなく階段上部にケチャップが付着しているのだとは思うが、なぜそんなところにそんなものがあるのかがさっぱり分からない。
とりあえず、ハンガーを拾う前に匂いの強い水槽側の入り口らしき場所に触れると、簡単に開いた。横に鍵もあるようなので、男子たちが運んでいる最中は気づかれないようにしていたのだろうな。
どうやら水槽側の入り口は犬猫の出入り口のような、押したり引いたりすると開く構造になっているらしい。
入り口に触れたとき手にべちゃっとした感覚があった上に匂いが濃くなった。恐らくここにケチャップが塗られていたのだろうけど…… まあ、これも貴重なコトダマだ。記憶しておこう。
「うーん、暗い……」
膝でずりずりと後退しつつ、目的だった足元に落ちているハンガーを手に取る。その瞬間、チクリと小さな痛みが指先に走った。
「…… っ、っ…… !」
そして、すぐさまぼくの体は力を失ったように倒れる。
もちろん、うつ伏せに。
「………… っ」
声も出ない。まずい。まずい。
もしかして夢野さんもこの罠にかかったのか?
脳裏を過るのは明確な〝 死 〟の一文字。
このままじゃ、ぼくもまずい。
さっきのは確実に毒だろう。いつの間に。
毒殺か? このままじわじわと死んでいくのか? そんなことばかり頭の中をぐるぐる回る。
まずい、殺されてしまう。分かっているのに、一言も発せないし、指先ひとつ動かせない。
「……」
誰かの足音が聞こえる。
この足音は天使か死神か、分からないけれど、本格的にまずい。
体は一切動かせないのに意識だけはっきりとしているなんて、なんてもどかしいんだろう。早く、早く、早く、動け、動け…… !
無情にも、階段から出ているぼくの足が掴まれる。
い、いや、もしかしたらこのまま引っ張って助けてくれるのかもしれないし…… そう思ったのが馬鹿だった。
「…… っ! っ!」
そのまま抵抗できぬまま両足を掴まれ、ぞわぞわとした感覚が全身に伝播していく。そして、状況が状況だけに底知れない不安を感じたその次の瞬間、ぼくの体は勢いよく上に押し出された。
痛い、痛い!
上手くいかずに何度か頭を階段上部にぶつけ、そしてとうとう水槽側の入り口から放り出された。
水中に投げ出された体は無抵抗に沈む。
声も出ない、体も動かない。おまけに息もできない、なんて。
口も開けず、ただガボガボと空気だけが抜けていく。
ぼくの死へのリミットが、どんどん迫っていく。
うつ伏せのままなのでクロが誰だかは分からない。なにも見えなかった。
ああ、ぼくはやっぱり役立たずのまま死んでいくのか。
生きたいなんて思っても体が言うことを聞かないんじゃどうしようもない。
わずかな諦観と絶望。
目を閉じることもできずに、底についた。
頭上からは、ぼくが夢野さんのためにと採取してきた朝顔やアイビーも沈んでくる。縄に飾られていたそれらはまるでぼくへの細やかな
友情の意味を持つ植物をこんな風に扱われてしまったことにも腹がたつし、既に死んだものと扱われているのも不本意だから。
もう滲んで、目も水で痛くて、もうなにも見えないよ。
苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい。
ああ、星くん。きみも、こう感じてたんだよね?
ごめんね、ごめんなさい、ごめんなさい。
星くん、東条さん…… きみたちの分まで生きようって決めたのに、約束の守れない役立たずでごめんなさい。
もっと、もっと、もっと、みんなと――
「………… さん!」
死神の抱擁はひどく優しい、そんな風に聞くこともあるけど、本当なんだなあ。こんなにも暖かくて、優しくて、柔らかい。
「…… ったいに、…… けるっすから!」
おかしいな、幻覚だろうか。
今、1番会いたかった人が、見える気がする。
どうか、どうか、ぼくを助けて。
そう伝えたかった人が、すぐそこにいる気がする。
「キミは絶対に、助けるっすから!」
なんて、そんな都合の良いこと……
―― 死体が発見されました! オマエラ! 至急体育館までお集まりください!
・アナウンス
アナウンスが鳴るのは3人が被害者を発見したとき。
そして2人の犠牲者が出ていた場合、アナウンスは連続で流れます。
一応補足までに。
・紫色のヒヤシンス
西洋の花言葉は〝ごめんなさい〟〝許してください〟
今回は後者で使っています。
ティファさんより主人公のイラストをいただきました!
この絶望顔がドストライクで私は嬉しすぎてその辺を転げまわりました。毎度のご愛読感謝いたします!
【挿絵表示】