「入っていいかな? 香月さん、さっきぶり」
ぼくが研究教室で精油を用意していたら、赤松さんが訪ねてきた。
「どうしたの?」
なにか用があるのかなと、ぼくは手元を止めずに訊く。
ガチャガチャとガラス瓶をどかしながらあれも違う、これも違う。どこぞの青い猫型ロボットのように〝フランキンセンス〟の瓶を探す。勿論、最原くんに用意してほしいと言われたものだ。
できれば、青猫もどきの白黒クマには頼りたくない。
「あのね、さっき最原くんとも話してたんだけど……今夜にピアノの演奏会をやろうと思って」
「え?」
予想外の言葉で振り返る。
ガチャン、とひとつガラス瓶が倒れた。あ、これだ。フランキンセンス。
「あ、最原くんがおやすみしてるのにって思ってる?」
うん、そうだね。
確かに才能の証明は早いほうがいいと思うし、赤松さんは最原くんともそんな話をしていたみたいだけど、本当に急にやることになったんだなって。
「結構急だよね? 明日の夜時間とかじゃないんだなって思って」
「そう、今夜なんだよね。最原くんもいつ治るか分からないから、私の安全のためにも早く済ませておいたほうがいいって言ってくれて……でね? 聞いてよ香月さん!」
「う、うん」
いつもより押しが強い赤松さんに困惑しつつも返事をする。
目的の精油は見つけたから、棚の前から移動してシンクの前へ。お客様なんだし、話も長くなりそうだからお茶でも用意しよう。
「最原くん、病床を押してまで私の演奏を聴きに来ようと思ってたんだよ! それは……嬉しいんだけど、早く治すのには寝るのが一番なのにさ!」
あ、これぼく知ってる。
「だったらせめて明日に回そうって言ったら、今日がいいって。探偵って頑固なものなのかな?」
「さ、さあ……そういうイメージはなくはないけど」
いや、探偵ならむしろ柔軟な思考をしてるものなのかな。
「だから、二人で話し合って決めたんだよね。ほら、私の研究教室には放送機能があるでしょ? あれで最原くんの部屋に流せばいいかなって。治ったらまた生演奏を聞かせてあげるからって約束してさ」
「いいんじゃないかな。それで赤松さんの才能も証明されて、安全になるんだし。最原くんも赤松さんのことが心配なんだよ」
ここは聞き上手に徹するべきだ。
そういう悩みができること自体、ちょっと羨ましいなあなんて思いつつも笑顔で話を聞く。お茶を入れてテーブルに置けば、赤松さんは「ありがとね」と言って早速口をつけた。
……毒さえ一切疑わない。ここにはぼくと彼女しかいないのに。ああ、赤松さんって本当に純粋で、明るくて、すごい人なんだなと実感する。
勿論毒なんて入っていない。当たり前だ。ぼく自らコロシアイに参加することはありえない。けど、少しは警戒心を持ってほしいものだよ。
「最原くんが心配してくれるのと同じくらい私だって心配してるのに! ……あはは、ごめんね香月さん。話に付き合わせちゃって」
「ううん、こうやって話を聴いてると結構おもしろいよ……おもしろがったら失礼かな」
「いや、おもしろがってくれたほうが嬉しいよ! つまらなかったら申し訳ないし」
眉を下げて赤松さんが言う。
押しが強すぎると引かれてしまうかもしれないけど、不思議と赤松さんの話には引き込まれるものがある。なぜだろうか。恋する乙女ってやつに興味があるからなのかもしれない。
「あれ、そういえば赤松さんネイルなんてしてたっけ」
「あ、これ? これね、白銀さんとネイルブラシの話をしてたら天海くんに教えてもらってさ……」
ネイルの話を夢中で語りながら赤松さんはその爪を見せてくれる。
ピアノ演奏に邪魔にならない程度に塗られた薄いネイル。これを、天海くんが……ほんの少しだけチクリとした思いを感じながら首振り人形に徹する。
一気に、楽しかった気持ちが冷めてしまったみたいだった。
ぼくってこんなに嫌なやつだったっけ。
「……しかも最原くんはこのネイルに気づかないし、あ、でも男の子ってそういうものなのかな」
「赤松さん、時間とかは大丈夫?」
「え? あ、結構時間経ってるね。他のみんなにも演奏会のこと言わないと」
「全員参加なの?」
「うん、最原くんがそうしたほうが証明しやすいって」
「そっか」
複雑な気持ちを抱えたまま、笑みを作る。
赤松さんといると、だいぶ劣等感に苛まれるけど……でも彼女といると励まされることが多いのも事実なんだよね。
「全員集まったらこの電子生徒手帳で連絡するつもりなんだ。目覚まし代わりに」
そんなものもあったね……あまり使っている機能とは言えないけど、電子生徒手帳にはメッセージ送信機能がある。それを使って、確実に最原くんが演奏を聴けるようにするんだろうな。
ぼくたち、大体メッセージ送らなくてもまとまって行動してるからあんまり使わないんだよ。
「それじゃ、私は他のみんなにも伝えてくるね!」
それこそ、メッセージを一斉送信しちゃえばいいだけの話なんじゃないのかな。
指摘しようと開いた口は、さっさと出て行ってしまった赤松さんに言葉をかけることもできずに閉じられた。
「フランキンセンス……このまま……ううん、役に立ちたいし、最原くんは探偵だから大丈夫だよね」
そんな、曖昧な信頼の元に小瓶を揺らす。
探偵が安全圏にあるなんて、ただの偏見でしかないのに。思い込みでしかないのに。保証すらもないのに。
棚から小瓶を追加で2つ、用意する。それから、最原くんの部屋にはアロマポットがなかったのでそれも。
カチャリと、ガラスの擦れるような音が部屋に響いた。
それから、追加で用意した2つの小瓶……ビターオレンジとマンダリンを棚に戻す。もう用は終わったからね。
「行くか」
最原くんの部屋へ行き、アロマポットとフランキンセンスの小瓶を届けたら、あとは夜に向けて少し寝ておこうかな。夜時間になってからの演奏会だし、超高校級のピアニストの演奏は眠気のある状態で聴きたくない。聴くなら、なるべく万全の状態がいいなあ。きっと眠気のある状態でも超高校級の演奏を聴けば夢中になって目が覚めるのだと思うけど、気持ち的にはちゃんと真摯に向き合って聴きたいものだよね。
「よいしょっと」
いくらか重いアロマポットを持って戸を開ける。
そのまま植物園を抜けようとすれば、途中で虫網を持ったゴン太くんと出会った。
「あれ、ゴン太くん。虫でもいるの?」
「うん、今度こそ見つけたんだと思ったんだけど……また見失っちゃって」
「え……ゴン太くんって目が凄くいいんだよね。そんなゴン太くんでも見つからないって……前に見たやつと一緒?」
「多分、そうだと思う。普通の虫さんならゴン太がすぐに見つけてあげられるんだけど……びっくりさせちゃったのかな」
体が大きいから? いや、でもいつもは虫に怯えられたりしないみたいだし……別の原因だろうか。
「他の虫なら意思疎通できるんだよね?」
「もちろんだよ。だから、迷子ってわけでもないはずなんだ。研究教室の虫さんたちはゴン太のこと知ってるから……きっと先におやすみから目が覚めて、独りでずっと彷徨ってたんだよ! 早く安心させてあげなくちゃ」
そう言ってゴン太くんは再び「おーい」と声をかけ始めた。
逃げられている状態でそんなことをしたら逆効果じゃないかなと思ったけど、とりあえず急ぎの用事なので余計なことは言わないでおく。
「赤松さんから話は聞いた?」
「うん、夜時間だよね。大丈夫! それまでにはなんとかするよ」
「そっか、それじゃあ」
ぼくが道を通るときにいたということは、赤松さんが帰って行ったときにもゴン太くんはいたということだ。当然、話は聞いてるよね。よかった。
「あ、そうだ! ねえ、香月さん。よかったら荷物持つよ!」
「あれ、ゴン太くん……」
追いかけてきたのは森のクマさんじゃなくてゴン太くんだ。
そういえば、紳士になりたいんだっけ。
「虫はいいの?」
「う、でも、虫さんはあとで探すこともできるけど、香月さんのお手伝いは今しかできないことだよね?」
おお、ゴン太くんって虫さん以外を優先することもちゃんとあるんだね。
嬉しいは嬉しいけど、アロマポットひとつでそんな大袈裟な……いや、ゴン太くんは立派な紳士になるために頑張ってるんだもんね。なら、お願いするほうが彼のためになるのかな。
「きみがいいなら、お願いしようかな。最原くんの部屋にこれを届けたいんだ」
「うん、任せて! 困ってる人のお手伝いをしないなんて立派な紳士とは言えないからね!」
……別に困っているわけではないかったんだけど。気持ちは嬉しい。
「ありがとう、ゴン太くん」
こうしてぼくはゴン太くんと絆を深めつつ、最原くんの部屋に向かったのだった。
「最原くん、起きてる……?」
呼び出してみると、パタパタと足音が近づいてくる。
やがて扉が開くと、ふわりと空気が最原くんの部屋に入り込んで行った。
「わっ、びっくりした」
「え、どうしたの?」
「ううん、大したことないよ。風が吹いただけみたいだし」
風が吹いただけ……だよね?
「最原くん、こっちが約束のフランキンセンスで……アロマポットは」
「はい、これ!」
「ゴン太くんが手伝ったんだね」
「うん、ここまでありがとう」
「どういたしまして! 紳士として当然のことだよ! あ、紳士見習いとして……なのかな」
気恥ずかしそうに頬を指でかくゴン太くんに、なんだか微笑ましい気持ちになる。ここまで頑張っていると本当に応援したくなっちゃうね。
「ううん、ゴン太くんは立派な紳士だよ。ぼくを手伝いたいって思ってくれた、その気持ちが大事だと思うんだ。最原くんもそう思うでしょ?」
「うん、ゴン太くんはすごいよ。昆虫博士の才能に加えて紳士を目指していて、優しくて、強いから」
「べた褒めだね」
「あはは、そう言われると照れちゃうよ」
照れ臭そうにしているからますます褒めてあげたくなっちゃうけど、先に用事を済ませないとね。
「最原くん、このアロマを使ったあとはちゃんと換気すること。いい?」
「うん、換気扇も一応あるし……大丈夫だよ。さっきまで動くかどうかも確かめてたんだ」
「そっか」
換気扇か。そういえばぼくの部屋もあんまり使ってないなあ。
芳香浴をするときは大体研究教室に籠っているから、部屋のは使う機会がほとんどない。研究教室のほうは換気扇も扉もあるからすぐに空気が入れ替わるんだよね。
「最原くん、熱はまだあるの?」
「……うん、さっき測ったけどなかなか下がらなくて」
眉を下げて言う彼は少し頬が赤い。
「なら最原君は寝てないとダメだよ! なにかほしいときはゴン太に言ってくれれば手伝うから、遠慮なく言ってね!」
「うん、ありがとう。なにか入用になったら連絡するよ」
赤松さんがいるから大丈夫だとは思うけど、風邪をひいているときはあったかくして寝ておかないとね。
「寒くない? 大丈夫?」
「うん、赤松さんが倉庫から毛布を見つけてきてくれたから……大丈夫。心配かけてごめんね」
「いざとなったら暖房とか……あ、でも暖房つけたら喉が痛くなっちゃうか」
と、そろそろ帰らないと。
最原くんをいつまでも玄関に引き留めているわけにはいかない。
早く寝て元気になってもらわないと……いざなにかあったときに頼りにしたいから。
……ぼくが頼るべきなのは多分天海くんなんだけどさ。
「演奏会は来れないんだよね」
「ゴン太、連れて行こうか?
「ううん、大丈夫だよゴン太くん。ほら、放送はしてくれるからさ……むしろまた聴くための約束ができて嬉しいくらいだよ」
熱に浮かされつつも、最原くんはへにゃりと笑った。
うーん、ポジティブだなあ。
「そっか……」
「気持ちだけもらっておくね」
「えっと、気持ちを?」
ゴン太くんがなにやら懐を探り始める。
「気持ちをもらうっていうのは、そう言ってくれるだけで嬉しいってことだよ」
「あ、そうなんだね! ごめん! ゴン太変な勘違いしちゃって」
ああ、なるほど。ゴン太くんは〝目に見える〟気持ちがあって、それをあげればいいと思ったのか。頭はいいのに、変なところで知らないんだなあ。
「それじゃあ、お大事に」
「お、お大事に! 最原君!」
「また明日……赤松さんによろしくね」
穏やかに、最原くんは笑っていた。
さて、あとはゴン太くんとは別れて自室に戻ろうかな。
それで、いくらか寝て目を覚ます。
「ぼくは部屋に戻るね。ゴン太くん、お手伝いありがとう」
「うん、役に立てて嬉しいよ! 紳士的にお部屋まで送るよ!」
「すぐそこだよ?」
「ゴン太も外に行くために通る場所だからね」
「それもそっか。ありがとう」
重ねてお礼を言って、部屋の前で別れる。
シャワーを簡単に浴びて、着替えて、目覚まし時計をセットして……そしてベッドに身を沈める。
「おやすみなさい……」
演奏会は今夜。あともう少しのことだった。