繊細で、それでいて力強い音色が響く。
その教室を包み込むような、飲み込むような、聴くもの全てを魅了する旋律。
元からなかったけど眠気まで覚めていくような、夢中になってのめり込むような演奏。
技術なんてまるで分からないのに、ピアノの演奏に合わせて心が動いていく。動かされていく。
旋律に乗せる赤松さんの情熱が、心が、人の心を動かそうとする魅力が全て詰まったその演奏。
まるで演奏会を開いているこの教室そのものがひとつの楽器になったように、プレゼントボックスになったように、彼女の独壇場でみんなを包み込んでいる。
それは、クラシックになんて興味のなさそうなあの入間さんだって例外じゃない。演奏の良し悪しなんて分かるはずもないキーボくんだって例外にはならない。虫が好きで、ピアノの演奏なんて聞いたことがないだろうゴン太くんだってそうだ。普段は
みんながみんな、その旋律に魅了されていた。
みんながみんな、赤松さんの手の動きに見惚れていた。
それくらい圧倒的な演奏。
彼女の指が滑るたびに、目を取られる。
そしてなにより、赤松さんの楽しそうに演奏しているその表情が圧倒的だった。楽しんでいる。みんなを楽しませようとしている。精一杯大好きなピアノの魅力を、ぼくたちにぶつけるように。ぼくたちの中に染み込ませるように。
そうとしか言えなかった。
見事に、なんてチープな言葉じゃ言い表せないくらい赤松さんの演奏は美しかった。どんな言葉で表そうとしてもその言葉自体がチープになるような、それほどの演奏。
これが……超高校級のピアニスト。
誰も疑えないほどの才能。
いや、彼女にとっては〝ピアノバカ〟と呼ばれるほどの努力の結果。
好きを追求したその先の、辿り着いた頂点。
ああ、これに比べたらぼくの才能なんて、飾りだ。
そんな諦観さえ浮かんでくるほどの〝好き〟という感情。
ぼくはここまでアロマを好きになれるか? 否。
ぼくはここまでアロマに真剣になれるか? 否。
ぼくはここまでアロマの魅力を伝えられる? 否。
ぼくは、ぼくだけがアロマを必要として利用していただけだ。
他人に振る舞う技術なんて、自分のためにやっていたことのついででしかなくて、ここまで真剣に、夢中に、他人をさせるほどの魅力なんてない。
それが分かってしまって、勝手にぼくは一人で悩んでいる。
ああ、彼女はすごい。眩しい。ぼくには眩しいよ。
これが、憧れというものなのかな。
手を伸ばそうとしても届かない。数多の才能の中の、ひとつキラリと光る星。
ぼくは、そうはなれない。
「……?」
「……」
つう、と指先がぼくの頬を撫でる。
隣を見れば天海くんが微笑んでいた。
ぼくは、いつの間にやら泣いていたらしい。気がつかなかった。
天海くんは、ぼくが感動で泣いているわけじゃないと知れば呆れるだろうか。軽蔑するだろうか。
きっと彼ならそんなことはしないと、分かっているのに。
ぼくのこの浅ましさを打ち明けることもできずに、演奏を聴くしかできなかった。
この演奏会に余計なノイズはいらない。
そうだろう?
そうであるべきだ。
だからなにも言わない。
ただただ溢れる涙を止めることなく、拍手で彼女を讃える。
ピアノの演奏会には、拍手を。最高の賛辞を。それが当たり前だから。
語彙はいらない。
それだけでいい。
それだけで、赤松さんは最高に嬉しそうな顔で笑うのだから。
「みんな、ありがとう!」
大きな演奏会でもなく、十数人の観客だけの演奏会。
なのに彼女は何百人もの観客を前にしたかのように高らかに声をあげた。
そうして、美しい所作でお辞儀をする。
あれ、ここって閉鎖された才囚学園だよね……? 赤松さんのその様子に、まるで本物の演奏会に来たような気分になった。
「すごいよ楓ー!」
「赤松さん! 素敵です! ビューティフルです! ワンダホーです!」
真っ先にアンジーさんと茶柱さんが赤松さんの元へ走り寄っていく。
茶柱さんは、前までの影を背負ったような雰囲気がなくなっていた。
ああ、赤松さんの演奏のおかげだ。彼女のおかげで、茶柱さんはひととき、今このときだけは夢野さんのことを悔やみ続けることから解放されている。
ぼくにはできなかったことだ。
ぼくは許されなかったことだった。
ズキリと、勝手な感情だと思っているのに胸が痛んだ。
「すごい、ね」
「ええ、見事な演奏だったっす」
「はあー、聞き惚れるってこういうことを言うんだね……アニソンをリピートするような感じじゃなくて、一回限りの生ライブっていうか……ううん、そんな言葉じゃ言い表せないくらいすごかったよ」
白銀さんはほう、と余韻に浸るように頬に手を当て、壇上でファンサービスをしている赤松さんを見つめる。
長い長い演奏会だったはずなのに、あっという間に過ぎ去っていくようだった。
「赤松、あんたすごいね」
壇上に立ったまま、みんなの言葉にひとつひとつ答えていく赤松さんに、春川さんが近づいて言った。
今までの春川さんは、そこまで大胆に赤松さんへと好意を示していなかったから、それに何人かが驚いたようにする。
ぼくも、その一人だった。
「そうかな? 嬉しいな、春川さんにそう言ってもらえるの。どうかな? これなら春川さんのいた孤児院で演奏してもいい?」
「ダメなんて、一言も言ってないでしょ」
「お? 赤松が出張で演奏しにいく約束でもしたか? いいなそれ! それならオレもハルマキのボスとして参加しないとな!」
更にそこへ百田くんまで加わっていったので、一層賑やかになる。
赤松さんや百田くんによる、春川さんの心を開かせようという努力は上手くいっているのがそれでよく分かった。
「なにそれ、バカみたい。あとあんたがボスとか、私が助手だとかそういうの、別に認めたわけじゃないし」
「いいからいいから!」
「なにがいいのかさっぱりなんだけど」
「もちろん、終一も一緒だ! そうだろ?」
「え、え? そ、そうだと私も嬉しいけど……!」
赤松さんは分かりやすいなあ。
そんなやりとりをしながら和やかに演奏会は終幕していった。
「それでは、放送機能も切りますね」
「あ、キーボくんありがとう!」
赤松さんのお礼を背景にキーボくんが放送の電源を切る、ブツリという音がした。
「さーて、赤松ちゃんのステキな演奏が耳に残ってるうちに帰るかー。入間ちゃんとかキー坊とかの雑音聴いてると耳が悪くなりそうだし」
「ざ、雑音扱い……? おい王馬! オレ様最近は大人しくしてるだろうがよ!」
「えー、それでも入間ちゃんうるさいんだよね。顔が」
「こんな超絶完璧な美少女捕まえてなに言いやがるんだっ、この狼野郎!」
狼少年的な意味で、かな?
いつも思うけどすごい自信だなあ、入間さん。
確かに文句なしの美少女なんだけどさ。それは口を開かなければの話なんだよね。
「ほらほら、ゴン太も帰ろう」
「う、うん。赤松さん! 虫さんの合唱も素敵だけど、赤松さんの演奏もすごく素敵だったよ!」
「あ、うん、ありがとう。ゴン太くんにとってはそれが一番の褒め言葉だよね」
ちょっと困ったように赤松さんが眉を下げる。
ゴン太くんにとっての最大の賛辞なのは理解できるけど、やっぱり虫と比べられるのは不本意なのかな?
そこはゴン太くんの紳士力が成長することを祈るしかないところだね。
「俺たちも帰るっすか」
「そうだね。すっかり深夜だし」
「ぼくも、眠気は覚めてるけど……明日のこともあるからね」
なんとなく全員が流れで帰ろうとして、ぞろぞろと校舎内を移動する。
一階に降りてどこかに視線をとられる白銀さんの裾を引っ張って寄宿舎に誘導する。
「どうしたの?」
「ううん、トイレに行こうかと思ったんだけど」
「もう帰るだけだし、ここで行かなくてもいいと思うけど」
「うん、わたしもそう思って。でも、今誰かが向かって行ってた気がして」
「気が急いちゃったんじゃないっすか?」
「そ、そうだよね」
ぼくの質問に言葉を零した白銀さんは、首を傾げる。
それから白銀さんの言葉にぼくと天海くんが答えて、結局普通に寄宿舎に帰る流れに乗ることにしたのだった。
「あ、私最原くんに挨拶してから寝るね!」
寄宿舎に着くと、赤松さんがドレスのまま最原くんの部屋に向かって行く。
そうか、演奏の感想くらい聞きたいよね。最原くんも聴いていたわけだし。
「あつっ……え?」
短い悲鳴。
それに、部屋に戻っていなかった全員が振り向いた。
「どーしたの? 赤松ちゃん」
「……えっと」
赤松さんは驚いたように自分の手を見てから、それからドアノブにもう一度触って、また悲鳴をあげた。
「熱い……! ね、ねえ、ドアノブがすごく熱くて……どうしたのこれ!」
「ドアノブが熱い……っすか?」
その異変に、その違和感に、その不安にみんなが最原くんの部屋の前に集まる。
「ど、どういうことですか? ドアノブが熱いって……」
「こういうの探偵漫画で見たことあるよ。確か、ドアノブが熱いときって中が火事になってたり……あ」
ぼくは、その言葉に真っ青になった。
「換気はしてって言ったのに!」
「どーしたー、泪? 心当たりでもあるのかー?」
あるといえば、ある。
でも30度になるほど部屋を暖めることになるなんて普通はならないはず。
どうして火事になんてなるんだよ!
しかも、火事になっているなんて側から見ても分かりはしない。つまり、中は……空気が。
「蹴破ればいいんでしょ」
春川さんがドアの前に立って、言った。
「それなら転子も手伝いますよ!」
まずい。
「待てハルマキ!」
「だめだよ茶柱さん!」
けど、静止は遅く。
二人は最原くんの部屋の扉を力を合わせて蹴破ってしまった。
「ていやーっ!」
「ふっ」
シン、と静まり返る。
「あれ、火がない……?」
茶柱さんが呟いたそのとき、風もないのに春川さんの髪が靡いた。
それから、小さな光が、最原くんの部屋の中で瞬く。
「ハルマキ!」
「茶柱さん!」
百田くんと一緒にぼくが駆け出したのは、同時だった。
百田くんは春川さんを、ぼくは茶柱さんを全力で抱きつきながら突き飛ばしてその扉の前から避難させる。
次の瞬間……視界が白く塗り替えられる。
音が置き去りにされる。
足先を、爆発的な熱さが焼いて過ぎ去っていった。
ゴウゴウと、床に伏せたぼくらの背後を炎が舐める音がする。
遅れて、次々と悲鳴が上がった。
最原くんの部屋はもはや炎で中が見えない。
なにが起こったのか。
なにがあったのか。
それは分からない。
けど、中で寝込んでいたはずの最原くんの生存は絶望的だった。
どうしてだ?
全員、ピアニストの研究教室にいたはずだ。
全員、校舎内にいたはずなんだ。
なのにどうしてこんなことが起きている?
ぼくの差し入れた精油のせい?
けど、何度考えても最原くんが30度近くまで室温を上げた意味が分からなかった。
だって、あの精油は30度以上じゃないと発火しない。
夏場で、偶然窓辺にあったとかなら発火してもおかしくないけど、ここは気温の安定した才囚学園で、部屋の中だったんだ。
偶然発火したとはとても思えない。
作為的ななにかがあったとしか思えない。
いったい、なにが。
「さ、さ、さっきのは!?」
「春川ちゃん、茶柱ちゃん、命拾いしたね。2人に感謝しないと」
王馬くんが真剣な顔で言う。
「な、なんだったんですか? 転子、なにが起きたのかさっぱりで……あ、香月さん。ありがとうございました」
「ううん、茶柱さんが無事で良かった」
本当に、助けられて良かった。
あれは……さっきのあれは。
――バックドラフト現象、だ。
昨日は王馬くんの誕生日でしたね。おめでとう!