夕と千夜、二人の初めての映画鑑賞。

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飯田ぽち。先生の『姉なるもの』の二次創作小説です。Pixivにも同じものを投稿しています。
お姉ちゃんと一緒に映画が観たい、それだけが今の僕の願いです。

※映画『ミスト』の重大なネタバレを含みます。未見の方はお読みにならないように。


千夜姉と『ミスト』

 おじさんの蔵で大量のDVDを発見した。

 オカルト系のドキュメンタリーや実録系の怪談、それに悍ましいクリーチャーが描かれた外国の映画などが殆どだ。どれもずいぶん埃をかぶっていて、おじさんが入院するよりもずっと前からここに放置されていたことがわかる。

 おじさんとの会話は少なく、趣味の話なんて全くいっていいほどしなかったのでこういうものを集めていたというのは少し意外だ。中には面白そうなパッケージのものもあって、少し興味をそそられてしまう。

 蔵には入るなと申し付けられていたし、中の物を持ち出したりなんてしたらおじさんが退院してきた時に怒られそうだけれど、映画なんてもうずいぶん観た記憶が無い。この夏はもう何度も蔵に足を踏み入れてしまっているし、観終わってから元の場所に戻しておけばいいかと思い、積み上げられているDVDの中から幾つかを持って帰ることにした。

 

「あ、夕くんおかえり。蔵の掃除は進んだかしら」

 居間に戻ると、千夜姉がお昼御飯の用意をしてくれていた。テーブルには香ばしい湯気を立ち上らせた炒飯が二皿並んでいる。千夜姉自ら、火を使った料理に一人で挑戦してみたいのだと告げられ、しかしもし万が一危険があった時のために僕は外に出ているようにと言われたのだった。千夜姉一人で大丈夫だろうかとすこし不安もあったのだが、見たところとても美味しそうだ。千夜姉の表情からも些かの自信が伺える。

「うん、ただいま」

 畳に腰を下ろしながら、僕は改めて千夜姉の方を見る。

 千夜姉、僕のお姉ちゃん。

 今こうして目の前で、弟に手料理を振る舞う所帯染みた女性は、人間ではない。白磁のように透き通った肌に潤みをたたえた昏い瞳、芸術品を思わせる完璧すぎるほどに整った肢体。それを余すことなく主張させるファッション。今日の千夜姉はグレーのリブタンクトップの上にネイビーのサマーカーディガンを羽織って、アイボリーのセミワイドパンツをはいている。ゆったりとした足腰周りと対照に、タンクトップを押し上げて大きく張り出した胸がいつも以上に僕の目を釘付けにする。落ち着いたカラーコントラストが、千夜姉の大人の女性としての魅力をより一層際立たせている。しかし同時に、千夜姉から漂ってくる椿の花にも似た甘く爽やかな香気は少女のようで、普段の無垢で可愛らしい一面を思い出させてくれる。あらゆる要素が精緻に整えられた、文字通り人間離れした美しさ。僕の理想の女性。僕の大好きな、誰よりも大切な、お姉ちゃん。

 僕のお姉ちゃんは、悪魔だ。

「これ美味しいよお姉ちゃん」

「本当? よかったぁ、夕くんの口に合わなかったらどうしようかと思った」

 僕の言葉に、千夜姉はホッと胸をなでおろした。

 千夜姉の料理の腕は日毎に上達している。この世界にやってきた頃はまだ知らないことが多くて、ちょっとおかしな失敗をしてしまうこともあったけど、千夜姉はどんどんヒトに近づいていっている気がする。それはどんどんお姉ちゃんらしくなっているということ。千夜姉がより良いお姉ちゃんになろうとしてくれている証拠で、僕にはそれがとても嬉しい。

「あら、夕くんそれはなぁに?」

 昼食を終え、食器を片付けながら千夜姉は僕の脇にあるDVDに目を落とした。ちょうどテーブルが片付いたので、僕はそれを並べながら軽く説明する。おじさんの蔵で見つけたものであること、このディスクを再生機に入れると映画が観られるということ、映画とはヒトの手によって創られる物語を備えた映像作品であるということ。

「ふぅん。それってテレビでやっているドラマのようなものかしら」

「そうですね。でも映画のほうがたくさんお金がかかっているので画面が豪華だったりします。CGとか特殊効果とか」

「夕くんは映画好きなの?」

「よくわからないです。好き、といえるほどまだ観たことがないので」

 両親が亡くなる前には何度かアニメの映画を観に行ったような気もするけど、それももう十年近く前のことだし殆ど覚えていない。親戚の家を転々としていた頃は映画どころか遊びに連れて行って貰ったことも数えるくらいしかなかったし、この家に来てからも近くに映画館やレンタルショップがないので観る機会は無かった。だから僕自身ちゃんと映画を観た記憶というものがあまり無かったりする。

「けど小説はよく読むので物語は好きです。だからきっと映画も好きだと思います」

「そう、夕くんが好きならきっとお姉ちゃんも好きになれると思うわ。それに私もヒトの紡ぐ物語を読んだり観たりするのは楽しいわ。時に滑稽で時に哀れで、故にとても愛おしいわ」

 千夜姉は僅かに嘲りの色を含んだ妖艶な笑みを浮かべる。

 千夜姉は本を読む時、どんなことを思っているのだろう。神や悪魔と呼ばれる存在がヒトの物語に共感したり感情移入したりするのだろうか。ヒトより強大な力を持った存在は、ヒトの抱える苦悩や葛藤にどんな想いを抱くのだろうか。愛おしいというのは高踏的な愛玩の情? それとも……。

「ねぇせっかくだから観ましょうよ、映画。私これが気になるわ」

 千夜姉が並んだDVDの中から一つを手に取る。怯えた表情で子供を抱きかかえる男性の姿がパッケージには描かれている。

「『ミスト』、霧という意味ね。なんだか親近感を覚えるわ」

 千夜姉はどこかに想いを馳せるように呟く。

 もちろん観るつもりで持ってきたので異論はない。むしろどれにしようか迷っていたくらいなので、千夜姉が中から一本を選んでくれたのはありがたかった。

 早速プレイヤーにDVDを挿入し、再生ボタンを押した。

 

 映画は開始早々から不穏な空気を漂わせていた。

 郊外を突如として謎の濃霧が覆う。主人公の男性とその家族は非常時に備えるべくデパートに出かける。しかしそのデパートも拡大する霧に飲み込まれてしまう。迂闊に外に出るわけにもいかず、主人公含めたデパートの客はみんな中に隔離されてしまった。そして、外の様子を見に行こうとした老人が血相を変えながらデパートに戻り、叫んだ。「霧の中に何かいる」、と。

「すごい緊迫感ね。これ、本当に作られた映像なの? お姉ちゃんなんだかハラハラしてきたわ」

「ぼ、僕もです」

 作り話だと解っているはずなのに、背筋に嫌な汗が伝っているのが感じられる。デパートに閉じ込められた人達の不安と恐怖が、ブラウン管を通して伝わってくるみたいだ。

 夏の昼下がり、暑い日差しが照りつけているはずなのにすでに僕の身は寒気に感じつつあった。

 横目でチラリと千夜姉の顔を伺う。目は完全にテレビの画面に釘付けになっているが、ただ口元は少し緩んでいて頬も僅かに紅潮しているようだ。もしかすると千夜姉にとっては、恐れ慄くヒトの様というのはそれだけで娯楽めいているのかもしれない。でもそれは、悪魔だからというよりもホラー映画を楽しむ時のしかるべき態度であるようにも思える。他人の不幸や苦痛を見て快楽を得ようとするのは、ヒトも悪魔もきっとそう変わりはない。

 そして、映画の緊張感はいよいよ最高潮に達しつつあった。

 血気に逸る青年が、主人公の静止を聞かず霧の中を調べに行こうとする。デパートの倉庫の搬入口に当たるシャッターを開けると、一寸先すら見通せない霧が広がっている。青年が諫める主人公を詰りながら出ていこうとした瞬間、突如巨大な触手が出現。青年の脚に固く絡みつき、霧の中へと引きずり込もうとする。

「わっ!」

 いきなり登場したグロテスクな触手と青年の叫び声に驚き、僕は咄嗟に千夜姉の腕にしがみついてしまった。

「あらっ♡」

 先ほどまで画面に集中していた千夜姉が、僕の方を見て微笑む。

「怖いの? 夕くん」

「怖いというか、ちょっとびっくりしちゃって」

 抵抗も虚しく、青年は霧の中へと飲み込まれていく。

「夕くんはこういうの平気だと思ってたけど」

 未だにしがみつき続ける僕の頭を、千夜姉は優しく撫でてくれる。

「いきなりだったので」

 映画を観て素で驚いてしまうなんて、なんだか恥ずかしい。しかもそれで千夜姉に飛びついてしまうなんて、臆病なやつだと思われてしまっただろうか。

「ふふ、かわいいわね。別に恥ずかしがることはないわ。これはヒトを怖がらせるための物語なのでしょう? むしろそうやって驚いてあげるほうが正しいのだと思うわ。でもそうね、怖がる弟を元気づけてあげるのもお姉ちゃんの役目かしら」

 そう言うと千夜姉は少し居住まいを正して、正座している太腿をポンポンと叩いた。

「ほら、いらっしゃい」

「えっ……」

 これはひょっとして、膝に座るということだろうか。

 お姉ちゃんの膝に座って映画鑑賞、それはホラー映画を観て怖がったりするよりよっぽど恥ずかしいことなのでは。

「ほぉら、早く」

 優しい声で千夜姉は促してくれる。恥ずかしい、けれど映画に驚いたのは事実だし千夜姉が甘えさせてくれるというなら僕から拒む理由なんてない。それに何より、千夜姉が怖がる僕を慰めようとしてくれている、お姉ちゃんとして家族としてどうするのが正しいのかを考えてくれた、そのことが何よりも嬉しかった。

 僕はおずおずと、千夜姉の膝に腰を下ろす。座ったところから柔らかい太腿の感触が伝わってくる。優しく抱きしめるように、千夜姉の両手が僕のお腹の前辺りに回される。すると、ちょうどうなじの辺りが千夜姉の大きくて温かい胸に包まれる。まるで千夜姉と一つになったみたいに、全身で千夜姉の体温が感じられた。

「どう? これでもう怖くない」

 耳元で囁く声。吐息がかかる程の距離。緊張もあるけれど、それ以上に幸福感で身体が蕩けてしまそうだった。とても、とてもとても居心地が良くて、安心する。

 もう映画の怪物に驚いた気持ちはどこかへいってしまった。

 気を取り直して、映画に意識を戻す。

「というか、さっきの触手ってもしかして」

「ええ、おそらく元になっているのは私達のような存在でしょうね。霧から出てくる辺り、案外私によく似た類かもしれないわね」

 そう語る千夜姉の声色は素直に感心している風に聞こえた。

 物語自体は作り物でも、登場する怪物は実在のソレを正確に捉えている。作り手が千夜姉のような存在を実際に見たことがあるのかどうかは分からないが、ヒトの無意識を支配する根源的な恐怖というのは、案外想像を超えて実態を捉えてしまうのかもしれない。

 おじさんがどうしてこのDVDを持っていたのか、少し分かったような気がした。

 

 その後も映画は、緊迫感を保ったままその勢いをドンドンと増していった。

 次々と現れる謎の怪物。一人、また一人と捕食され殺されていく登場人物たち。デパートの中は恐慌状態となり、協力しなければいけないヒト達が相争い、混沌の様相をより強めていく。その最中で遂に明かされるこの状況の真実も何の救いにもなり得ず、絶望だけが充満していく。人々の叫喚が、迸る血肉が、グロテスクな魔性が供物となり、映画はまるで恐怖という感情そのものの体現であるかのようだった。

 陰惨なシーンも数多くあり、時には目を逸らしたくもなった。しかし、離せない。まるで縫い付けられたかのように、僕の視線は画面を捉えて動こうとしない。手のひらに汗が浮かぶ。カラカラの喉を潤したくて、何度も唾を飲み込んだ。身体は今にも震えだしそうだ。怖い。すごく怖い。それでも僕は画面を見据え続ける。

 そう、この映画はとても面白いのだ。

 気付けば、僕のお腹に添えられた千夜姉の手にも力がこもっていた。きっと僕と同じように、強張った表情で画面を見つめているのだろう。ストーリーが盛り上がりだしてから、ほとんど言葉を交わしてない。互いが互いの体温を感じながらも、物語に集中しているのであえて意識することはない。二人で密着している状態が余りに自然で意識する必要が無いのだ。

 居間で同じ表情を浮かべながら一緒に映画を観る。そこにいるのが当たり前で、相手の存在を強く気にすることはない。なんとなくそこに居て、なんとなく通じ合っている気がする。まるで仲の良い、本物の姉弟みたいだ。

 そしていよいよ、映画はクライマックスを迎える。

 主人公は家族と数人の仲間を引き連れ、恐慌状態のデパートを脱出する。助けを求めて霧の中へと車を走らせる。当て所無く、時間の許す限り。

 世界は完全に汚染されていて、ヒトの気配はなく、動くものは怪物ばかり。行けども行けども、望みなどはどこにも存在せず、次第に車内には諦めの空気が満ちていく。やがて車の燃料は底をつき、為す術を失ってしまう。やれるだけのことはやった、もう十分だと、互いが互いを慰め合う。最早避けられなくなった終焉を目前に、主人公はある決断を下すべく、拳銃を手に取る。

「そんな、ダメだ。それは絶対にダメだ」

「夕くん……?」

「それだけはやっちゃダメだ。そんなことをしたら、もう」

 思わず声が出ていた。物語だということを忘れて、僕は主人公に訴えかけた。

 だってその決断は、僕が最も恐れていることだから。怪物に襲われるよりもずっとずっと悍ましいこと。そんなところを見せられたら僕は、耐えられないかもしれない。

 だが当然僕の願いは届くはずもなく、主人公は決断を下す。僕がこの世で一番見たくない光景が画面に広がってしまう。

 主人公は自らの手で、愛する家族を殺めてしまった。

 その瞬間、僕の頬を涙が伝った。自分でも制御が効かない感情が沸き上がってくる。こんなのは酷すぎる。あんまりだ。こんなことは絶対にあってはいけない。

 だがそんな僕の感情に追い打ちをかけるように、事態は更に悪化する。

 主人公の決断を嘲笑うかのように、状況は唐突に終息する。霧は晴れ、怪物は排除され、人々は救出されていく。あと五分、主人公が決断を遅らせれば家族を殺めることはなかった。家族皆が笑って生還できる未来はほんの目の前まで迫っていたのだ。

 主人公の慟哭とともに、エンドロールが流れ始めた。

 なんだこれは。なんなんだこれは。主人公の慟哭が僕の胸に突き刺さり、涙はいよいよ止めどなく溢れだした。

 言葉が紡げず、ただただ泣きじゃくることしかできない。これは物語だ。分かっている。しかしもう、そんな理屈だけでこの涙を止めることはできない。

「夕くん」

 背後の千夜姉が慈しみに満ちた声と共に、そっと頭を撫でてくれる。僕は耐え切れなくなって、恥も外聞を捨て去り、千夜姉の胸に顔を埋めながら泣いた。

 

「どう? 落ち着いたかしら」

 どのくらいそうしていただろうか。僕の涙が絶えず胸元を濡らし続けている間、千夜姉はずっと頭を撫で続けてくれていた。

「はい、ありがとうございます。今日は恥ずかしいところを見せてばかりですね」

 もう気持ちは落ち着いたので、おもむろに千夜姉の元を離れる。今になって千夜姉の胸の柔らかさが思い出されて、すこしドキドキしてくる。

 中学生にもなって映画に感情移入しすぎて号泣してしまうなんて、我ながらどうかしているなと思う。小説なら、家族を題材にしたものを読んだとしてもここまで感情的になることはない。やはり映像の魔力というか、臨場感のようなものがそうさせてしまうのだろうか。

「夕くんにとっては辛い展開だったものね。無理もないわ」

 千夜姉は茶化すこともなくそう言ってくれた。そして、微笑みながら再び頭をまた優しく撫でてくれる。再び恥ずかしさがこみ上げてきて思わず目を伏せてしまう。そんな僕の姿を見るのが面白いのか、千夜姉はふふふと小さく笑った。

 落ち着いて思い起こしてみると、終盤の展開を含め、やはりよく出来た映画だったのだと思う。僕があまり映画に触れてこなかったからだというのもあるけど、物語でここまで人の感情を揺さぶることが出来るなんて、それはとてもすごいことだ。

「お姉ちゃん、映画はどうでしたか」

「とても面白かったわ。人間はすごいわね。作り物の映像とは思えなかったわ。あまりにリアルだったから、なんだかここにくる前の事まで思い出しちゃった」

 千夜姉は少し懐かしげな表情をする。

「前の、こと?」

「えぇ、映画に出てきた魔物の類は、細かい部分に違いはあるけれど私のよく知っているそれにとても似ていたわ。作った人間は実際に見たことがあるんじゃないかしらってくらいに。この辺りではあまり見かけないけど、嘗ては交流のあったモノ達よ」

「それはお姉ちゃんみたいな、その……悪魔、ってことですか?」

「そうね。悪魔、神性、呼び方はなんでもいいわ。ヒトが畏れ時に崇める人成らざる存在よ」

 すると不意に千夜姉の顔が曇った。

「映画では偶然異界の門が開いたと言っていたわね。つまり彼らは、予期しない形でこの世界に呼び出されたのだと思うわ。わけもわからないまま見知らぬ場所に召喚されてそこに生命が居たなら、言語を持たない彼らは攻撃する以外に選択肢は無かったんじゃないかしら。もしかして、攻撃ですらなかったのかも。ただ、ありのままを晒したにすぎないのかもしれない。それが結果として相争う形になってしまった。人間にとってこの物語は悲劇でしょうけど、彼らにとってもきっとそれは同じ。どうして彼らは駆逐されなければいけなかったのかしら」

 訥々と千夜姉は語る。その声色は憂いを帯びていて、僕はふと気づいた。

 僕がヒトである主人公やその家族に感情移入していたように、千夜姉もまたヒトではない存在として襲い来る怪物たちの気持ちに寄り添いながら映画を観ていたのではないか。魔物たち同様、千夜姉にとってもヒトは捕食対象であり、その多くは取るに足らない存在でしかない。ヒトの集まるデパートを襲い、喰らっていこうとする心理に千夜姉は共感できてしまうのではないか。そして、人々の抵抗によって一匹一匹と殺されていく様に、僕同様胸を痛めていたのではないか。

 主人公にとっては、この物語は悲劇的な幕引きとなる。しかしもっと大きな視点で見ると、怪物たちを完全に駆除し、ヒトは侵略に対して勝利を手にする。怪物たちにとっては不本意に見知らぬ場所に連れて来られその果てに鏖殺されてしまうという、それもまた悲劇なのではないか。僕にとって映画の結末は悲しいものであったように、千夜姉にとっても受け入れがたいものだったということなのだろうか。

 そのことに気がつくと、僕は千夜姉にかける言葉を失ってしまった。不意に、僕と千夜姉の見えている世界が全く違うものなのかもしれないという思いに駆られてしまったのだ。

 千夜姉と二人での生活を始めて、同じ時間を過ごして、少し困ることもあったけど毎日が幸せに過ぎていって、時々本当の家族のようだなんて感じたりして。だから、千夜姉が実はヒトじゃないなんて、そんなことは全然関係のないことだと思っていた。たとえ悪魔だったとしても、それでも千夜姉はやっぱり僕のお姉ちゃんなのだから。

 こんな時、僕はなんて言えばいい。

 ヒトを襲う怪物を想って憂う千夜姉に対して、ヒトである僕はなんと声をかければいい。

 泣きじゃくる僕を、何も言わずに受け入れてくれた千夜姉みたいに、僕もどうにかして千夜姉の憂いを晴らしてあげたい。

「分かり合えないということは、とても怖いことです」

 僕は慎重に言葉を選びながら、伝える。

「相手の思っていることや考えていることがわからないと不安になります。周りの人間は自分のことをどう感じているのか、そんなことばかり考えて他人の目ばかり気にしながら僕は生きてきました。人間同士だってそうなんだから、違う種族となら尚更です。まして、言葉を持たないというならコミュニケーションも取れないし、お互いのことを知る術なんてありません。けど、だからこそ、僕は今こうしてお姉ちゃんと言葉を交わせていることがとても幸せなことなんだと思えます。分かり合うためにこうやってお話して、お姉ちゃんのことを知れるのがすごく嬉しいんです。だからむしろ、お姉ちゃんが悪魔でよかったっていうか、わからないからこそもっともっと知りたくなるというか、とにかく僕は今のままのお姉ちゃんが大好きです」

 喋っているうちにどんどん言葉に熱がこもっていって、後半は自分でも何を言っているのかよくわからなくなってしまった。映画のことを話すつもりが、全く的外れなことを言ってしまった気がする。

 僕が急に長々と喋り始めたので、千夜姉はしばらくきょとんとした顔をしていた。が、気恥ずかしさで目を泳がせている僕を見て、千夜姉はいつもの綺麗な笑顔を浮かべてくれた。

「急にどうしたの、夕くん。お姉ちゃんなんだか気を遣わせちゃったかしら。けど、大好きだなんて嬉しいわ。ありがとう。お姉ちゃんも夕くん大好きよ」

 千夜姉の顔から憂いの色は完全に消えていた。

 

「うふふ、そんなことを考えてなんて、夕くんは優しいのね。けど残念、お姉ちゃんは別に彼らに対して同情をしていたわけではないの。むしろ、その逆ね」

 僕がどうしてあんなことを口走ってしまったのか、思っていたことを打ち明けると千夜姉は笑いながらそう言った。

「逆ですか?」

「ええ、同情よりもむしろ憤りを感じたわ。下等な人間に滅ぼされてしまうだなんて、神性として程度が低すぎるわ。圧倒的な力を持っていてその恐怖をまざまざと見せつけていたはずなのに、余りにもあっけなく敗北してしまう。結局はヒトの作った物語であるという軛を外すことは出来ない、これが悲劇でなくて何だというのかしら」

 千夜姉は呆れたようにため息を付いた。あの憂いを帯びた表情の裏で、まさかそんな不遜なことを考えていただなんて。あんなことを言ったばかりなのに、またしても千夜姉が遠く隔たった存在であるような気がしてきてしまった。

「お姉ちゃんなら人間に負けるようなことは無いんですか」

「まず負けないでしょうね。といっても私はあまり荒事を得意とする類ではないけれど。それでも映画に出てきた彼らのような無様を晒すことは有り得ないわ」

 そう嘯きながら、千夜姉は自らの身体を変化させ始めた。

 黒くて艶のある長い髪は、まるでその一本一本が意思を持っているかのようにのたくり、絡み合い、粘液を帯びた触手となって蠢きだす。頭には羊に似た、しかしそれにしては禍々しい形状をした角が二本。つま先は蹄の形を取り、大腿部は黒い毛皮に覆われている。その貌は先程までの千夜姉と変わらないはずなのに、瞳の奥の光は魔的な色を纏っている。

 ヒトと呼ぶには余りに冒涜的な神性の具現。曰く、“千の仔孕む森の黒山羊”。背徳的なまでに美しい、千夜姉の人成らざる姿。

「その気になれば人間を支配することなんて造作も無いわ」

 突如、千夜姉の触手が僕の腕を絡めとる。そして、胴にまで巻き付くと僕の身体は一気に千夜姉の懐まで引き寄せられた。再び、僕は千夜姉の胸に顔を埋める形になる。

「お姉ちゃん、何するの」

「ほぉら、じっとしてて」

 わけもわからないまま、僕は千夜姉に抱きすくめられる。一体なにをされるのだろう。抵抗しようにも、腕の自由を奪われているので上手く身動きがとれない。まさか人間である僕に、神性としての力を見せつけようとでもいうのだろうか。

 千夜姉の指先が、ゆっくりと僕の背筋を撫でていく。慈しむように、ゆっくりと、ゆっくりと。くすぐられるようなむず痒さと、何故か同時に僅かな快感が指の軌跡に残されていく。その動きは更に緩慢になりながら、首筋を伝い、頤に至る。そして、僕の顔を掬いあげるように、軽い力に僕の顎を持ち上げる。

 千夜姉の潤んだ瞳と、目があった。被造物めいた、神秘的なパールホワイトをした肌。その頬に少し朱の色がさしている。千夜姉の表情に、血の通いが感じられる。まるで発情しているかのような、熱っぽい視線が僕を捉えて離さない。

「夕くん……かわいい♡」

 おもむろに千夜姉の顔が近づいてくる。きっとこのまま唇が重なるのだろうと思い、僕は目を閉じた。千夜姉とのキスは何度か経験したが、そのことを思い出す度に臍の奥の辺りがジクジクしてくる。舌先から始まってやがて身体全部が溶け落ちていくように錯覚してしまうような、千夜姉とのキス。姉弟でそんなことをするのは普通じゃない。これはイケないことなんだとわかっているのに、心の底が千夜姉の唇を欲してしまっている。

 しかし、いくら待ってもキスをされる気配はない。

「ふぅー」

「――――っ!!」

 僕の右耳を、千夜姉の温かい吐息が蹂躙する。千夜姉の顔は僕の顔の右側に在った。

 ただ息を吹きかけられただけなのに、全身に電撃が奔ったように身体が仰け反る。まるでむき出しの神経を愛撫されているような、名状しがたい刺激。

 更に千夜姉は、もう一度僕の耳に息を吹きかけた。また全身が痺れるような感覚。たまらず声を上げてしまう。なんだこれは。僕の感覚器のすべてがこの右耳に寄せ集められているかのようだ。

「ふふ、カラダがびくびくーってなってるよ、夕くん♡」

 二度、三度と立て続けに千夜姉の吐息が僕の耳を包む。吹きかけられる度に、僕は快感に身を悶えさせた。数を重ねる度に感覚がどんどん鋭敏になっていって、右耳から最も遠い部分、つま先や左手の指先などからは逆に感覚が失われていく。

 僕の意識が完全に右耳のみに集約された頃、唐突に千夜姉は息を吹きかけるのをやめてしまう。

 まって、やめないで。もっと気持ち良くなりたい。もっと快楽に打ち震えたい。僕にはもう身体はない。この耳だけが今の僕の全てなんだ。だからお願い。やめないで。

 しゃべることも出来ず、只々請い願うことしか出来ない僕。

 その直後、意識が飛んでしまいそうなほどの快感が僕を襲った。

 最早僕の存在全てと化した右耳を、温かく湿り気を帯びた感触が愛撫した。千夜姉の長くて艶やかな舌が、僕の耳朶を舐め転がす。

「あ、あ、あっ……」

 粘着くような音が直接鼓膜を震わせる。音と触感が零距離で僕に快楽を与え続ける。今や敏感という言葉では足りないほどに、快感を受けるためだけの器官となった僕の耳が、千夜姉の丹念な舌使いで弄ばれる。舌先が耳孔に侵入し、円を描くようにその外縁を舐め回す。耳輪を唇で挟み、口内で唾液を纏わせて啜る。形を隅々まで確かめるように、千夜姉の舌は僕の耳を味わい尽くす。

「ねぇ夕くん、気持ち良い?♡」

 近すぎる囁きに、脳が揺れる。答えようにも、舌が動かない。おそらく今の僕は、涎を垂らしながら虚ろな目をして快楽に身を委ねているのだろう。

 もうずっとこのままでいい。身体なんか必要ない。この耳だけあればいい。永遠に千夜姉に愛撫されながら、快楽の濁流に飲み込まれていたい。

「はい、おしまい」

 唐突に僕の感覚は現実に引き戻された。先ほどまで不随意だったのが嘘のように、頭の天辺からつま先に至るまでが僕の体だという実感が湧いてくる。

 案の定涎まみれになっている口の周りを慌てて拭いながら、千夜姉を見る。千夜姉は、元の人間の姿に戻っていた。

「どうだった? 夕くん今、もう人間なんて辞めていいって思ったんじゃない」

「うっ……はい、思いました」

「私にとっては人間を弄ぶなんて簡単なの。わかったかしら」

 やはり、神性としての力を僕に思い知らせたかったようだ。

 自分でも信じられないほど取り乱してしまったところを見ると、ヒトの意思などではどうしようもない超常的な力を使われたのだろう。もう少し解除が遅ければ、僕は本当にヒトであることを辞めていたかもしれない。

「けど安心して。これを夕くんに使うようなことはもうしないわ。夕くんが今の私が良いって言ってくれたみたいに、お姉ちゃんも人間のままの夕くんが大好きだから。今の夕くんだからこそ、お姉ちゃんはお姉ちゃんでいられるのよ」

 ヒトの姿に戻りながら、ふふふと笑った。悪魔のような、ヒトのような、素敵な笑顔で。

 僕のお姉ちゃんは悪魔だ。

 時にはヒトとは違う力を使うこともある。僕たちの関係は普通の姉弟とは違っているのだろう。それでもやっぱり、千夜姉は僕にとって理想のお姉ちゃんで、ヒトだとか悪魔だとかはあまり重要じゃない。千夜姉が今のまま、僕のお姉ちゃんで居てくれる。僕の家族で居てくれる。それが僕にとっての幸せなのだ。



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