「……ずいぶん必死。おまえは、研究員たちを守る囮になろうとしているのね」
ルル・ベルは静かに微笑んだ。
「わたしは知っている。……おまえの能力。おまえのウイルスは、レベル2でも発症までに三時間以上もかかる遅行性なんでしょう? 破壊にまで至るには24時間以上かかるんでしょう? それなら、時間は十分ある」
「……なんだ。バレてんのか。まあ、そうだよねぇ……支部長に化けてるんだもんね」
アクマたちが、ガチャガチャと顎を鳴らしてボクに罵声を飛ばす。腕を上げてそれを制したルル・ベルは、高く上げた腕でボクを指差した。
「……いいわ、アクマたち。半分だけ、あいつの相手をしてやりなさい。あとの半分は……」
ノアは楽しそうに笑む。
「……あとの半分は、わたしと一緒に『仕事』をしましょう」
エクソシスト!
エクソシスト!
エクソシスト!!!!
アクマが哂う。
ノアがボクに背を向ける。
「くそ……くそっ―――――第三解放! “天使の祝福”!!!!!」
黒い雨が降る。アクマがいくつか落ちていく。
でも足りない。
細胞が足りない。
時間が、ああ……イノセンス。なぜきみは……。
アクマが一匹、ボクの前に躍り出る。
レベル3。口に象の鼻のような装甲がついているアクマ。
ボクを見て、「吸い込み甲斐のありそうなゴミだナア」と嬉しそうに言ったアクマ。
怖くなんかない。
恐怖なんてあるもんか。
「アアアァァ……いまの細胞はどの部位だ? 内臓?内臓かなァ? ……なんだ指か。ジャア手か足、どっちなんだい? ネエ、教えてくれよォオオ」
……ああ、ぜんぜん足りない。
足りないよイノセンス。
くそ、どうしてボクは、どうして。どうして……。
「ごめんなさい。バクさん。リーバー班長。……ボク、うまく、できなくて……っ」
「いいんだ……っよく、よくわかってる! おまえはよく頑張った……だから……」
「全員、ぜんぶ、守れない。守れなかった……くやしい……ごめんなさい……何のために、ボクはここに…………ママ、ぼく、くやしいよ……イノセンス、ねえ、もうすこし……こんなの、アジア支部のときと変わんないじゃないか。シンクロ率、もっと……イノセンス……」
「大丈夫、大丈夫だから……発動は解くな! 欠損したところから血が……ああ、夜の雫を発動するんだ……もう眠れ、眠っていいから……! ……こんな、こんな体になっても……くそっ……」
ピアノの前で、ボクはアレンに言った。
――――――きみはボクに、『一緒に残って戦ってくれ』って言えばよかったんだ。なのに君は、ボクを選ばなかった。
ボクはそんなに頼りなかった?
子どもの体だから? 君のように、アクマを、ノアを、想えないから?
悔しい。
ボクは。
ボクは……もっと強くなりたい。
ボクは……。
そしてボクの視界は、夜より深い……砂のような黒に沈んでいった。
====================
『ァァアア、アァァア、レ、ン』
罅割れた子供の声が呼ぶ。
『はやく、はやく、えくそしすと……! アクマ、たくさん……ボクじゃ、まもりきれな……あ゛……ア゛ア゛ア゛ア゛――――――』
「ジィジィ! 今行きます……みんなが今行くから! 」
『……ごめん、アレン、ボク、ごめ、あああぁッアクマ! くそっ……はやく、ぼく、もたな……おねが……』
扉の向こうで何が起こっている。ジィジィのイノセンスの一部がここにあるということは、彼は中で。
ジィジィのイノセンスが、彼の一部を模っては霧散する。無数の小さな手、足、口、瞳……溶けだした鉄の細工のように、どんどん形が崩れていく。
「ジィジィ!!」
「適合者であるジィジィが限界なんじゃ! はよう箱舟を機動せい! 取り乱しとる暇はないぞ! 」
「こんな……ひどい」
ミランダは瓦礫に縋りつくように膝をつくと、指先で確かめるようにジィジィに触れた。
「そんな……ジィジィくん……貴方とはつい昨日、話をしたばかりだったじゃない……」
ラボに存在したエクソシスト。彼はたった一人で、ラボ内にいた研究員たちを守るために囮となり、無数のレベル3アクマと交戦。
襲撃直前まで細胞を拡散していたことが仇となり、使用できる70%の細胞での第三解放を行使。
アクマを強制的に休眠状態にする第三解放の能力により、約半数のアクマの動きを止めることに成功したが、開放の反動によりできた隙を突かれ、『吸引』の能力を持つレベル3アクマに後れを取って細胞の一部を切断。破壊される。
残り30%の細胞は、ラボ外にて救援を求めて活動していたが、『本体』である脳細胞の一部損傷により断絶。活動不能。
方舟を用いて、ラボ内に侵入を果たしたアレン・ウォーカーの手により、30%の細胞は本体に凝縮を確認。
同じく侵入を果たした、四元帥の手もあり、アクマ全機の活動停止し、ティエドール元帥のイノセンス結界“抱擁の庭”にて、彼の容態を確認。
しかし、エクソシスト適合者ジィジィの欠損した部位の細胞は再生叶わず―――――。
……ブックマンは記録の手を止め、その子供の『成れの果て』を見下ろした。
「……ここで終わりか」
第二開放の『夜の雫』により、自らのイノセンスに守られた内で、濁った金の瞳が虚ろにこちらを見返している。
「……よくぞ、ここまで戦った」
子どもが犠牲になる戦争とは、何度見ても空しいものだ。
しかし彼は、優秀な戦士であった。兵士になり切れはしなかったが、英雄たるには十分な働きだったろう。
「ゆっくりと休め……」
ブックマンは、アクマの攻撃の影響で痺れが残る指で、彼のイノセンスを撫であげる。ふと、老人の指先を、少年の吐息がくすぐった。
「アァ……ぶ、ぶっくま……」
目蓋が震える。
「おぬし……まだ……?」
「おね、おねがい、ブックマン、まだ、まだ終わってない。ボクは、まだ……ミランダを、呼んで」
「……良いのか」
「……ボクのイノセンスは死んで、ない、よ」
その金眼には、まだ光が灯っている。
『……ジィジィ、ミランダは来ない』
(コムイさん……?駄目だよ。ボクはまだ戦える。ミランダに時間を吸いだしてもらえれば……)
『いけない。許可できない。ミランダは今、アクマプラントの破壊のためにイノセンスを使ってもらっている」
(……いやだ。こんな負けっぱなしなんて……!)
『今はきみの体のことを―――――』
(……そんなの、自分がいちばん良く分かってる。ボクは大丈夫。イノセンスがある限り)
『駄目だ』
(……ねえ、でも、なにかの音がするよ。いやなにおいだ……アクマとノアのにおい……。
声がする……ははは……ふふふ……エクソシストが必要だろう? なあ、コムイ司令官……ボクのイノセンスなら、液体に変身したあのノアからミランダを助けられる。……違う?)
『………駄々をこねるなっ』
(ミランダは時戻しのイノセンス。同じイノセンスは無いんだ。適合者も一人きり……ボクは死にかけ、ミランダはまだ助かる。二人失うか、ひとり失うか。……中央庁のヒトはなんて言ってる? )
『…………』
(……まあいいよ。
ボク、子供だもん。我がまま言うのは専売特許だ。)
『……わかったっ。イノセンス発動を許可する。ミランダを助けてくれ』
(ありがとうコムイさん)
『ぜんぶ終わったらお説教だからね』
(ボク、コムイさんは怖くないもん。平気だね。)
「安心して。ボクはだいじょうぶ――――このイノセンスが、ある限り……ッ! 」
視界がぼやけている。ボクの頭はちゃんと首と繋がっているのだろうか。グラグラしていて、なんだかよくわからない。
でも、視界なんてたいした問題じゃない。必要なのは、ボクの内側にあるものだから。
……アレンはどうしていたかな。
そう、シンクロ率を上げるんだ。
『……聖母の、抱擁』
失った細胞は、たかだか15パーセントってところ。
大丈夫。
だいじょうぶ……。
変な音がする。
ギシギシと、なにかが軋む音。
そうだ、これは、イノセンスが軋む音。
……ギギギィギィィィイイィィイイイ
……錆びた金属同士を擦り合わせたような不気味な音だった。
黒曜石に似たジィジィの結晶体の内が、みるみる赤く染まる。まるで内側で血が溢れていくような、ぶくぶくと気泡交じりの不吉なもので満たされていく。
「……血を、流しているのか? まさか、まだ戦うつもりなのか! 」
「……なっ、これは……みんな! ジィジィから離れろ! 」
誰かが叫んだ。
体を作り替えられた何人もの研究員。
ノアの手の内でぐったりと脱力するミランダ。
不吉に発光するジィジィのイノセンス。
「もういいんだ! ジィジィ!」
「そんなの……ボクが、納得できないよ……ッ! 」
ピシリ……
ジィジィを守る『夜の雫』の結晶にヒビが入る。
結晶をいまや満たす血液のさらに奥、中心から、白い光が赤を洗い流すように溢れた。
亀裂からいくつもの筋となり、結晶を見つめる幾人かの顔を白く照らし出す。
ヘブラスカの唇がわななく。
≪感じる……イノセンス……≫
ブックマンが呟く。
「あれは……あのイノセンスから、一体何が産まれようとしているのだ……」
「ぉぉぉぉぉおおおおおおおおお――――――ッ!!!」
「死んじまうぞ! ジィジィ――――!!」
『卵』が沈む。
『水』に変化したノアとミランダを乗せ、光を吸い込む黒い湖面の中に、卵が沈んでいく。
湖面の底が行き着くのはノアの居城。
コムイ・リーは、選択する。
「…… ジィジィの粒子のイノセンスが、ノアの手からミランダを救出します。彼のイノセンスなら――――――三元帥は救出確認と同時に、『卵』の破壊を――――――」
―――――風が吹いている。
いや、ボクの体が走っているのか。
変幻自在の『色』のノアが目前に迫る。
無形の水に変化したルル・ベルは、そのゼリー状の巨体の首を持ち上げてボクを睨んだ。
優しいミランダ。ボクが二人目に出会ったエクソシスト。
「ミランダを、かえせぇぇぇええええええッッッ!!!!!」
「小賢しい! エクソシストがァァアアア!!!!」
ボクの背中を、クロス元帥の放った弾の光が焼く。
『掴めない』のは、アンタだけの能力じゃない。
ボクは無形のイノセンス……打撃も斬撃も効かない粒子のイノセンス。
ボクはルル・ベルに、粒子の一部を弾丸といっしょに打ち込んだ。
聖母の抱擁の白い腕が、ミランダの体を包み込む。彼女の体を抱きしめて、ボクは沈みゆく『卵』とそこに張り付くノアを蹴り上げた次の瞬間、元帥たちの攻撃が『卵』に着弾した。
『
ミランダの体を、マリの『糸』が、柔らかに聖母の抱擁の腕から抜き取った。
水が―――――ノアの一部だったものが、にわか雨となって降り注ぐ。
『卵』の消えた湖面から、アレンのマントが白く輝きながら舞い降りた。
「はは……ボクの……勝ち、だ」
見下ろす仮面の向こうのアレンに、ボクは晴れやかな気持ちで笑って見せた。