扉を開くと、濃厚な白い粒子がミルクのように周囲の空気に流れ込んだ。
この時ばかりは、純粋に綺麗だと思う。幻想的とあらわすに正しい。やっぱりこれは、神の結晶と言われるものなんだなぁと妙に感慨深い。
でもやはり、元が固体だったからか、硬い印象を受けた。
「やっぱり違うなぁ……」
そうか、これが個性というものか。
「……そういえばバクさん」
「なんだ」
「厳密には、この粒子化しちゃったイノセンスを、どうやって発動すればいいんでしょう」
背後では白い彼と、オッサンAが顔を突き合わせている。
なんともアホな会話。しかし根本的な問題である。
「僕も形状自体、ここまで変わっちゃうと発動の仕様がないっていうか……」
「い、いや俺はイノセンス自体扱ったことが無いから……」
「……ええー」
この人達ボクの存在を忘れてはいないだろうか。
「し、仕方ない!とりあえずやってみますっ」「お、おう頑張れ!!ほら皆下がれ!」
「すとっぷ」
右手の手のひらをテンパる彼の顔の前に突き出して、まさに『制止』の姿勢で、腰に手を当てる。……犬相手にするみたいだけど、まぁいいや。ボクの目には彼の頭に垂れ下った耳が見える。
気のせいかもしれない可能性も無きにしも非ずだが。
「ようは、経験だと思うんだ……」
「まずやってみて」
「は?」
「やってみないことにはわからないでしょ。とりあえずやってみて」
彼は見た目に似合わずスパルタそうだ、と、バクは静かに合掌した。
「そういえばミランダ、ここまで一人で来たんさ?」
行儀悪いと思いつつも、船室の椅子に胡坐をかいて寛ぎつつ、ラビはその隻眼でうねる黒髪の彼女に問いかけた。
彼女はこれから日本と言う極東の目的地まで休まず労働をするというのに、すでに疲労が濃く表れたようなくっきりとした隈を目の下にたたえている。びくびくした何かに怯えたような仕草からして、こんな見知らぬ土地に、失礼ながらも一人で出向けるとはラビには思えなかった。
案の定、彼女はキョトンとした顔をした後に、「まさか」と首を振り苦笑する。(蛇足ながら、こういった無防備な笑顔をされると『ちょっとイケるかも』と思うことは胸の内にしまっておく)
「ラビ君、実はね――――」
彼女は唐突に、血色の悪い頬を桃色に赤らめ、話し始めた。
「……というわけで、本当は彼もいっしょにここに合流するはずだったんだけど、他の任務が急遽アジアで入っちゃって・・・・・」
(ジィジィが?こんなときに?)
今は一刻も早く元帥の元へという非常事態ともいえる状況だ。そんな時に新人で、しかも現段階での最年少、そんな子供をどこへやるというのか。
(ジィジィの能力に関係あんのか?)
26ギニ―を請求されたのは、そう昔の記憶ではない。
つい数か月前のこと。あの女神像の任務の一つ二つほど前の任務でのことだった。
任務内容は『アクマの殲滅』。
そう難しい任務内容ではない。言っては何だが、よくある任務だ。この場合、アクマを破壊次第、任務完了となる。
はずだった、のだが。
現地の捜査にすでに入っていた探索部隊により、『怪異』とも言える街に流れる一つの噂が持ち上がった。
いわく、『夜闇に溶けるファントム』。
闇から闇へ、姿を変え、囁く魔人。
『ファントム』――――どこのダークヒーローかと言えば聞こえはいいが、ようするにただの変装のうまい詐欺師のことらしい。
ふらりとやってきて、信用させ、脅かせて、ぼったくる。
シンプルだがありがち。しかし他と一線を敷いているのは、男女老い若いと多様な変装、一言に詐欺と言っても、奪うものはコイン一枚の砂糖菓子から、家宝レベルの宝石まで。
さらには闇に溶けるといわれるほどの、痕跡を残さない逃亡の巧みさ。
聞き込みをすれば、出るわ出るわ、『密室で消えた』だの、『一瞬で男が老婆になった』だの、まさに『怪異』レベル。とっくに都市伝説と化していた。オカルトマニアのファンまでいる始末だ。
これに加え、さらに問題が発生した。
周辺のアクマが減っている。
いや確かにいなくなれば得なのだが、問題は『どこに行ったか』である。
本部から応援も出る手筈になり、長期戦を覚悟したその時。
アクマとの戦闘で飛び込んだ先が、彼、ジィジィの家だった。
彼は何ともあっさりと、献立を告げるかのように自供する。
「ああ、ファントムはボクなんだ」、と。
この能力がいつからあったのかはわからないけれど、ジィジィは寄生型。体のほぼすべてが神の結晶と化している稀有な能力のイノセンス。
「ボクは、粒子化のイノセンスを持つ適合者です」
「一度はそれっぽくなるんだけど・・・・・駄目だねぇ・・・・・」
「『駄目だねぇ』じゃぁないですよっ!」
アレンは子供相手にも関わらず、大人げなく噛み付いた。体からは汗が吹き出し、息も絶え絶えである。もう何度、発動してみたかも分からない。
(百は軽く超えてるだろ……)
ああ、数えるのも煩わしい。気が付けば皆各自仕事があるのだろう、その場には自分たちだけになっていた。
言い方は悪いが、年下の子供にこんなふうに手取り足取り何も知らない子供のように教えられるのにも苛々が溜まる。
「……君は何なんですか」
「エクソシスト」答えはすぐに返ってきた。
ああそうだ。確かにそうだった。でも――――
「僕もエクソシストです」
「知ってるよそんなこと。だからここにいるんじゃないか」
黒髪の間から僅かに見える金色の目がギラリと光る。「ボクは、君のためにここにいるんだ」
「分かってます!!」
「そんな大きな声出さないでよ。君、集中できてないでしょ」
「してますよッ!!」「出来てない。アンタはそのつもりでもボクにはそう見える」
あざ笑うように、ニタリとジィジィはアレンに笑いかけた。
びくりとアレンは肩を揺らす。
「自分をちゃんと客観的に見れば?」
「わかってます」
「わかってない。ちゃんとして」
「してます」
「出来てない。『してるつもり』じゃ駄目なんだ」」
「わかってます・・・・・っ」
「それは『わかってるつもり』でしょう」
「じゃぁどうすればいい!!」
ジィジィの眉が鎮められた。
「こんなところで立ち止ってるわけにはいかない、こんなところでじっとしていたら置いていかれる、こんなところで……こんな、ところで、」
あれだけ泣いたのに、ぼろりと塊がこぼれた。
(自分が情けない!)
ジィジィはこれ見よがしに溜息をついて顔を拭うアレンの前に立った。先ほどのフォーのように腰に手を当てて仁王立ちする。
「きみは今、『一回休み』だ。アレン君」
びしりと人差し指を突き付けた。
「は?」
「双六であるでしょう、『一回休み』。アンタは今それなんだから、次の番が回ってくるまで何もできないの。言ってることわかる?」
それは――――
「慰めてくれてます?」
「そういうこと言うんだったら慰めてあげないからね。黙って訊け。いい?そこに止まっちゃったのは不運としか言いようがない。アンタは幸運のハードルが他より高いみたいだから、諦めた方がいい。これからもっと不運なことが起こる可能性も高い。そのたびにそんなふうにしてたら自分の胃液で胃に穴があいて遠くない未来死ぬよ」
「そんなインチキ占い師みたいなこと・・・・・」
「ボクの見立ては当たる」
ジィジィは顎をあげて腕を組んだ。
「そんな子供のくせに……」
いくらそうしても、アレンが二十センチ以上高いのだ。
「キミだって子供だろう。ボクは好きで子供なわけじゃない」
そんなことも分からないのか、というふうに鼻を鳴らす彼に、アレンは苦笑した。「僕も好きで子供でいるわけじゃないですよ」
「少なくとも、ボクはキミよりは大人だと思うけどね」
霧が渦を巻き、アレンの無い左腕に集まっていく。
バシュッ
輪郭があっというまにぶれ、音を立てて飛散した。
「―――っは、」
知らず詰めていた息を吐く。
「……よし、もう一度」
(やっぱり)
ジィジィは掌に粒子を纏わせた。こちらはジィジィのイノセンスだ。比べればその違いは歴然としている。
アレンの粒子が細かく、砂の様なものに対し、ジィジィのそれは、一見するとまるで液体の様に手の上を滑った。色も、アレンが氷の粒なら、こちらは淡く血色の赤に色づいている。
しばらくの間、滑らかに手の甲を滑った赤い雫は、次の瞬間に一瞬にして空気に溶けるように飛散した。
(違う)
動き、粒の形、光り方。
(……元が違うからかな、やっぱり)
アレンの左腕のイノセンスがまた輝きだす。今この時、ジィジィの瞼は閉じていた。
かわりに流動的にただよう赤い靄は、ジィジィの『目』の部位にあたるイノセンスである。
(……“聖母の
口の中で声なく転がすのは、ジィジィのイノセンスに付けられた名だ。
ジィジィは自分以外の寄生型の発動を見たことが無かった。
聖母の
それはジィジィ自身が、比喩ではなく光を嫌うからであった。
彼の金の瞳は、太陽を直視できない。強い光のもとで瞼を開くだけでも、刺すような痛みがはしる。
教団の検査によって、『光に弱い』というだけで大きな問題にはならないという正式な診断も出ている。
「……ジィジィ君」
「あ、バクさん」
静かに鍛錬場に入ってきたバクは、ジィジィの傍らに立った。
「イノセンスを発動しているのか」
「……この光は目に悪いから」
「ああ、生まれつきらしいな。イノセンスにそういう使い方もあるのか」
ふむ、とバクは眉をひそめてアレンのイノセンスを眺める。「何か?」
「……いや、ウォーカーに少しな」
「わっ!」
「あ、こけた」
すかさずバクが駆け寄る。
「だ、大丈夫かウォーカー!凄い音がしたゴガぶッ!!」
(この人やっぱり馬鹿なんじゃないだろうか)
立ちあがったアレンに盛大に頭突きを食らったバクを、ジィジィは冷めた目ならぬイノセンスで見た。バクは絵に描いたように床に倒れ伏す。
コメディアンもここまで体を張らないだろうというような、見事な倒れ様だった。静かな広場に分厚いファイルの散乱した音が響く。
アレンがあわてて派手に広がったファイルの束を包帯に巻かれた右の片腕でかき集めた。
「わぁぁああぁぁぁあああああ!!」
(何だろう……)
ジジは興味を駆られてそっとバクの背後に近付いて腕の中を覗き込む。
「……あ、リナリー」
バクはひきつった唇をやっと動かし、震える声で言った。
「盗撮じゃない……これは断じて盗撮じゃないぞ……」
「じゃあ、そういうことにしましょうか」
ジィジィはうっそりと、やけに怪しい笑顔を浮かべた。アレンは怖気が奔った両腕を抱いて(片腕は文字通りの粉塵だが)、少し距離を取る。
「バクさんだって、男だもの。大丈夫。ボク、知ってるよ」
「な、何をだ……」
「ボク、小さいからまだそういう経験は無いけどさ」
「何の話をしている……! 」
「いやあ、だからさ……ウン。ね、アレン」
矛先を向けられて、アレンはびくりと水をかけられた猫の様に跳ね上がる。
「は、はぁ」
ジィジィは、ポンとバクの肩にねぎらうように手を置いた。
「……大丈夫。ボク、いいお店知ってますから。何も恥ずかしいことじゃないよ。ようは、経験だと思うんだ……」
バクの顔が一瞬真っ白に、紙の上の落書きのようになる。肩を掴まれたジィジィは、鼻水を垂らしている成人男性とけっして視線を合わせようとしない。
「も、もう少し詳しくいってくれ……あ、いや、そういう意味ではなくてだな……! つまりどういう意味だ! 何の話をしているんだぁぁぁあああ! 」