ボクは、10歳くらいまでの記憶がない。
気が付けば路地裏にうずくまっていて、施しを与えてくれたのは、あの赤毛の娼婦だった。
夫も子供を亡くした彼女は、元高級娼婦。普通の道端に立つ娼婦と違い、ビジネスとしてベットにまで付いてきてくれる貴族御用達の『高いオンナ』だった。
教養深く、オペラや外国語をそらんじられる彼女は、いくつかの職を掛け持ちして女だてらに稼いでいたし、その美貌と知識に魅せられた男どもも数多くいただろうと思う。
それでも彼女は結婚しなかったし、ボクみたいな、薄汚い孤児を家に招いては、気まぐれな施しを繰り返した。
さびしい人だった。
彼女を癒せるのは子供だけ。それも息子と同じころの子供。
年を経るごとに、彼女の中で成長する我が子。
ブラックの髪色をしたボクは、彼女にとって、ていのいい代替品だった。
ボクも彼女も、理解していた。
これはビジネス。彼女がしてきたことと同じ。ボクは一時の安らぎを。彼女は一晩の食事と、温かいベットを。
本当のママは知らない。
(ほんとうに?)
ボクは、10歳までの記憶がない。
(うそだね……)
目の前がチカチカと点滅する。懐かしい景色が、擦れて消えていく。
そうして目の前に広がったのは、どこまでも白い――――眩しい場所だ。
ボクは思わず目を瞑る。
「……ああ、すみません」
頭の上から声が降ってきて、ボクの頭に何かを置いた。髪を押さえつけるように往復するそれは、だれかの手。
「ほら……もういいですよ。灯りは弱くしましたから」
ハスキーなかすれ声は、男か女かもわからない。顔を上げると、緑がかった金色の瞳と目が合った。
「コーヒーはいかがでしょう? 」
鳶色のぼさぼさの髪を後ろにまとめ、痩せた体に白衣を纏って、その人は幼いボクの顔ほどもあるカップを差し出した。
ボクは戸惑って、何度もカップとその人の顔を見比べる。
「……子供には、ミルクと砂糖が必要でしょうか」
眠たげな目元を困ったように下げて、その人は―――――――。
(……ウーン。ここじゃあないなぁ)
場面が変わる。
ボクは立っている。
どこかに立っている。
血の臭気が満ちたどこかに立っている。
目の前には男。足元には女。女の体を押し倒して、ボクに覆いかぶさっている人の胸からは、嗅ぎ慣れたコーヒーの匂いがした。
ぬるりと手が滑る。これは血だ。
目の前の男は、憤怒の表情でボクを見おろしていた。
緑がかった金色の眼の男。癖のある黒髪の、顎の尖った男。あの白衣のひとと同じ瞳の色の男。
―――――ボクと同じ色の瞳をした男!
「……あなたは誰」
ボクの問いに応えず、男はぎりぎりと歯を噛み締めた。
「その顔……その眼……ッ! あいつの顔に、おれの眼がついてやがる……なんだこいつは? 悪魔の子供か!? 」
「あんたの子だ! 息子を殺す気か!? 」
「息子!? 息子だと!!? “これ”はあいつを奪った悪魔だ! 俺は、あいつさえ、いてくれるなら……! 」
男が泣いている―――――。
(これだぁ!これだよぉ! きみのこころの、あつゥ~い血の詰まったと、こ、ろ! )
ボクは、白衣のひとの肩ごしに、男に向かって手を伸ばした。
「あんたも……っ! おれの邪魔をするんなら……」
男が濡れたナイフを振り上げる。
「やめて……この人は……」
ばちばちと世界が白黒に点滅する。
(……あれ?)
「このひとは貴方の姉なのに! 」
「―――――――逃げて、×××――――――!!!」
独楽のように回りながら、渦を巻いて白い世界を踏み砕いて、世界は白から再び黒へ。
壊れたおもちゃみたいに座り込むボクの腕を、誰かが引いて立ち上がらせた。
のろまに顔を上げたボクの前には、なんだか真っ白い髪をした誰かが立っている。
「……アレン? 」
「誰ですか? それは」
人形のように表情に乏しい顔を傾けて、その“白い少年”は、ボクの手を優しく握った。
「よく頑張りましたね」
「……きみは誰? 」
「誰、ということもありません……あなたは憶える必要が無い。僕のことはすべて忘れるべきだ」
床も天井も真っ黒な空間だ。なのに、この少年とボクの周りだけ、ライトで照らされたように互いの姿がよく見えた。
「きみはすべて忘れなくちゃ……だいじょうぶ。僕は、ずっときみを見ています。……なにも怖がらないで。きみは無敵だ」
「そんな顔で言われても……」
「笑顔は苦手な性分なもので」
彼は瞼を伏せて、名残惜し気にボクを手放した。
「もし……もしもが、あったなら……」
少年の姿が遠ざかっていく。声だけが、今でも目の前に立っているかのように耳に届いていた。
「もしも、きみが、父と母と、僕らと歩ける道があったのなら、きっとそれも、幸せな道だったでしょう。けれど、“もしも”は永久に失われてしまった」
少年は小さな白い星になって、黒の果てに消えていく。
「きみは生きて。……きみは紛れもなく、世界に祝福されて生まれてきた子供です。神さまでも、他の誰でも無い。きみの母親がそう決めたんです。だから……」
白い星は、一つの出口。
黒い世界は、無数の星が輝く夜空に変わる。
そうしてボクは、あの路地裏に降り立った。
ボクはそうして、ジィジィになった。
……ああ、思い出した。
「お礼を言わなきゃねェ……」
(あ、アレ? なぁ~んか、失敗ってカンジィ? )
前髪を掻き上げる。
「ボク、母親似なんだって。ふふふ……」
寄生型はイノセンスの原石とシンクロするのだと、バク支部長は言った。だから“かたち”が定まらないアレンは、イノセンスの正しい形を見失っているのだと。
そして、アレンは“正しいかたち”を見つけた。
ボクは不確定の粒子のイノセンス。
なんにでもなれるし、なんにも囚われない。聖母の抱擁は、ボクのためのイノセンス。ボクを守るイノセンス。
ボクは神さまなんて信じちゃあいない。
でも、きみだけは信じてる。ボクを守ってくれるって信じてる。
今までは、その理由を忘れていたけれど。
イノセンス。
きみの“かたち”を見つけた……いや、思い出したよ。
「ありがとう。ロード・キャメロット! 」
(あれれ~ん? なァ~んで、イノセンスが発動できちゃうのかなぁ? )
ボクは今度こそ、“眼”を開けて“夢”から覚める。
「ふはっ! まるで羊水に浸かる赤ん坊だ! 無様なイノセンスだねェ! 」
ロードが嘲笑する声が、遠くに聞こえた。
アイツは『外』だ。
……ママ、行こう。あいつぶっ殺すんだ。
嬉しいでしょう? 自慢の息子でしょう。
「アア……ッ! ボクもうれしいよ……ッ! 」
さあ笑おう! ボクと一緒に!
「泣いて許しを請えよノア! ――――ぶっ殺してやるからさアッ!!! 」
「あれはなに……? ジィジィくんの姿が……」
ロードの作ったジィジィを収めた檻は、人形を入れるガラスケースに似ていた。
少年はたった今まで、空ろな瞳を空に投げたまま、四肢を投げ出して横たわっていたのだ。彼はおもむろに体を起こし、虚ろな瞳のまま、どことも知れない空へと腕を伸ばす。
リナリーは、檻の内で湧き上がる感情に奥歯を噛む。
「そんな……ジィジィくんまで……っ! 」
血の匂いがする。リナリーの膝で背中を丸めている青年のものだ。
檻の外では、仲間たちが戦うべき敵に背を向け、向けるべき人ではない人に、聖武器を向けている。
なぜ自分は何も出来ないのであろう。
ジィジィの輪郭がぶれる。
彼のイノセンスは粒子化。それは、イノセンスの発動状態と似ていた。
「あれは……」
びりびりと檻が、このイノセンスの骨具となる脚が、震えている。
「これは……ジィジィくんのイノセンスの……? 」
「“聖母の抱擁”……」
唇が、イノセンスを呼ぶ。
ジィジィの檻が砕け散った。
「あいしてるよ……ママ」
かみさまみたいに。
「フフーン。いいもんね~。ボクにはまだ『ラビ』がいるしィ」
象牙色の女の
ボクの肉体は、その水球に融けこんでいる。女の腕は白い翼にも似ていて、水球の中の温かい温度が心地いい。
「人間のかたちをしていない……あれじゃあ、まるで」
「アクマみたいじゃあない? ……ねえ、そう思ったんでしょう? リナリー」
問いかけるロードにリナリーは応えず、浮遊するイノセンスを見上げていた。アレンもまた、ラビの猛攻越しにボクを見つめているのが分かる。
きっと、新しいアクマかとでも思ってるのかもしれない。
「これでいいんだよ。リナリー」
ボクの声に、リナリーの瞳が見開かれた。
水球の粒子を変化させて、ボクは笑顔をつくって彼女に向ける。
「だってボク、わかったんだ。イノセンス(ママ)はボクで、ボクはイノセンス(ママ)。
ボクのイノセンスに形が無いのは、ボクの中のイノセンスが、かたちの無いものだったから。イノセンスはボクのもの。
ボクはこの、ボクの中にいる“聖母”を、かみさまみたいに愛してる……」
そっと、“聖母”の腕がほどかれる。
重力に従って落下する水球は、落下地点で地面を抉る轟音と共に水玉のように弾けて霧散した。
「“かたち”無いものとどうやって戦う!? なあロードッ! 」
ボクは進化した。
誰にも見えない。
“いる”のに“いない”。
「いまのボクは、君を犯すイノセンスの
「ウイルス、だって……? 」
「きみはもう“感染”してる……逃がすもんかよ」
その時、ラビの“火判”による火龍が、天高く渦巻いた。
巻き上がり蛇行する火龍が、ロードを飲み込む。
「ラビ……ッ! 」
「自分に攻撃を……! 」
アレンがラビを呼びながら、手の大剣を掲げて火龍に猛攻した。
火龍は地面に無数の傷跡を残しながら、断末魔のようなか細い爆発を最後に、地面で形を失くす。
発動を解いたボクが自分の団服を拾い上げて、みんなのところへ戻ったときには、火傷だらけのラビとアレンが転がりながら笑っていた。ボクのイノセンスって、発動のたびに服が脱げちゃうのが難点だよね。
「あ~あ~……これじゃあ膝がくがくのボクが、一番軽傷じゃん」
「ジィジィ!? 無事だったんですね……」
「そりゃあ、君たちよりは」
「ズボン履きながらだと、ちっともカッコよくないさ……」
「ラビには負けるよ……」
「ンだとコラ! 俺がんばったっしょ!」
「はいはい」
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「……アレンきみ、ボクに『一緒に残れ』って言わなかったね」
ピアノの前でボクが言った言葉に、アレンは苦笑して誤魔化した。
「ボク、根に持つからね」
あのとき、一番軽傷なのはボクだった。アレンはボクの本当の年も知っている。
ボクの能力は、発動範囲が広くて、防御に長け、瓦礫の下でも潜り込める。
順当にいけば、あそこで残る『べき』なのは、アレンよりボクだったはずだ。
けっきょく、ティキ・ミックの暴走に箱舟の崩壊、千年伯爵の乱入と、アレンの離脱はうやむやになったけれど。
「きみはボクに、『一緒に残って戦ってくれ』って言えばよかったんだ。なのに君は、ボクを選ばなかった」
アレンは笑顔を潜ませて、ボクから目を反らした。
「……一ッッ生、根に持ってやるから」
アレンはまた、苦笑した。