君は首を左右に振っている。
僕がどれだけ勇気を出して誘っても、君は首を縦に振ってはくれない。
僕には、君を頷かせるほどの魅力がないのだろうか。
でもそんな君を見ていると、心が洗われるような風が吹いた気がして、
茹だるような暑さもその時だけは、忘れられそうな気がしたんだ────
よく見たら扇風機だこれ。
昼間から扇風機に愛を囁いている無職の25歳。
充分に通報案件である。
丁度外で警察官がパトロール活動をしている。もしやこの間のアレがバレたのかもしれない。
昨今は女子高生を追い抜いただけでも逮捕されるそうだから、そこらへん気をつけていかなければならない。
ところで追い抜くってちょっと卑猥なんでもない。やはり暑さで頭がどうかしているのだろう。
普段はもっと知的で超COOLな俺である。
こんな時は冷蔵庫からキンキンに冷やされたアレを喉に流し込むにかぎる。
ここに取り出したるは、冷やした黒い炭酸飲料。
文字に起こせばそれだけなのに、一口含めば全身に染み渡るそれに、五臓六腑が甘い冷却を受けた。
粘着質な甘さがあるのに、それを強炭酸がなかったことにしてくれる。
くどさと爽やかさを併せ持った至高の飲料。
これが小銭をいくらか差し出すだけで、なんと無料で飲めてしまうのだ。
こんなことがあっていいのだろうか。
俺が至高の飲み物について熱く、いや熱いというと気温まで暑くなってきそうなので冷たく、そうクールに脳内で語っていると視界の端に鏡を捉えた。
その姿見は百八円均一商店、いわゆる百均で買ったものだ。
鏡は何色であるのだろうという哲学的な議題が脳内に提示された。
俺色である。会議は即座に終了した。
これがいわゆるブレインストーミングである。
さてそんな俺色とはどんな色合いなのか。
まずその双眸は明朗快活と輝いており、飄々とした印象をもたせるだろう。
濡れ羽色の飾らない髪は、艶やかに背を流れ足元まで延びている。
練絹のような肌も相まっていかにも妙齢の女性といった美貌だが、その克明に刻まれた筋肉の溝は研鑽の跡、筋骨の隆々は漢を語る。
一切の無駄が省かれたそれは、さながら鋭利な鋼刃のよう。
芸術的なそれは原始の鎧を思わせ、実用性のベールを纏っていた。
そして大きく彫られた禍々しい牡丹と龍の刺青が鎧を華やかに演出している。
現在の自分を再確認し、また微かな郷愁を感じる。
散歩ついでに酒でも飲みに行くとしよう。
扇風機の秘孔──俗にいう電源ボタン──を突くことにより活動を停止させ、ドアノブを巧みに捻り男は部屋を出た。
かの浪子の「義」一文字を背負って。
こうして街を歩いていると、俺の元居た世界と大きな違いはないのだ。
周囲を山と海に囲まれたこの自然豊かな地方都市は中心に大きな川が流れ、そこから東側は新都が発展している。
中心部はビル街が立ち並び、西側は古い町並みが今も残っている。
謎の住民大量昏睡事件・大量の死者、行方不明者が度々発生・大火災なども起きているためとても危険な街らしいが、俺の現在の体は頗る頑丈らしく特に損害はないので、まあ過ごしやすく良い街である。
極太ビームや大量の器物、超高速物体が飛び交う上空を眺めながら人通りのない河川敷の土手を歩いていたが、川の水面へ向かって何かを投げている青年を発見した。
どうやら水切りをしているらしいが、尋常ではない技術である。
数えるのが面倒になるくらい水面を跳ねた後、最後に巨大な水柱を立てて小石は砕け散った。
思わず目を奪われてしまったが、それほど見事なものだった。
彼が小さく溜息を吐いたので、それをきっかけに話しかけてみる。
「おうい、そこの金髪のお兄さん!」
最近は酒ばかり飲んで怠惰な生活をしていたので、たまにはこういうのも良いだろう。
そう思って話しかけると、彼は退屈そうにこちらを横目で見た。
何もかもを見通したような、赤い瞳が印象的な美青年だ。
しかし服装は至って普通のジャージ──いやライダースーツだろうか──なんというかイカしている。それに素材も、随分と上質なもののようだ。
「……フン、そこな雑種。我はお兄さんではない。
──我は王。最古の英雄にして天上天下に唯一人、英雄王である。
それが理解できたのなら疾く失せよ」
そう言ったきり、俺から視線を外してしまった。
遊びに興じているというより、退屈を拒絶しているかのようだ。
「つれないことを言わないでくれ。
水切り、中々の腕前じゃないか。俺にも教えてくれないか?」
尚も頼み続ける俺に、彼はさも面倒だといった表情で呆れたように嘆息した後、ぽつりと呟く。
「……親指と曲げた中指で軽く挟み、尖った部分に人指し指の第一関節をからめるようにし、指が曲がるように持つ。
子供らはそのような持ち方をしておった。
──いつの時代もお前達の純粋さと瞳の輝きだけは、変わらんのだろうな」
彼のまるで政策に悩む王のような雰囲気、王気とでもいうのか。
頼んでおいてなんだが、了承してくれたことに少し驚いている。
「そら」
こちらへ声と共に放られた小石を掴み取り、言われた通りの持ち方で握り、水面へ放ってみる。
俺は水切りをしたのは初めてだが、それなりの回数跳ねさせることができた。
彼が渡してくれた小石が投げやすかったのもあるが、教える際の声色やトーンが絶妙でとても頭に入りやすい。
先の言葉から、彼も子どもが遊んでいるのを見ていただけだろうに。
しかし彼は、何かを憂いているのだろうか。
どこか諦観を含んだ眼差しで揺らぐ水面を見つめている。
「……悩みでもあるのか? 良ければ相談に乗るが」
流石に目の前で煩う者をそのままに水切りを楽しむのもどうかと思い声をかけた。
「雑種に相談することなどない……と言いたいところだがな」
彼は疲れたように、もう何度目かの溜め息をつく。それは堪えるのをやめたようだった。
その薄く形の良い唇が、暗い澱みを吐き出し始める。
「……現代は随分と人に優しい世界になった。
人が溢れかえったこの国を見て、我が最初に感じたことだ。
社会や法に守られている。高度文明化された庇護の中、覚悟を失くし泥を垂れ流す俗物の群れ。
──認められるものでは无い。
いっそ人類一斉大量虐殺を実行し、間引いてしまおうと考えたこともあった。
増殖する無知蒙昧が生を謳歌するなど、王へ対する冒涜であるからだ。
我が生きる価値があると見なすのは、あくまでも優秀な能力を持つ人間のみだ。
故に有象無象の雑種が際限なく湧き出るこの現代は度し難く、嫌悪感を覚えてならんのだ」
語られるそれは神──否、王の視点。人類の歴史の観測者にして裁定者の視点。
彼は足元の小石をひとつ、手に取った。
薄く、水切りに適した形をしている。
「我が治めていたウルクの民は、優れた生存能力や力を持った者ばかりだった。
あの火災で死ぬような脆弱な人間など存在しない。
若年ながらも優秀な人材が揃っていた。
当時の社会にはすべての人間に役割があり、無駄な人間などただ一人として存在しなかったのだ」
そこまで語った彼は、手の中で弄んでいた小石を空へ放り、落ちてきたそれを掴み取るとそのまま水面へ投擲した。
放たれた小石は勢いよく水面を弾き、何度も跳ねた後に向こう岸まで到達した。
彼はこちらへ向き直り、静かに俺の答えを促す。
「……あんたはどこまでも王で、そしてこれからも王なのだろう。
人類を昔からずっと、観測してきたのだろう。
──だが人類は、いつまでも神におんぶに抱っこではいけない。
神を認めなくても、人生を幸せに送ることはできるんだ。
神になど頼らなくても強く生きていける、というのは驕りなのだろう。
縋るもの無くしては生きていけないほど、弱き者もいるだろう。
それでもヒトは、
そんな織物を織りなさなければならない。
……そう、思うよ。あくまで個人的な感想だが」
暫し、静寂が訪れる。
彼はただ、昏く燃える赤い瞳をこちらへ向けている。
気づけば辺りは夕日に焼かれており、まるで世界が終わりへと進んでいるかのようだ。
「…………フッ。
──我の退屈を一時忘れさせた褒美だ。くれてやろう」
黄金の波紋から金の酒壺を出現させた後、そう溢して彼は立ち去った。
どこか吹っ切れたような、しかし寂寥たる表情だった。
その場に残された酒壺は辺りに甘い色香を放っており、誘われるように一口飲む。
含んだ瞬間に全身を襲う、溺れそうなほど異常な美味と強すぎる中毒性を振り払う。
……これは人の身には過ぎたモノだ。
断腸の想いで酒壺を置く──ことはできなかった。家で保管しておこう。
時たま飲んでしまうことは、……あるかもしれないが。
意識を逸らすために先ほどの彼の言葉について考える。
しかし、あの答えで良かったのかどうか。俺にはわからない。
迷いを振り払うように小石を握り、角度を調整して投擲する。
指から離れた小石は勢いよく水面を弾き、数回跳ねた後に水底へと沈んでいった。
「……難しいもんだな」
街はもうすっかりバラ色に染まっている。
空を行く燕の姿が漆黒に見えるほどの、濃厚な赤だ。
紅に金を混ぜたような強烈な色彩は、先程の青年を思い出させた。
ふらふらと彷徨っていると、街角に寂しげに佇む居酒屋を発見した。
結局酒かと己に呆れつつ、暖簾を潜る。
店主の声掛けに返すついでに酒を注文し、席に着く。
俺以外に客は一人だけ。随分な酒豪のようでカウンターには大きな空瓶が何本も並んでいる。
店内の壁一面に貼られた、料理名と値段が書かれた板に目を通していると、カウンターの方から野太い声が投げられた。
「よう、坊主。ちょいと付き合ってくれんか?」
そちらを向くと筋骨隆々の偉丈夫が徳利と盃を片手に眩しい笑みを浮かべていた。
赤っぽい髭面には粗野な印象と威厳を覚えるが、どこか不思議な愛嬌が混在している。
「ん、ああ。俺も独り飲みは寂しいと思っていたところだけど……
どこかで会ったことがあったか?
悪いが覚えていない……」
さも旧友のように飲みの誘いをしてきた彼だが、あいにく俺に心当たりはない。
これほど存在感のある大男を忘れるはずないとは思うのだが……
「なあに。盃を交わす、それ則ち友誼の証。
この出会いにどれ、まずは一杯」
釈然としないながらも、断るわけにもいかず盃を差し出した。
「……ありがたい」
乳白色の猪口の中には、辺りの光を反射する透明な液体が注がれる。
芳醇な米の香りと仄かに香るアルコールの甘い匂いが鼻を擽った。
盃を緩やかに傾け、冴えた澄明を一口含む。
さらさらとした絹のような、艶やかな飲み口だが強い甘みと刺激、清涼なふくらみ。それでいてしっかりとした旨味。
まさに熟酒というものだった。
雷光のようなそれは好みが分かれるだろうが……
「美味いな」
ついその言葉を口にしてしまうほど、端的に言って好みな味だった。
「おお! お主もその酒の良さがわかるか!
ウェイバーのやつは酒を飲まぬからなあ……」
ウェイバーというのが誰かは知らないが、お酌してもらったからには返さねばなるまい。
「では、返杯するとしよう」
「む、ありがたい」
鼠尾、馬尾となるよう注ぐ。
八分目付近まで注いだところで再び鼠尾とし、徳利を離す。
彼は先ほどの俺と同じように盃を口へ付けるが、盃を傾ける姿が様になっている。
そしてそのまま漢らしく一息に呷った。
「……うむ! やはり美味よのお!」
「俺が店に入る前から随分呑んでたみたいだが、悪酔いしたりするなよ……」
そこからはただひたすら酒を飲み、つまみを貪り、酒やつまみが無くなればまた注文……の繰り返し。
余談だが、ワインと日本酒はどちらも醸造酒。
しかし日本酒の原料になる米は糖分を含まないため、麹の酵素により澱粉がブドウ糖に変化する糖化と、ブドウ糖が酵母の働きによりアルコールに変化する発酵とを同時に同じ容器の中で並行して行う。
故に日本酒の製造工程は、他の酒と比較にならないほど複雑で高度な技術を必要とするのだ。
ちなみにこれを並行複発酵という。
完全に発酵が行われるため日本酒は、醸造酒の中では一番アルコール濃度が高く、約20%を誇る。
じっくり発酵する過程ではさまざまな旨味成分や香りが生まれ、日本酒の味わいをよりいっそう趣きのあるものにするのだ。
昔、人から聞いたことをそのまま言ったわけではない。断じて。
──ところで皆は、『わかめ酒』をご存知だろうか。
日本の伝統的な性文化とされ、もともとは好事家が遊郭の芸者に正月などの慶事にお祝いとしてさせていた遊びの一つである。
下半身を露出した女性に正座させ、上半身を背中側に反らせる。
太ももと下腹部にできた窪みに酒を注ぎ込み、女性自身を酒器として楽しむのだ。
痩せている女性では隙間から酒がこぼれてしまうので肉づきの良い女性が適当である。
名前の由来は「陰毛がゆらゆら揺れてわかめのように見えるから」とされている。
その歴史は古く、明治時代に伊藤博文が好んでいたと言う説も。
つまり至高の酒である。
ああ、どこかにわかめ酒を飲ませてくれる女性はいないものだろうか……。
あれ、なんだかそこに女神が如く美しい、赤髪の肉づき良い女性がいるような────
「おう、お主。大丈夫か?」
男二人の宴は続く。
酒豪な筈の彼が悪酔いして殴りかかってきたり、それを朧げな意識で宥めたり。
夜は更け次第に曙は訪れ、黎明の光が世界を照らす。
明けの明星が呆れたように顔を出していた。