無慈悲に降り注ぐ鋭い直射日光と、絶え間なく聞こえてくる蝉時雨に少し眉を顰めた。なんだなんだ、聞いていた情報と違うじゃないか。不満を込めて、思わず足元の木の枝を踏み潰す。
「……はあ」
行けども行けども、見えるのは木々ばかり。同じ場所を回り続けているような、そんな不安すら湧いてくる。直線的に進んでるはずなんだけどなー、そろそろこう……人だとか動物だとか、虫と木以外の物を見たい。まあカブトムシだとかオオクワガタだとか、普通ではなかなかお目にかかれなさそうな虫も沢山いるあたり、たとえデマだったとしても、なかなかにいい穴場なのかもしれない。
「今のところ何の辺鄙もない山だけどなあ……こんな場所が本当に、」
言いかけたところで、何かとても嫌な予感がした。心なしか辺りの温度が下がったような――まずいことが起きるような、形容し難い不安に襲われる。
「ねえ」
後ろから聞こえてきた、可愛らしい声に足を磔にされた。無邪気そうな、小さな女の子と思しき声。振り返りたい衝動を、頭にガンガンと響く嫌なシグナルが抑えつける。
「ねえ」
あくまで溌剌と、好奇と興味の声音で少女はパーカーの袖を引く。大きなリボンに短く揃えられた金髪、一見可愛らしそうな少女。しかし、何処かおかしかった。
「あなたは、食べてもいい人間?」
きっと――普通じゃないっ!
その予想は当たっていたようで、袖を掴む手を振り払い、ガクガクと情けなく震える足で駆け出す。掴まれていた部分が丸ごと裂けて左腕付近の風通しが相当良くなってしまったが、それがより一層不安を掻き立てた。
当然のことながら舗装など全くされておらず、滑るわ柔らかいわで足場の悪い、鋭く尖った枝が邪魔をする獣道を無理やり突き進んでいく。走って走って、ただ走り続けた。息が上がり、思わずへたりこんだ。その頃にはいつの間にか、陽は傾き始めていた。少し橙を帯びてきた空を見上げ、大きく溜め息を吐く。
「はぁ、ちゃんと下調べしてから来るべきだったかなあ……」
行ってしまえば宿も食事もどうにでもなるような気がしていたが、そんな都合のいい展開はなかった。自然は綺麗だし心なしか空気も美味しかったが、そんなことよりも今はお風呂に入りたかった。
「んんー、んあー……」
大きく伸びをして、軽くストレッチ。立派な大木に手を伸ばし体重を預け、アキレス腱を伸ばす。
「…………」
先程の少女。アレが、アノ娘が
「妖怪というからもっとこう、江戸時代の絵巻か何かに描かれてるようなおどろおどろしいイメージがあったけど……」
角の生えた巨大な鬼とかー、顔がツルツルで不気味なのっぺらぼうだとかー、後はこう……化け狐とか化け猫とか、化け狼とか?
自分で考えておいてクスっ、と思わず微笑む。
「化け狼ってなんだそれ。そんなの聞いたことないや。でもいるとしたらあんな感じなのかなあ」
いつの間にか木々すら橙に染まり、少し冷えた風が吹き始めるような夕刻になっていた。木々の隙間から見える沈む夕陽の方から、数匹の馬鹿でかい狼(?)が、こちらに向かっていた。
「……ん、んん……?」
野生の狼って、確か絶滅したんじゃなかったっけ? っていうかアレは、狼にしては目付きやら体つきやらそのゴツゴツと角張った骨がおかしいような……
「ガルルルルル……」
舌なめずりしながら、まるで獲物を発見したかのように嬉しそうにこちらに近づいてきているような……
「う、うわあああああああ!!!」
もうそこまでくれば、向こうがこちらを狙っていることには流石に気づいた。再び走る、走る、走る。しかしまあ、ただの人間が野生の動物――もとい妖怪の脚力に勝ることなど、あるはずがないわけで。
「くっ……」
反り立った崖の下へと追い詰められ、囲まれる。とてもじゃないが登れそうな崖ではないし、登れるとしても既にこの距離だ。崖に飛びついた途端、僕自身がこの子達に飛びつかれてしまうだろう。
――絶望、という二文字が思考に浮かぶ。何が何だかわからないまま、目的も何も果たせないまま、よくわからない妖怪に食べられて死ぬというのか。
「……それは……やだなあ」
死にたくない。生きたい。生と死の境界線に立っているという緊張を、震える息を吐くことで無理やり殺す。大事を喫しているのか、妖怪はゆっくりと、円を狭めるようにこちらに近づいてきている。――チャンスは一度切り、失敗したら確実に死ぬ。トントン、と靴の爪先で地面を軽く蹴った。
「――よしっ!」
素早くくるりと振り返る。向かう先は崖。全力で駆け出す。獲物を逃がすまいと敵も向かってきているだろうが、数秒。数秒あれば、それでいいのだ。
「ぐっ……! うぉおおおぉりゃぁああぁぁぁああぁあ!!」
イメージする。何度も見ている、気持ち悪い目玉だらけの空間を。
イメージする。壁に現れたそれを、ぶち破って越えていく自分を。
「やっ!」
崖の壁に小さく開いた異空間――空間の裂け目に、手を突っ込む。無理やり広げる。体を押し込む。相変わらず、何かに見られているような気がして好きではない空間だが、今はこれに頼るしか――ッ!?
「っ!!」
脹脛から脳へと、鋭い痛みが伝達される。痛みの中でどこか冷静に、ああ噛まれたんだななんて静かに思った。思わず集中は途切れ、裂け目は無慈悲に閉じ、体は重力に従い地へと落下。ぐえっ、と情けない声が出た。肺が圧迫されて、呼吸がままならない。嗚咽を漏らしながら、ああ今度こそ死ぬんだな、とギラギラした目でこちらを囲む奴等を見て思った。
「…………」
死を覚悟し、諦めて瞳を閉じる。走馬灯というやつが瞼の裏で廻り始めた。生まれてからのどうでもいいような人生が超高速で流れて、他人事のように通り過ぎた。数秒だか数十秒に渡る走馬灯試写会の後、自分がまだ死んでいないらしいことに気づき、恐る恐る目を開ける。目の前に妖怪の鋭い牙が迫っていたら嫌だが、よくよく考えると目を閉じて何が何だかわからないまま死ぬのも嫌だったから似たようなものだった。
「…………?」
妖怪たちは、何故か僕から少しずつ離れていた。それもどこか怯えた様子で。恐らく先程の僕が彼らに抱いていた
「…………」
一匹が駆け出すと、全員が我先にと飛び出し、走り去っていく。今の奴らよりも上位の、もっと恐ろしい妖怪でも来たのだろうか。だとするとその妖怪に、僕は殺されるのだろうか。
「…………」
まだ脹脛にも体全体にも痛みは残っていたが、死ぬというのなら四の五の言ってはいられなかった。体に鞭打ち、起き上がって、いたであろう
「出てきましょうか?」
風の音と、蝉の声だけが小さく響く夜の中。その声は何処からか、はっきりと聞こえてきた。まるで心の中にでも聞こえてくるような、そんな感覚があった。
「はい、出てきました」
次に声が聞こえてきたのは背後。先程何もなかったはずの空間に、何かがいる。不気味だ。恐怖を覚えて、その場から走り去ってもおかしくないくらい。だけど昼間とは違い、不思議とその声には。敵意も何も感じず、むしろどこか惹かれるものがあった。
深呼吸したところで、ゆっくりと振り返る。
月光に照らされ輝き、風を受けて靡く金糸のようなロングヘアー。胸元の少し空いた、紫色のドレス。中心に大きく細いリボンのついた、ナイトキャップのような帽子。雨でも日中でもないというのに、何故か刺された大きな傘。
「全く、困ったものね」
鈴を転がしたような美しい声。何処か親しげな――否、胡散臭げな笑みを浮かべて、彼女は言った。
「人間がまさか自力で結界を越えてくるなんて、思いもよらなかったわ。しかもその力は――」
話は全く、頭には入ってこなかった。頭に入ったのは声と、まるで絵画のようなこの光景だった。思わず、息を呑んだ。
「色々と聞かせてもらいたいのだけれど、構わないかしら?」
「……え、ええ。構わないです。むしろこちらもいくつか聞きたいことがありますし……でも、いいんですか?お姉さん、妖怪――なんでしょう? まあ、話し終わった後で食べるんならそれはそれで構わないんですけど」
「…………」
数秒の沈黙。あれ、不味いこと言ったかな。と冷や汗をかく。しかしすぐに、クスクスと笑い声が聞こえてきた。
「フフフ、別に取って食おうというつもりはありません」
何処からか扇子で口元を隠し、ひとしきり笑った後のその笑顔は。先程までの胡散臭い笑顔とは違って、純粋に楽しくて笑っているように見えた。
「何も知らない弱き者に、訳も分からないまま命を捨てさせるほどに理不尽ではない、というだけよ。尤も、貴方は何も知らないというわけではなさそうだけれど」
「ははは、まあ……そのへんは、後々」
肩の荷が降りて、力がひょろひょろと抜けてきた。張り詰めた糸が切れて、人生で最高と言っていいほどの安らいだ気持ちがやってきた。同時に、脹脛の痛みもどっとやってきた。
「いたたたた……」
「あら、大丈夫?」
「まあ、何とか立てるくらいには大丈夫です……」
「その傷の手当もしてあげるから、取り敢えず場所を移しましょうか――その前に、そういえば名前を聞いてなかったわね。私は八雲紫、ここ幻想郷の管理者よ」
「八雲――紫さん」
やくもゆかり、と小さく口の中で復唱した。綺麗な良い名だと、素直にそう思った。
「初めまして。よろしくお願いします、八雲さん。僕は名雲――名雲、玲亞といいます」
風が何処か騒がしげに、夏草を撫でていった。