咲-Saki- The disaster case file   作:所在彰

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第九話 『開戦』

 

 決勝戦当日。

 

 早朝というには遅く、昼前というには早い時間。

 普段ならば学生は学校へ、社会人は仕事先へと向かう時間帯であったが、今日は日曜だけあって県予選大会会場は前日よりも多くの人々が集まっていた。

 

 決勝戦に駒を進めた四校の対戦を心待ちにしている者がいた。

 特定の高校を支持し、応援に駆けつけた者もいた。

 来たる個人戦に向け、虎視眈々と対局相手の情報を得ようとしている者も―――。

 

 当然、今日この場で鎬を削り合う者たちも、また同様。 

 

 四校にはそれぞれ小さな控え室が与えられ、今日一日を其処と対局室を行き来して過ごす。

 清澄の通された控え室は中央にセンターテーブルがあり、周囲三方を囲むように三人掛けのソファが備え付けられていた。ソファのない一方の壁際に薄型のテレビが配置されており、その隣には簡易ロッカーが並んでいる。

 他の高校も似たような控え室だろう。県予選の大会運営委員会も、どこか一校を贔屓するほど愚かでもなければ、予算に余裕もない。

 

 

「さて、私たちは最終ミーティングをしておきましょうか」

 

「須賀、お前はどうする。俺は今日も男子の方を見に行くが」

 

「じゃあ俺も行きます。買い出しは部長から連絡を貰えばいいし、それまでは」

 

「……そうか」

 

 

 昨日から、些か以上に普段の快活さを失っている京太郎に気付いていながらも、嵐はそれ以上に踏み込んで行きはしなかった。

 関心がなかったわけでも、吐き出せずにいるものに見当が付かなかったわけでもない。

 京太郎の溜めこんでいるものが、どういったものなのかは分かっている。それがどれだけ苦しいものなのかも知っている。

 

 だが、共感はできなかった。

 

 この場にいる人間で、京太郎の内に汚泥の如く沈殿している感情に気づけるのは嵐だけだ。

 しかし、それはあくまでも経験や共感によるものではなく、知識によるものに過ぎない。

 二人の立場には、余りにも深く、遠い隔たりがあった。理解も共感もできない人間の言葉では、京太郎にとって何の救いにもなりはしない。

 

 ここで何を言った所で、京太郎を追い詰める結果にしかならない。

 

 そう判断したからこそ、伸ばしてやりたい手を抑え、口を閉ざしたまま何も言わなかった。

 

 

「では――――」

 

「ふえぇぇぇぇっっ!!」

 

 

 行くか、と紡ごうとした声を驚きに満ちた絶叫が斬り裂いた。

 

 何事かと見れば、手元に視線を落としつつもワナワナと震えている優希の姿があった。

 彼女の手に握られていたのは、タコスが入っているであろう紙袋もある。

 それだけで嵐と京太郎は、優希にとっては深刻な事態でありながら、他人には非常にどうでもいい事態が起こっていることを悟った。

 

 どうにも優希には人の話を聞かない節がある。

 正確には落ち着いて人の話を聞いていられない、ではあるが、結果が同じならばどちらでも構わないだろう。

 

 案の定、優希は一回戦、二回戦とは異なり、決勝戦が半荘二回であることを忘れていた。

 その上、大好物のタコスを半荘一回分しか持ってこなかったようで、後半戦の分がないそうだ。

 

 

「……うぅ、京太郎! タコスを買ってこい!」

 

「…………片岡、須賀はお前の召使いではないぞ。お前の責任は、お前自身で取るべきだろう」

 

「うぐぅっ……?!」

 

「ちょ、ちょっと、そんなことを言ったってねぇ……!」

 

『あと10分で先鋒前半戦が始まります。各校の先鋒選手は対局室に集合してください』

 

 

 無慈悲なアナウンスと嵐の言動に控え室の空気が凍った。

 

 全ては優希に責任がある。

 話を聞いていなかったのも、タコスを用意していなかったのも本人以外に責任を求めることなどできない。

 

 嵐の言葉は正論だ。正しさ以外に何もない。

 失敗は自らの手で注いでこそ、より価値のあるものとなるのは確かだろう。

 だが、誰もが自分一人の手で何をも出来るわけでもなく、失敗も同じこと。誰かの手を借りねばならぬ場面もある。

 

 

「…………いや、俺が行きますよ。これで優希が負けたら、もったいないじゃないですか。負けるにしても、全力じゃなくちゃ。そうですよね、日之輪先輩?」

 

「……………………」

 

 

 ただただ正しいだけの言葉に抗ったのは、京太郎の人間的な暖かみに満ちた言葉だった。

 仲間であるのなら、失敗の責任も分担して背負うことも決して間違ってなどいない。手を取り合うことを誰が否定できよう。

 

 誰もが京太郎を驚いたような目で見ていたが、やがて喜びと感謝の視線を送る。

 そんな中で、嵐だけが僅かながらに普段の無表情を崩していた。

 

 自分の意見を無視され、腹を立てていたわけではない。そんなことには慣れっこであり、彼の怒りを覚えるのは、もっと別の事柄だ。

 優希を甘やかすことが、彼女の為にならないと思っているわけでもない。手を取り合う必要性を否定するほど、孤独に満ちた心を持ってもいない。

 

 ――ただ、今この状況こそが、誰かにとって望ましいものではないとでも言いたげだった。

 

 

「……分かった。ならば、お前はここの周辺で店を探せ。幸い俺は今日もバイクだ。遠場を探してみよう」

 

 

 嵐の口から発せられたのはそんな言葉。

 

 今日は日曜。早朝の新聞配達はなかったが、足があるのなら何かと便利だろうと今日も電車ではなくバイクまで会場に来ていた。

 現状を鑑みれば、嵐の選択は正しいようだった。

 

 

「うぇぇっ?! 日之輪先輩まで行くのか!? いや、でも……」

 

「そ、そうっすよ! 先輩は男子の団体戦を見てくなちゃ……」

 

「俺も須賀も条件は同じ。責任を分担できるのなら、俺が背負っても問題ないはずだ。それとも、俺では悪い理由があり、須賀ならば良い理由があるとでも?」

 

「そ、それは、そうだけど……」

 

「反省しているのならば、それでいい。俺から言うべきことは何もない。以後、気を付けるがいい」

 

 

 何時ものように、相手を気遣ってこそいるものの、情け容赦のない言葉を投げかける。

 嵐本人は優しく投げ渡したつもりだが、渡された優希からすれば顔面に思いきり投げつけられたようなものだ。

 目に見えて意気消沈していく優希に、頭を抱えたのは久だった。 

 

 

「だーっ! もう、アンタはどうしてそういう言い方しかできないの! これから対局に行くんだから気を遣う方向性が間違ってるでしょ!」

 

「……そう、か。俺はまたいらんことを言ったのか。すまんな、片岡」

 

「い、いやぁ、確かに私が悪かったじぇ。…………京太郎、日之輪先輩、お願いしても構わないか?」

 

「おう、任せとけ!」

 

「無論だ。お前は目の前の対局に集中しろ」

 

 

 京太郎は力強く親指を立て、嵐は平静なまま応えた。

 

 優希は二人に強い信頼の視線を寄せ、今度は周囲の仲間たちを見る。

 皆の瞳に疑念や不安の色は殆どない。あるのは期待と信頼の色だけだった。

 

 

「行ってくるじぇ……!」

 

 

 先程までの不安は消え去り、力強い足取りで部屋を後にする。 

 相手は一筋縄で行く手緩い相手ではないだろうが、残された6人に出来ることは健闘を祈ることだけだった。

 

 これから対局に赴く後輩の背中を見送ると、嵐は京太郎に向き直る。

 

 

「決勝のレベルなら半荘一回がストレートに八局では終わることはまずない。休憩時間を挟んで後半戦が始まるまで、およそ一時間と少しといったところだ」

 

「そうですか。それまでにタコスを買って帰ってこなくちゃならない、と」

 

「そういうことだ。くれぐれも事故には注意しろよ」

 

 

 ロッカーの中からバイクのキーを取り出し、バタンと戸を閉める。

 既に嵐の表情は普段の無表情に戻っており、先程の苦々しい懊悩は消え去っていた。

 

 

「お前は駅前の方を探せ。俺は一駅離れたところに行ってみる」

 

「分かりました。先輩も安全運転でお願いしますよ」

 

「ああ。では、行くか」

 

 

 数分前とは全く違う行き先にも拘らず、その意気込みは変わっていない。

 二人にとって男子の団体戦を観戦し、個人戦に向けて準備を整える行為も、仲間のためにタコスを買いに行く行為も大差はないようだった。

 

 ――ただ、京太郎の表情に使命感や責任感とは全く別の、安堵の色が滲み出ていたことを嵐は見逃しはしなかった。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「……って、あんなにカッコよく啖呵を切ったはいいけど、どーしよ」

 

 

 嵐と会場の表玄関で別れ、勢いよく飛び出したは良かったものの、京太郎は途方に暮れていた。

 

 あれから二十分が経ち、様々な店が立ち並ぶ駅前に到着したはよいものの、タコスをテイクアウトどころか扱っている店すら見つからない始末。

 それも当然だ。タコスはメキシコ料理。洋食の中でも日本では馴染みの薄いジャンルである。

 長野の中では発展を遂げている街とは言え、ふらりと家の外に出れば、目的のものが売っている店が見つかるほど供給が行き届いているわけでも、需要があるわけでもない。

 

 まして、地元ではない地域で何の情報なしに探している店を見つけるなど、余程の幸運でもなければ不可能な話だった。

 

 

「諦めるわけには、いかないよな。どっかで誰かに―――?!」

 

 

 脳裏に浮かぶ優希の泣きっ面を掻き消し、再び走り出そうと脚に力を込めたのが失敗だった。

 意識を視界よりも、思考に向けていたが故、目の前に人がいることに気が付かなかったのである。

 

 認識と同時に、もう避けられないことを悟るも、何とか互いの被害を最小限に抑えようと身体が無意識に右へと避けた。

 

 だが、それでも足りない。 

 衝突と相手からの罵声を覚悟した京太郎だったが――

 

 

「――――あれ?」

 

 

 ――覚悟とは裏腹に、衝撃が訪れることはなかった。

 

 しかし、予想外の結果は行動に支障をもたらすもの。

 無理な行動で崩れたバランスを立て直すことすらも忘れてしまっていた京太郎は、間抜けな声と共に肩から地面に倒れ込んだ。

 

 今度こそ訪れた鈍い衝撃と痛みに、京太郎は苦鳴を漏らしたが、咄嗟にぶつかろうとしていた相手に視線を向ける。

 相手も自分と同じように転んでいないかを確認するつもりだったのだが、視界に飛び込んできたのは白い手袋で覆われた右手。

 

 

「失礼致しました。お怪我はありませんか?」

 

「え? ……あ、ああ、はい。大丈夫です」

 

 

 反射的に差し出された相手の右手を取って立ち上がると、再度の予想外に目を丸くする。

 

 今し方ぶつかろうとしていた人物は執事だった。

 黒い燕尾のスーツに同色のベストとスラックス。すらっとした高身長に、やや長めの黒髪。モデルや俳優にも劣らない美丈夫だ。

 手の込んだコスプレとしか思えなかったが、丁寧で柔らかな物腰が本物であることを何よりも雄弁に物語っていた。

 

 

「あの、すみませんでした」

 

「いえ、此方の方こそ配慮が足りず」

 

 

 そう言うと執事が恭しく頭を下げる。

 配慮が足りなかったのも、間が抜けていたのも京太郎の方であったが、多少なりとも自分に要因がある以上は自分の責任という、執事としての気構えの現れだろう。

 

 こちらこそ、いえいえというやり取りを何度か繰り返す。

 元々他人を優先する気質の京太郎と他人を優先しなければ成り立たない執事と言う職業。

 自分の方が悪かった、と反省し合うのは当然の帰結だったのかもしれない。 

 

 

「本当にすみませでした。…………ちょっと急いでるんで、もう行きますね」

 

「……ふむ。失礼ですが、何かをお探しのご様子。私にできることがございましたら、何なりと」

 

 

 謝罪と不手際を不問としてくれた礼のつもりだったのだろうが、京太郎は内心を言い当てられて、ぎょっとする。

 何かを言った訳ではなく、嵐のように挙動や態度から察せられる人間が居たことに驚くのも無理はないが、今の彼には渡りに船だった。

 どの道、善意による提案であり、わざわざ初対面の人間を困らせて楽しむような人間にも見えない。断る余裕も理由もない。

 

 

「実は、タコスを探してるんです。できれば、持ち帰りで」

 

「タコス、ですか。そうですね。ここから二つ目の信号を右に曲がると喫茶店があります。トルティーヤとサルサソースの臭いが微かにしましたので、間違いなくメニューにあるかと」

 

「喫茶店かぁ。持ち帰りは……」

 

「心配はないでしょう。ケーキなどはテイクアウトのサービスをしていました。タコスも包みやすい料理ですので含まれているでしょう」

 

 

 本場メキシコではタコスの露店は珍しくない。

 イギリスならばサンドイッチ、アメリカならばハンバーガー、日本ならばおにぎりに近く、軽食向けで歩きながらでも食べられる料理にあたる。

 需要は兎も角として、物好きな店主ならばテイクアウトのサービスをやっていても可笑しくはない。

 心当たりがない以上、賭けられる分だけマシだった。最悪、頭を下げて持ち帰る手もあるだろう。

 

 

「ありがとうございます! 助かりました!」

 

「いえいえ、お役に立てたようで何よりです。では、失礼します」

 

 

 最後に晴れやかな笑みを浮かべながら、右肘を折り曲げての一礼をして執事は去って行った。

 

 見慣れない背中に奇妙な気分になったが、何時までも見送り続けているわけにはいかず、京太郎は身体を翻して走り出した。

 まだタコスが手に入ると確定したわけではないが、可能性が生まれたことで気持ちに余裕ができる。

 

 そして、どうしてこんな場所に執事がいたのか疑問が生まれたものの、答えが出る筈もない。

 この後、京太郎はこの執事と懇意になるのだが、今の彼にはまだ関係のない話だった。

 

 

「……っと、先輩に連絡しとかなくちゃな」

 

 

 執事の言葉通りに道を進むと、まだ営業時間ではない洋服店と居酒屋に挟まれた喫茶店があった。

 店先にはメニューの書かれた大きめの看板が出ており、開店を示すと同時に客の入店を誘っていた。

 

 入学と同時に買った最新型の携帯を取り出し、登録してあった嵐の番号にコールする。

 暫くすると電話が繋がり、微かなバイクの排気音と共に声が伝わってきた。

 

 

『もしもし』

 

「あ、先輩ですか。タコス、見つかりました。持ち帰りもできそうです」

 

『そうか。後半戦までに間に合いそうか?』

 

「はい、作る時間を考えても、余裕をもって戻れます」

 

『分かった。…………何だかよく分からんのだが、片岡の奴、結局タコスを食べていないらしいからな。多めに買ってやれ』

 

「はいぃぃ……?」

 

 

 電話口からでも伝わっている困惑した嵐の様子に、京太郎も動揺して語尾が上がっていた。

 

 嵐の話によれば、京太郎の前に久から電話がかかってきており、そこで更にタコス買い出しの緊急性が高まったそうだ。

 何でも優希の持っていったタコスを龍門渕の先鋒が差し入れと勘違いして食べてしまったのだとか。

 しかもその上で、気を遣った風越の先鋒がわざわざ自分の弁当を優希にくれてやり、何とか持ち直しているらしい。

 

 

「どういうことなの……?」

 

『俺に聞かれても、……その、なんだ。困る』

 

「ですよねー」

 

 

 少なくとも嵐と京太郎には理解できない話だった。 

 

 人の持ち物を確認せずに勝手に食べる龍門渕の先鋒も、軽率と言わざる得ない

 これから戦う相手に塩を送る風越の先鋒も、極度のお人好しと見れば不思議ではないが、やりすぎでもある。

 そして、アレだけタコスタコスと言っておいて、結局腹に貯まれば構わないのか、と言いたくなる優希も同様だ。

 

 決勝戦に参加する人間は、やっぱり俺とは根本的に違うなー、と薄ら笑いを浮かべて現実逃避する京太郎であった。

 

 

「と、兎に角、急いで買って帰りますね!」

 

『ああ、そうしてやれ。俺はついでに久から買い出しを頼まれたから、少し帰りが遅くなりそうだ。先に、男子の決勝を見ていても構わないぞ』

 

「あ、あー…………考えときます」

 

『……そうか。極力早く帰るとしよう。ではな』

 

 

 歯切れの悪い京太郎の返事にも、さして気にした様子もなく嵐は電話を切った。

 

 嵐の反応に対してなのか、それとも別の要因があったのか、京太郎の表情は暗い。

 それでも自ら買って出た仕事を果たすため、自らの頭に浮かんだ考えを雑念と振り切り、喫茶店の中へ足を踏み入れるのだった。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「一発ツモ! 4000オール!」

 

 

 東1局0本場 親・片岡 優希 ドラ{西} 

 

 優希・手牌 裏ドラ{九}

 {234④⑤⑥⑥⑦⑧五六八八} {四}(ツモ)

 

 

 東家・片岡 優希  112,000(+12,000)

 南家・福路 美穂子  96,000(-4000)

 西家・井上 純    96,000(-4000)

 北家・津山 睦月   96,000(-4000)

 

 

 先鋒戦最初の和了りを決めたのは、やはり優希だった。

 裏ドラこそ乗らなかったものの、一発がつき親満まで伸びた好調な出足。

 しかし、優希からすれば不満なのか、僅かに表情を曇らせていた。

 

 

(いつもなら親跳くらいは伸びるんだけど、……しかも聴牌までかなり時間がかかったじぇ)

 

 

 普段の優希が起家から始める対局は、かなりの確率で一局目から爆弾手を和了る。

 親跳など当たり前、倍満も珍しくはない。三倍満にまで至ってようやく珍しいと言えるレベル。

 親満止まりが逆に珍しいなど、高打点を望んでも和了れない雀士には羨望の的であるが、優希が今日一日の先行きに不安を覚えるには充分だった。

 

 

(やっぱりタコさんウインナーでは力が足りないのか……?)

 

 

 優希は元々食べ物でゲンを担ぐタイプである。

 勝負や受験に勝つためにカツを食べたり、縁や合格を結ぶためにおむすびをと言った具合だ。

 明確な効果など期待できないが、精神を安定させる儀式、あるいは自己暗示の一種と考えれば、スイッチとして何らかの行為を設定しておくことは間違いではない。

 

 幸いと言うべきか、風越の先鋒――美穂子が与えた弁当の中にはタコの形に切られたウインナーが入っていた。

 タコス好きが高じて、タコと入っているのならば全てが力になると信じる優希には十分だったらしい。実に単純な話である。

 だが、自己暗示は当人の思考回路が単純であればあるほど効果が高い。自身の行為、願掛け、信念をより深く信じられるからだ。

 

 

(うぅ、それもこれも、全てノッポのせいだじぇ!)

 

(……俺のこと睨んでるなぁ。いや、確かに俺が悪かったけどよ。何もそこまで怒ることねーだろ)

 

 

 優希が睨み据えていたのは対面の椅子に胡坐をかいて座った龍門渕の井上 純。

 180cmを超える絵に描いたようなモデル体型、男勝りな口調と顔立ち、更には前年度のインターハイでの活躍から女子から強い人気を誇る学生雀士。

 龍門渕高校は指定の制服がない私服校であるからか、白いワイシャツに黒いネクタイを緩く締め、スカートの下にズボンを穿いていた。

 

 

(清澄の先鋒は東場で走る。先輩の言ったとおり……)

 

 

 優希の上家に座ったのは鶴賀学園の津山 睦月。

 ブレザーの制服に、黒い髪をポニーテールにした外見的な特徴が薄い少女。容姿同様、麻雀自体もこれといって目を引くことはない。

 一回戦と二回戦の収支は合わせるとマイナスに寄っているが、それでも±0に近い当たり素人とも言い難い。

 下手ではないが、上手くもない。そんな評価がピタリとくる実力であった。

 

 それでも善戦中の鶴賀が彼女を先鋒に据えたのは、与えられた役割を過不足なく熟してくるからであった。

 

 

(清澄は南場に入れば勢いが落ちる。むしろ怖いのは、龍門渕と風越のエース)

 

 

 睦月が対面と上家に視線を送る。

 どちらもインターハイを経験しており、自らも全国区クラスの実力を有する者。南場での失速が予想される優希よりも、警戒度は圧倒的に上だ。

 

 

(でも、風越は兎も角、龍門渕が鳴かなかったのは、なんで……? うぅ、相手の手牌をみたいなぁ)

 

 

 龍門渕の井上 純は、鳴きを多用するプレイヤーだった。

 過去の牌譜から、その傾向は顕著であるが――――常人には、余りにも不可解でしかない鳴きが目立っている。

 

 

(座った場所が悪かったか? 風越の先鋒、俺の鳴けるところを捨てやがらねぇ)

 

 

 純は風越の福路 美穂子について、それほど情報を持っていない。昨年、美穂子と卓を共にしたのは部長の龍門渕 透華だった。

 性格ゆえにか、純はそれほど対戦相手の研究は行わない。研究を重ねれば重ねるほど、自分の麻雀にはない打ち筋が求められるからだ。

 そして、研究をしなくとも自分は弱くない。そんな絶大な自信を持っている。

 

 井上 純は強い。頂点へ至らなかったが、全国への階段を上りきった以上、疑いの余地はないだろう。

 

 だが、卓上の実力者は、何も彼女だけではない。

 

 

(配牌とツモが悪かったから見に回ったけれど、正解だったわね。そして、清澄の彼女は牌譜から想像していた通り)

 

 

 美穂子は、パタリと手牌を倒す。

 彼女の手牌には、純の鳴いていきたい牌、優希の当り牌がごっそりと押さえられていたのは、ただの偶然であったのか。

 

 風越のエース、未だ動かず。牙と爪を隠し、姿と気配すら殺して、機を窺っていた。

 

 

 

 

 

◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

 東3局0本場

 

 東家・井上 純    97,600(+3,000)

 南家・津山 睦月   93,600(-1,000)

 西家・片岡 優希  108,300(-1,000)

 北家・福路 美穂子 100,500(-1,000)

 

 

 東1局1本場、美穂子が5200の一本場は5500をあっさりとツモ和了り、優希の親番が流され、続く東2局は純のみが聴牌を果たし、またも親番が簡単に流される結果となった。

 

 未だ流れは四者の間を揺蕩っており、誰もが抜きんでる可能性を秘めた東3局。

 

 

 優希・手牌 5順目 ドラ{中}

 

 {四赤五六③④⑤2268西西西} {赤5}(ツモ) {8}()

 

「リーチ!」

 

 

 普段よりもいまいち調子が上がらない優希ではあったが、東場での勢いは衰えず赤々自風のリーチ付き、最低でも満貫の手を張った。

 一発ツモで跳満に昇格、万が一自風の暗刻に裏ドラが乗れば倍満まで見えてくる大物手。

 

 この早い順目ならば嵌張即リーの目もあったが、周囲のレベルとツモ和了る確率を少しでも増やすために1順リーチを堪えた故に、赤{5}を引き入れての{47}両面待ちへの良形変化だった。

 

 しかし――――

 

 

 美穂子・手牌

 

 {一二二三五六①②④⑥⑦⑧7} {③}(ツモ)

 

({③}が埋まってくれたのはいいけれど、まだ一向聴。それに……)

 

 

 優希・捨て牌

 {北①⑧9横8}

 

(本線は{47}、捨て牌が少なすぎて{二}も可能性がある。ここは一旦、受けに回りましょう)

 

 

 たった5枚の捨て牌から、確信こそなかったものの精度の高い読みをする者もいた。

 

 美穂子の選択は打{①}。万が一、{7}周りを重ねたとしてもオリへと移行でき、{二}が安牌と確信できればリーチも辞さない姿勢の一打。安直に安牌を切り出したわけではない。

 3順目の{⑧}切り、続く{89}の辺張落としに、優希から僅かながらの迷いと戸惑いを見抜いていた。

 特に4順目の{9}切りは、これまでスムーズに打牌を続けていた優希にしては時間がかかっていた。

 即ち{89}の辺張待ちを選択か。更に{68}の嵌張でリーチか。はたまた{56}の両面まで堪えるのかの選択を迫られたということ。

 

 全く別の待ちの可能性もあったが、4順、5順目共に美穂子から見て右から4番目の位置にツモが入ったおり、{89}が納められていた付近。

 もっとも厳しいのは{8}周辺、ついで萬子筒子の上の両面搭子という読みだった。

 

 ここまで読まれれば、美穂子の手牌に潜む{7}は河に並ぶことはない。この時点で優希の当り牌は残り7枚となっていた。

 

 

 純・手牌

 

 {五六七七赤⑤56799東東東} {7}(ツモ)

 

(厄介なところ引いてきちまったな。安牌でもねー、手が進むわけでもねー牌をツモる時点で、清澄のチビに流れが傾きつつある証拠。このままオリたら離される、ツモを許せば即アウト。なら―――)

 

 

 井上 純は鳴きを多用する。

 だが、彼女の鳴きは手を進めるためのものではない。相手な有利な展開を阻害し、自らの不利な展開を排除するためのもの。

 他家の聴牌速度についていくわけでも、早和了りを目指しているでのもない。あくまでも流れを掴むための鳴き。

 

 ただ一度の和了りで今までの趨勢を覆す展開が、麻雀には間々ある。

 人はそれを流れと呼び、一時期は純粋な技術や技能よりも、科学的な根拠のないジンクスや行動が持て囃された。

 近年では否定されつつあるものの、未だ根強い信仰が残るオカルト。

 

 それが単なる思い込みなのか、事実なのかは誰にも分からない。

 麻雀にセオリーはない。科学的、統計的根拠に基づいたデジタルですら、高い勝率をキープする程度のものでしかないのだ。

 

 絶対のない麻雀に、絶対である答えは求められない。可能性が残る以上、流れもまた全てを否定される要素にはならない。

 

 そして井上 純は自らの打ち筋を信じ、勝ちを重ねてきた雀士である。

 流れの何たるかを深く理解し、余人常人に至れぬ道を歩む者。

 

 

 純・手牌

 

 {五六七七赤⑤567799東東東} {東}()

 

 (この一打しか、ありえねぇ――!)

 

 

 ならば、この一打は彼女にしか理解できずとも、流れを掴む一打であることに間違いはない。

 

 普通に考えれば、まずありえない打牌。

 {東}は生牌。オリるにしても一発を避けるために、まずは{9}を切り出し、その後に切り出した方が万一当たっても安く済む。攻めるにしても向聴数が後退し、自風場風の確定役二つを落としていく必要はない。

 

 決勝の実況を担当するアナウンサーも、解説のために招かれた藤田 靖子も、観戦していた者たちも、あまりに不可解な一打に困惑したことだろう。

 

 ――この場、この状況で{東}を落としていく根拠は何だ、と。

 

 答えなど出る筈もない。

 だが、純には当然の選択であったのか、鋭い眼光が対面の優希を貫いていた。

 

 

 睦月・手牌

 

 {②③④赤⑤⑥245689中中} {②}(ツモ)

 

(……五順目リーチで、こっちは一向聴。しかもドラの{中}を鳴いても無筋を押す羽目に…………、私なりの精一杯は、そうじゃない)

 

 

 逸る自分を押さえつけるように、睦月は一度大きく息を吐いた。

 その後、河に並んだのは{9}。二枚あった安牌の一枚を切り、まだ攻めていける可能性は残っていたものの、睦月の選択はベタオリだった。

 

 先鋒としては、多少の無理をしてでも押していくべきだろう。

 だが、睦月は自らの実力不足を自覚していた。他校のエースに比べて、運も技術も劣っていると。

 先手を取られた以上、足掻きは泥沼への誘い水。この一局で足掻くよりも、半荘を見据えて足掻いた方がチームの利益になると信じていた。

 

 その潔さ、意志を受けるかの如く、純が動いた。

 

 

「ポン……!」

 

 純・手牌

 {五六七七赤⑤5677東東} {99横9} {東}()

 

 

 ダブ東を捨ててまで残した{9}対子からの捌き。

 これは純からしても賭けだった。もし{9}が鳴けなければ、前半戦は優希のものとなっていただろう。

 その証拠に、再度の順目が回ってきた睦月が掴んだのは{7}。純の鳴きが入らなければ、優希の一発ツモだった。

 

 オリを決めていた睦月は、当然の{8}を切り。無理な攻めは決してしない。

 

 それから二順、既にリーチをかけていた優希は和了りを空振り、受けに回った美穂子は手牌が動かぬまま――

 

 

 「ツモ! 三色ドラ1の1000オール!」

 

 純・手牌

 {五六七赤⑤⑥56777} {99横9} {⑦}(ツモ)

 

 

 東家・井上 純   100,600(+3,000)

 南家・津山 睦月   92,600(-1,000)

 西家・片岡 優希  107,300(-1,000)

 北家・福路 美穂子  99,300(-1,000)

 

 

 鳴き仕掛けから一切の無駄ヅモなしに、純はストレートの和了りを決めた。

 

 前局の罰符逃れと変わらない僅か3000点のツモ。

 だが、{東}の暗刻牌を落とし、当たり牌を三枚抱えた上での和了は、優希に言い知れぬ不安を与えるには十分な和了りだった。

 

 

「ロン、7700(ちっちー)だ」

 

 

 そして、この和了を皮切りに、

 

 

「ツモ! 3900オール!」

 

 

 井上 純は完全に流れを掴み、

 

 

「ロン! 12600!」

 

 

 前半戦において、優希の二度目の和了宣言が響くことは、ただの一度もなかった。

 

 


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