どれだけ現実逃避をしても世界は回るし時間は過ぎる。「世界は残酷ですね」、と遠い目をした大谷を水飲み場で見た時は何と声を掛ければ良いか分からなかった。大谷は大谷で、「いやぁ、今日はクソみてぇに暑いなァ、これもう人とか死ぬんじゃないか? 寧ろ死にそう、いや、死ぬわ」と白目を剥く。
死ぬな、生きろ、そう言って肩を揺らしていた紬自身この演習で死ぬかもしれないと思っていた。グッバイ、今世。
「さて、状況は極めてシンプルです、貴方達は海岸沖の戦闘で撃墜され機体を放棄し脱出、そのまま後方の回収部隊と合流する為に撤退する最中――後方よりビショップが迫り、その状態から逃げ延びなければならないと言う状態です」
早速絶望的な状況なのですが、本当に死にそう、紬は独りそう思った。
演習場に到着し、外用の汚れたホワイトボードに描かれる図。演習場には砂袋と言うべきものが所々に積まれており大きさは縦横で二~百メートル程だろうか。下は砂利で寝そべったら痛そうだと思った。ヘリから見下ろした時には分からなかったが、演習所は校舎の裏側にひっそりと存在していた。グラウンドは無いと最初に言ったが、この場所がグラウンド代わりなのかもしれない。
全員が地面に体育座りをして教官の指し示すホワイトボードを眺める。ホワイトボードの下部分に丸が五つ――自分達の部隊員である。そしてその横側やら後ろに赤い丸がワラワラと、恐らくビショップを表しているのだろう。
開始前にこうして休憩時間が与えられるのは助かった、正直合間無しに連続で訓練などと言われていたら倒れる自信がある。あれから三十分程度時間が経ったが、座っている間は足を休ませる事が出来た。
「付近には友軍が展開しており、二百メートル以上ビショップから距離があると仮定しましょう――しかし支援攻撃があるとは言え常に一体以上のビショップが貴方達を狙っていると考えて下さい、基本は『fire and movement』、射撃と移動です、これは対人状況での教えですがビショップが相手でも同じ事が言えます、例え援護があったとしても早駆けは五秒以内に、五秒を越えて敵の射界に留まり続ける事は許容出来ない危険があります、戦線は火力によって支えられていると理解してください、援護射撃が行われていない間は決して移動しないように、それと貴方達に貸与した拳銃は手に握ったまま訓練を行いますが安全装置は指示あるまで外さない様に、良いですね?」
「はい!」
「良い返事です、それでは状況を開始しましょう、藤堂生徒から順に十メートル間隔で並んで下さい」
静流教官の説明は丁寧だった。紬達はプラスチック製の玩具ではなく、中身が空砲だとは言え本物の拳銃を持って一列に並ぶ。パイロットが拳銃を使う機会は滅多にないと言うが、万が一支援が途切れた場合は操縦者同士が敵の目を引き付けて撤退する必要がある。
銃を握る手にじっとりと汗が滲んだ。
両足の疲労もあるが何より嫌な緊張感がある。先程まであった疲労による楽天が無くなった。
「準備は宜しいですね? では――状況開始! 前方二十メートル先、土嚢まで早駆け!」
静流教官の声が演習場に響く。背筋が勝手にひやっとして、「はい!」と叫びながら折れそうになる太腿を叱咤し指示通り駆けた。上半身は畳んで姿勢を低く、まるで地面を這うように走る。
目の前に積まれた砂袋――土嚢に半ばタックルする様な形で突っ込み、そのままベリーロールの様な動きで裏側に滑り込んだ。
「大谷生徒、遅れていますよ! ――敵ビショップ、砲撃開始、第五匍匐姿勢!」
静流教官の指示に「第五匍匐姿勢!」と復唱、そのまま土嚢の裏に横たわる形で身を伏せた。匍匐に種類があるなんて此処に来て初めて知った事だが、第五匍匐は最早寝ていると言っても過言ではない。
最も姿勢を低くした状態で、殆ど移動なんて考えていない。十秒ほどその姿勢でやり過ごすと、再び静流教官から「前方二十メートル、土嚢まで早駆け!」と指示が飛んだ。紬は返事をしながら地面を蹴飛ばし駆け出す、しかし思った以上に力が出ない。装備も重さと体力の限界が紬の足を地面に縫い留めていた。
「ビショップの砲撃確認、総員第三匍匐!」
「だ、第三匍匐!」
まだ十メートルと進んでいない所で再度静流教官が叫ぶ、移動中に突然の砲撃。紬は飛び込む様な形で地面に伏せ、第三匍匐姿勢を取る。そのまま肘を器用に使って前進するも、やはり遅々として進まない。
両足が比較的休める姿勢かと思いきや今度は腕の疲労が溜まって来た。
「援護再開、早駆け!」
「は、はい……ッ!」
静流教官からの指示、仲間の援護が再開、立ち上がって再び土嚢を目指す。
「藤堂生徒、姿勢が高いですよ! 頭を低く、中腰の姿勢で!」
「っ、は、いッ!」
注意され紬は頭一個分姿勢を低くする。この態勢で走るのは辛い、姿勢を低くする分太腿への負担が倍増する。更に十キロの装備を背負っての早駆けは予想以上にキツかった。
転がり込む形で土嚢を回り、そのまま教官の指示が出される前に第五匍匐姿勢を取る。手に持った拳銃が異様に重く感じて呼吸が嫌に荒かった。
「恋生徒、土嚢の乗り越えが遅い! 良い的ですよ!」
「っ、す、みません…ッ!」
教官の叱咤が飛ぶ、そして同時に指示も。第五匍匐姿勢、次に早駆け、再び三十メートル先土嚢まで。紬は立ち上がって駆け出し、隣の土嚢に潜んでいた大谷も駆け出した。しかし彼の顔色は最早真っ青で息も荒い、今にも倒れてしまいそうだ。
繰り返される指示、奪われる体力。そもそも最初から体力など底を尽いていたのだ、搾り取るだけ搾り取った――紬にはもう何も残ってはいない。
「砲撃確認、第三匍匐ッ!」
「第三、匍匐ッ…!」
その場で膝を降り地面に伏せる、けれど隣の大谷が一瞬遅れ、匍匐までに一秒程度のズレがあった。瞬間、皆の訓練を見守っていた堂島教官が駆け出し大谷の足を掴む。
突然の事に紬が驚愕していると、堂島教官は問答無用で大谷を引き摺って後退させた。大谷は青白い顔に息を切らせて絶望の表情を見せる。
「ど、堂島教官、ッ、な、何を……っ」
「指示を実行に移すまで僅かに時間があったな、砲撃が着弾していたら飛来した石類で死ぬぞ――五メートル後退だ」
「そ、んな……」
再度、五メートル先まで第三匍匐。
堂島教官がそう大谷に言い放ち、大谷は今にも死にそうな顔で地面を這った。もう足が限界なのだろう、殆ど腕の力だけで前に進んでいる。紬は大谷を見て可哀想だとか、辛そうだとか、そんな事は思わなかった。
ただただ、自分の事だけで一杯一杯だった。今度は自分があぁなるんじゃないかと、後ろに引き摺られるのではないかと戦々恐々とした。今の紬にとっては走る距離が一メートル延びるだけで絶望的な疲労だったのだ。此処まで来るともう、精神力との戦いだ、体力なんて残っちゃいない。
「早駆けッー!」
「は、いッ……!」
早駆けの指示が飛び皆が一斉に土嚢目掛けて走り出す。平時であれば目を覆いたくなる程に遅い、殆ど早歩きと言って大差ない。けれどこれが皆の全力であった、もう元気に走り回る事は体が許さないのだ。
土嚢に辿り着くや否や体を預ける様にして裏にずり落ち、そのまま肩から落下する。それでも少しの間呼吸を整えられるのは救いだった。隣の土嚢を乗り越え、半ば崩れ落ちる様に大谷が地面に横たわる。杉田も風香も、恋だってそうだ。
十秒ほど第五匍匐の姿勢で休息し、三度「二十メートル先、土嚢まで早駆け!」と静流教官が叫ぶ。もう立つ事すら億劫だった、それでも物々しい訓練の雰囲気が背中を蹴飛ばし緩慢な動作で走り出す。
けれど走り出した足は堂島教官の声に掻き消された。
「大谷生徒、指示が聞こえなかったのか!?」
「ぜっ……ヒュッ、は、ッ……か、ぁ」
大谷だ、また彼がしくじった。
体力がないとは言っていたが限界か、そう思って振り返った紬が見たのは青白い顔で口をパクパクと開閉させる大谷。尋常ではない汗の量に呼吸が荒い――荒すぎる。
限界だ、彼はもう走れない。
そんな事は誰の目にも明らかだ。
「大谷生徒――砲撃着弾による余波で負傷」
こういう場合、担架などで運ばれて行くのだろうか。そんな事を思っていると静流教官が淡々とした口調でそう告げた。砲撃着弾による余波で負傷、つまり動けない状態であると。
紬はその言葉の意味を正しく理解した。
理解した上で数秒ほど動けなかった、それだけの余裕がなかった。けれど大谷の向こう側に立っていた杉田と視線がぶつかり、苦笑いを零す。
もうキツくて仕方ないのに、体力何て残っていないのに。
「ぜぇ、ゼッ、紬ッ!」
「ハァ、ふっ、あぁ……あぁ、分かってるよ!」
精神力は声で絞り出せ、手に持った拳銃をホルスターに突っ込んで駆け出す。前ではなく後ろに、大谷の元へと。杉田と二人で大谷の元に駆け寄って、二人で彼の腕を自身の肩に回した。人ひとり分の重さと兵装の重さ、二人で分担しているとは言え重いものは重い。ガクンと足が沈みかけるものの歯を食いしばって堪える。辛い、死ぬ程辛い、重いし苦しいし暑いし。
軍とは群で動くもの――決して独りでは戦わない。
「ぅ……か、ハッ、ヒュッ、す、みません、二人、と、も」
「ゼッ、ぜっ、良いから、黙って担がれてろッ、ハッ、ちったあ休めんだろぉ?」
「ふっ、はァ、これ位、お安い、御用ってね……!」
全然安い御用じゃない、今度購買でフルコース奢って貰いたい。けれどそれ位の軽口を叩かないと走れそうになかった。もう駄目だ、もう諦めよう、そんな言葉が脳裏を過ぎる度に隣の大谷と杉田、風香と恋を見る。
仲間が必死こいて自分と戦っているんだ、俺だけ負ける訳にはいかない。
「ハァ、ハッ、す、杉田、紬、私、兵装持つよ!」
「はッ、いっちょ前に、気を遣ってんじゃねぇ、フゥ、バテバテじゃねぇか」
「そ、それは皆一緒!」
「私も……はッ、手伝、う」
杉田と紬に続いて風香と恋も土嚢裏で合流する、二人は担がれた大谷に目を向け、少しでも負担を分担しようと兵装を渡す様に言ってきた。けれど二人とも見るからに限界だ、杉田と自身も余裕があるとは口が裂けても言えないが、此処は男の意地の見せどころという奴だろう。紬は努めて何でもない様に言った。
「大丈夫だよ、問題、ない、このまま最後の土嚢を越えて見せるよ……!」
「紬さん、凄い、汗ですけど、強がりですよね」
顔色も酷いですと指摘されるが紬は強がりを崩さない、それは恋だって同じだろうに。寧ろ此処に顔色が良い奴なんて一人もいない。けれど紬はそんなの知りませんとばかりに汗まみれの顔で笑って、「大丈夫」と繰り返した。
「さ、早駆けだ、急ごう、風香と恋は、先に行ってくれ……ッ!」
「此処は、男の俺達に任せろッ……ってなァ!」
杉田と息を合わせて一歩踏み出す。自身の体重以上の重量に太腿が震え出すけれど、そんなものは気にしていられないと一歩、また一歩と踏み出す。辛くて折れそうな足は意思の力で補強した、一歩歩くごとに自分の中にある気力の様なモノがごっそり減っていくけれど、隣の杉田が足を止めない限り紬も止めるつもりはない。
独りなら全て投げ出して、この場に寝そべったかもしれない。
「ふッ、はァ、ケホッ、ごめんなさい、すみ、ません」
「馬鹿ッ、ふッ、ハァ、こういう時は、【ありがとう】だろうォ」
「そう、だね、謝るんじゃなくて、感謝、するんだ…ッ!」
限界の大谷を担いで歩く、静流教官にも人情があるのか幸い第三匍匐の指示が飛んで来る事は無い。そのまま二十メートル先の土嚢――その先にもう土嚢は無く、恐らく最後のカバーポイントになるであろう場所に足を進めた。
大谷は担がれた状態で涙を流していた。それが自身の不甲斐なさに対する悔し涙なのか、仲間意識に対する感動の涙なのか紬には分からない。けれど大谷を担いで歩けていると言う事実が紬に誇らしさを与えた。
きっと既定の五秒何てとっくに過ぎている、実戦ならビショップの砲撃で粉みじんだ。
「もう、ちょいッ…!」
「ッ、クッソ、足がヤベェ!」
二十メートルという、本来の紬であれば何の障害も疲労も無く歩けるような距離を死ぬ思いをして通過する。大谷と折れそうになる足を支えて先に大谷を土嚢の向こう側に転がし、二人同時に裏側へと身を投げた。
そのまま硬い地面に衝突するものの、転がる体は恋が止めてくれた。
「紬さん……!」
「っ、助かる、流石恋ちゃん……!」
仰向けに転がって五人全員で同じ土嚢の裏に身を寄せ合う、もう立ち上がる気力何て無くて、もし次に早駆けの指示が飛んで来たら怒鳴られる覚悟を内心で決めた。けれど神様はそこまで意地が悪い訳でも無さそうで。
「――状況終了、此処までですね」
静流教官がいつの間にか全員の近くに立ち、紬達を見下ろしながらそう告げた。
「ぉ……わ、った」
「ふぃ~……死ぬかとおもったぁ」
「うっ……足、痛い、です」
演習は終わりだと静流教官が告げた瞬間、全員が体を弛緩させ地面に体を預ける。砂まみれになるとかそんなのはもうどうでも良くて、兎に角痛くて辛い体を一秒でも早く休ませてあげたかった。
「今は特別にその恰好で居る事を許可します、ただし耳は此方に傾ける様に――この演習の総評ですが、大谷生徒、藤堂生徒、杉田生徒は戦死判定です、伊藤生徒と佐々木生徒は撤退成功……死亡した三人の原因は分かりますね?」
淡々と抑揚無く放たれた言葉、それに横たわった大谷が震える腕で上体を起こし、教官の顔を正面に見据えながら「僕が……自分が、足を引っ張りました…」と声を絞り出した。紬は何かフォローを口にしようとして、しかし静流教官の「宜しい」という言葉に口を噤んだ。
「自覚しているのなら何も言いません、課題も見つかったでしょう、初めての演習にして悪くない、しかし決して良くも無い結果です――実戦ではビショップの放つ砲弾が地面を抉る中、こうして駆ける必要が出てきます、足が動かなくなった時が死ぬ時です、体力は十二分につけておきなさい、良いですね?」
「は、はい……!」
カラカラの声で返事をし、全員の声を確認した静流教官は満足そうに頷く。それから堂島教官が一人一人に手を差し出し全員を引き起こしてくれた。正直一人では立つ事も儘ならないので助かる。
「国防軍特殊落下傘――HALO降下部隊に採用されそうな訓練、良く耐えたな、良い根性をしている、特に仲間を見捨てない点は満点をくれてやろう、静流一尉はあぁ言ったが、自分が死ぬ程辛いときに仲間を助けられるのは本当に強い奴の証拠だ」
「あ、ありがとう、ございます……」
堂島教官の手を握ったまま肩を強く叩かれる紬。目の前の堂島教官は見た事も無い程に嬉しそうで、紬は自身の疲労を滲ませながらも何か照れくさい気持ちになった。
この人に褒められたのは多分、授業の最初を除けば初めてだったから。
「大谷も腐るなよ、寧ろナイスガッツと言ってやりたい、何なら夜にでもマラソンに付き合ってやる、体力は走った分だけ付くんだ、日々努力の積み重ね、良いな?」
「は、い……ッ!」
大谷は返事をしながら堂島教官の手を取り、涙を拭って立ち上がる。其処には自分を変えようとする強い意思、或は今回の演習に対する自分の不甲斐なさに苛立っている様な感情が見えた。
その感情が良いモノなのか、悪いモノなのか、紬には判断がつかない。けれど大谷が根本から自分を変えようと決意した事だけは確かだった。それを紬は尊敬の視線で以て迎える、彼は確かに体は弱いかもしれないが精神力は凄まじく強いと、そう感じた。
「良し、じゃあ全員貸与された拳銃と兵装を纏めろ、今日は特別に私が保管庫に戻しておく、少し早いが君達は汚れを落として帰寮して構わない――問題ありませんよね、静流一尉?」
「ハァ……やはり変わりませんね、貴方は」
「どうにも性分なもので、それに今日はもう何も出来ませんよ」
「……えぇ、分かりました、なら総員兵装解除して堂島に渡しなさい、渡した者から帰寮し明日に備えて体を休める様に、ただし非常事態に備えて最低限の準備は行っておくように――では解散」
「ありがとうございましたッ!」
おそらきれい