ぼくがかんがえたさいきょうのゼスティリア   作:ほーこ

10 / 24
次の一歩を今ここから 5

凱旋草海の丈高い草を掻き分けて馬が駆ける。その背に跨がって手綱を取るのはロゼ、後ろに乗るスレイは彼女の腰にすがり付いて落ちないでいるのがやっとだったが、今は乗り心地に文句をつける気は無い。例え二、三度振り落とされようが、速度こそが最重要事項だ。

「ロ、ロゼ!!」

「喋ると舌噛むよ!慣れてないんだから!」

「あ、あと、どれくらいっ?!」

「半日かかるかかからないくらい!はい、口閉じた閉じた!」

遊びで山羊に乗った経験ならあるが、正式に乗馬を学んだことなど勿論ない。出来ることといえば、言われた通りに口をつぐむことくらいで、喋れない分気ばかりが急いた。

アリーシャが一人で出て行ったのは、街で聞いた従士の力の手がかりを得るため。そうロゼから聞いた時、スレイは頭を殴りつけられたような衝撃を覚えた。

従士の力を得る。それは畢竟、スレイの負担を軽くするためで、アリーシャはスレイのために無謀な一人旅に挑んだことになる。そしてそれに気付いたミクリオは、スレイが起きるのを待たず、やはり一人で彼女の後を追ったのだ。

何故報せてくれなかった。恨む気持ちはあるものの、それだってやはりスレイの身体を気遣ってのことだと痛い程にわかっている。昔からスレイより遥かに慎重に事を運ぶミクリオが、無謀を承知でアリーシャの後を追ったのだ。考えられる理由はそれしかない。

――― わかっている。焦ってもどうにもならない。

以前レディレイクにアリーシャを助けに行った時も同じことをライラに言われたばかりだというのに、成長の無い己に嫌気が差す。

ロゼが手綱を引いて馬の足を緩めた。首筋を叩いて馬を労い、励ますように声をかけている。

馬だって生き物なのだから、ずっと全速力で走れる訳もない。そんなことはわかっているのに、後ろに流れる風景の遅さに歯噛みしたくなる。

暫くそのまま歩み足で進み、馬の息が整ったのを見計らってロゼが再び拍車をかけようとした時だった。

視界に広がる草の海。大人の膝を越える丈の草が突然風に煽られ、まるで波のように一斉にスレイ達に向かって打ち寄せる。弱った草なら引きちぎれそうな勢いに、思わずスレイは目を瞑り、ロゼは咄嗟に手綱を引いて馬を止めた。

そのまま数秒、まるで突発的な嵐のように突風は吹き付け、そして始まった時と同様唐突に止んだ。

突然ぴたりと凪いだ風に、安堵よりも先に警戒心が先に立つ。周囲の様子を窺うようにそろそろとスレイが瞼を開けるのと同時。

「お、丁度良いところに居たもんだ」

乱れた呼吸の合間に紡がれた声。すぐ近くで不意に響いたそれにスレイは息を飲み、ロゼは腰のナイフに手をやった。同時に異変に気付いたライラとエドナ、デゼルが姿を顕して、警戒するように身構える。

「何か御用ですか?」

いつもと同じ丁寧な言葉使い、しかしライラのその声音は酷く固い。スレイを庇うように前に出た彼女の後ろで、スレイもまた剣を抜いた。

馬の鼻先に触れるほど近くに立つ彼が、油断ならない相手であることはもう知っている。

風に靡く銀の髪は一体いつ鋏を入れたのか酷く不揃いで、その髪がかかる上半身はほぼ裸。惜し気もなく晒す逞しい胸板には、刺青のように白い紋様が走り、それがますます彼の無頼漢ぶりに拍車をかけている。

「ザビーダ…」

以前会った時には突然襲いかかってきた。そして今日もその時と同じ不思議な武器を右手に持ったままだ。ただ一つあの時と違うのは、彼がスレイを酷く真剣な眼差しで見ていることだけだった。

「一体何の…」

用だ、とライラと同じ質問を投げようとしたスレイの言葉を遮って、ザビーダがやや早口でスレイに尋ねる。

「ガフェリスにお前さんの仲間が二人ほど居るのは知ってるか?」

「え?うん。知ってる、けど…」

何故それをザビーダが知っているのか、そして何故スレイに知らせてくれようとするのか、ザビーダの意図がまるで読めない。

歯切れの悪いスレイ苛立ったように一つ舌打ちして、ザビーダは鬱陶しげに長い髪を払う。

「ちんたらしてたら死ぬぜ?あいつら」

「なっ?!」

「どういうこと?」

言葉を失ったスレイに代わって尋ねたのはエドナだった。

触れれば切れそうな鋭利な視線。敵意を隠そうともせず、彼女は片手で持っていた傘に両手を添え、己よりも遥かに高い位置にあるザビーダの目を睨めつける。

いつでも戦える。言外に彼女はそう言っていた。

「喧嘩っ早いねぇ、相変わらず。別に俺がどうこうしたわけじゃねえ。あいつらは見つかったらヤバイもんに見つかっちまった。それだけだ。寧ろ、わざわざ知らせに駆けつけた俺様に感謝して欲しいくらいだぜ」

エドナの視線にたじろぎもしない男の目は、しかし少しも笑ってはいない。それはザビーダの言葉に嘘偽りがない証拠で、アリーシャ達の身に真実危険が迫っていることを示していた。

「…見つかっちゃヤバイものって?」

「変異憑魔だ。しかもあれは相当天族を喰って味を占めてる。水の坊主が領域内にいる限り、諦めることは無いだろうよ。間の悪いことに当の坊主は術の使いすぎでへばってて使い物にならねえしな」

「変異憑魔?!」

「それが本当だとして…。どうしてアナタがワタシ達にそれを教えてくれるのかしら?」

安易に武器を下ろしたスレイを責めるように横目で見ながら、エドナがスレイとザビーダの間に割って入る。以前からの知り合いらしい彼らだが、どうやらその仲は良好とは言いかねるようだ。

真っ向からエドナに見据えられても、ザビーダは動じない。にやりと人の悪い笑みを浮かべて、エドナの敵意を茶化すように軽い調子で言ってのける。

「そりゃ可愛い女の子が困ってたら、助けてやるのが男の務めってもんだろうよ。へばった天族を放っておけずに、変異憑魔の居る遺跡に残っちゃうようなお優しいお姫様なら尚のこと、な」

「正直に言ったら?馬鹿の行く末に興味があるって」

「健気な女の子に対して馬鹿呼ばわりは酷いんじゃないのか?仮にも仲間なんだろ?」

わかりやすく揶揄を含んだ声音、挑発しているのは明らかだったが、エドナはそれ以上反論しなかった。受け流したわけではない、言葉に詰まったのだ。

人間嫌いを公言して憚らないエドナだが、アリーシャに対しては決して悪い感情は抱いていないように見えた。道中でも他愛ない会話をしているのを良く見かけたし、生真面目なアリーシャをからかって楽しげにしている光景を見たのも一度や二度のことではない。

にも関わらず、彼女がスレイやミクリオのように、アリーシャを大っぴらに仲間だと認める発言をしたことはない。それがエドナが人間を嫌いな理由と関わりがあるのかどうかはスレイにはわからないが、一つだけ確かなことはある。

「…で、どうするの?」

数秒の沈黙の末、エドナはスレイに向き直る。ザビーダにやりこまれた形になる彼女の声はいかにも不機嫌そうではあったが、微かに心配そうな気配も窺える。

「どうするって…勿論助けに行くけど?」

「そんなことは聞いてないわ。どうやって助けるのかっていう話よ」

ぶっきらぼうな言葉に、思わず頬が緩んだ。

―――エドナは決して、情をかけた相手を見捨てるような真似はしない。例え口で何を言ってもだ。

エドナの言葉に頷いて、スレイはザビーダに向き直る。恐らく、現状で二人の情報を最も持っているのはこの男だ。

「二人に残された時間は?」

「…半日は多分保たねえな。あいつの穢れは半端じゃねえ。一先ず安全圏に逃げたとはいえ、付きまとわれたら、ただでさえへばってる水の坊主じゃ耐えきれねえだろうな。あいつが穢れに当てられて憑魔化すれば、一緒にいるアリーシャちゃんも当然無事では済まないだろうしな」

「そんな…だって、ガフェリス遺跡までは…」

死刑宣告を受けた罪人の心境でロゼを見やると、彼女は厳しい表情で答える。

「馬で約半日。二人乗りじゃそれ以上はちょっと厳しいね」

「そんな、じゃあ…」

さあっと血の気が引く音が聞こえた気がした。傾きかけた重心を、咄嗟に前のロゼがマントを掴んで支えてくれるが、礼を言う余裕はスレイにはない。

幼い頃から共に居て、誰よりも近しい友達だったミクリオ。

初めて出会った同じ人間。命を狙われるような立場にあっても決して臆さず、凛と背中を伸ばす姿で覚悟というものをスレイに示したアリーシャ。

彼らが、いなくなる。

共に目指そうと言った夢の半ば、否、夢に向かって歩き始めたばかりだというのに。

「スレイ…」

ロゼが気遣うようにスレイの名を呼ぶ。その声音に含まれた憐憫の色が、二人はもう助からないのだと、非情な事実を突き付けられているようで辛かった。

重い沈黙が支配する一瞬。誰もが口を開くのを恐れるように黙りこくったその時間を、断ち切ったのはライラだった。

ライラは怯むことなくザビーダに歩み寄り、彼女にしては珍しい、挑むような視線を剥ける。

「それで、貴方は何をしにいらしたんですか?まさか、二人はもう助からないと、そんな埒もないことを報せに来たわけではありませんよね?」

「おーおー、必死だねぇ。流石のあんたでも、あそこに変異憑魔がいることまでは知らなかったか」

「何のことでしょうか?それより、私は何のためにあなたがわざわざ私達をお訪ねになったのか、それを伺ったのですけれど」

「そう怖い顔しなさんな。俺様は別にあんたらがやってることに首を突っ込む気はねぇよ。しかし、今回はちっと興味が湧いてな」

言ってザビーダはライラの横をすり抜けて、呆けているスレイの傍らに立った。緩慢な仕草で顔を上げるスレイを見て嘲るような笑みを浮かべる。

「随分と腑抜けた導師様だ。アリーシャちゃんの方がよっぽど勇ましいな。ミク坊だってもっと根性あったぞ」

「ミクリオ…アリーシャ…」

「そう、お前さんの大事なお仲間だ。…さて、導師サマ?お前のお仲間を助けるために、お前はどこまで賭けられる?」

「助ける方法があるの?!」

思わず前のめりになったスレイの頭をザビーダが抑える。背中で急激な動きをされた馬が不満そうに嘶いたが、それはロゼが宥めてくれた。

「訊いてるのは俺だ。お前、あいつらのために何が出来る?」

「何でも」

殆んど反射的に出た答えだったが、嘘でもなければ虚勢でもない。

導師として振るった力はライラの力であり、ミクリオやエドナの力で、スレイ自身の力ではない。レディレイクでも、マーリンドでも、スレイ一人だけだったら足手まといにこそなれ、決してアリーシャの助けになどならなかっただろう。自分自身のことだ。己の身の程は知っている。

彼等の力があったからここまで来られた。スレイの道は仲間と共に往く道だ。彼等を見捨てる選択肢だけは在り得ない。

「導師なんて言われても、オレは一人じゃきっとオレの望むどこにも行けない。だから、オレも仲間のために出来ることなら何でもする」

「それが、命を賭けなきゃならんことでもか?」

「やる。それであの二人が助かるんなら」

言って真っ直ぐにザビーダの目を見据える。

ザビーダが示す方法が真実彼らのためになるかどうか、そもそも彼が持ってきた情報に偽りがないか、それすら判断する方法は無い。ただ、今見上げたザビーダの目は、嘘をついている者のそれとは違う気がした。そして今スレイに出来るのは、自分の直感を信じることだけだ。

暫く何かを確認するようにスレイの顔をまじまじと見ていたザビーダだったが、スレイが一歩も引かないと知るやその顔に品の無い笑みを浮かべ、右手に握っていた武器をスレイに向かって放った。

「っと?!」

初めて手に取った未知の武器は意外と重い。手に取った拍子にバランスを崩したスレイは、そのまま馬の背から転がり落ちる。何とか武器を落とさずに受身を取ったスレイは、ザビーダの意図が掴めずに、ただ呆然と彼の顔を見上げるしかなかった。

「ジークフリート。アヴァロストの後期に作られた、最も新しいタイプの神器、だそうだ。俺達天族の力を封じ込めることが出来るっていう稀有な力を持ってるが、実はそれは本来の使い方じゃない」

「神器…ライラの剣と、同じ…?」

導師と天族の間を繋ぐ媒介となり、同時に天族の力を振るうための武具となるもの。導師が力を振るうためには必要不可欠なものだが、そもそもどうやって作られるのかは定かでは無い。以前からミクリオと話し合って、恐らく天族と人間の力と技術の融合が特徴として見られる、アヴァロスト調律時代のものなのではないか、という推察はしていたが、ザビーダの言葉からするとどうやら当たっていたらしい。

その神器を、どうして人間と共に歩む気の無いザビーダが持っているのか。

一旦言葉を切ったザビーダは、スレイの手元にある無骨な武器を見下ろしながら、一瞬表情を歪ませた。まるで汚いものでも見るような目つきだった。

「俺達天族そのものを弾として体内に撃ち出すことによって、強制的に神依を発動させる。それが本来この神器の正しい使い方だそうだ。契約も要らない、それどころか人間の同意すら必要ない。ただ頭に一発ぶちこみゃそれでいい。…まあ、人間に器としての素質が無ければ精神が破壊されて、ただの人形になっちまうみたいだがな」

「なっ?!」

ザビーダの言葉の余りの内容に、思わずスレイは絶句する。手のひらに収まるサイズではないものの、槍や剣よりは随分小さなその武器が、急に重みを増したように感じた。

「…それを渡して、スレイさんにどうしろと?」

「わかってんだろ?馬を凌ぐスピードが要るとなりゃ、風の神依くらいしか選択肢は無い。しかもそこそこ熟練の天族の力が必要だってな。このザビーダ様なら条件にぴったりだが、生憎俺にはお前さんと陪神契約してまでお前さん達の仲間を助ける義理は無い」

「そんなこと…!!」

「じゃあ言ってやれ。アリーシャとミク坊のことは、きっぱりすっぱり諦めろってな」

ライラの異議を切り捨てたザビーダに、彼女はぐっと黙り込む。ここで取れるのはスレイの安全か、二人の救助か、どちらかの選択肢しか無い。

そしてスレイには、前者を選ぶ気は最初から無かった。

「ごめん、ライラ。心配してくれてるのに」

立ち上がってジークフリートを手に取り、スレイはライラに一言そう詫びた。スレイさん、と一言呟いたきり沈黙したライラは、複雑そうな表情ではあったが、スレイの意見を尊重してくれるようだ。そしてそれは彼女の隣に立つエドナも同じで、彼女は翡翠のような碧い目でじっとスレイの選択を見守っている。

「ロゼ」

馬上を振り仰いでここまで連れて来てくれた少女に声をかける。スレイが何を言いたいのか悟ったのか、彼女はいかにも嫌そうな表情でスレイを見下ろした。

「もしオレが…」

「はいはい、そっから先は言わなくていいよ。何となくわかったから。…ま、知らない仲でもなし、別に構わないけどね。でも、なるべくやめといた方が良いよ。あたし高いし」

ビタ一文たりともまけないからね、というロゼの言葉に、スレイは少しだけ肩の力が抜けた気がした。

「…ありがとう」

もしもスレイが失敗して廃人になってしまったら、アリーシャ達を助けられるのはデゼルと神依が出来るロゼしかいない。本来ならばそんな頼みを引き受ける義理はロゼには無いが、それでも彼女は了承してくれた。やめておいた方が良い、との言葉は恐らくスレイへの激励だ。

―――生きて、自分でアリーシャとミクリオを助けろと。彼女は言外にそう言っている。

「…ザビーダ。ジークフリートの使い方、教えて欲しい」

「良い覚悟だ。気に入った」

スレイの申し出に、ザビーダは愉快そうににっと笑う。

同じ地面に立つと、頭一つ分は大きい男の顔を見上げて、スレイは手にした銃をぎゅっと握り締めた。

 

 

―――俺が姿を消したら、脳天にそいつを突きつけて引き金を引け。それだけで良い。

それだけ言ってザビーダはスレイの前から姿を消した。同時に手に持ったジークフリートが熱を持った。熱いわけではない。人肌程度の温度に温まったそれは、まるで鼓動を打っているかのように、一定のリズムで力の波を放出している。

肌で感じるその力は、清浄でありながら力強さにも満ちていた。その気配に命を育む大地のような暖かさは無く、燃え盛る炎のように熱くも無く、湧き上がる水の冷たさも無い。掴み処の無さは確かにザビーダから感じる気配と同じで、本当にあの男が今この太古に作られた武器の中にいるのだと、そう思うと不思議な気がした。

手にした銃を、右のこめかみに押し当てる。引き金に指をかけると、すこし力を込めただけで重い抵抗があって、もう少し指に力を入れればスレイの命運が決まるのだと、そう考えると流石に緊張は隠せない。

「スレイさん…」

「大丈夫…かはわからないけど、でもオレ、頑張るから」

不安げなライラに笑いかける。しかし、ライラの視線から怯えの色は消えなかった。

「でも、もしザビーダさんの言うことが嘘だったら…スレイさんの身体を乗っ取るための罠だとしたら…」

「それも大丈夫だと思う。ザビーダは嘘はついてない。多分、だけど…、でもそう思うんだ」

「ワタシもそう思うわ」

銃身に目線をやりながら、そう言ったのはエドナだった。

「あれは、人の身体になんて興味は無いもの。…それに、不意打ちは好きだけど、騙まし討ちは好きじゃない。そういう奴よ。だから…」

スレイの言葉を補強して、エドナはじっとスレイを見つめる。その目の色が深かった。

「あとはあんた次第。わかってるわね?あんたにはまだやるべきことが残ってる」

「うん。ミクリオとアリーシャを助けるまで、死んでられないもんな」

だから大丈夫、ともう一度笑う。そしてそのまま、引き金にかけた指に力を込めた。

 

 

音はしなかった。あったのはただ衝撃だけで、しかしそれすらもどこか夢のように遠かった。

そして衝撃と同時にスレイの視界は闇で閉ざされる。ああ、これは死んだな、と我ながら思ったものだったが、実際に耐えなければならない苦難はそこからが始まりだった。

――― 一拍。

手を一つ叩くだけの間を置いて流れ込んできたのは途方もない力の奔流。それが全身、頭の中にまで渦を巻き、苦痛の余りスレイは思わず叫び声を上げる。

まるで脳髄が熱した火掻き棒でぐちゃぐちゃに掻き回されているようだった。何かの声が、映像が、意味を成さないままに駆け回り、スレイの精神を押し潰そうとしている。その流れの前ではスレイの意思など、渦に揉まれる小石も同然で、ただただ押し流される以外に出来ることなど何もない。

まるで漬け物石に潰される野菜のように、スレイの自我が縮んでいこうとした時だった。頭の中の無数の声、その中に聞き慣れた声が紛れているのに気付いて、スレイは半ばすがるようにそれらの声を引き寄せようとした。

 

―――『放っといて!!お兄ちゃんは死んでない、まだ生きてる!』

 

―――『何で、何でこんなことに…!!ラファーガ!!』

 

―――『人との繋がりを捨てることは出来ません。…それが、どんなに非情な決断だったとしても、私は諦めません。絶対に』

 

聞き慣れた仲間達の声は、しかしどれもスレイが聞いたことがない、悲壮な色を帯びていた。

不思議なもので、一つの声の集中すると他の雑音は遠ざかる。同時に周囲に蟠る闇がざわめいたような気がした。勿論、暗闇の中で何を見ようとしても、意味ある像など浮かぶわけがない。暫く無意味に視線を走らせていたスレイは、ふと思い付いて目を瞑った。

視界を閉ざした途端に明確になる、周囲を取り巻く闇から感じる気配。どこから、というのでは無い。闇そのものが気配の塊といっても良かった。

そして気付く。

これは記憶だ。何年、否、何百年にも渡って蓄積され、堆積した誰かの記憶。胸に抱き、そして諦め手放した願いの残滓、その残り香。闇に融けたそれらは、スレイの肌を通して生々しい感情を伝えては消えていく。中には激しい感情を伴うこともあったが、その多くは諦観の念だった。怒り、悲しむことすら辞めて、全てを受け入れる諦めの境地。

それはスレイの知る彼とは印象を異にするものだったが、しかし今この状況において記憶の持ち主は一人を除いては有り得ない。

「ザビーダ…」

何百年の長きを生きながら、穢れを産む絶望を遠ざけ続けること。それはきっとスレイが思うよりずっと大変なことなのだろう。

天族にだって意思はある。しかし長い生のうち、いつかは望みが断たれる時が訪れる。その時に願いに固執し過ぎればどうなるのか、火を見るよりも明らかだ。

だから天族の多くは願いが折れて絶望の中に崩れ落ちる前に、望みを捨てて結末を受け入れる。万事がそういう風に運ぶから、イズチは始終穏やかだった。マイセンのように不意に誰かが欠けることがあっても、それを受け入れて静かに弔う。人とは違って彼等の時間は長い。悲しみは必ず癒える時がやってくる。だから彼等は絶望に打ちひしがれて嘆くことはせず、ただ静かにその時を待つのだ。

目を開いて闇を見回す。

改めて見ると、スレイを取り囲む闇はいかにも混沌とした色合いをしていた。ただ昏いだけではなく、さまざまなものがどうしようもなく交じりあって、それで闇の形を取っている、そんな風に見える。

その雑多なものをを掻き分けてスレイは歩く。ここから出るために何が必要なのか、スレイは何となく悟っていた。

そして、ザビーダがスレイの思っている通りの人物なら、「それ」は必ずこの闇のどこかに存在する。

 

―――『』

 

ふと呼ばれたような気がして、スレイはその方向を振り向いた。声が聞こえた訳ではない。強いて言うならば、軽く誰かに袖を引かれた、そんな感覚に近い。

引かれる感覚に逆らわずに振り返り、そうしてスレイは遥か前方が仄かに白いことに気がついた。

明るい方、明るい方へと無言で歩く。歩くにつれて白い色彩は濃くなっていった。どうやら意外に近いらしい、と気付いたスレイは足を早める。やがて夜の水面のようにうねる闇の中に、星のように明滅する光が見えた。

その大きさは拳ほど。周囲に蟠る闇に比べて、余りにもそれは微かだが、それでも白い光が陰ることはない。

目の前に迫ったそれに、スレイは黙って手を伸ばす。

 

―――『逃げろ、アリーシャ。君だけでも』

―――『出来ません!!』

 

引き攣った親友の声に応えるアリーシャの声。彼女の声もまた硬い。窮地に落ちる彼らに向かって、誰かが余裕の無い声で叫ぶのが聞こえた。

 

「なんとか生きて待ってろ!!」

 

間違いない、ザビーダの声だった。

「―――見つけた!」

思わず声を上げる。手の中の光を強く握り締めた。

これはザビーダの願いだ。

勿論、その願いはスレイのそれと比べて余りにも小さく弱い。例え叶わなくとも、ザビーダにとっては多少残念だったと、それで終わってしまうようなものだろう。しかし、スレイにとってはザビーダが二人を助けたいと確かにそう願った事実こそが重要で、それが強いか弱いかは大した問題ではなかった。

そう、それが「困っている子どもを放っておけない」程度の気持ちでも、それさえあれば。

「信じるには充分だ。―…ザビーダ!!」

呼ばわると、まるで応えるかのように手の中の光が強くなる。きっとこの声は届いている、その確信に背を押されて、スレイは光を掴んだ手を伸ばす。

「一緒に行こう!!」

叫ぶと同時に閃光が弾けた。

 

「―――スレイさん!!」

 

耳朶を叩くライラの悲鳴に、スレイはゆっくりと目を開ける。

薄ぼんやりと紗がかかったような視界の中、凱旋草海の緑と空の青のコントラストを背景に、スレイの顔を見て泣きそうな顔をしているライラが見える。

「…あれ?」

何度か目を瞬かせると、スレイはぐるりと周囲を見渡した。口の端をどこか満足そうに引き上げてスレイを見上げるエドナ、いつもの余裕そうな笑みに少し安堵の色を滲ませるロゼ、更には目を潤ませたライラ。ザビーダ以外の全員が、それぞれに嬉しそうな表情でスレイを見上げている。

そう、見上げているのだ。スレイより長身のライラや、馬に跨がった状態のロゼも含めて。

「―うわぁっ?!」

事態に気付いたスレイは思わず悲鳴を上げる。その様を笑うかのように、くつくつと頭の中で笑い声がした。

「笑うこと無いだろ!」

「いやぁ、あんまり情けない声だったもんで、思わずな。…とりあえず、生還おめでとう、とでも言えばいいか?導師様?」

頭の中で響くザビーダの声、そして宙に浮く体。絶えず頬を撫でる風はスレイを中心に緩く渦を巻き、草原の草を巻き上げる。

「神衣成功ね」

スレイを見上げながら淡々とした調子でそう言ったエドナの言葉で成功したのだ、とようやく得心がいった。

ライラ達との神衣とは違い、どこかふわふわと足元の定まらない感覚はあるが、手も足も自分の思う通りに動く。少なくともザビーダに無理矢理動かされている感覚はない。

それを確認して、スレイは下で自分を見上げているライラ達に視線を投げた。それだけで彼女達は了承したように一つ頷いて、スレイの中へと戻ってくる。

「ロゼ、ここまでありがとう」

「あいよ。帰りの足がいるでしょ。あたしはこのまま馬で追っかけるよ。…いってらっしゃい」

ひらひらと肩の辺りで手を振るロゼにもう一度頭を下げる。アリーシャ達を助けられるかもしれない、その希望を掴むことが出来たのは、間違いなくここまで馬を走らせてくれた彼女のおかげだった。

「ザビーダ!」

「わかってるって。…速過ぎて目ぇ回すんじゃねえぞ!!」

ぐっと背中を押されたような感覚。渦を巻くようにスレイを囲んでいた風が、突然意思を持ったかのように一つの方向を指して猛烈な勢いで流れ出す。

ザビーダが促すままに足を踏み出す。流れに逆らわず、押されるがままに宙を駆け、気付いた時にはスレイの速度は馬を遥かに凌駕していた。

 

 

馬より速い風の神依に、ガフェリスまでの距離は短かった。

時間でいえば三時間と少し、それだけだった。つまりは馬の三倍近い速度で道程を走破したというのに、スレイの身体には何の異変も無い。神依は通常体力を多く消耗するものだが、憑魔と戦わず、ただ走るだけに徹していればその消耗も最低限で済むらしい。

石を組んだ遺構、地上から僅かに頭を出したその遺跡は、普段ならば耐え難い魅力を持ってスレイの好奇心を擽ったはずだった。しかし、その腹の中に友人の命を飲み込んでいるとなれば、さしものスレイも暢気に喜んでいる暇は無い。地上に降り、半分転がるように階段を降りながら、ただひたすらに二人の無事を祈った。

「スレイさん、落ち着いて」

何度かライラに窘められるが、流石に無理な注文だった。変異憑魔と戦う術が無いのは百も承知、しかし二人の無事な姿を確認しないことには、その憑魔を出し抜く方法を考える余裕も無い。とにかく二人の無事の確認が最優先である。

異変を感じたのは階段を降りた直後のことだった。

慣れた気配を感じると共に突然視界が閉ざされて、スレイは思わず踏鞴を踏んでつんのめる。

「おい、どうした?!」

感覚的にスレイの視界が閉ざされた事がわかったのだろう、ザビーダが焦った声を上げるが、スレイ自身は極めて冷静だった。

「大丈夫。ちょっと見えないだけだから」

「大丈夫じゃねえだろ、それ」

「そんなことより…従士反動があるってことは、アリーシャはまだ生きてるってことだ。そうだよね、ライラ」

「え、ええ」

「良かったぁ…」

ライラの肯定を耳にた途端、膝が崩れる。それ程までに安堵した。

もしも間に合わなかったら。着いた時に二人が死んでしまっていたら。スレイの懸念は専らそのことで、従士反動など二の次だ。もっとも、視力が無ければ戦えないからそれはどうにかせねばならないが、お陰でアリーシャが生きていることがわかったのだから、スレイとしては感謝したいくらいだった。そしてアリーシャが生きているというからには、恐らくミクリオも無事だろう。事実、気配を探ってみればうっすらとだが水の気配が混じっている。弱っているのは確かなようだが、スレイの領域に戻ってしまえばこれ以上穢れに侵食されることは無い。助けるまで持ち堪えてくれるはずだ。

「ザビーダ。デゼルがやってたあれ、オレにも出来る?」

「デゼル坊の…?ああ、風を使って障害物を察知するあれか?まあ出来んことは無いが。…ってお前その状態で戦う気か?!」

「正面からやり合ったら勝てないかも知れないけど、二人を逃がすにしたってまったく戦わないわけにはいかないだろうし。相手が天族を狙ってるっていうなら、オレ達が囮になるのが一番早いと思うんだよね」

何せスレイの身体に宿る天族は今現在で三人。しかもその誰もが、ミクリオよりも年月を経た力の強い天族だ。ならばスレイが姿を見せれば必ず憑魔は追ってくる。

「慣れない技だ。いくら俺様でも万全にサポートしてやれる保障は無い。それでもやるか?」

「やる。つき合わせて悪いけど」

スレイ一人では囮にならない。やるからには皆の協力は必須だ。

「付き合わせるなんて…。二人は私にとっても大事な仲間なんですから、当然のことですわ」

「大丈夫、見返りはミボに払わせるから」

真摯なライラの優しい声と、しれっと辛辣な言葉を吐くエドナの声。そのどちらもスレイにとっては既に馴染みになったもので、視力を失ったスレイの背中を支えてくれる。

―――大丈夫。皆が傍に居てくれる限り。

「ザビーダ、お願い」

「しょうがねぇな。まったく、面倒な奴と関わっちまったぜ」

口ではそんなことを言いながら、ザビーダの声はどこか笑みを含んでいるように聞こえた。楽しくて堪らないような、もしくは嬉しくて仕方ないような、そんな弾んだ調子が、言葉の端々に漏れている。

ザビーダが口を閉じて数秒、皮膚を何かが撫でるような感覚がした。冷たくも無いが熱くもない、刷毛で擽られたような感覚。何かを確認するようにそれは全身を走り抜け、消えたと思った瞬間に、スレイの頭の中に遺跡の中の光景が詳細に浮かび上がってきた。

色は無い。黒と白、或いは闇と光で構成された図が反転したような、そんな印象だった。

「凄い…」

今まで見てきた世界とまるで違う光景に、思わずスレイは息を呑んだ。

鮮やかさは無いけれど、どこがへこんでいるだとか、どこに隙間があるだとか、一見しただけはわからないような事も今は手に取るようにわかる。わかってみればこの遺跡は非常に隙間が多かった。恐らくは隠し通路の類が多いのだろう。不自然に壁に隙間が開いている箇所が幾つもあって、そこから埃の匂いのする空気が流れてくる。

風を使って空気を振動させ、それを皮膚で感じ取って頭の中で図として構成しているのだとはザビーダの言だ。蝙蝠など、暗闇で生活する一部の動物と根源は同じ理屈であるが、風天族の技は精度が並外れている。風の感知能力の高さと、操れる風の範囲の広さでより多くの情報を受け取って処理出来るが故に、下手に目で見るより正確な情報が手に入る。

「長くは保たねえ。普段視覚で取ってる情報を聴覚と触覚で無理やり埋めるんだ。やりすぎるとお前さんの脳みそがパンクする。それまでに見つけろよ」

「わかった」

ザビーダの言葉に頷いて、スレイは改めて遺跡の構造を確認する。脇道に逸れる隠し通路は幾つもあるが、メインの通路は恐らく更なる地下に向かっている。アリーシャとミクリオのぼんやりとした気配を探れば、二人はその地下にいるらしいことが何となくわかった。

スレイはそれだけ確認してから足を踏み出す。向かう先に色は無い。視覚で捉えるのでは無い世界は、それだけで今までとはまったく違って見えるが、今は恐れて足を止めている暇は無い。

ただ前へ。一刻も早く先へ。

それだけを胸の内で唱えながら、スレイは一歩また一歩と足を速めながら、地下に向かう遺跡の奥へと進んでいった。

 

 

 

**************

 

 

 

 

息が整うのを待たずに立ち上がり、石棺の蓋を引き摺って入り口の前に立て掛け、簡易のバリケードを作る。狭い部屋をぐるりと見て回り、あの化け物が通れるような隙間や割れ目が無いことを確認して、ようやくアリーシャは床にへたりこんでいるミクリオの様子を見るべく彼に駆け寄った。

「ミクリオ様!大丈夫ですか?」

ぐったりと石棺にもたれたまま、アリーシャの呼び掛けにも答えない。緩慢な仕草でようやく顔だけは上げたものの、彼の元々白い顔は更に血の気を失い、まるで紙のような色になっていた。

ただ消耗しただけではあるまい。例え今も部屋に色濃く穢れが漂っているにしても、ここまで急激に弱る理由にはならない。事実、あの化け物の横をすり抜けようとした際によろめくまで、アリーシャの肩を借りればなんとか走ることだって出来ていた。

ならば考えられる理由は一つ。

「どこか怪我を?!」

ミクリオの傍らで膝をつき、彼が抵抗する余力のないことを良いことにあちこちを検分する。そうする内に、アリーシャはミクリオの右肘が脇腹を庇うようにぴたりと寄せられていることに気が付いた。退かしてみると彼の右脇腹から腰にかけて、ごく浅い切り傷があるのが目に入る。長さは精々7、8センチといったところだが、問題は服の破れ目から覗く傷口の周りが蚯蚓腫れのように盛り上がり、更にそこがどす黒く変色していることだった。

「毒が…!」

蠍の尾には毒がある、そう言っていたのはザビーダだった。流石というべきか、人生経験が長いだけあって、彼の知識に間違いはなかったらしい。

「失礼します!」

アリーシャは傷の周りの衣服を裂き、水筒の水を使って傷を洗う。痛まないわけは無いが、ミクリオは微かな呻き声を上げただけで身じろぎもしない。我慢強いだけならば良いが、身動きする体力すら残っていないのだとしたら、ぐずぐずしてはいられない。解毒は時間との勝負だ。

手持ちの荷物を確認し、幾つかの薬草を掴み出す。全て旅の道中に採取したものだが、これだって立派な薬草だ。

茶器を使って湯を沸かし、数種類の薬草と、街で求めた生薬の根を放り込む。薬を煎じている間に薬草と数種類の生薬を皿の上で潰して混ぜ、作った薬を傷口に塗り、布を当ててマントの端を裂いた布を使ってきつく固定した。

「っ…」

「沁みるのはご容赦下さい。効き目は確かです」

「だい、丈夫…だ」

解毒作用のあるこの薬草は傷口には猛烈に染みる。咄嗟に悲鳴を噛み殺したミクリオの顔には脂汗が浮いていたが、それでも彼は気丈な表情を見せる。

出来る限りの早さで処置を終え、煎じ終わった薬をカップに移してミクリオに渡す。如何にも薬品です、という匂いを漂わせるそれは飲みやすいとはお世辞にも言えないが、ミクリオは文句の一つも言わずに噎せながらカップの中身を飲み干した。

「私に出来るのはここまでです。とりあえず後は安静にしていて下さい。ここに付いていますから」

出来れば眠っていてくれるのが一番良いのだが、それは望み薄だろう。周囲を靄のように漂う穢れに目を遣って、アリーシャは緊張に顔を強張らせた。

あの化け物は決してミクリオを諦めたわけではない。天族を喰う事に味を占めた変異憑魔は、一度天族を見つけたら生半可なことでは諦めないという。実際に今もこの部屋の様子を伺っているのだろう、辺りを漂う靄はいっかな薄くなった気はしない。幸いにもこの部屋は誰か偉人の見につける宝物を納めていた部屋のようで、壁の造りも堅牢で、侵入者を警戒するような狭い廊下は憑魔の巨躯を阻んでくれる。その狭い廊下に分厚い石棺の蓋を互い違いに斜に立て掛け、簡易のバリゲードも作った。立て掛けただけではあるが、人間のような手足を持たないあの憑魔に、あれを器用に退かすことなど不可能だ。

しかし、そうやって分厚い壁の中にいる今も、時折思い出したようにに壁の向こうからあの威嚇音が聞こえる。中に目当ての食料が居るのにも関わらず手も足も出ない。その状況に苛立っているように聞こえた。

時間を計る術は無い。しかし、随分と長い間そうやって居たような気がした。

いくら入ってくる心配が無いとはいえ、化け物の威嚇音が響く中で暢気に昼寝が出来る者はそうはいない。威嚇音を聞く度に緊張した様子で耳を澄ませるミクリオに嘆息しながらもアリーシャは彼の身体が冷えないように、自分の旅装のマントを石棺の脇の石畳の上に敷き、そこにミクリオが横になる。傷口を見る限り解毒には成功しているようだったが、しかし紙のようになったミクリオの顔色はなかなか元に戻らない。寧ろ衰弱は酷くなる一方だった。恐らくは疲労と穢れの所為だろう。

「ミクリオ様。眠る気にならないのはわかりますが、とにかく今は身体を休めないと」

「…ザビーダは、助けを呼ぶと言った。スレイを呼ぶとしたら…最悪だ…」

アリーシャの声が聞こえていないかのように、ミクリオが吐き捨てる。そしてその危惧はアリーシャも抱いていたものだったから、彼を安心させてやれるような言葉は何一つとして出てこなかった。

ザビーダが助けを呼ぶと言ったからには、選択肢は同じ天族か、もしくは天族の姿が見える人間――近場で言うならばスレイかロゼしかいない。ザビーダがミクリオ達のことで助けを求めるならば、当然アリーシャ達の仲間であるスレイを選ぶだろう。それでは折角スレイに負担をかけないよう、行き先を伏せて出てきた意味が無くなってしまうばかりか、変異憑魔という強大な危険にスレイを晒してしまうことになる。

スレイは決してザビーダの言葉を疑わないだろう。ミクリオとアリーシャ、両名が断りなく姿を消してしまった現状、彼は少しの可能性があれば必ずそれに賭ける。スレイとアリーシャの付き合いはたかだか数ヶ月にしかならないが、その自分ですら彼がそういう人間であることを痛いくらいに知っていた。

「すみません…。結局、巻き込んでしまった。私の身勝手なわがままのために。本当に、何てお詫びすれば良いのか…」

ここでアリーシャが囮になれるのならば、躊躇いなくそうしただろう。どうせ国のために何一つ有益なことの出来ない役立たず、消えたところで何の問題もありはしない。少なくとも、世界を救う責任を担う導師の重要な仲間を失うよりは余程良い。

しかし、実際に化け物が狙っているのは天族であるミクリオで、アリーシャが単身出て行ったところで片手間に潰されるのが関の山だ。ミクリオの逃げる時間を稼げるのならば何としてでもやってみるが、それすら出来ないことは明白で、無力な自分がただただ悔しい。

申し訳ありません、そう言って頭を下げ、唇を噛んだ。ここまでミクリオは一言たりともアリーシャを責めたりしなかったが、それも限度があるだろう。どんな罵声でも受ける覚悟は出来ていた。

しかし、アリーシャの予想に反して、返ってきたミクリオの声に怒りの色は欠片も無かった。

「何で、謝るんだ?僕は、自分から君に、ついてきたのに」

苦しい息の下、途切れがちになる声は細い。しかしその言葉に含まれるのは明らかに純粋な疑問で、アリーシャは思わず下げた頭を勢い良く上げた。

「何故って…ここに来たのは私の勝手です!相談すれば止められると思ったから、誰にも言わずにここに来ました。全部、弱いままで居たく無いという私のわがままから!」

相手は病人だ、激昂するべきでは無いとわかっているのに止まらない。

優しさもここまで来ると残酷だ。いっそ断罪してくれれば、この罪悪感も少しは和らいだかもしれない。そんな身勝手なことを思う自分の心に更に嫌気が差した。

しかし、ミクリオも譲らない。秀麗な顔を苦痛と自己嫌悪で歪めながら、彼もまた感情のままに声を張り上げる。

「その我がままに付き合ったのは、僕の意思だ!言っただろう、君のためじゃない、僕のためだって!君の言う通り、あの化け物と出会う前に、引き返しておけば、こんなことにはならなかった。それを通したのは寧ろ僕のわがままだろう!君がっ、責任を感じるような、ことじゃない!」

吼えるように言い放った後、身体を二つに折るようにして激しく咳き込む。アリーシャは慌ててミクリオの背中を摩りにかかりながらも、頑なにアリーシャの責任を認めようとしないミクリオに違和感を抱いた。

頑なに自己の罪を主張する。それは今のアリーシャ自身の態度と酷く似てはいないだろうか。

元々自罰的なところが無いでもないが、本来ミクリオは冷静に自分と周囲を見つめることが出来る人だ。その彼がここまで感情的になる理由。そんなことは、今のアリーシャ自身の胸の内と照らし合わせてみれば大体わかる。

「ミクリオ様」

薄い身体を支え、背中を摩りながらアリーシャは落ち着きを取り戻した声で彼に問う。

頑なに己の責任の重さを叫ぶミクリオに、いつもの冷静さは欠片も無い。それは何故か。

「何を、そんなに悔いていらっしゃるのですか?」

―――アリーシャと同じだ。彼は己の罪を他者に弾劾してもらいたがっている。

ひゅ、と小さくミクリオの喉が鳴る。

呼吸すら止めたミクリオが呆然とアリーシャを見上げたその顔は、まるで迷子になった幼子のそれのように頼りなかった。

 

 

触れてはいけなかっただろうか。

顔を蒼褪めさせて固まったミクリオを身ながら、アリーシャは少しばかり自分の言動を悔いたが、しかしすぐに思い直す。

このままミクリオが自分を責め続けて良いはずが無い。体力が落ちた今だからこそ、気持ちだけは上向きでいてもらわねばならない。暗いものを抱えたままでは、穢れの干渉も受けやすくなり、その分回復も遅れてしまう。

そう、責任だとか罪だとか今はどうでも良いのだ。生きてさえいれば後悔も反省もいつだって出来る。大切なのは今この窮地を生きて抜けること、それも出来ればスレイを危険に晒す前に。

自身の軽挙をあげつらうのはもう辞める。そしてミクリオにも辞めてもらう。その決意を固めたアリーシャは、じっと根気強くミクリオの答えを待った。もう逃げ道は与えない。話すまでいつまでだって待ち続ける。

それをミクリオも察したのだろう、唇を噛み、躊躇うように視線をあちこちに彷徨わせる。

「僕は…」

そう言ってまたすぐに口を噤んだミクリオが、覚悟を決めたように再び顔を上げた時だった。

「何だ?!」

部屋が揺れた。

何かが壁にぶち当たる激しい音と共に、何度も何度も地震のように部屋が揺れる。パラパラと天井から埃や石くれが落ちてきて、視界が白く煙るほどだった。

咄嗟に槍を手繰り寄せるも、目に見える範囲に敵はいない。咄嗟にミクリオを背に庇い、周囲を見回したアリーシャの後ろで、ミクリオが忌々しげに呟いた。

「…強硬手段に出たか」

彼の視線を追いかければ、通路側に面した壁面の上方に微かに亀裂が入っているのが確認出来た。その亀裂はアリーシャの見守る中、再びの轟音と同時に更に大きく育っていく。

「まさか…無理やり、壁を…?」

痺れを切らせた憑魔が、広い通路の側から壁に体当たりしているのだと気付いて、血の気が一気に下がった。

丈夫な石組みとはいえ、人の手によるものである。経年によって劣化している部分も多いし、一部に亀裂が入ればどんなに丈夫な壁も崩すのは不可能ではないだろう。何せあれだけの図体と膂力を持つ憑魔だ。普通の動物とはわけが違う。

今突破されればとても持ち堪えることは不可能だ。こっちには禄に立てもしない病人がいる上、ザビーダの援護ももう無い。アリーシャ一人の力では、ごく短い距離を引き摺るのが精一杯。ミクリオを背負って走るなどという芸当はとても出来ない。

入る時に使った通路はどうだ、と考えて、次の瞬間にそれも不可能だと気付く。アリーシャやミクリオの体躯ならば、バリゲードの隙間を潜って通路を抜けることは不可能ではないが、そこを通って部屋の外を出たところで、続いているのは憑魔が待ち構えているメインストリートだ。何も状況は変わらない。

「どうすれば…」

槍を握った手に力を込めて、生存の道を必死で模索する。何かここに罠のようなものを仕掛ければ、足止めしている間に通ってきた通路を抜けて外へ出るのも不可能ではないだろう。しかし、ここにあるのは出てきた時に持ってきた道具類が少しと、空になった石棺ばかり。石棺本体は重すぎてとてもアリーシャの力で動かせるものではないし、動かせたところで何をどうすればそれで憑魔を足止め出来るというのだろう。

―――万事休す。

助かる方法など無い。それを悟ったアリーシャが唇を痛い程に噛み締めたその時、出現させた武器を杖に、ミクリオがよろめきながら立ち上がった。

「…君は来る時に使った通路へ。憑魔が僕に気を取られてる間に抜ければ、すり抜けられる」

「ミクリオ様、何を?!」

上がった息の下でアリーシャに指示を出しながら、ミクリオは亀裂の入った壁を厳しい目で見遣った。

「早く、時間が無い」

既に亀裂は中ほどまでに達し、小石というには大きい石材の欠片が幾つも剥落している。破られるのは時間の問題だった。

「出来るわけないでしょう!そんなこと!!」

「ここで仲良く二人で死ぬか、一人でも生き残るか。どっちかマシか、考えるまでも無いだろう!」

「ならば私が残ります!助けが来るまでここであいつの足止めを…」

「あいつの狙いは天族である僕だ!君は隠れてさえいれば無視される可能性が高いが、僕のことは草の根を分けても探し出そうとする。ならどっちが隠れた方が助かる可能性が高いのか、そんなことは考えるまでもなくわかるだろう」

「ここで貴方を見捨てて、私にどんな顔でスレイ達のところへ戻れと仰るのです?!出来ません、そんなこと!!」

アリーシャの叫びに、ミクリオの表情が歪んだ。まるで痛いのを堪えるかのような顔だった。

「…君はそんなこと気にする必要は無いよ。僕に惜しむような価値なんか無い」

秀麗な顔に浮かぶ自嘲の笑み。暗い笑いを含んだ言葉は、いつもの明朗快活な彼の言葉とは比べ物にならないほど、鬱屈した色を抱えていた。

「ミクリオ様…?」

「僕は君が捕らえられている間に一度、君じゃなくてロゼを従士にすべきだとスレイに言った。…自分とスレイの身の安全を買う代わりに、窮地に落ちた君を見捨てるべきだってね!」

苦渋に満ちた表情、吐き捨てるような声音。彼がそのことをどんなに悔いているかを如実に報せるそれらは、彼の言葉が真実であるという何よりの証拠でもある。

ミクリオの言葉を、アリーシャは黙って聞いていた。

話には聞いていた。ロゼは自力でデゼルと契約し、導師の資格を得たのだと。ならば彼女の才能はアリーシャなど遥かに凌駕するはずで、単純に導師の利を取るならば彼女を仲間にしようという選択肢は決して間違いでは無いはずである。

ショックで無かったかといわれると嘘にはなるが、それでも彼の言葉を冷静に受け止められる程度には、アリーシャは自分の分際を知っていた。だから怒りは感じなかったし、寧ろ彼のここまでの不自然な態度が何に由来しているのか、それが理解出来た分なんだかすっきりした心持ちだった。

「…今の言葉の中に、ミクリオ様を見捨てても良い理由は見当たりませんが?」

ミクリオは悔いていたのだ。一度でもアリーシャを見捨てようとスレイに提案したことを。あの時の状況では彼等はアリーシャがどんな立場に置かれているのか、正確に知り得なかったはずで、彼等が来なければアリーシャは殺されていたなどとミクリオが知る術は無かった。だからこそ衝撃を受けたのだろう。スレイ達が来ていなければ、確実にアリーシャはあの牢の中で死んでいた、その事実に。

だから彼は今回の無謀な旅に同行し、アリーシャ以上に従士の力に固執した。二度とアリーシャが己の無力を理由に、スレイ達の元を去らなくても済むように。

杖に縋るように立つミクリオを見下ろす。真っ青な顔で唇を噛み締めるミクリオの顔を見れば、己が見捨てられるかもしれなかった事実に対する衝撃など、いとも簡単に消えていった。

「僕が何を言ったのか、わかってるのか?僕は…」

「だって、ミクリオ様は来てくれました。あの暗い牢まで、スレイと共に、私を迎えに」

アリーシャの存在が大切な親友であり、家族であるスレイの身を危険に晒すとわかっていながら、フォローなら任せろと笑って言ってくれた。

「あれは、スレイがそうしたいって言ったから…」

「でもミクリオ様は最後にはスレイの言葉を受け入れた。だからあそこに居たのでしょう?私をスレイから引き離すこともせず、私が気負うことが無いように、道中でもずっと気遣って下さった。…私に野菜の切り方を教えてくださったのは、スレイではなく貴方です」

岩が割れる音と共に、濃い穢れの気配が流れ込んでくる。壁の上部の一角に、遂に人の頭程の穴が開いたのが見えた。

「…僕はあの導師を見捨てた天族と同じだ。人間を認めた振りで、きっと心のどこかで軽んじてた。だから…」

「同じなわけ無い!!」

ミクリオの前、彼を庇うように進み出て、アリーシャは槍を構えた。背後に視線はもう遣らない。代わりに自分と自分の大切な仲間であり、友人である少年を傷つけようとする敵の居る方をきっと見据えて、声だけで彼に語りかける。

「私だってきっと迷う!師匠と、スレイ達を天秤にかけてどちらか選べと言われるような、そんな事があったらきっとどうしようも無く迷うと思う。でも、それでも貴方は来てくれた!スレイと共に、私に手を差し伸べてくれた!導師を絶望に追い込む天族と同じなんてこと、ある訳が無い!」

騎士は守るもののために強くあれ。

その教えと共に、槍の技術を叩き込んでくれた大切な師。女だてら軍人を気取るのだったら、何か危険があっても対処出来るようにしろと、薬の扱いも教えてくれた。

もしもスレイ達といることで、師を危険に晒してしまうとしたら。アリーシャはきっと悩むだろう。どちらを取るか死ぬほど悩んで、それでも最後には師の教えを貫く生き方を選ぶのだ。

「天族だとか人間だとか、そんなことは関係ない!!今私に逃げろと言う、そんな貴方だから私は大切な仲間だと思うし、仲間を守ろうとするのは当たり前のことです!」

頭の中で響くのは、この遺跡に入ったばかりの頃、他ならぬ彼自身が言ったその言葉だ。

「…私は何かおかしなことを言っていますか?ミクリオ様」

ガラガラと、石が崩れる音がする。あちこちで響くそれは縒り合わさって既にただの騒音となり果て、互いの声も拾うのがやっとの有様だった。

ミクリオの声は聞こえない。果たして彼はわかってくれたのか、気にかかったアリーシャはほんの一瞬のつもりで背後に目を遣った。

ミクリオは一瞬ぽかんとした顔でこちらを見つめていたが、自分の言葉を盗られたのだと気付くと、その表情は笑みに変わった。先ほどの暗い笑みとは明らかに違う、楽しげな笑みと苦笑が半々の複雑な顔。スレイと居る時に彼がよく見せる表情だった。

「そうだね、言ってないよ。強いて言うなら…様と敬語は要らないかな」

「えっ?」

「関係ないんだろ?天族も人間も」

ならば自分達の関係は歳の近い気心の知れた仲間、それだけだ。ミクリオの言葉は至極尤もであり、アリーシャは今更ながら天族である彼に、一歩引いた態度で接していたことに気付いた。敬意といえば聞こえは良いが、根拠の無い形だけのそれは、人間関係の距離を広げこそすれ縮める要素にはなり得ない。

「うん!」

「なら…頑張って生き残ろうか。二人で」

よろめきながらも一歩進み出て杖を構えるミクリオの背を支えながら、アリーシャも再び槍を構える。

「ああ。やろう、ミクリオ!」

頷いたアリーシャが言った瞬間だった。

 

 

後ろに置いた荷物の中で、突然何かが眩い光を放つ。直接見ずとも視界を白く染める程のそれは、穴を通して壁向こうの憑魔にも届いたのだろう。苦悶のうめき声を上げながら、憑魔が遠ざかる気配がした。

「何だ?!」

閃光は一瞬だけだったが、アリーシャ達が振り返った後もそれは鈍い光を放ち続けている。荷物に駆け寄ったアリーシャが中を探ると、光の元はすぐにわかった。

「石版が…光ってる…?」

小さめの辞典程の大きさの石版。この遺跡で発掘されたというそれは、怪しげな老人の手から街の若者の手に渡り、最終的にアリーシャの手の中にある。極めて短い一文が古代語で記されていただけの、何の変哲も無い石の板だった筈だが、鈍い光を放つ今は手に持っているだけで何やら只ならぬ雰囲気を放っている。何より、その石版の近くにいると、呼吸が楽になったような奇妙な爽快感があった。天族のミクリオがそれがもっと顕著なようで、先程よりも明らかに顔色が良い。

「もしかして、穢れを祓ってる…?」

「!アリーシャ!」

呆然としてたアリーシャは、ミクリオの鋭い声に視線を戻す。そして絶句した。

硬い灰色の表面、何も掘られていなかったつるりとしたそこに、今まさに誰かが彫り付けているかのように文字が刻まれていく。微かな光の軌跡を残しながら次々に現れる文字列を、ミクリオが呆然とした調子で読み上げた。

「…従者は試練を越え、秘儀を修めよ。呼べ、汝が得し真を。応えを以って証とせむ。従者が証を立つる時、導師は枷より解き放たれ、従者は真の力を得む」

流石にこの程度の文章でミクリオが詰まることは無い。最終的に最初の倍以上になった文字列は、そこでようやく沈黙し、同時に石版の光も急速に薄れていく。遠ざかっていた穢れの気が再び蔓延し始めたが、息苦しさは戻ってこなかった。

「これは…まさか、スレイが?!」

「ああ、領域に入ってる。近くまでスレイが来てる!!」

幾分か元気を取り戻したミクリオが、焦ったように言う。当然だ。今スレイが来てしまえば、二人をこの小部屋から逃がすために憑魔と戦うことになってしまう。しかし、今のライラの力では、変異憑魔を浄化することは不可能なのだ

このままではいけない。

アリーシャは救いを求めるように手元の石版を凝視した。今このタイミングで変化があったのだから、必ず何か意味がある筈だ。もしかしたら従者の力とやらで、スレイの助けになれるかもしれない。

「真…私が得た、真…」

この遺跡でアリーシャが得たものなど何も無い。まさか端から試練とやらには失敗していたのだろうか、そんな推測が頭を過ぎるのを必死で振り払う。

ここで諦めたら終わってしまう。アリーシャだけではない。ミクリオも、下手をすればスレイも。

追い討ちをかけるように、また部屋が大きく揺れる。光が途絶えたことで憑魔が活動を再開したのだろう。がつんがつんと、休む気配すら見せず壁に体当たりを続けていた。

こんなところで終わりたくない。だって、折角わかり合えたのに。天族と人間と、その双方が生きる道にほんの少し近づけた気がしたのに。

「…真…呼ぶ…。呼ぶ…?」

同じように石版を睨んでいたミクリオが不意に顔を上げる。自分の推測を確かめるように何度か口の中で繰り返して、確信したように頷いた。

「そうか!…アリーシャ!」

「な、何?」

「呼ぶ…名前だよ!!僕の真名を呼ぶんだ!」

「ミ、ミクリオの…?」

天族の真名は本来伴侶か兄弟の縁を結んだ者にしか教えない、大切なものなのだとスレイから聞いた事がある。スレイが戦闘中に呼ぶからアリーシャも皆の真名は把握しているが、だから一度も口にしたことは無かった。

がつん、と一際大きく部屋が揺れた。亀裂が音を立てて広がって、ミクリオが焦れたように声を上げる。

「早く!!」

今はミクリオを信じるしかない。悲鳴のような声に頷いて、アリーシャは喉も裂けよとばかりに大声を上げた。

「ルズローシヴ=レレイ!!」

間髪入れずにミクリオも叫ぶ。

「マオクス=アメッカ!!」

二つの声が交じり合った瞬間だった。

突如としてアリーシャの胸元から光が溢れる。閃光というには柔らかく、燐光というには強い光は、仄かな温度を持ってアリーシャを包んだ。手探りで光の元を探し当てると、光っていたのはアリーシャが普段から持っている短剣。王家の紋が刻まれたディフダの家に代々伝わる短剣で、イズチの近くの遺跡に落としてきたのを、スレイがレディレイクまで持って来てくれた思い出の品だ。

最初は白かった光だが、空中で漂う内にまるで何かを吸収しているかのように薄青い色味を帯び、みるみる内に青く染まって、そのままアリーシャの持っている槍に向かって収束を始める。まるで蛇か何かのようにうねりながら槍を取り巻き、鋼のそれに染みこむように消えていく。

「こ、これは…?!」

掌に伝わるのは、清流に手を浸した時のような清涼感。刃の周囲をまるで輪郭をなぞるように水の流れが取り巻いて、まるで川の傍にいるようにせせらぎの音が耳に届いた。軽く振ってみると、尾を引くように細かい水滴が軌跡を描く。

変わったのは武器だけでは無い。アリーシャ自身の身の内にも、今まで無かった何かを感じる。その感覚は、初めて師から身の内の闘気を形にする技を教わったあの時と酷く似ていた。

 

『よく辿り着いた』

 

轟音が轟いて石の壁が崩れ落ちるその瞬間、アリーシャは耳元でそう言う老人の声を聞いたような気がした。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。