耳元で風を切る音がする。
密閉されていたせいで黴臭い匂いの充満する空間。明暗の反転した景色を見回しながら、スレイはその見慣れない景色の中に見知った姿を探し続ける。
「ミクリオ!アリーシャ!!」
寂れた遺跡の中で大声で呼ばわるも、返ってくるのは反響した自分の声だけだ。
変異憑魔に見つかるかもしれない、そんな心配は既に頭から抜け落ちていた。否、アリーシャ達から注意が逸れるなら、自分達を見つけてくれる方がまだ良い。ザビーダと神依をしている分、スレイの機動能力は格段に上がっている。宙を駆けることすら可能になった現状ならば、変異憑魔に付け狙われたところでかわす手段はいくらでもある。
今のところ、アリーシャの気配もミクリオの気配も途絶えてはいない。寧ろ近づいたせいか気配は先程よりも鮮明に感じ取れるようになっていて、だからこそ彼等の無事は確信できた。しかし、生命に別状無いことは確かでも、それがずっと続くとは限らない。もしも彼等が変異憑魔と交戦中であるのなら、たった一撃が致命傷になる可能性も十分あった。
「ちったぁ落ち着け!変異憑魔に突っ込む気か?!」
「もう近いんだ!!細かいことは後で考える!」
ザビーダの言葉に叫び返して、スレイは我武者羅に宙を蹴る。形振り構ってはいられない。とにかく懐かしい気配を少しでも強く感じる方向へと、ただもう夢中で突き進んだ。
―――もうすぐだ。もうすぐ手が届く。
「どうか、無事でいてくれ。二人とも…!」
穢れの気配が濃くなっていくと共に、二人の気配もはっきりとその存在感を顕わにしていく。それは、穢れの元となる変異憑魔の傍に二人がいることの証左に他ならない。
致命的な一撃が彼等に届く前に、早く。
少しでもスピードを上げようと風を手繰るスレイの耳元で響く音。風を切る音に混じって、金属を引っ掻くような不快な音が混ざり始めた。
************
弾けた壁の欠片が頬を掠めて、ちりりと熱感が走る。次いで流れる血の感触を手の甲で乱暴に拭って、アリーシャは大きく一歩飛びずさった。
途端に足元に刺さる憑魔の尾。鋭い刺を備えたそれは縦横無尽に動き回り、アリーシャ達の動きを阻害する。狭い室内で不利になるのは身体の大きい向こうの筈なのに、この尾の一撃があるからアリーシャ達の方も迂闊には動けない。何せこの刺の毒の効果は実証済みであり、悠長に解毒などしている時間は無い以上、掠っただけで致命傷になる。
「ミクリオ!!左へ!」
自分の動きを尻尾が追ってきているのを確認しながら、アリーシャは叫ぶ。叫びながら右側に回りこみ、足元を執拗に狙ってくる尾を跳んでかわして、振り向き様に関節部分を狙って握った槍を突き込んだ。
節足動物は硬い表皮を持つ分、その継ぎ目は脆い。勿論、この憑魔を当たり前の動物と同じように考えるわけにはいかないだろうが、実在の生き物の形を借りているならば、形状的な弱点も一致しているはずだ。その可能性に賭けた。
「やぁっ!!」
一歩を大きく踏み出し、正確に継ぎ目を狙う。どうやら継ぎ目はゴムのように弾力を持った筋繊維で出来ているらしく、初撃は跳ね返されたが一撃で終わらせるつもりは端から無い。
「蛇垂華!」
突き出した槍を引く動作で、相手を引き寄せる。そこから更に切り払うまでの動きは、師の指導の元何度も何度も繰り返したものだ。
一歩を大きく踏み出して、その何百回、何千回と繰り返した動きの通りに間接の継ぎ目を狙う。アリーシャの操る槍の先を取り巻く水流が、アリーシャの予測を遥かに上回る動きを見せたのはその時だった。
アリーシャの槍が憑魔の尾を捉えた瞬間、穂先を取り巻いていた水流が俄かに形を変え、水の鎖となって太い尾を雁字搦めに縛り付ける。驚きに目を見開きながらもアリーシャが体に染み付いた動作で槍を切り上げる動きに持っていくと、槍の穂先に留まった水が動きを早め、まるで回転する刃のように憑魔の筋繊維の何本かを抉り取った。
明らかに今までとは違う。水流を伴う今の技は、アリーシャが今まで使っていたそれとはまったく別物であり、更によく見ればまるで鎧のように憑魔の体に纏わりついていた穢れの黒い闇が、アリーシャの槍が触れた部分だけ、ほんの僅か削り取られているようにも見えた。スレイの領域に戻ったことで、ミクリオの浄化の力も戻っているのだろう。
―――今ならば。ミクリオの力を借りている今ならば戦える。
「ミクリオ!!」
「氷刃断ち切れ…アイスシアーズ!!」
憑魔が悲鳴を上げるのと同時に地面を蹴ってその場を逃れ、苦し紛れに振り回される尾と足の一撃を辛くもかわす。地面に倒れ込みながらミクリオを呼べば、アリーシャが尾の動きをひきつけている間に反対側に回っていた彼は、間髪入れずに天響術の一撃を叩き込んでくれた。
大気中の水蒸気が一瞬にして凍結して二枚の鋭い刃を形作り、ミクリオの詠唱と同時に憑魔の尾を挟んで断ち切る。アリーシャが手傷を負わせたまさにその位置を狙って放たれた一撃には、いかに変異憑魔といえども耐えられず、毒の刺がついた尾の瘤が、ごとりと鈍い音を立てて遺跡の床に転がった。
「やった!」
「ミクリオ!気を抜くな!!」
大きな脅威が一つ減った。その結果に思わず声をあげたミクリオに、アリーシャはひやりとした危機感を覚えた。
この憑魔の毒には一度痛い目を見ている。毒の尾の無力化は何よりも優先すべきだと、特に話し合うまでも無くそう二人とも思っていたから、思ったよりもあっさりとそれが敵ったことに、まだ戦い自体に馴染みの浅いミクリオが僅かばかりに気を抜いたとしても、それは無理からぬことといえるだろう。
しかし、幼い頃から歴戦の戦士であるマルトランに修練をつけられてきたアリーシャは知っている。戦場ではその一瞬の油断が、いとも簡単に死を招いてしまうのだと。勝利の予感に快哉を叫んだ格好のまま死んで行った戦友の話を、アリーシャは幾度と無く師から聞かされていた。
アリーシャの言葉にミクリオは慌てて杖を構えなおしたが、その時にはもう遅かった。
尾の先が切り取られたからといって、この怪物自身を無力化したわけでは決して無い。寧ろ、己にとって餌でしか無い存在にその身を傷つけられたことに激しく怒り、一刻も早くその虫けらにも等しいちっぽけな生命を押しつぶし、頭から貪り喰おうと巨大な鋏を振り下ろした。
「ミクリオ!!」
駆け寄ろうとしたアリーシャの動きは足元を狙って繰り出された、先の無い尾で阻害される。毒の脅威は無くなったとはいえ、丸太のような太さの尾の一振りは、それだけで当たれば脅威だ。鋏に足、毒を失っても尚強靭な尾。全方位に攻撃出来る憑魔と相対する今、一瞬の隙も決して見せてはならなかった。
アリーシャは焦れる己を宥めながら、視界の一角を埋める灰白色の砂塵に意識を凝らす。これ以上憑魔がそちらに行かないよう、牽制のように小さな攻撃を繰り返しながら、必死で砂煙の中に彼の纏う青を探した。
もし直撃していれば、一撃で命を刈り取られてもおかしくない。最悪の可能性が頭をよぎり、じわじわと背筋を這い上がってくる。
まるでレースの襞のように連なる砂煙の隙間から、ミクリオがよろめきながら転がり出てきた時、アリーシャは心の底から安堵した。しかし、その安堵も長くは続かない。依然として状況は厳しいことは、まともに歩けていないミクリオの様子を見れば明らかだったからだ。
吹き飛ばされて半身を打ちつけたのだろう。右の脇腹を庇うように手を当て、右足を引きずっている。一応杖は顕現させたまま、脇腹を庇った左手に握っていたが、あれではまともに振るえまい。ミクリオは回復術も得手ではあったが、今の状況で詠唱のために無防備になるのは余りに無謀すぎる。あと一撃でもまともに食らえば、例え命を繋げたとしても戦闘の続行は不可能、アリーシャ一人でミクリオを庇って戦える訳も無い以上、ミクリオが倒れるのは敗北と同義。そして敗北は即ちミクリオの死を意味した。当然だ。そもそも変異憑魔は天族であるミクリオを喰らうためにここにいるのだから。
陽動のために分かれたのが仇になってしまった。憑魔の体で分断された形の今の陣形では、迂闊にミクリオに近づくことも出来ない。
「どうすれば…」
傷を癒すための薬類はアリーシャの荷物の中にある。人間の荷物を天族が持てば周囲の人間に奇異な目で見られてしまうから、ミクリオは己の武器以外の一切の荷物を持っていなかった。
投げるか。しかし遠い上に舞い上がる粉塵で視界が悪い。更に間に憑魔を挟んでいるのだから、叩き落とされてしまえばそれまでだ。アリーシャとて薬の類は多くは持ってきていない。ミクリオの解毒と傷の治療で使ってしまったから、残りは僅かだ。無駄には出来ない。
どうする。どうする。
焦りばかりが先に立って、思考がぐるぐると音を立てて空回りする。幸いなことに憑魔の攻撃は怒りの余り単調になっていたから、そんな状態でも防ぐことは出来たが、それだけでは何も解決しない。いずれアリーシャが疲れて、それで終わりだ。
ミクリオと同じ、清涼な水の気配を纏う槍を握り締めて、アリーシャはままならぬ状況に歯噛みした。
どうすればいい。どうすれば二人、五体満足でスレイの元へ帰りつける。どうすれば彼の大切な親友を失わせずに済む。
のこのこと勝手にこの遺跡にやってきたアリーシャのせいで、大事な親友を死なせることになっては、スレイに申し訳が立たない。
そこまで考えてアリーシャは気付く。
―――違う。
故郷を追われた今のアリーシャに、大義名分をわざわざ掲げる必要など無い。それなのに自分はまた騎士が槍を振るうに相応しい立派な理由を探している。
旅の道中、包丁の持ち方から仕込んでくれた。彼が楽しそうに語るスレイとの少年時代は、こちらが聞いているだけで微笑ましかったし、天遺見聞録の解釈を巡っては議論を戦わせ、旅先で遺構を見つける度に三人で悠久の時に思いを馳せた。
己の言動を悔いてアリーシャのために命すら危ういこの場所へやってきた誠実さも勿論尊敬すべき点ではあるが、それ以上に彼とスレイと三人で共に過ごす時間は単純に楽しかった。同じ年頃の友人などまったくいなかったアリーシャにとっては、初めて同年代の友人と、同じ趣味を分け合ってはしゃぐ貴重な時間だった。
アリーシャにとって、ミクリオは疾うに「スレイの親友」というだけの存在ではなくなっていた。天族と人間、無意識に自分が引いていた線を取り払って考えれば、今自分が真に何をしたいと欲しているのか、答えは実に単純明快だった。
その欲を、願いの全てを込めて槍を振り切る。
「魔神剣!!」
ミクリオのいる方向に伸ばそうとした肢の一つを狙って闘気の波を放ち、怒りの声を上げる憑魔の間合い、そのギリギリ外へと跳びずさる。
「…死なせない。絶対に」
―――帰るのだ。
生きて帰って、またミクリオとスレイとライラとエドナ、皆揃って旅をする。歳の近い者同士、新しい場所に行っては新しい驚きを見つけ、意見を戦わせて些細なことで笑い合う、そんな宝物のような時間を、これからもアリーシャは送るのだ。そうやって新しい発見を糧に旅を進め、いずれはスレイが立派な導師になって世界の闇を打ち払う、その日をミクリオと共に彼の一番近くで迎え、光の戻った祖国に皆を再び連れて行く。そして良い所を一つ残らず紹介して胸を張り、これがこの国の、ハイランドの本当の姿だと、誇らしげ言って笑うのだ。
「お前なんかに、私の友達はやらない!!」
アリーシャの夢に最早ミクリオは必要不可欠で、だからここで失うのは絶対に嫌だ。未来を共に生きたいと願った友人を、こんな所でみすみす死なせてなるものか。どうにもならない現実に絶望するのはもう飽きた。もう無様に膝を着き、諦観を噛み締めることはしない。あの時は出来なかったことも、今ならきっと出来る。
―――だって、今は独りじゃない。
握る槍に感じる清涼な水の香。それと同じものを、アリーシャは自分の身の内にも感じていた。ミクリオを助けたいと願えば願うほど、胸の中に渦巻くそれが血管を奔り、身体中に駆け巡る。
「優しき流れ、癒しの力よ…」
闘気を形にして発する奥義。要領はそれと同じだということは感覚で理解出来た。今アリーシャの身の内に宿るのは、心優しい友の清浄なる水の力。敵を押し流す程の激しい力では無いけれど、代わりに乾きを潤して命を繋ぐ優しさで溢れている。だからどんな形で開放すべきかはすぐにわかった。
目を閉じて詠唱するアリーシャのすぐ近くで、憑魔が咆哮をあげる。どうやらミクリオよりも先に、食事を邪魔をする目障りな虫けらの始末をつけることにしたらしい。アリーシャが目を開けると、眼前に方向転換した憑魔の巨大な鋏が迫っていた。
「ツインフロウ!!」
鋏が振り下ろされようとした正にその時、ミクリオの術が憑魔の背後から襲い掛かる。威力は然程でも無いが、一番詠唱の短い天響術。何とか攻撃を避けられる遮蔽物の陰に隠れようといたミクリオが、憑魔が標的を変えたことに気づいて咄嗟に放ったのだろう。この程度の術でダメージを受ける相手ではないが、それでも動きを邪魔されたことに対して冷静でいられるほど賢い相手でも無い。案の定奇声を発して尾を振り回し、再び標的となったミクリオは片足を引き摺りながら攻撃範囲から逃れようと走り出す。
それだけの時間があれば十分だった。
「ファーストエイド!」
声高らかに叫んで、意識をミクリオに集中する。薄青い光の粒子がミクリオを取り巻き、それが消えるとミクリオの体のあちこちについていた細かい傷は見えなくなっていた。
「アリーシャ、君…」
「前を!また来るぞ!!」
突然の光に一瞬憑魔は警戒したように鋏を引いたが、それが己に害を加えるものではないと気づいた瞬間に再び動き出していた。ミクリオは寸でのところで憑魔の鋏を掻い潜り、その懐から転がるようにして逃れる。考えての動きではなかったが、それで運良く分断された形だった陣形を変えることが出来た。その代償に憑魔の鋏が砕いた石畳の欠片が、再び白い頬に赤い線を引いたが、怪我はそれだけのようだった。
どうやら体の痛みももう無いようだ。
ミクリオの動きを見てそう判断したアリーシャは、援護のために走り出す。どういう仕組みかはわからないが、ミクリオの力を借りて天響術を使うことには成功したようだが、術の行使に不慣れな状況で乱発するのはどう考えても愚作だった。一度使ってみてわかったが、詠唱している途中はまるで無防備になってしまう。よくもまあ、天族の皆はいつもこんな危なっかしい戦い方をしているものだと、尊敬に近い念すら覚えた程だ。
術を行使するならば前線を支える前衛が必要。この場合、どちらがその役目を担うのに適当か、そんなことは決まっている。
「私が食い止める!ミクリオは術で攻撃を」
敵の背後、死角になる位置に素早く回り込みながらアリーシャはミクリオを背後に庇う形を取る。ミクリオよりも自分が犠牲になるべきだと思ってのことでは無い。単純に戦闘時の利を考えてのことで、それをわかっているのだろう、ミクリオも不満気な様子は見せずに冷静にアリーシャの言葉に答えた。
「なるべく長く引き止められる術を使いたい。どれくらい保たせられる?」
「…三十秒。間合いを取らずに渡り合えるのは、多分それが限界だ」
「上等。術が発動したらすぐに走るんだ。横をすり抜けて通路に出よう。スレイが近くに居るってことは、ザビーダも来ているはずだ。足場は良くないけど、少し持ち堪えればスレイ達を巻き込まずに向こうに渡れるかもしれない。どうせもう安全な隠れ場所なんて無いんだ。少しだけ粘ってみよう」
「わかった。私もその案に賛成だ。…私の背中、君に預けた」
「任されたよ。僕の命も君にかかってる。危なくなったらすぐ言ってくれ」
「了解した」
一つ頷いて、アリーシャはようやく背後に自分達を探し当てた憑魔と向かい合う。久々の獲物を前にしているという邪魔され続けている憑魔は猛烈に怒っているようで、絶えず威嚇音と怒りの咆哮を上げながら、尾や鋏を振り回してとにかく邪魔者を排除しようと躍起になっていた。
毒の棘の無い尾を払い、鋏を避ける。大きく払うと懐が空いてしまうから動きは最小限、かといって正面で受ければ潰されてしまうから体を捌きながらの受け流しを余儀無くされる。更に攻撃と攻撃の間隔が短いから、必然的に常に全力で動かなければ攻撃をいなせない。幸いなことに、穂先の不思議な水流は多少の衝撃を和らげてはくれたが、それとて圧倒的な質量が相手では、そう大きな慰めにはならない。保って三十秒という言葉は謙遜でも何でも無く、寧ろ多少の見栄すら含んでいた。
背後ではミクリオが天響術の詠唱を行う際の陣を敷いている気配がする。憑魔を見据えながら、精神を集中する見慣れた姿が脳裏に浮かんだ。
どうやら天族は元々身の内に持つ力―恐らくはアリーシャ達人間が闘気と呼ぶそれと同じ位置づけのもの―を集中させ、呪文によってイメージを喚起することで術を発動させるらしいことは、自分も使ってみてわかった。原理自体はアリーシャ達が「奥義」と呼ぶそれとかなり似ているが、人間と天族の最も異なる点は、恐らくは空気中、あるいは周囲を取り巻く自然が発する何かを取り込む能力が高いことだろう。持っている力それ自体大きいようにも思えるが、アリーシャが使った術は明らかに自分の力以外の何らかの力に後押しされて発動していた。状況から察するに、十中八九あれは水の気だ。
自分以外の力を取り込んで発動するから天響術の威力は高い。しかし自分以外の力を使うが故だろう、使うためには多大な集中力を必要とした。
「知に溺れし者よ…」
ミクリオの詠唱が始まる。この時点で既に憑魔を抑えるアリーシャの槍は震えていたが、今はその肢の一本でさえもミクリオに触れさせるわけにはいかない。集中力を切らせば詠唱は陣を展開させるところから始めなければならない。そうなれば絶対に術が完成するまで持ち堪えることはアリーシャには出来ない。
「くっ…ミク、リオ…!」
鋏をいなそうとした穂先が弾かれ、上半身が大きくぶれる。重心が傾いてしまっては次の動作に移れない。
もう無理だ。その意を込めて後ろを振り向いた瞬間、ミクリオの詠唱が完了した。
「在るべき姿に戻れ!マインドスレイヴ!!」
杖を振り上げたミクリオが高らかに叫ぶと、赤い光が弾けて憑魔を襲う。光と衝撃で一時的に相手を麻痺させる効果のある術で、ミクリオも最近使えるようになったばかりの術だった。それ故に詠唱には多少時間がかかるが、時間をかけるだけのことはある。例え僅かな時間でも、憑魔の動きを封じる瞬間はアリーシャ達にとって最大の好機だった。
「今だ!!」
ミクリオが叫ぶと同時に走り出し、アリーシャも間を置かずに彼を追う。地面にへたばった憑魔の横を走り抜け、崩落した壁を乗り越えて遺跡の出口のある方角へ全速力でひた走る。
スレイの領域に入っているということは、必ず近くにスレイがいる。自分達は途中の格子や奈落を自力で越えることは出来ないが、ザビーダが一緒ならば一瞬だ。ならばなるべく近くでスレイが来るまで粘れば、スレイを危険に晒すことなく憑魔から逃れることが出来る。
崩れた石材を蹴飛ばしながら、石畳の通路を駆ける。通路の幅は先程の部屋から伸びるそれよりは広いとは言っても三メートルに届かない。この通路の突き当たりは崩落し、どこに続いているとも知れない奈落がぽっかり口空けているのだ。
不意にちり、と頬の産毛が逆立つような妙な感覚を覚えて、アリーシャは速度を僅かに緩めて背後の様子を窺った。麻痺が解けたのだろう、憑魔が壁の穴から通路に出てくる姿が見えたが、僅かにタイムラグを稼げたおかげで尾も鋏もまだ届かない。その上まだ完全に麻痺が抜けたわけでもないのか、憑魔は通路に出た辺りで止まったまま、アリーシャ達を追ってくる様子も無い。
にも関わらず、何故か酷く胸が騒いだ。
距離を空けたくとも奈落は既に間近に迫っている。ここに留まって戦うしかない。アリーシャが腹を括って足を止めた時だった。
「アリーシャ!!」
突然ミクリオが立ち止まり、弾かれたように振り返る。その鬼気迫る表情を驚いて見返したアリーシャに、ミクリオの表情がますます険しくなる。
「伏せろ!!アリーシャ!!」
「え?」
駆け寄ってくるミクリオがアリーシャに向かって手を伸ばす。形振り構わない必死の形相に驚いたアリーシャは、咄嗟に反応できずに僅かの間棒立ちになった。
知っていた筈だった。その僅かな隙が、一瞬の空白が、あっさりと命を奪うのが戦場であることを。
凄まじい勢いと質量。次いで襲い来る浮遊感。
「アリーシャ!!!」
背後から襲ってきたそれの正体が水の塊であることにアリーシャが気付いた時には、アリーシャの身体は通路の縁から奈落へと投げ出されていた。不思議なことにそんな状況であるにも関わらず、アリーシャの服の裾を捕まえようとしたミクリオが、こちらを見下ろしている表情はよく見えた。秀麗な面差しを絶望の色に染めて、彼は縁から身を乗り出し、届かぬ指をアリーシャに向かって伸ばし続けていた。
―――ああ。
掴みたかった。彼がこの後どんな無力感に襲われるのか、アリーシャは良く知っていたから。
望み叶わず絶望するしかない境地にずっと立たされていたアリーシャは、その胸の痛みを嫌というほど良く知っている。
「すまない…」
届かぬと知りながらも手を伸ばす。生き抜きたいとのその思いを、せめて最期まで切らさぬこと。それが、今アリーシャに出来ること唯一のことだった。
***********************
転がるように階段を降り、降りた先で角を折れる。悲鳴のようなミクリオの声が聞こえたのはその時だった。
「アリーシャ!!!」
長年一緒に過ごした友人だ。その声を聞けば、起こった出来事が只事では無いのだと、そう理解するのに時間は要らなかった。
「ザビーダ、急いで!」
「人使い荒いねえ」
色の無い感覚野。視界よりも遥かに広い範囲を補足するそれは、通路が崩落して出来た奈落に落下するものがあることを教えてくれる。今のミクリオの悲鳴を考えれば、それがアリーシャであることは余りにも明白だった。
スレイは一旦空中を降り、降りた床を再び蹴って猛スピードで宙を駆ける。異変を察知したミクリオが顔を上げた気配がしたが、彼に言葉をかけている余裕は今は無い。ただ迫り来る憑魔に気付いたのだろう。ライラとエドナが素早く身体から離れてミクリオの元に向かう気配がした。
今まで経験したことの無い速度。轟々と音を立てて頭の中を流れいく景色。それだけで胃の中のものが全て引っくり返りそうだったが、歯を食い縛ってそれを堪えた。
余りにも早く空気が流れるものだから、まともに呼吸も出来ない。体中の酸素は容赦なく消費されていくというのに、補給することもままならない。酸素不足に脳が悲鳴を上げているのか、反転した風景がちかちかと星のように白く明滅し始める。
「と、どけぇえええええ!!!!」
一秒が一分に感じる間延びした感覚。今の今まで猛スピードで流れていた風景が唐突にゆっくり流れ出し、重力の中に無防備に投げ出されたアリーシャの姿がはっきりと見えた。視覚は使えないから彼女がどんな表情でいるのかはわからない。それでも、アリーシャの腕が何かに向かって伸ばされているのは確かに感じた。
「アリーシャ!!」
呼べば、アリーシャの腕は今度はスレイに向かって伸ばされる。槍を持たない左腕。右手は今も槍を握り締めたまま離さない。それはアリーシャが未だに生きて戦うことを諦めていない確かな証左であり、伸ばされた腕はスレイへの信頼の証だ。
「スレイ!」
声が近い。スレイは無我夢中で伸ばされた腕に手を伸ばし、危うく失われるところだった大切な人の名前を呼んだ。
「アリーシャ!!」
手の感触を感じると同時に風の力でアリーシャを捕らえる重力の腕を切り離し、身体ごと自分の傍に引き寄せて、その手を両手でしっかりと握り締める。鍛えられているというのに女性のしなやかさを失わない手が、応えるようにぎゅっとスレイの手を握り返した。
変化が起きたのはその瞬間だった。
「え?!な、何だ?!」
頭の中で何かがぱちんと弾けたようだった。アリーシャに触れた所から熱に似た何かが溢れ出し、体中を駆け巡って脳に届く、そんな感覚だった。
驚きに目を瞬かせると、同じように目をぱちぱちさせているアリーシャの顔が視界に映る。彼女の顔がいつもより白く見えるのは、アリーシャの手を掴んだ左手、導師の手袋の文様が白く光っているからだろう。そしてよくよく見れば、彼女の胸元も同じように白い燐光を帯びている。
そう、確かに今のスレイの目には、白い光に照らされるアリーシャの顔が見えている。
「…見え、る?」
泣きそうに表情を歪めるアリーシャの顔を見つめながら呟いた言葉に、アリーシャの翠の瞳が見開かれた。
「本当か?!」
「え?う、うん」
「本当に?!無理して言ってくれているわけではないのか?!」
「だ、大丈夫。本当に見えてるよ」
「そうか。…良かったぁ」
震える声でそう言って、アリーシャは目尻に涙を浮かべながら安堵の息をつく。その様子にスレイは思わず微笑んだ。
「ねえアリーシャ」
「何だ、スレイ」
心底安堵したのだろう。こんなに穏やかなアリーシャの声は久々に聞くような気がする。思い返せばスレイの片目が見えないと気付いた時から、何時だってアリーシャの声にはぴんと糸を張ったような緊張が見え隠れしていた。
一体どれだけ自分を責め、そしてどれだけスレイの身を案じてくれていたのか。戦闘中は常にスレイと敵の立ち居地に注意しながら、精一杯のフォローをしてくれた。戦っていない時もそれは同じで、彼女が自分の挙動に注意を払っていなかったことなど無かったように思う。
己のせいで従士反動を負ってしまったスレイへの責任感もあるだろう。しかし、それだけでも無いことは、アリーシャを見ていれば馬鹿でもわかる。
「人ってさ、不思議と自分よりも怖がったり焦ったりしてる人を見ると落ち着くんだよね」
「え?」
突然振られた前後関係の見えない話にアリーシャは不思議そうに首を傾げる。その様子にスレイはまた少し笑った。
「目が見えなくなってからアリーシャがオレ以上にうろたえてたから、逆に落ち着いちゃってさ。今もそう。何か突然見えるようになって意味わからないけど、アリーシャの顔が見れたしそれで良いかなって、そんな気分になってきた」
突然奪われ、そしてやはり唐突に戻った視界。今まで当たり前に出来ていたことが突然出来たり出来なくなったりすることに、困惑を覚えないわけでは勿論無い。しかし、それを我が事のように嘆いたり喜んだり、黙って傍で支えてくれたり。そんな人がいるだけでこんなにも心が軽くなる。普段何気なく享受してきたそれがどれだけ得難いもので、自分はどれだけ恵まれた人間なのか。それに気付かせてくれた従士反動には感謝したいくらいだ。
自分でも余りにも暢気な言い草だとはわかっている。何せそのせいで死に掛けたことすらあるのだし、アリーシャが一度スレイと別れる決意をしたのだって従士反動があったからこそだ。そのせいもあってか従士反動についてはスレイ以上に胸を痛め、思い悩んでいたアリーシャは、その暢気さが信じられないのだろう。形の良い眉が吊り上がり、能天気なスレイに不満を示した。
「なっ?!わ、笑い事じゃないんだぞ?!わかっているのか、君は!!」
「わかってるよ。でも今はそれどころじゃないし。後で原因はゆっくり調べればいいかなって。アリーシャとミクリオに言いたいことは山ほどあるけど、今はこれだけ。…オレのために必死になってくれてありがとう、アリーシャ」
勿論、勝手に出て行って危険に飛び込んだことは許していない。スレイに黙って勝手について行ったミクリオも含めて、後で言ってやらなければいけないことはたくさんあるが、当面それは後回しだ。
今はただ、自分がどれだけ彼女達に色々なものを貰って、どれだけそれに支えられているのか、少しでも伝えられればそれで良かった。
「スレイ…。私は…」
「今は後。ミクリオ達を助けに行かなきゃ」
「そうだ!変異憑魔は?!」
「大丈夫。ライラ達が行ってるよ」
アリーシャの言葉を遮って、スレイは視線で上を指した。遠くなった通路の縁。その石材が崩れ落ちた場所から、光と共に遠く爆音や火炎のものと思しき閃光が漏れ出している。ライラの天響術の光だ。
アリーシャにもミクリオにもそれぞれ言い分はある。それはわかっているし、聞くつもりもある。しかしそれは全て後のこと。
あの化け物を何とか撒き、全員揃って遺跡から出た後で十分だ。
「とりあえず前言は撤回するぜ、色男さんよ」
「何?突然」
宙を駆けながら突然頭の中で響いた声に、スレイは困惑しながら返答する。
今の今まで空気を読んで黙っていてくれたのだろうから、その心遣いには感謝したいが、突然喋っていつのことかもわからない前言がどうのと言われても、困惑する以外にやりようが無い。
「凱旋草海で情けねえ導師様って言っただろ?あれ、取り消すわ。ひょろひょろのお坊ちゃんかと思ったら、なかなか面白いじゃねえの、お前」
「はあ。ありがとう、って言うべきなのかな?これ」
「知らねえよ。オレ様に褒められることが自分に取って価値があると思うんだったら言ったら良いさ。どっちにしろ、男からの礼なんてビタ一文の価値も無いしな」
「そ、そう…。じゃあ一応…ありがとう?」
「結局言うのかよ」
クツクツと喉の奥で笑う男の声は、成るほど確かに楽しそうではあった。
出会った時からザビーダは理解し難い男だった。
穢れてしまった命を救うには殺すしかないという彼の持論は到底スレイには許容し難いものだったし、初対面で襲い掛かられた時には困惑もした。その癖エドナのように人間嫌いを公言することは無く、寧ろ好んでいるような言動もしばしば――主に女性に関することで――見られた。導師に対して無意味だとか無駄だとか、偽善だとか、その手の罵詈雑言は頻繁に吐いていたから、導師が嫌いのなのかとも思ったが、それにしては今の発言は妙だ。否、そもそも導師の従士であるアリーシャと、親友であり陪神であるミクリオのために手を貸してくれる辺り、芯から導師が嫌いなわけではないのかもしれないとも思う。とにかく考えが読めない男なのだ。
「見えた!」
抱えたままのアリーシャが、上を指して声を上げる。
彼女の指した先には、通路の崩落した裂け目がある。上を見上げるスレイ達の視界には、その裂け目から紅い炎の欠片が飛び散るのがはっきりと見えた。
「ライラ!!」
とにかく、考えるのは後だ。
スレイは宙を駆ける足に力を込めて、残りの距離を一気に駆け上がりながら己の主神の名前を呼んだ。スレイの仲間に炎を操る術を使うのは彼女だけだ。
裂け目の縁から飛び上がり、再び詠唱を始めた彼女の後ろに着地する。着地すると同時に抱えていたアリーシャが飛び降り、次いでザビーダが神依を解いた。
「もう目は見えるんだから良いだろう。この後はオレ様の好きにやらせてもらう」
「うん。ありがとう、ザビーダ。助かった」
感謝の意を込めて頷くと、何故か彼はバツが悪そうに目を逸らす。もっと恩着せがましいことを言い出すかと思っていたら、案外正面きってこられると強くは出られない性質であるらしい。外見はこれだけ野性味に溢れているくせに、はやり一筋縄では読めない男だ。
「アリーシャ!無事で良かった」
「ミクリオ!!大丈夫か?!」
前線で戦っていたミクリオに駆け寄って、アリーシャが敵の鋏を槍で払う。アリーシャの無事な姿に思わず声を上げたミクリオと、彼を案じるアリーシャのやり取りは、遺跡に来る以前よりも遥かに砕けた印象だった。
どんなに時が経とうが、アリーシャの言葉や仕草から天族への敬意が抜けることはなかった。それをミクリオ達がもどかしく思っているのも知ってはいたが、普通の暮らしをしてきた人間にとって天族は信仰の対象である。長年の習慣はそう簡単に抜けるものでは無い。事実、もっと肩の力を抜くようにライラが言ったこともあったが、彼女は恐縮するばかりでいっかな事態は改善しなかった。これ以上言ってもアリーシャが気負うだけ、どうにかなるものではあるまいと諦めていたのだ。
その壁を、越えたのか。この短時間で。
驚くスレイの耳に、ライラの凛とした詠唱の声が響く。
「我が火は灼火、フォトンブレイズ!!」
踊る真紅の炎、轟く爆音に鼓膜が震える。心なしかいつもより爆発に勢いがある気がしてライラの様子を窺うと、憑魔が怯んだ隙に一斉に打ちかかろうとする前衛の方を――否、正しくはアリーシャを、怖い程真剣な眼差しで見つめている。
「ライラ?」
「…スレイさん。目はもう見えているんですね?」
「え、ああ、うん。見えてるよ。それより今は早く逃げないと…」
「従士反動が消えた…。ならばきっと大丈夫です。…スレイさん、私と神依を」
「え?」
突然の提案に、内心でスレイは首を傾げる。
ライラの神依は小回りが利かない。一刻も早く憑魔の追跡を振り切らねばならない今の状況には明らかに不向きなはずで、それはライラ自身も重々承知しているはずだった。狭い遺跡の内部、自身の置かれた環境を理解出来ないライラではないし、そもそも彼女がスレイの言葉を遮って己の意見を通そうとすること自体が珍しい。
―――何かある。
問うように視線を向ければ、ライラは彼女にしては珍しい不敵な笑みを閃かせる。
「浄化の炎。穢れすらも焼き尽くすその炎の真髄を、今こそお目にかけて見せますわ」
「でも、変異憑魔は浄化出来ないって前に…」
「今ならばきっと浄化が敵います。今のアリーシャさんならば、必ず」
確信を秘めた強い言葉。碧の瞳は未だアリーシャを捉えて離さない。
彼女の目線を追うようにスレイもまた前線を支える彼らに視線を向ける。何かを見届けるように一歩下がったところから戦況を眺めていたザビーダもまた、つぶさに彼らの動きを見つめていた。
エドナが間合いを取った瞬間を狙って、先端を失った尾がアリーシャを襲う。その動きを見越していた彼女が槍でそれを受け止めると、まるでそれを待っていたかのように、右の鋏がアリーシャの槍に向かって振り下ろされる。気付いたエドナが傘を向けるが、その動きはもう一方の鋏に阻まれてしまった。
敵の狙いは明らかだ。
「武器を…!!」
折る気か。
槍が無ければアリーシャは戦えない。
気付いたスレイが声を上げるよりも早く。
「マオクス=アメッカ!!」
「ユズローシヴ=レレイ!!」
響く二人の声と、弾ける青い光。青い光はアリーシャの槍を覆うように集まると、流れる清水に変じる。水は集まって盾を形成し、真ん中からアリーシャの槍を折るはずだった憑魔の鋏の衝撃を見事に吸収してみせた。
「なっ?!」
「お見事ですわ、お二人とも」
驚きに言葉を失うスレイを他所に、ライラは言って満足げに頷く。共に前線で戦うエドナも明らかに驚愕した様子を見せてはいたが、戦闘の第一線を支える彼女に阿呆面を晒している暇など無い。結果、状況に置いていかれてあたふたしているのはスレイ一人という、何とも情けない図式になる。
「さあ、スレイさん。私達もお二人に加勢しましょう」
説明は後でいたします、と言われれば、頷く以外の選択肢など無い。
どこか弾んだ様子すらあるライラの言葉に、スレイは半ばヤケクソで彼女の真の名を叫んだ。
セルケト、その憑魔がそういう種であるということはライラに聞いた。蠍という生き物の形をした憑魔で、速度と耐久力に優れ、その甲羅は天響術ですらも簡単には通さない。四属性の中で耐久を持たないのは火が唯一であり、尾には強い毒を持つ。
そんなことをいつも通り教えてくれたライラの声は、先程までとは打って変わってどこか沈んだ色を帯びていた。神依している最中は、普段よりも相手の心の動きがよくわかる。セルケトについて語る時、確かに彼女の心は揺れていた。
「ねえ、ライラ」
「…何でしょう?」
スレイの呼びかけに応える声は硬い。何を聞かれるのか警戒しているような響きがあって、ライラを悩ませる何かが彼女の誓約に触れているのだと悟らせる。
「今で無くても良いからさ。もしも話せる時が来たらさ、そんでもってオレに話して楽になれることがあったら話してよ。オレ、ライラには聞いてもらってばっかりだから。ライラが良ければ、オレにもちょっとで良いから背負わせて欲しいんだ。ライラの抱えてるものを」
「スレイさん…」
たった一言、スレイの名を呼ぶ彼女の声には、言葉に出来ない様々な感情が内包されていた。
誰よりも導師について識っている彼女は、しかしそれを口に出す事は出来ない。どういう経緯でライラが沈黙の対価を浄化の力を得る代償として差し出すことを選んだのかスレイは知らないが、それでもそれがどれだけ重荷であるのか、今のライラを見ていればわかる。
どこまでならば誓約に障らないのか、スレイにはわからない。でも、せめて忘れないでいて欲しかった。ここに、彼女の重荷を分けて背負うつもりでいる酔狂な人間が一人、確かに居るのだということを。
頭の中でライラが逡巡する気配がする。それはほんの数秒の間だったが、その葛藤は確かに彼女の苦悩の深さを物語っていた。
「…今はセルケトを倒すことが先決ですわ。スレイさん、構えてください」
スレイの誘いを振り切るような、迷いの無い声。それが今のライラの答えなのだろうと思うとほんの少し寂しかったが、ここで駄々をこねても仕方が無い。
ライラの神器である炎の聖剣。レディレイクの歴史に何やら深い関係を持つらしいそれは、立派な見た目相応に重い。ライラと神依して力を合わせていなければ、到底振り回すことなど出来ないだろう。それだけに当たれば巨大な憑魔でさえも両断出来る切れ味を誇る。炎を纏った分厚く重い刃は、確実に穢れを断ち切る力を持っていた。
ライラに言葉に従って剣を構えたスレイは、そこで不意に違和感を覚える。
「…軽い?」
神依していてさえ重いその剣が、何故か急に軽く感じた。ものは試しとばかりに頭上に振り上げてみれば、呆気ないほどあっさりと持ち上がる。いつもならば切っ先を下げるように腰で溜め、膝と腰の動きで振らなければまともに振るえないのに、両の手の力だけで容易く上段に構えることが出来た。
「行きます!」
質問している暇など無い。ライラの声を聞くと同時に、スレイは走り出していた。
前衛でセルケトを食い止める三人は、先程のミクリオとアリーシャの協力以降、明らかに優勢に回っていたが、それでもセルケトは水に耐性がある。徐々に後退はさせているものの、決定打には至らない。彼らは奥へ奥へとセルケトの巨体を押しやりながら、安全に離脱するタイミングを計っているように見えた。
その三人を押し退けるように躍り出たスレイは、勢いのまま上に跳び、その長大な刃を振り上げる。
「スレイ?!」
「ちょっと、あんたまでこっちに来たらやり難いでしょ!!」
スレイを呼ぶアリーシャとミクリオの声が綺麗に揃う。二人の前で傘をかざし、セルケトの尾をいなしながら非難の声を上げたのはエドナだ。
彼らの驚きは当然だ。敵を何とか怯ませ、その隙に離脱する。それが当面の目標だったはずなのに、小回りの効かない火の神依でスレイが突っ込んできたのだから。
「皆は下がって!!オレ達がやる!」
言いながら刃を振り下ろす。セルケトが警戒して後退したから直撃はしなかったものの、硬い甲羅に亀裂が入ったのが見える。スレイは振り下ろした剣を再び構え直して、床を蹴り、踏み込みで間合いを詰めながら、警戒音を立てる口元に真っ直ぐ剣を突き込んだ。
―――やはり軽い。
軽いだけではない。切れ味も明らかに増していた。間近に迫ってきた敵を叩き潰そうと振り上げた鋏、人の頭を越える大きさのそれが、突き込んだ剣を返す動作で切断され、石畳に落ちる。その余りの呆気なさに、アリーシャが小さく声を上げた。
怯んだように後退したセルケトの懐に更に踏み込み、スレイは頭の中に流れてくるライラの声に己の声を揃えた。
「原始、灼熱…」
かつて無い程に炎の力が身の内で渦を巻いていた。剣を振り上げながら唱えると、それはまるで出口を探していたかのようにスレイの両の手に流れ込み、刃に奔って顕現する。
「エンシェントノヴァ!!」
声に誘われるように中空に躍り出た炎は、そのままスレイが振りぬいた刃からセルケトの身体に侵食し、数瞬の後に弾けて大爆発を呼んだ。今まで使ったどの術よりも威力のある術は、今までの苦戦が嘘のようにセルケトの硬い殻を弾けさせ、その巨体を焼き尽くす。断末魔の悲鳴ですら炎に飲まれたかのように余韻を残さず消え去って、炎が収まった後には、セルケトの痕跡は肢の一本すら残されていなかった。
「終わった…のか…?」
呆然として呟くアリーシャに応えるかのように、ライラがスレイの身体から離れる。彼女はその場を確認するように二、三度周囲を見回してから、確信を得た様子で頷いた。
「もうこの場所に穢れは残っていません。…浄化成功です。変異憑魔はもういませんわ」
「しかし…変異憑魔の浄化は不可能なんじゃなかったのか?何で今になって突然…?」
「まあまあ。とりあえずこんな湿っぽいところは出て、お日様に当たろうじゃねえの。いい加減、こっちまでかび臭くなっちまう」
今の今まで傍観していたザビーダは、ミクリオの言葉を遮るようにそう言って意味有り気な視線をライラに投げる。
「ま、外に出たらお前等の主神様が、色々教えてくれるだろうさ。誓約に引っかからなきゃ、の話だけどな」
まるで見下すような言い方だったが、ライラは俯き加減の暗い表情のまま何も言わない。そんな彼女にミクリオとアリーシャが物言いたげに視線を向け、エドナは何かを了解しているかのような様子で嘆息したが、彼らに対してライラは何の反応も示さなかった。
「確かに、ここに居ても始まりません。外に出ましょう。…ザビーダさん」
「へいへい」
「アリーシャさんを先に」
何も無かったかのようにそう言って、ライラはてきぱきとその場を離れる段取りを組み始める。意味深な態度を取っていた割にはザビーダは彼女の言葉に素直に従って、アリーシャの手を取って奈落を越え、すぐに取って返してスレイ達の元へ戻ってくる。
「ほれ」
男の手なんて握りたくない。
態度でそう言うザビーダに苦笑しながらその手を取って、スレイは何となく背後を振り返った。
自分の中にライラがいないことそれ自体に違和感を持ったわけでは無かった。ある程度の距離が開いていても、契約を交わした天族は導師の存在を察知して戻ってくることが出来るし、実際道中ライラやエドナがふらふらとその辺りを見て歩いていることは良くある。ただ、他の二人がスレイの中に居る時に一人だけ外に出ているのは珍しい。それで気になったのかもしれなかったし、直前のライラ本人や周りの反応が気になったからかもしれなかったが、振り返った理由となると「何となく」としかやはり答えようがない。明確にライラを探そうと思って振り返ったわけではなかったのだ。
だからスレイは、意図せず見てしまった光景に思わず息を呑んだ。
ライラは跪き、何かに祈るように頭を垂れていた。真紅のスカート、そしてその上に広がる銀糸の髪が土埃にまみれるのにも構わずに。
「…行くぞ」
ぽかんとライラを見守るスレイの手を取って、ザビーダが言葉短かにそう告げる。馬鹿のようにただ頷いて、スレイは一足早くザビーダとその場を後にした。
程なくしてライラは追いついてきたが、スレイの脳裏には一心不乱に祈るライラの姿が焼き付いて離れなかった。
頭を垂れ、両の手を組んで祈るその姿は、まるで誰かの許しを乞うているかのようだった。
外に出ると既に夕刻を過ぎて、辺りには夜の気配が忍び寄っていた。
薄闇の中、各々草むらにへたりこんだ一行は、黴臭くない空気を胸一杯に吸い込んで、掴み取った生を謳歌する。
何の澱みも無い清浄な空気を久々に味わう時間は酷く愛しかったが、スレイはいち早くそれに見切りをつけて立ち上がり、仲良く並んで座り込んでいたアリーシャとミクリオに歩み寄って短く告げた。
「二人とも、正座」
「スレイ…?」
「いいから、正座」
我ながら、これほど凪いだ声は聞いたことがない。ミクリオも同様だったのだろう、顔色を変えて即座にスレイの言に従い、事態を把握出来ていないアリーシャだけが首を傾げながらも、とりあえず槍を置いてミクリオの隣に並んで座った。
「まず二人とも。オレに言うことあるよね?」
にこりと笑ってそう言うと、ミクリオの顔がますます白くなる。ここに来てアリーシャも異常に気付いたらしい。酷く硬い表情で口を開いた。
「わ、私の勝手で君に迷惑をかけてしまった。すまない」
至極真面目な表情でそう告げる彼女に、スレイはぎゅっと唇を噛んだ。
「…いつ、オレが迷惑だって言った?」
「え…?」
「迷惑だなんてオレ、一言も言った覚え無いけど。従士反動だって最初からそうなるってわかってて、その上でオレはアリーシャを迎えに行った。迷惑だなんて思うなら、一緒に来いなんて言わない」
「それは…」
「オレの言葉は信じられなかった?目のことだって、あんまり心配はしてないってオレ言ったよね?」
酷い言い方をしている自覚はあった。どんどん肩を縮めて萎れていくアリーシャの姿には心痛まないでは無かったが、それでも言わずにはおれなかった。
「スレイ!アリーシャは君の事を思えばこそ…」
「ミクリオだって一緒だよ!今回はたまたま助かったから良かったけど、そうじゃなかったら今頃二人とも…!!」
―――死んでいたかもしれない。
続けようとした言葉に耐えられず、言葉を止める。異変を察知したアリーシャが、恐る恐るといった風にスレイを見上げてくる、その顔を見てしまったらもう駄目だった。
「頼むから…あんまり心配させないでよ」
毅然とした態度で臨むつもりだったのに、結局最後に口から出るのはそんな情け無い嘆願で。
ミクリオとアリーシャ、正座して並んだ二人の肩に額を当てるようにへたりこんで、スレイは深く深く息を吐き出した。じわりと感じる二人の体温に涙が出そうだ。
「…二人を助けるんだって、形振り構わず突っ走ってたのよ、スレイ」
「そりゃもうすげえ形相だったぜ?」
援護射撃のつもりだろうが、二人の言葉はスレイの格好悪さを上塗りする効果しか無いが、今は文句を言う気力も無い。ただただ二人が無事で今目の前に居てくれることが有難かった。特にアリーシャは、あと数瞬遅れていたら命は無かったかもしれないのだ。
ひやりと項をくすぐる様な恐怖に肩が震える。その肩を、宥めるように誰かの手が叩く。
右と左。別々の方向から伸びる、硬さも大きさも違う二人分の掌。
「スレイ」
優しく低い声音は、昔から泣いているスレイを宥めるときのそれ。
「スレイ」
柔らかで真摯な声は、初めて会ったあの日、スレイを「気持ちの良い人だ」と褒めてくれたあの日のまま。
―――彼らは変わらずここに在る。
顔を上げたスレイを覗き込むような二人の顔は、どこか申し訳なさそうにも、そのくせ嬉しくて堪らないようにも見えた。
彼らは目線で頷きあい、息を吸って一拍。
「心配かけてごめんなさい!!」
二つの声が綺麗に揃う。
正座したまま下げられた頭。それはこの短い旅路の間に彼等が得た何かの証明のようにも思えた。
いつの間にか使われなくなった敬語、消えた敬称、縮まった距離。それらを見れば、この旅が決して無駄なものでは無かったことだけはわかる。スレイだって、彼等が黙っていなくなったからこそ、確認出来たことがある。
―――しかし、二度は御免だ。
「…今回は許すけど、次からはオレも一緒に行くから。絶対に」
「ああ。大丈夫」
「二度と君を置いて行くものか。約束しよう」
「勿論、私達もお供しますわ」
「私を除け者にするつもり?」
スレイの言葉にミクリオとアリーシャが頷けば、便乗するようにライラとエドナも割り込んでくる。終いには物珍しげなザビーダが「若者は良いねえ。おっと若くない奴もいるな」などと茶化しては、エドナとライラに総攻撃を浴びる羽目になり、スレイとアリーシャとミクリオはまるで子供のような彼等のやり取りに、顔を見合わせて笑い合った。
夜の静寂を破って馬の蹄の音が聞こえたのは、丁度その頃だった。
「おーい!皆生きてるー?」
「ロゼだ!!」
地平線の仄かな赤みすら消えかけた時刻、黒いシルエットは徐々に近づいて馬に乗った人の姿だと判別できるまでになった。
後から行く、という言葉通り、彼女は帰りのスレイ達の足を確保するために馬を連れて追いついて来てくれたのだ。
「ロゼ!!ここだよ!!」
言いながらスレイは立ちあがり、ぶんぶんと思い切り良く手を振った。
帰れるのだ。皆揃って。
その実感に、ロゼに向かって振る手にも力が篭る。
―――何があっても、自分は彼等と共に行く。
その決意を胸に抱きながら、スレイは徐々に近づいてくる赤い髪に向かって、力強く手を振り続けた。