ふらつく足を何とか踏ん張って、スレイは周囲を見回した。
あちこちで響くのは歓声。目を開けた仲間達に取りすがり、男泣きする姿にほんの少し肩の荷が降りたような気がした。
しかし、体はもう限界に近い。
膝が笑い、油断すると意識が持っていかれそうになる。顎から汗が滴り落ちるのを拭うことすら億劫で、襟元は冷たく湿って色が変わっている。隣でスレイの体から解放されたエドナが大儀そうにへたりこむのが気配でわかった。
「あり、がと…エドナ」
「無茶苦茶する、わね。まあ、別に良い、けど」
共に荒い息をつきながらの途切れがちな会話は、それでもどこか明るい。スレイの周りに運ばれた騎士達は皆起き上がり、或いは目を開いたからだ。
―――彼等はもう大丈夫だ。
そう思うだけでどんな苦労も報われる気がした。
膝に手をついて息を整える。そのスレイの傍らで、呆然とした調子で呟いたのはセルゲイだった。
「これが…導師の奇跡の御技か…」
すごい、と殆んど吐息のような言葉を漏らす。そうしながら彼がスレイを見る視線は、今までのものとは明らかに違っていて、チクリと何かが胸に刺さったような気がした。
「奇跡じゃないよ」
奇跡なんてものが使えるなら、枢機卿を殺す選択などしなかった。何かを狂おしいほど求める彼女の未来を閉ざし、望みを絶つことなどせずとも済んだはずだ。
どこか距離が出来たように感じるセルゲイに、祈るような気持ちで言葉を投げる。
「オレ一人じゃ何もできなかった。仲間が頑張ってくれたんだ。エドナっていって、ちょっと口は悪いけど、人を見捨てられない優しい、地の天族の…女の子」
自分より遥かに年長のエドナをどう称していいか
一瞬迷ったが、ここは見た目に従っておく。
「それに…まだ終わってない」
ちらと視線を向けたその先で輝く弱々しい光に、スレイはともすれば笑いそうになる膝に力を入れる。
スレイの視線を追って、そこに横たわる弟がいまだに意識を取り戻していないことに気付いたのだろう。セルゲイの表情が俄に厳しくなった。
「スレイ殿」
痛いものを堪える表情で彼は言う。
「此度の貴公の温情、どう感謝すれば良いか…。しかし、もう十分だ。もうフラフラではないか。これ以上やって貴公に障りがあれば…」
「大事な弟なんでしょ」
「あれも騎士の端くれ。覚悟は出来ていよう」
言いながら無意識にだろう、剣の柄に置いたセルゲイの手は微かに震えている。カタカタと金属の鳴るほんの小さなその音が、セルゲイの心中を語っているようだった。
セルゲイは強い。公の利益のために個を殺す強さを持っている。そしてセルゲイが言う通り、ボリスもそういう人間なのだろう。それは国という人間の群れ、その上位に属する者の強さ。かつてアリーシャがスレイに覚悟というものを教えた折にも見せたものだ。
その強さ自体はきっと大切なのだろう。人の上に立つ者として必要なものなのだと思う。
―――しかし、今はその覚悟は受け取れない。他の誰でもない、スレイ自身のために。
スレイは己を心配そうに見下ろすセルゲイの、ボリスに良く似た顔を見上げ、荒い息を抑えて微笑んだ。
「やっぱり駄目だよ。ボリスさんとセルゲイさんには出来てるかもしれないけど、オレにはそんな覚悟出来てないから。それにここでやめたらミクリオの頑張りが無駄になっちゃうし」
「ミクリオ殿とは…確か…」
「そう、オレの幼馴染みで水の天族。回復の天響術が得意なんだ。多分ミクリオが頑張ってくれなかったら、ボリスさんは手遅れになってたと思う」
今も頑張ってる、そう言い残してスレイはセルゲイの元を離れてボリスの傍らに駆け寄った。
ミクリオは未だにボリスの傍らで呪文を唱え続けている。汗で額に髪がはりつき、顔は血の気を失っているし、回数を重ねるにつれて術の光は弱くなっている。それでも彼は術の行使をやめようとはしなかった。
「ミクリオ」
声をかけると緩慢な仕草で顔をあげる。額から流れる汗を袖で拭うと、ミクリオはようやく呪文を紡ぎ続けていた唇を止めた。
「脈は何とか戻ったけど衰弱が酷すぎる。このままじゃ長くは保たない」
掠れた声でそう言って、ミクリオはロッドを杖に立ち上がる。
「スレイ」
汗で濡れた髪、震える足。体の限界を告げるそれらに反して、スレイを見据える彼の視線だけは力を失わずにいる。
ミクリオの言いたいことを察して、スレイは思わず口角を上げた。
「まだやれる?ミクリオ。随分息が上がってるけど」
「当たり前。君こそ膝が笑ってるけど?」
「武者震いかな」
「なら僕はただの深呼吸だ」
軽口叩いて笑いあう。
―――ミクリオが親友で本当に良かった。
心の底からそう思う。
無言で拳を差し出せば、ミクリオが馴れた様子で己の拳で軽く叩く。お互いに拳を打ち合わせるリズムは、子供の頃から慣れ親しんだそれ。例え目を瞑っていたても、今更合わせ損ねることはない。
物心ついた時からスレイの側にはミクリオがいた。スレイの無謀を嗜めこそすれ、決して笑うことのないこの親友がいてくれたから、スレイは己の境遇を嘆くことはせずに済んだ。
――――そして、今は彼だけでなく。
二人の背後で、かつんと金属が石畳を叩く音がする。聞き慣れたその音に、二人は揃って音の方を振り向いた。
「私も協力させてもらえるだろうか?」
「アリーシャ!」
槍を支えに立つアリーシャは、力無い足取りでスレイ達の側に歩み寄る。彼女がすがる槍の穂先に絡むのは炎。渦を巻いて突撃槍の円錐の穂先を形成するそれは、アリーシャがライラと縁を結んだ状態であることを示している。
「もう大丈夫なの?」
「ライラが回復術をかけてくれた。万全ではないが、それは二人も同じだろう?今回は何の役にも立てなかったんだ、今くらいは少々無茶をさせて欲しい」
「協力はありがたいけど、役に立てなかったっていうのは取り消しておきなよ。庇われたスレイの立つ瀬がない」
「…反省は後でするよ。」
下手をすればアリーシャの命は無かったかもしれない。それを思うと肝が冷えるが、今は己の行動を振り返っている時ではない。
スレイは倒れたボリスの傍らに立ち、青ざめた面を見下ろした。
その場の誰もが固唾を飲んでスレイ達の様を見守っている。水を打ったように静まり返ったその場所で、スレは大きく息を吸う。
「ユズローシヴ=レレイ!!」
声が重なる。
瞬間全身をとりまく水の気配。幼い頃から慣れ親しんだそれは、僅かの違和感もなく瞬時にスレイの身に馴染む。
「アリーシャ」
「ああ」
促すスレイに頷いて、アリーシャがまるで祈るように膝を折る。槍を立て、片膝をついたアリーシャは、さながら物語の騎士が君主にしてみせるような格好で恭しくスレイの手を取り、取ったその手を己の額に当てる。
「我、マオクス=アメッカ。従士の契約に従い、その名を以て導師に新たな縁を与えん」
凛とした声で紡がれた誓いが完成するなり、アリーシャの体が仄かに紅い光に包まれる。脈打つようなそれは、アリーシャの触れた部分を伝ってスレイの体に吸い込まれ、徐々に燐光を弱めていった。
「つっ…!」
苦痛を報せる小さな呻きと、アリーシャの細い顎を伝う汗。彼女の持つ槍の穂先を取り巻く炎は、光同様少しずつ弱くなっていく。
従士の真名の力を使って、アリーシャが一時的にスレイの力を底上げ出来る事がわかったのはつい先日のこと。彼女が天族の誰かと縁を繋いでいるだけでスレイの浄化の力は増すが、それでもどうにもならない時は、アリーシャが己の精神力で以て力を増幅しスレイに渡すことで、更に大幅に導師の力を上げることが出来る。勿論、一時だけの効果ではあるし、従士にかかる負担も大きい。
事実、完全に光が消えると同時にアリーシャの膝は砕けた。冷たい石畳の上に倒れ込みそうになって、その上体を駆けつけてきたエドナとライラが支える。
「ス、レイ…」
スレイを呼んだ彼女は、消え入りそうな声で続ける。
「あとは…たの、む」
「任せて。ありがとう、アリーシャ」
アリーシャの力のお陰で、先程まであれだけ重かった体が嘘のようだった。一時的な効果故にここで無理をすれば後が辛い。そうわかっていても、手加減するつもりは欠片もなかった。
「ミクリオ!!」
「いつでもいける!」
応える声に頷いて、スレイは軽く息を吐く。一拍置いて息を吸い、床に倒れたボリスを見据えて渦巻く力を一点に集約させた。