―――何故フォートンを殺した?!
―――何が導師じゃ、天族じゃ!!やっていることはただの人殺しではないか!!
怒りにうち震えた幼い声が、頭の中で木霊する。もうその声は余韻すら残さず消えているはずなのに、まるで鼓膜の内側に貼り付いているかのように、スレイの耳から離れない。
ローランス教会神殿、その前の広場に据えられた噴水の影で、まるで隠れるようにスレイはずるずると座り込んだ。
神殿内はいまだに後処理に走り回る騎士達の声で騒がしい半面、恐らく通路を封鎖されているのだろう、広場には人っ子一人見当たらない。久々の晴れ間にはしゃいでいるのだろう人々の声が届いてはいたが、遠くの喧騒は却って物寂しさを誘っていた。
スレイは脳裏に高く響く声に耳を傾けながら、右手で弄んでいた剣の柄を握りしめる。
いつも使っている刃の無い儀礼剣ではない。フォートンを討つと決めた時に振り上げた短刀である。
「人殺し、か…」
覚悟を決めたつもりでいた。
ボリスや白凰騎士団の騎士達、そしてアリーシャの命を救うためならば、枢機卿の命を奪うことも已む無しと、その重さの全てを背負うつもりで刃を振り上げた筈だった。実際に彼女に刃を突き立てたのはロゼだが、彼女が敢えて己の手を汚すことを選んでいなければ、枢機卿の胸元にはスレイの剣が突き立っていたのだから、そんなことは言い訳にするつもりはない。
それがどうだろう。
言われて当然のことを言われただけなのに、こんなにも胸がざわつく。よるべ無い子供のように不安がって、理不尽な喪失に憤る子供から逃れるように神殿を後にした。
「何が…覚悟…っ」
フォートンが幼い皇帝を政敵の―正確に言えば義母の―手から匿っていたことは今や明白。憑魔と化してまで彼女が守りたかったものは責任にすくむ幼い子供で、彼の未来から曇りを消すために彼女は皇都ペンドラゴに雨を降らせ続けていた。
飢饉が起きれば現在の政権は必ず弱体化する。そこに自分が出ていって民衆を救済することで、権力基盤を磐石なものにする。そしていずれはその強固な地盤を彼に継がせるつもりだったのだ。
圧倒的な民衆の支持を受けた玉座。
それこそが枢機卿の欲していたものだった。
それが正しい手段だとは思わない。多くの民が飢えに喘ぎ、病に倒れる。そんな結果を招く手段を選択した彼女は、為政者としての道を疾うに見失っていた。
彼女は退かねばならなかった。それは確かだったが、死なねばならなかったのかと問われると、スレイに返せる答えはない。
そう、だって本当は―――。
「スレイ」
響いた声に顔を上げる。咄嗟に短刀をしまったのは、後ろ暗い思いの現れだろう。
「気配はするのに姿は見えないと思ったら、こんなところにいたのか」
具足の鳴る音を石畳に響かせながら歩み寄ってきたのはアリーシャだった。まだ顔色は良くないが、それでも足取りはかなりしっかりしていて、その事にほんの少しほっとする。
「ライラ達は…?」
「まだ休んでいる。一人になりたいかとも思ったんだが、スレイは一人にしておくと要らないことばかり考えそうだと思って」
「要らないこと?」
「…全部自分のせいだとか、枢機卿を助ける道はなかったのかとか。そういうどうにもならない類のこと」
言ってアリーシャは言葉を切る。自嘲するように少し笑った。
「私と同じだ」
「アリーシャ…」
右手の槍を握り締める手が何かに耐えるように微かに震えている。
「私がドジを踏まなければ。もっと従者としての能力を使いこなせていれば。こんな時はそんなことばかり考える。昔からそうだった。思う通りになったことの方が少なかったかったから」
でも、と彼女は続ける。
「間違えてはいけない。スレイは間違ったわけじゃない。私が石にならなくても、あの場では騎士達の命、枢機卿の命を天秤にかけるしかなかったんだ。両方は取れなかった。どちらかしか駄目だったんだ」
「でも…!!」
アリーシャの言葉を遮って声を上げる。彼女の言うことは間違っていないとわかってはいたが、それでも抑えられなかった。
「それでも…オレは、助けたかった…!」
殺す選択をしておいて余りにも都合の良い台詞を吐く自分に嫌気がさすが、それでもそれが紛れもないスレイの本音だった。
「スレイ…」
「殺すしか無いなんて、そんなの嫌だ。確かに最終的に殺したのはオレじゃない。でも、殺すと決めたのはオレだ!」
ロゼはきっとスレイが剣を取らなければ殺さなかった。彼女の暗殺稼業は慈善事業ではない。騎士達を助けるために危険な橋を渡る必要はどこにもなかったのに。
―――導師の仕事は生かすこと。
そう言ったロゼの表情をスレイは見ていない。それでも、彼女がスレイの手を汚させないために、自ら血を被る道を選んだことだけはわかった。
自分のせいでロゼの手が汚れてしまった。確かに彼女は暗殺者だが、それがなんだというのか。背負わなくていい重責を一つ、スレイがロゼに背負わせたことに何ら変わりはない。
「導師なんて言ったって、オレは何も…何も出来なかった」
「それはちが…」
「だったら、強くなるしかないね」
スレイの言葉を否定しようとしたアリーシャの言葉を、ロッドが地面を叩く音が打ち消す。その硬質の音と共に響いたのは、今さらどうしたって聞き間違いようがない聞き慣れた声。
「ミクリオ…」
石段の上に立った彼は、ゆっくりした歩調で階段を降りると、スレイの前に仁王立ちになる。物心ついた頃から喧嘩するにも遊ぶにもお互い唯一の存在だったミクリオの視線には、清々しいまでに遠慮がない。
「どんな憑魔も殺さずに済ませたいなら、君が強くなるしかない。どんな憑魔も浄化出来れば、取りたくない選択肢を取る必要はなくなる」
「それは…わかってるけど。でもそんなに簡単に出来ることじゃ…」
「簡単じゃないのは最初からわかってたことじゃないか。なに?それとも君は簡単に人と天族の共存が叶うと思って導師になったのかい?」
「あ…」
ミクリオの言葉にはっとする。
簡単だと思ってたいたわけではない。しかし、真摯な気持ちで立ち向かえば何とかなる、そうなるべきだ、そうせねばならないという意識はどこかにあったかもしれない。
そのスレイの心を見透かしたようなミクリオの言葉は鋭く優しい。
「導師なら救えて当然だなんて思い上がりだ。君が言ったんだろう、奇跡なんかじゃないって。力が足りなくて結果が出ないことだって当然あるさ。君はその度に立ち止まって自分を責めるのかい?その間に出来ることがあるだろう。そのために僕達がいるんじゃないか」
「ミクリオの言う通りだ。それに、出来なかったことだけに拘るのもどうだろう。今回だって何も出来なかったなどということはないと思う」
言いながら彼女が視線で何かを示す。翠の瞳が指す方向を仰ぎ見れば、どこか急ぎ足のセルゲイが神殿の階段を下りてくるのがはっきりと見えた。
セルゲイは石段を降りた先で何かを探すように周囲を見渡し、噴水の影にいるスレイ達に目を止めて、そのままやはり急ぎ足で駆け寄ってきた。
「スレイ殿。ここにいらっしゃったか」
「セルゲイさん…」
セルゲイはどことなく沈んだ様子のスレイを見て、何かを察したようだった。痛ましいものを見る目でスレイを見やり、次いで勢い良く頭を下げる。
「我が主の言動、どうか許して頂きたい。幼いとて聡明な方だ。フォートン枢機卿への想いもあって今はなかなか現実を直視出来ずにいらっしゃるが、それでも心の底では枢機卿の過ちを理解されている風だった」
ローランスの皇帝ライトは僅かに九歳。母とも慕う人間を殺されて、その彼女こそが悪いのだと言われてもなかなか飲み込めるものではあるまい。それこそ幼いライトに非などない。
「無理もないよ。それに、オレが枢機卿を浄化できていれば何も問題なかったんだ。こっちこそ…ごめん。役に立てなくて」
こんな選択しか出来なかった。枢機卿本人にも捧げた、何の意味もない謝罪の言葉。意味などないとわかっているのに、そう言うことしか出来ない自分が悔しく、情けない。
肩を落とすスレイを前にして、セルゲイが困ったように眉を下げた。
「スレイ殿」
呼ぶ声は優しい。
「何を勘違いをされてはいまいか?自分は礼を言いに来たのだ。長く民を苦しめてきた長雨を止めてくれたこと、部下達を救ってくれたこと。本来なら自分達騎士団がやらねばならなかったことを、貴殿達は苦労を厭わずやり遂げてくれた。何故謝る必要があるのだ」
「でも、オレは…」
「アリーシャ殿と部下達を助けるため、一度はその手を汚す決断をされたことは聞いている。しかし、それを恥じる必要はない。枢機卿の意思は強固だった。例え自分達が向き合ったとて、誅殺するしか無かっただろう。こんなお役目に就いているから、そういう場面には何度か出くわしたことがある。絶対に意思を曲げない相手には、時に言葉は無力なこともあるのだ。多数の命を取るために、やむを得ず命を奪ったこともある」
淡々と語るセルゲイをスレイは見上げる。
彼のような人間が、人の命を取ることを何とも思わないわけがない。
それでも彼は武力を以て国の秩序を守る騎士団の長なのだ。当たり前のことに今更気付く。
「どうすれば救えたのか、そう自問したことは数知れない。だからスレイ殿の気持ちもわかる。しかし、すべては過ぎたことなのだ。どう後悔しても死人は帰らない」
「うん…」
「だからスレイ殿。スレイ殿の決断が救った人間を見て欲しい。部下達が泣いて仲間にすがる姿を見ただろう。待ち望んでいた晴れ間に、快哉を叫んだ民衆の声を聞いただろう。あれらは全て、スレイ殿の決断の末にある結果なのだ。…騎士団長として、この国の政の一端を担う人間として、そしてこの国の民の一人として感謝したい」
「そんな…頭を上げて、セルゲイさん。オレは本当に何も…」
「いいや」
深く頭を下げるセルゲイに狼狽したスレイの動きを、セルゲイが制す。
スレイの手を取り、痛いほどの力で握り締める。右手にはまった導師の手袋、それを握る手が微かに震えているのに気付いたスレイは顔を上げた。
「セルゲイさん…?」
「…先ほど、ボリスが目を覚ました」
「本当?!」
「ああ。あの暢気者め。目が覚めた早々に、腹が…腹が、減った、などと…っ」
震える声に隠しきれない嗚咽が混じる。手袋に落ちた水滴の暖かさに、スレイは返す言葉を見失う。
大の男が、騎士団長という立場のある男が、肩を震わせて泣いている。どうしていいかわからなくて狼狽するスレイの手を握りしめながら、セルゲイはなお深く頭を下げた。
「これは、団長としてではなく、セルゲイ・ストレルカ個人としての言葉だ。弟を…ボリスを助けてくれて…ありがとう」
鼻をすすりながらの言葉にスレイは答えなかった。否、答えられなかった。今答えたら泣いてしまいそうだった。
―――良いのだろうか。
胸の内から込み上げるものを噛み締めながら、スレイは思う。
スレイにもっと力があれば、フォートンの穢れも浄化できたかもしれない。それが叶わないために殺さざるを得なかった。スレイの無力がフォートンを殺したというのに。
―――それなのに、セルゲイのたった一言でこんなにも肩が軽くなる。
「スレイ」
込み上げるものを必死で堪えるスレイの肩をアリーシャが叩く。
「確かに責任ある者は己の行動を振り返り、過ちを正すことも忘れてはならない。しかし、悔いを噛み締めるばかりで成し得たことを見ないままでは、必ず道を見失ってしまう。万人が満足する選択など誰にも出来ないんだ。批判を真正面から受け止める姿勢は君の長所だが、それだけでは片手落ちだ。それは救われた人々の心を些末なものと切り捨てるのと同義。君は君の選択に救われた人々の声を聞く義務があると私は思う」
「別にお金を受け取れとかそういう話じゃないんだ。もっと単純に考えれば良いんだよ。まったく君ときたら、人を助ける時は少しも躊躇しないくせに。せめて半分の時間でも良いから、飛び出す前にも悩んでくれないか?」
「はは…」
ミクリオが息をつきながら苦笑し、それを受けてアリーシャも微かに笑う。日頃の行いが行いだからそれはぐうの音も出ない正論で、スレイは風向きが怪しくなってきた話題を笑ってかわす。
そうしながら、スレイは今だ頭を下げたままのセルゲイに再び向き直る。
「頭を上げて、セルゲイさん」
涙を見せないようにだろう、袖で乱暴に目元を拭ってからスレイの言葉に従ったセルゲイは、まじまじとスレイの顔を見て喜ばしいものを見たように表情を緩める。
「…良い朋友を持たれた」
「うん。オレもそう思う。…正直後悔が無いとは言えないけど…それでもセルゲイさんがそうやって言ってくれて、オレのやったことは全部間違ってたわけじゃないってことはわかった。だから、その気持ちは受けとるよ。…ありがとう」
セルゲイはこのためにわざわざスレイを探しに来てくれたのだ。事後処理で目が回るほど忙しいはずなのに。
スレイの気持ちを悟ってか、セルゲイは一つ頷いて笑う。
「なに、恩人に礼も言えぬとなればローランス騎士の恥。部下と家族の命、国の危機まで救ってもらって知らんぷりでは民草に示しがつかぬ」
「でも、それはオレの一人の力じゃ…」
「承知している。それもあってここまで赴いたのだ。特に我が弟が助かったのは、ここにおられるお三方全員の助力あってこそ。姿が見えないので探していたら、ここにいるだろうと聞いてな」
「え?」
セルゲイの言葉に驚いたのはスレイだけではない。後ろの二人も彼の言う意味を悟って目を見開いている。
お三方、確かにセルゲイはそう言った。スレイもアリーシャも、セルゲイが姿を見せてから明確にミクリオの名を出していないにも関わらず。
そもそもスレイはここに来ることを誰にも告げてこなかった。人間の兵士達にスレイの場所を知る者はいない。いるとするなら―――
「オレがここにいるって…誰に聞いたの?」
答えはわかっていたが、それでも信じられなかった。
思わず上擦るスレイの問いに、セルゲイはあっさりと彼女の名を告げる。
「ライラ殿だ。なんでも契約のおかげて離れていても居場所が知れるのだろう?ミクリオ殿とアリーシャ殿もここだとエドナ殿も仰っていたから、急ぎ参上した次第。一刻も早く弟が目を覚ましたことを伝えて礼を言いたかったのでな」
言ってセルゲイはスレイの後ろに目を向ける。向き直った彼の視線は、確かにアリーシャとミクリオ、双方を捉えていた。
「お二方とも、本当に感謝する。こんな時に個人的なことを言うのも不謹慎かも知れぬが、あれとはずっと支え合ってきた。両親に早くに死なれた自分にとって、唯一の家族なのだ」
再び深く一礼するセルゲイの姿を、スレイはただただ呆然と眺めていた。
アリーシャの一件で、それまで天族を見ることが出来なかった者が、それを可能にする方法があることは知っていた。しかし、それには今まで人生の中で培ってきた常識を捨てねばならない。人間の社会で生きる者にとってそれがどんなに困難であるのか、スレイは今までの旅で知っていた。
人は理解を超えた存在を受け入れることを拒む。戦場で導師の能力を目の当たりにした木立の傭兵団は、だからスレイを化け物と呼んだのだ。
「どう、して…」
決して問うたわけではなかったスレイの呟きに、それでもセルゲイは律儀に応える。
「自分にもわからん。しかし、ボリスのために力を振るおうとしたスレイ殿とミクリオ殿を見ていたら、急にミクリオ殿の姿が浮かび上がってきたのだ」
そこまで言って、セルゲイはふと何かに気付いたようにああ、と言って顔を上げた。
「こんなことを言っては不遜かもしれぬが、似ているな、と思ったのだ」
「似ている?誰に?」
尋ねたのはミクリオだったが、最早セルゲイがその声を聞き逃すことはない。
「自分とボリスに。先ほども言ったが、自分達が成人する前に両親は他界した。既に見習いとして騎士団に入団していたから食うに困ることはなかったが、心細かったのは事実だ。だから何かある度に、互いに励まし合って色々なことを越えてきた。今でも困難な任務に当たる前には、二人で檄を飛ばし合うこともある。もっとも、自分達が合わせるのは拳ではなく剣だが」
中空に拳を打ち合わせるスレイの顔があまりにも無邪気で、拳を受け止めるのはよほど心許せる相手なのだろうと思った。同時にこの導師がこんなにも幼かったことに今更ながら気付いたのだとセルゲイは言った。
異能の剣を振るう奇跡の英雄。いつの間にか心中に描いていたイメージは、導師に救いを求める者の勝手な願望でしかなかった。
実際スレイは困難を前に怯んだりはしなかったが、それは彼が伝説の英雄だからではない。心許せる友が傍で支えてくれているからなのだ。
「自分と何ら変わらない、同じなのだと思った。ならばきっとスレイ殿と拳を突き合わせている相手は、スレイ殿と同じ顔で笑っているのだろうと、そんなことを考えた瞬間に、まるでガラスに色がついていくようにミクリオ殿の姿が現れたのだ」
ミクリオが現れ、そこにアリーシャが加わった。セルゲイの目の前で繰り広げられたのは、伝説のような奇跡ではなかった。若い彼等ががむしゃらに一人の男を救おうと必死で足掻き、力を尽くした、その事実があっただけだ。
伝説はやはり伝説なのだ。導師は確かにいた。しかし伝説が語るような奇跡の英雄などではなかった。
「スレイ殿」
セルゲイが呼ぶ声が遠い。夢の中にいるように、現実感が希薄だった。
「スレイ殿。きっと明日からの自分の人生は、今までとはまるで違うものになるだろう。今まで知り得なかった世界の真実と向き合いながら生きていくのは難しかろうと思う。しかし、知らぬ方が良かったとは思わない」
呆けたように見上げるスレイを真っ直ぐ見据えて、セルゲイは微笑む。
「ありがとう、スレイ殿。貴殿の姿が自分をここまで導いた。貴殿が無力だなどということは決して無い。そもそもいくら天族の力を借りようとも、貴殿一人で世界を丸ごと引き受けるのは不可能だろう。伝承通り導師が世界を救うのだとしたら、それはきっと民衆が世界の理を知り、受け入れた結果なのではないだろうか」
「セルゲイさん…」
目の前の霧が晴れたようだった。
スレイはセルゲイの顔を見上げて、胸の内に湧いた衝撃を噛み締める。
―――導師とは何のためにいるのか。
穢れを浄化し、災禍の顕主を倒せば本当に世界は救えるのか。絶望に嘆く人々はいなくなるのか。
それはずっとスレイが心の中で持ち続けていた疑問だった。災禍の顕主がいなければ人々が穢れなくなるのならば、そもそも災禍の顕主が生まれる道理がない。ならばただ災禍の顕主を除くだけでは、世界は救われないのではないか。
そのスレイの迷いに、図らずも先ほどまで天族も穢れも感知できなかったセルゲイが答えをくれるとは。
胸にしまった短剣を服の上から握りしめる。触れた固い感触は、否が応でもそれを振り上げた瞬間を思い起こさせたが、その短剣の下には歓喜に高鳴る心臓がある。
悔やむ気持ちも喜ぶ心も、どちらも決して嘘ではない。人間はそもそもそういう生き物なのだ。
「セルゲイさん。ありがとう。セルゲイさんのお陰で、何か大切なものが掴めた気がする」
導師は人と天族を繋ぐ者。しかし自身は人以外の何者でもない。否、人に語りかけ、訴える存在だからこそ、導師は誰よりも人として生きなくてはいけないのだ。
セルゲイはスレイの言葉に頷いて応え、少しでも役に立てて嬉しいと、彼らしい飾らない言葉を返してくる。
「貴殿ならば自分などが何か言わなくとも自分で答えが見つかっただろうが。しかしスレイ殿は少々己を責めすぎるきらいがありそうだったのでな。年長者故の節介程度に思って欲しい」
ついでに、とセルゲイは言葉を続ける。
「あんなに力を使った後だ。静かに休む場所が必要だろう。雨が上がって町はお祭り騒ぎだ。今夜は是非我が屋敷を使っていただきたい」
家人に用意させる、今夜はご馳走だ。
そう言ってスレイの返事もろくろく聞かず、セルゲイは再び神殿に戻っていった。枢機卿が殺害され、皇帝の身柄が戻った。本来ならばスレイ達にかまけている暇などないほど忙しい立場であるのだから当然の話だ。
しかし、去っていくセルゲイの後ろ姿に疲労の色は見られない。寧ろ颯爽とした足取りは、彼の抱いた喜びのせいだろうか。
「アリーシャ、ミクリオ」
彼の後ろ姿を目に焼き付けながら、スレイはすぐ側にいる友達の名を呼ぶ。
「オレ、強くなるよ。試練を越えて、秘力を手にして…どんな憑魔も浄化出来るようになってみせる。フォートン枢機卿みたいな犠牲をもう出さなくて良いように、セルゲイさんみたいな人の心に少しでも何か残せるように」
どんな壁にぶち当たっても、手を伸ばすことはやめない。最後の最後まで諦めない。そうすれば誰かに届くものがきっとある。
災禍の顕主を倒すだけではない、世界の穢れを祓うだけでもない。絶望に喘ぎ、穢れに飲み込まれそうな人々に寄り添い、手を取ること。そのために全力を尽くすことこそ導師の使命であり、スレイの夢への近道なのだ。
「手伝うよ、勿論」
「私もお供させてくれ」
既に日は傾き始め、足元の影が伸びている。その影に、格好の違う影が二人分寄り添う姿を見れば、自然と勇気が湧いてくる。
影の数は三つ。しかし多ければ多いほど、湧き出る勇気は大きくなるのは道理だ。
アリーシャの隣に一つ、ミクリオの隣にもう一つ。
スレイは四つ、五つと並んでいく影を目で追って、影の足元から地上に視線を移す。
「みんな…」
「青春してるねぇ、青少年?」
「どうでもいいけど、こういうのは全員揃ってる時にやってもらえないかしら?」
ミクリオの隣にはいつも通り腹の内が読めない笑みを浮かべたザビーダ、彼の反対側に憮然とした表情のエドナ。そしてザビーダの隣に立ったライラが一歩踏み出し、真剣な表情でスレイに向き合う。
「スレイさんの決めた道を進むために力を尽くすのが私の役目です。だからどうか、今日のことを忘れないでいてください」
「ライラ…」
どこかすがるような視線、言い募る言葉はまるで何かに祈るかのような響きを持つ。
「強くなると、そうなりたいと願った理由を忘れないで下さい。この先どんな困難が待ち受けていても、それさえ忘れなければ、きっと希望は拓けます。スレイさんなら」
ライラの過去に何があったのかスレイは知らないが、何も尋ねることなく頷いた。過去を話せない彼女を安心させる方法はきっと、自分が迷わず前を向くことだと、何となくだがそんな気がしたからだ。
「とりあえず、今日はセルゲイさんの家にお世話になろう。明日になったら、次の試練の遺跡を探しに行くよ」
スレイの言葉にアリーシャがやや緊張した面持ちで頷いた。ディンタジェルで見た遺跡の場所に関しては彼女にも伝えている。次なる試練の遺跡は彼女の故郷、ハイランド領にあるはずだった。
大丈夫か、とは問わない。それはアリーシャの覚悟に対する侮辱だ。
だからスレイはアリーシャに頷きで応えて、広場を抜ける通路へと歩き出す。
歓声に沸く町は、久方ぶりの夕日で赤く染まっていた。