頬に冷たい何かが触れたのを感じて瞼を開ける。最初に飛び込んできたのは、ドラゴンを象った例の装飾と濁った灯りが灯った燭台で、大して明るくも無い筈なのに目が焼かれそうほど眩く感じた。
どうやら洞窟内の湧水か結露が天井から滴り落ちてきたらしい、と見当をつけたエドナは周囲の様子を窺った。
隣では道具袋を枕にスレイが眠っていて、そこここに仲間達が座り込んで休んでいるのが見えた。見張りなのだろう、ザビーダだけが柱の残骸の一つに腰掛けて、鋭い目付きで周囲を見渡している。
エドナは立ち上がって歩き出す。とにかく状況を確認しなければならない。壊れた柱の前を通ると、その影に槍を抱くようにしたアリーシャが眠っていた。彼女の足や腕に明らかに戦闘の跡らしき傷を認めたエドナは、眉をしかめて歩み寄ったザビーダに問う。
「何があったの?」
「ようやくお目覚めか、エドナ姫」
「ワタシは何があったかって聞いてるんだけど?」
見ればザビーダの様子もどこか草臥れている。頬には浅い切り傷がついているし、銃を弄ぶ右手にも擦れたような傷が見えた。
間違いない、この場で戦闘があったのだ。
確信したエドナがキッとザビーダを睨めつけると、彼は観念した風に両手をあげた。
「お前らが倒れた直後、急に憑魔が湧き出したんだよ。とにかくそこらじゅうから出てくるもんだから大変だったぜ?お前さん達は無防備だし、ミク坊が例の結界で防いで、アリーシャちゃんは結界に向かってくる敵を片っ端から潰して…獅子奮迅の戦いぶりってのはああいうのを言うんだろうな」
「罠だったってこと?」
「さあな。これも試練ってやつの一環なのかも知れねえし、罠だったのかもしれん。俺様にはわかんねえな。その答えを知ってるとしたら…エドナ、お前なんじゃねえのか?」
「…そうね。罠じゃなかったわ、多分」
単なる罠ならエドナの記憶を掘り起こすような真似には意味がない。ならばこれは試練とやらの一環なのだろう。こんな茶番劇に付き合ってやらねばならないのは忌々しいが、スレイに手を貸すと約束したのはエドナ自身だ。何よりここで逃げ帰るなど、エドナのプライドが許さない。
「アリーシャちゃんに礼言っとけよー」
これ以上ザビーダに引っ掻き回されるのはごめんだ。背を向けるエドナにザビーダがかける言葉は酷く愉しそうで、にやけた横面を張り飛ばしてやりたくなった。
「礼なんて…」
言ってやるものか。絶対に。
細かい無数の傷跡と、目に見えるそれらよりは明らかに多い出血の跡。恐らく深い傷は天族の誰かが治したか、ミクリオと縁を繋いで自分で治療したのだろう。
眠る横顔についた痛ましい血の跡に唇を噛んで、エドナは小さく呟いた。
「本当、嫌いよ。人間なんて」
全員が起きたのはそれから四半刻経った頃だった。
「エドナ!スレイも、大丈夫だったのか?」
珍しく一番最後になったアリーシャは、携帯食の準備をしているスレイ達を認めて声を上げる。パタパタと小走りに駈けてくる彼女にミクリオが乾燥させて砂糖をまぶした果物を砕いて湯で戻した飲み物を手渡すと、丁寧に礼を言って口をつけた。そうやって飲み物をすする傍ら、配膳の手伝いをしようとするアリーシャをミクリオが制する。
「まったく、君も疲れてるんだから休んでなよ」
「そんなのミクリオだって一緒だろう」
「僕は前線で戦ってたわけじゃないから怪我もない。準備くらいやるさ」
「そんな事言うならこれは没収だな」
そう言いながら干し肉を切り分けるミクリオの手から今度はスレイがナイフを取り上げる。
「オレは守ってもらってただけだからね」
「あら、それはワタシも働けってことかしら」
「いや、ちょっとは働きなよ」
飲み物を啜りながらスレイの言葉を混ぜっ返すエドナにミクリオがぼそりと突っ込む。そのミクリオにエドナが冷たい一瞥をくれて、ミクリオがやれやれ、と言いたげな溜息をつく見慣れた光景。
いつの間にかいつもの調子だ。
アリーシャがほっと安堵の息をついたのも束の間、すぐに向けられる視線の刺々しさに気付いてどきりとする。
「エドナ…?」
足音を立てずに静かに近づいてきたエドナは、座るアリーシャを見下ろした。宝石のような彼女の瞳はまるで本物の石のように無感動で、しかし伝わる空気は酷く不穏なものだった。
「それ…ワタシとスレイを守ろうとしたんですってね」
彼女が指すのはアリーシャの頬に引かれた朱色の線。敵の爪が僅かに掠ったそれごく浅く、疾うに出血も止まっている。それなのにアリーシャの傷を見下ろすエドナの表情はまるで無機物のように硬かった。何も感じていないわけではない。寧ろ感情が沸騰しそうなのを無理やり抑えている、そんな風にアリーシャには見えた。
火を起こしていたライラとザビーダも異変に気付いてゆっくりとこちらの方へと移動してくる。
「エドナ…」
声をかけようとしたのザビーダだ。彼女の兄と友人関係にあったらしいザビーダは、エドナのことも昔から知っているのだというが、この遺跡に入ってから特にエドナにちょっかいをかける回数が増えた。揶揄うわけでは無い。エドナを案じていたのだと、その表情を見て確信する。
しかしエドナがザビーダの声に耳を傾けることはなかった。
「余計なことしないでくれるかしら?」
「エドナ!!アリーシャの援護が無かったら君達は…!」
冷え冷えとした声に負けじと立ち向かったのはミクリオ。肩を掴んだ彼の言葉でが最後の切っ掛けだった。
「うるさい!!わかってるわよ!そんなこと!!」
悲痛と言えるほど切羽詰まった叫びは高い。いつもの彼女ならば決して見せない動揺に、 シン、と周囲が水を打ったように静かになる。
はっとしたエドナは、まるで叩かれた子供のように無防備な驚きの表情を晒したままアリーシャを見ている。
―――ああ、違う。
彼女の表情を見て、アリーシャは悟る。
エドナがこの神殿に来てからずっとアリーシャに向けていたのは敵意などではなかった。
怒りでもない、勿論憎しみでもない。ただ彼女は怖れていたのだ。この試練で仲間内でも一番非力なアリーシャの身に害が及びはしないかと、ずっと。
「エドナ…」
「何…?」
「確かに私は天族の皆と比べたら非力だし、スレイのように自由に貸してもらった力も使えない。でも、それでも私は騎士だ」
傍らに置いた槍に手をやって、その柄に手を触れる。
扱うのに熟練の技が要ると言われる槍を武器に選んだのは、男性と比べて足りないリーチとりょりょくを補うためだ。この槍の届く範囲には一歩たりとも敵を入れない。必ず背後にある大事なものを守って見せる。そのためならばと、マルトランに師事したその日から必死に修行を積んできた。
「私の槍は守るための槍。この槍が折れれば私の後ろにある物も失われる。だから私の後ろに守るべきものがある限り、私は負けない」
盾は割れれば何も守れない。自身を守れる力があって初めて自分の仕事を成し遂げることが出来る。
エドナから見れば生まれたても同然なアリーシャの言葉にどれ程説得力があるかはわからない。それでも自分の持てる精一杯の誠意を込めてエドナの瞳を見つめた。
己の非力は百も承知、しかし今は頼りになる仲間が傍に居る。アリーシャの大事な彼等は、アリーシャが無茶をして命を落とすようなことがあれば、きっと嘆くのだ。嘆いて、悪くも無い己の非力を責めるのだ。
国を守りたい、仲間を守りたい。
矮小な己には過ぎた願いかもしれないが、それがどうしようもない程切実だから、生き残るために全力を尽くそうとそう思える。
どんな屈辱にも耐えて見せよう。どんな試練も越えて見せよう。最期の最後まで足掻いて見せる、手を伸ばし続ける。それでアリーシャの大事なものが、大切な仲間の心が守れるのであれば。
暫時の沈黙。エドナはまるで呆けたような様子でアリーシャを見つめていたが、その視線に耐えかねたかのように視線を逸らす。
「……くせに」
「え?」
ぽつりと呟いたエドナの声は小さすぎて細部が聞き取れない。思わず聞き返したアリーシャには応えず、エドナはアリーシャに背を向ける。まるで怖いものを見た子供のような反応に、アリーシャは何も言う事も出来ず、ただ距離を取るエドナの背を見つめていた。
碌に言葉を発しないまま食事を終えて、一行は探索を再開した。
行けども行けども暗い洞窟。枝分かれした道は狭く、必然的に一列にならざるを得ない。明かりを灯すライラが先頭なのは相変わらずだが、他はその時々で一列になったり二列になったり、隊列を組み替えての前進になる。そんな中でスレイはアリーシャを気遣うように常に傍に寄り添い、ザビーダは的になりやすいライラを警戒して隣に、そしてどういうわけかエドナの隣には先刻からミクリオが張り付いている。
ミクリオはスレイの隣が定位置だ。アリーシャがスレイと行動を共にしていてもそれは変わらず、器用に二人をフォローしながら旅路を歩んできた。基本的に細やかなこの男は、己が先陣気って突っ込むよりも誰かの背中を守るが得意で、その対象は専ら生まれたときからの親友だったのだ。
「スレイについてなくて良いのかしら?」
「君は僕を何だと思ってるんだ?」
「スレイの腰巾着」
わざと気分を害す言葉を選ぶ。
ミクリオがスレイを守るのは、困難な旅路を往かねばならないスレイこそがミクリオの旅の理由だからだ。ミクリオがスレイの傍にいるのは己の目的のためにそれが不可欠だからであり、その意思は出会ったから頃から一貫して変わっていない。最近はスレイのサポートの傍らアリーシャのことも気にかけているのだから、世話焼きもここまでくれば才能だろうと思う。ただ、その世話焼きの鉾先をこちらに向けられるのは迷惑だ。一体幾つ歳が離れていると思っているのか。問うた所でエドナ自身把握していない事柄をミクリオがわかっている訳もないので聞かないが、それでも言いたくはなる。
いつもならキャンキャン吠えて怒る癖に、こんな時は妙に大人しいのも本当に面倒だ。今だって理不尽に貶められたというのに、表情一つ変えやしない。
―――ああ、本当に面倒だ。
エドナの過去の片鱗を見ながら何も問わずにエドナが覚悟を決める瞬間を待っているスレイも、感情を御しきれずに当たり散らすエドナを真っ当に受け入れた上で諭そうとするミクリオも、そしてその理不尽極まりない感情に真正面から応えようとするアリーシャも。
ザビーダのように距離を保ちつつも嫌な時につついてくる輩も面倒だが、逃げることも誤魔化すことも許してくれない子供の純真さはそれ以上に厄介だった。
「…言いたいことがあるなら言ったら?」
「別に無いよ。少なくとも今の君にはね」
「ミボの癖に」
「何とでもどうぞ」
皮肉な物言いの割には、エドナの傍を離れない。
油断なく周囲に気を配るその姿は、かつて片目の視力を失ったスレイの視界を埋めるかのように傍らに居続けた、あの時の姿と重なった。
ミクリオは自ら突っ込むよりも背中を守ることが得意な男で、他人の弱い部分をごく自然に支えるのが特技と言ってもいい。そして今の今までその対象は彼の幼馴染兼親友であったはずなのだが、どうしたことかいつの間にか自分もその対象に含まれるようになっていたらしい。
そこまで思考を進めて、エドナは隣を歩くミクリオ見上げながら考える。
視野は万全、力は五分か年の功分自分の利がある。自分に欠けているものは一体何なのか。彼がエドナは弱者と判ずる理由は何なのか。
―――『貴方達の記憶の中では、貴方達が好いてくれていた私でありたいから』
脳裏に過るのは穏やかな声と、風に揺れる長い髪。
「エドナ…?」
怪訝そうなミクリオの声に顔を上げる。
見れば前を行くスレイ達の背中が先ほどよりも遠い。いつの間にか速度が落ちていたことに気付いて、エドナは舌打ちしたい気分で歩く速度を上げた。
一瞬胸を刺した痛みには気付かない振りをして、エドナは前に歩を進める。待ち受ける試練とやらがどんなものかは知らないが、悪趣味なことだけは間違いないのだから、その内容など想像したくもなかった。