ザビーダが二人を小脇に抱えて交代するのを横目で確認しながら槍を振るう。使い慣れたはずのそれは、疲労の溜まった腕には酷く重いが、体を入れて必死で切っ先を持ち上げる。ザビーダが意識のない二人を守り、ライラがそのを助け、ミクリオは術の行使で疲労困憊。アリーシャが前線を支えなければ、彼らの後退を守る壁が無くなってしまう。
「っ!!」
頬や腕を熱が掠めるが、怯んでいる暇はない。足元の小型憑魔を蹴り飛ばし、脇を抜けようとする四足の憑魔の顔面を石突で強かに殴りつける。そうしながらアリーシャ自身もじりじり後退することを余儀なくされていた。
「くっ」
振るう度に槍の切れ味が落ちていく。数を斬れば切れ味が鈍るのは当然だが、それ以上に槍を支える己の動きが鈍っていることは理解していた。
―――戦い続けてどれだけになる。スレイとエドナは何時目が覚める。
もう長くは保たない。その事実は火を見るより明らかで、焦りがアリーシャの思考の動きを鈍らせる。
今すべきは動けない二人の安全を確保すること。少なくとも四方から囲まれなければ、今守りについているライラかザビーダのどちらか一人は動けるようになる。例えそうなっても現在の状況が続けばいずれはジリ貧だが、時間稼ぎは格段に楽になるだろう。
アリーシャの考えていることは当然ザビーダ達も考えていて、敵をいなしながら彼らの進行方向を確認すると、遮蔽物になりそうな遺構が見えた。恐らくは何らかの儀式に使う祭壇なのだろうが、今まで見てきた設備と比べると格段に荘厳な造りだ。恐らくはここが遺跡の最深部なのだろう。白い柱が林立するこの場所も、元は祭壇に祈りを捧げる人々が集う集会場だったのかもしれない。
そこまで考えて、ふとアリーシャは引っ掛かりを覚えた。何か重要なことを忘れているような気がする。
そう、ここは明らかに遺跡の最深部であり、終点でもある。そして自分達は怯えて逃げる憑魔を追ってきた。遺跡のあちこちを破壊しながら進む憑魔の足取りを追うのは簡単で、相手は偽装工作を施すような知恵のある相手ではなさそうだった。つまり、アリーシャ達の行きつく場所に、かの憑魔はいる筈なのだ。
「…ザビーダ!!!戻って!!」
耳の奥で血の気が引く音がした。
手近な憑魔を斬り飛ばしながら、先頭を行くザビーダの背中を追って全力で駆ける。ぐったりとした二人を抱えたザビーダの走りは、当然アリーシャの全力疾走と比べると速度が遅い。彼が怪訝そうに速度を緩めたこともあり、辛うじて祭壇にザビーダが辿り着く前にザビーダの前に滑り込んだアリーシャは、槍を構えながら大声を上げた。
「ライラ!後ろは頼む!!」
「アリーシャさん?何を…」
彼女の言葉はそれ以上続かなかった。響いた咆哮に掻き消されてしまったのだ。
ミノタウロス。投げ捨てられ、閉じ込められた哀れな鬼子。
今まで巨体を縮めて必死で隠れていたのだろうが、ザビーダが近づいたことで遂に恐怖の堰が切れてしまったらしい。重量級の武器を振り回し、突進してくる半人半獣の憑魔は、完全に恐怖に飲まれて我を忘れてしまっているようだった。ザビーダを庇うように前に出たアリーシャの姿を認めるや、雄叫びを上げながら武器を大きく振りかぶる。
「アリーシャ!!!」
悲鳴のようにミクリオが叫ぶのと、憑魔の武器が振り下ろされたのがほぼ同時。両足を踏ん張って槍を前に構え、何とか一撃を受け止めようとするが、巨体から繰り出される一撃は疲弊したアリーシャが受け止めるには重すぎた。
「アリーシャさん!!堪えて!!」
ライラの声と、ザビーダの早口の詠唱が重なる。しかしどれだけ急ごうとも既にアリーシャには、その一撃をそれまで止められる力はどこにも残っていなかった。
踏ん張りが利かなくなった足が滑る。止め切れなかった憑魔の武器が振り切られ、質量に押されてそのまま体が跳ね飛ばされるのを感じた。無造作ともいえる動きであっさりと宙を舞った体は、受け身を取ることもままならない。背中から石畳に叩きつけられて息が詰まった。
「アリーシャ!!!」
怒号のように叫んだのはザビーダか。しかし首を上げて声の主を確認することは出来なかった。酷く体が重かった。
―――これが最期か。
地響きのような憑魔の足音を間近に聞きながら、アリーシャはぼんやりとそう思う。重い瞼をなんとか上げると、迫りくる憑魔のその後ろ、ぼやりとした輪郭で描かれる視界の隅に、攻撃の余波が届かない場所でスレイと寄り添うように座る金髪の少女が映る。
―――きっと彼女は怒るだろう。
アリーシャが分不相応に無茶をする度に、悲痛な表情を浮かべていた彼女はきっと。人は嫌いだと公言して憚らないエドナがそんな顔をする理由をアリーシャは知らない。しかし、きっと数千年を生きる彼女の長い生のどこかに、彼女の表情に影を落とす何かがあったことは想像に難くない。
激痛に耐えながら上半身を起こし、落とした槍を必死で手繰る。慣れたその感触を手に握り、間近に迫ったいかつい憑魔の武器が振り上げられたのを感じながら、槍に縋って立ち上がる。
脳裏に浮かぶのは、ペンダントを受け取ろうとした時の、エドナの寄る辺ない子供のような表情だった。天族は外見年齢と実際の年齢に大きな開きがある。外見の成長速度も一定ではないようだという話も聞いたことがあった。詳しくは知らないが、今まで聞いた話を統合するとエドナの実年齢は数百、或いは千歳以上であることは確実だろう。その彼女があの時見せた表情は、親の姿が見えないと気付いた時の迷い子のそれのようだった。
―――『どうせ先にいっちゃうくせに』
激昂した彼女がその怒りを抑えた後、諦観を滲ませて呟いた言葉が何だったのか、今ならわかる。
数千年。言葉にするのは簡単でも、実際に背負う重みはいかほどか。
彼女の過去に何があったのかは知らないが、エドナが人間と共にいることに消極的な理由があるのだ。その原因が天族と比べると遥かに短い人間の寿命にあるのなら、アリーシャに出来ることは余りない。どんなに頑張ったところでいつかアリーシャとスレイは年を取り、天族の彼らをおいて死出の旅路に向かうのだから。
「…だが、今じゃ…ないっ」
よろよろと立ち上がり、酷く捻ったらしい右足を引き摺りながら何とか前へと足を踏み出す。これでは到底避けられないだろうが、最後の最後まで足掻くことしか今のアリーシャに出来ることは無い。諦める選択肢だけはあり得なかった。
守るべきもののために強くなれ。
尊敬して止まない師匠はアリーシャにそう教えた。その教えは最早アリーシャの一部だ。
「アリーシャさん!!!」
ライラの悲鳴が響き渡る。現実は無情だ。振り下ろされる武器は確実にアリーシャを捉えている。
せめて急所を外せれば。
アリーシャが尚もその動かない足を叱咤したその時だった。
旋風がアリーシャのすぐ傍を駆け抜けた。堆積した砂塵を舞い上げたそれは、アリーシャに殆ど触れそうになっていた憑魔の武器を弾き飛ばし、更にはその巨体の足をすくって地面に転がした。地震のような震えに耐えられず思わず膝をついたアリーシャは、目の前に立ちはだかる姿に息を飲む。
「…スレイ?」
砂塵の舞い踊る金色の髪。憑魔を押さえつける巨大な籠手。
アリーシャと憑魔の間に割って入ったのは、エドナと神依をしたスレイに相違ない。しかし受ける圧は今までのそれとは明らかに異なっていて、アリーシャは無意識に息を飲んだ。
「守る守るって言っておいて大したザマね。アナタが何をしようと構わないけど、ワタシの前で死なれるのは御免よ。目覚めが悪いったらありゃしない」
「エドナ?!」
口を開いたのはスレイの筈なのに、その声は間違いなくエドナのもの。丁度スレイが少女の声で話しているような塩梅で、受ける違和感は凄まじいが一先ずそれは置いておく。重要なのは、神依中の天族が導師以外の人間に直接声を届けること出来ているという事実だ。
「エドナ、なんだな…?」
「ワタシ以外に誰かいるかしら?」
スレイは倒れてもがいている憑魔に油断なく視線を送っているが、エドナは間違いなくアリーシャを見ている。彼女は声は少し怒っていて、しかし少し前までの悲痛さは和らいでいる。それがスレイとの神依が強まっていることと無関係で無いのはすぐにわかった。
スレイが彼女の何かを変えたのだ。
「やっぱりスレイは凄いな」
槍を杖に立ち上がると、慌てたようにライラが駆け寄ってくる。いつの間にか湧き出ていた憑魔はいなくなっていて、際限なく湧いて出る憑魔の噴出は止まったのだと知れた。
ライラの癒しの光に包まれて、体中に満ちていた重苦しい痛みが薄れていく。
天族の力を持ってすれば、体の傷は簡単に癒せる。しかし長く生きる彼らの、心の傷を癒してくれるものが一体この世界にどれくらいあるのか。
アリーシャは傷を癒すどころかエドナの不安の種になるばかり。騎士として人として、選んだ生き方をただ歩くだけで己の命すら危うくする生き方しかできない。
「…すまない、エドナ。大きなことを言ったくせに、私は弱い。君の言った通りだ。でも、私は私以外には決してなれない」
それが例えエドナの傷を抉るのだとわかっていても、何度だってアリーシャは槍を手に立ち上がる。何度だって敵の前に立ち塞がる。その槍と、大切なものを守るために強くなれという師の教え。それだけが、無力で惨めな自分を誇るための武器なのだ。
「アリーシャさん…」
唇を噛んだアリーシャの肩にライラが白い手を乗せる。彼女はいつだってアリーシャの価値を認め、その力が必要なのだと説いてくれていたが、それでもアリーシャの力がまだまだ微弱なのだ紛れようもない事実だ。
倒れ伏した憑魔を警戒するスレイの表情は伺えない。しかし、エドナがため息をついた気配ははっきりとわかった。思わずアリーシャが肩を竦めるも、エドナの辛辣な言葉は聞こえてこない。代わりに聞こえてきたのは地鳴りのような低い籠もった音だった。
「何だ…?!」
「声、のようですわ」
ライラが言う通り、地鳴りにも似たその音は人の声だった。混然となっていたその低い唸りは、いくらも経たない内に一つ一つがばらばらになり、音としての輪郭を明確にする。それがはっきりとした言葉に聞こえるようになる頃には、響きは高く尖ったものになり、すぐに幾重にも重なった子供の声だとエドナ達が気付くに至る。
――たすけて
――こわいよ
――おなかがへったよ
――のどがかわいたよ。おみずがほしい
――だれか、だれか…パパ、ママ…
――こわいよ、くらいよ
「くそっ、これがこの憑魔の正体か…!」
「この地に捨てられた子供たちの無念、その集合体だったのですね」
ザビーダが怒りとも悲しみともつかない表情で舌打ちし、ライラが痛ましそうに目を閉じる。アリーシャもまた起き上がろうと手足をばたばたさせるその憑魔に視線をやり、その仕草がどことなく拙いことに気が付いた。
否、思い返せば最初からそうだった。エドナの迫力に押し負けて巨体を縮めながら逃げ去り、癇癪を起こしたように柱をなぎ倒して、追いつかれたと知るやパニックに陥ってがむしゃらに襲い掛かってきた。単に知能が低いのではない。彼―と言っていいものかわからないが―の精神が幼かったのだ。
「っ…」
この枯れた大地に根付いたゴドジンの民。一度天災に襲われれば、その年は酷い不作となるだろう。無論、ただ食べるだけの子供を養うだけの余裕はそこには無い。順調に行ったとて食べるだけでかつかつなのだ。体が弱い子供や、不作の年にまだ働けない年齢の子供は容赦なく間引かれる。
昨夜会った少年は言ってはいなかったか。村長がお金を工面して村を豊かにしてくれたおかげで、妹が死なずに済んだのだと。
マシドラがスランジとして変えたかったのはこういう現実だったのだろう。村を生かすために無力な子供太達を地の底に捨てざるを得ない貧しさ。遺跡を開ける手段が失われていたことからして、現代もここが子供を捨てる場所だったわけではないだろうが、この土地が貧しかったのは遥か昔から変わらない。目の前の憑魔は、何十、何百年という間に捨てられ、孤独のうちに飢えと渇きで死んでいった幼い子供たちなのだ。
この悲劇をずっとローランスは許してきた。そしてこの災厄の時代、ハイランドの中でもこういう子供たちはきっといる。
オン、オン、と子供たちの無念の声が洞窟の中に木霊する。巨体を危なっかしくふらふらさせながら立ち上げる憑魔の前には、神依したエドナとスレイ。アリーシャに背を向ける形で立ちはだかる彼らの表情は窺えない。しかし、突き付けられた現実に立ちすくんだアリーシャを叱咤するかのように、彼らは動いた。
「エドナ、スレイ?!」
巨大な籠手を振りかぶり、悲鳴を上げる憑魔を打つ。牛頭人身の憑魔は体を丸めてそれに耐えながら大きく啼いた。それは残酷な現実に与えられた理不尽な仕打ちに打ちのめされる子供の声そのもので。
容赦なく憑魔を打ち据えるエドナ達の後ろ姿を、アリーシャは信じられない思いで眺めた。どんな時でも人への気遣いを忘れないスレイ、そして口では冷たいことを言いながらも、最後まで人を見限ることは決して出来ないエドナ。
孤独に怯える憑魔に向かって籠手を振り上げる彼らを瞳に映しながら、アリーシャは手に持った槍をどうすることも出来ずに、ただ茫然と成り行きを見守っていた。