怒涛の一日が過ぎ去ってようやく眠りについた。それからどれくらい経ったのだろうか。
親友と二人で遺跡探検をしては他愛無い発見に大騒ぎしていたあの頃。平和そのものだった幼い日々を夢で追っていたミクリオは、唐突にわが身を襲った衝撃に目を覚ました。
「起きなさい」
短くそう言うのは旅の仲間である地の天族、エドナ。
彼女が傘を構えていること、自分が床の上にいることから察するに、どうやら彼女に寝ていた長椅子から叩き落とされたらしい。エドナがミクリオに当たりが厳しいのはいつものことだが、流石に理不尽な安眠妨害は無視できない。文句を言おうと口を開いたが、言葉を発する前に鋭い一瞥が彼に「黙れ」と告げてくる。
「あの子がいないわ。槍も無い」
「…アリーシャが?!」
見渡せば、確かにスレイのベッドの脇の椅子に鎮座していた彼女の姿は見当たらない。スレイの様子に変わった様子は無く、今は落ち着いた様子で眠っているが、傍についていたはずのアリーシャもライラも、その姿が見えない。代わりに出入り口近くに立て掛けられていたアリーシャ愛用の槍が無くなっていて、更に見回せば荷物を開いた形跡もある。
寝ぼけた頭が急速に覚醒する。
ミクリオが荷物を手繰り寄せて確認すると、手持ちの薬のいくつかと、携帯食料の類が半分程無くなっている。アリーシャが遠出の準備をして行ったことはまず間違いない。
「ついでにこれね」
脇から差し出された手紙を引っ手繰り、綺麗に畳まれたそれを開けば、アリーシャらしい綺麗な文字で、宿の者に宛ててだろう、スレイの食事の世話をしてくれるよう綴られている。更に文末には自分が数日経っても戻らなければスレイには気にせず旅を続けるように伝えてくれ、と簡潔に書かれていた。その頃にはきっとスレイの容態も回復しているだろうから、と意味深な一文を添えて。
「これは…」
「どうやらあの子、スレイが倒れたのは従士反動のせいだと思ってるみたいね。まあ、あながち間違ってもいないだろうけど」
「でも、大部分は枢機卿の穢れに当てられたせいだってライラが…」
「それだけなら、何であの子の体調に異変が無いの?スレイ以上に力の無いあの子に影響が出てないってことは、スレイがそれを肩代わりしてるから。あんたも本当はわかってる筈よ」
「しかし、それは別にアリーシャのせいじゃ…」
従士反動はアリーシャの意思でもなんでもない。反動が出ることを承知して契約を続行したのはスレイなのだし、ならば負担を甘んじて受けるのは当たり前だとそう二人で話して、出来る限りアリーシャが気に病むことが無いよう、反動の件に関しては隠し通そうと決めた。国を出た彼女には今更帰る場所など無い。スレイの傍にしか居場所の無い彼女に、居心地の悪い思いをさせたくなかったのだ。
「なんで…アリーシャ」
「馬鹿ね」
「何?!」
人を小ばかにするようなエドナの物言いはいつものことだが、今の言葉は殊更冷たい。冷笑を含んだ声には、いつものおふざけでは無く、本気の侮蔑が込められている。
それを感じ取ったミクリオが思わず声を荒げるが、エドナ自身はどこ吹く風、気にした様子は見せなかった。
「だって馬鹿でしょ。二人で頑張って隠し通して、それでいつまで誤魔化せると思ってたの?あの子はあんた達のために誤魔化された振りをしてただけよ。あんた達がか弱い女の子を守ってあげたいって思うのは勝手だけど、あの子がいつまでもそれに付き合う義理は無いわ。わかってるでしょ。あの子の性格」
「それは…」
アリーシャの性格を考えると、自分の無力に甘んじてスレイに負担をかけたままのうのうとしていられるとは思えない。スレイが倒れるような事態になった以上、状況を改善するために動こうとするのは目に見えていた。全ての原因が従士反動――つまり自分にあると考えていれば尚更だ。
「本当、男ってのはいつの時代も馬鹿ばっかり。そんなに女に良い格好してみせたいのかしら」
「別にそういうわけでは…」
否定しかけて口ごもる。
国のために健気に頑張る女の子。スレイとミクリオがはじめて出会った人間で、彼女は故国のために過酷な道を全力でひた走っていた。理不尽に痛めつけられ、傷つけられた彼女に優しくしてあげたいと、そう思ったことは否定出来ない。
イズチにいた天族は外見が同年代に見えても実際はミクリオ達より遥かに年長だったし、何かにつけてスレイやミクリオを子供扱いしてくるから、感覚的には姉のようなもので、飽くまで家族の域は出なかった。対してアリーシャは正真正銘、スレイとミクリオが初めて出会った同年代の異性の少女だ。彼女が頑張っているのだから、自分達も少しばかり良い所を見せたい、少しはそんな欲もあって当然ではないだろうか。
「…まったく無い、とは言えないかもしれないけど…」
「付き合わされる方は良い迷惑よ。でも…」
言ってエドナは言葉を切る。膝をついたままの体勢のミクリオの襟首を突如引っ掴み、ずるずると扉の前まで引きずっていくと、その外見からはとても想像できない膂力でもってミクリオの体を片手で持ち上げ、扉から廊下へと放り出した。
「一回やるって決めたなら、最後までやり通すだけの根性見せなさい。そんな成りでも一応男でしょ」
それはエゴだと切り捨てた口でまったく違うことを言い放ち、ミクリオの目の前でピシャリと扉を閉める。ご丁寧に施錠する音まで聞こえたから、入れる気は更々無いのだろう。もっとも、入る気は端から無い。だから扉の外から、聞き捨てならない言葉に反論だけを投げ返す。
「一応は余計だ!」
アリーシャを探しに行け。
エドナの言葉はわかりにくいが、要約するとそういうことだ。それに異論はまったく無いし、言われなくともアリーシャを危険な目に合わせるつもりはない。スレイは安全な宿にいるし、エドナも傍についている。ライラも遠くには行っていないだろうから、とりあえずもしもの時の守りに不安は無い。
「…スレイを頼む」
「誰に言ってるの?当然でしょ?」
ドア越しに声をかけると、返ってくるのはまるで愛想の無い言葉。その愛想の無さに却って安心してしまうのは、エドナのペースに毒されている証拠だろうか。
「アリーシャは必ず連れて戻ってくるから」
「何言ってるの?それも当然でしょ」
「…そうだね」
相変わらずのエドナの言葉に小さく笑って、同意の言葉を返す。彼女の素っ気無い言葉に背中を押された気がして、ミクリオは足早に夜の街へと歩を進めた。
********
「失礼する!!」
勢いこんで扉を開けると、唐突な乱入者に、酒場にたむろしていた人間の目は残らずアリーシャに集まった。
「なんだぁ?姉ちゃん、酌でもしてくれんのかぁ?」
途端に飛んだ下品な野次は、アリーシャの立っている場所のすぐ脇のテーブル客のものだった。賞金稼ぎでもやっているのだろう、体格の良い武装した中年の男が数人、酔った赤い顔をにやつかせて、アリーシャの体を嘗め回すように眺めている。
「へへ、なかなか別嬪じゃねえか。気がきいてんなぁ、誰が呼んだんだぁ、おい」
「わ、私は酌をするために来たのでは無い!遺跡から石版を見つけた人を探して…きゃ!」
「固いこと言うなってぇ。姉ちゃんも俺らと飲もうぜぇ」
突然横合いから脂ぎった手に腰を引かれて思わずバランスを崩す。流石に槍を持ったまま酒場に入るのは余りに物騒だと、入り口脇に立て掛けてしまったから今のアリーシャには身を守る武器が無い。否、あったところで生身の人間に振るうわけにはいかないから、せめて両手が空いている分マシだったのだろうか。
そんな埒もないことをぐるぐる考えている間にも、右から左から不躾な手が伸びてくる。太腿や腰を無遠慮に撫で回そうとする手を何とか退けようと身を捩じらせるが、酔っ払いには嫌がるその様子すらも余興か何かに見えるのだろう。辞めろ、と声を荒げても、下卑た笑みを深くするだけで、一向に効果が無い。
「姉ちゃん、こっちも酌だぁ!」
「お前らだけずるいぞ、こっちもだ」
酔っ払っているから、腕を掴む手に込めた力に遠慮は無い。アリーシャの二の腕など、無頼漢同然の男達の太い手には一握りで、その歴然とした差に悔しさが募る。本気で技を振るえばきっとこんな酔っ払い一捻りなのに、もしも命に関わる傷でも負わせたら、と思えばそれも出来ない。良い様にされる自分が腹立たしく、品性の欠片も無い男達が憎らしくて仕方なかった。
「嫌だ、触らないで!!」
「冷たいこと言うなよ、おら、その無粋なモンはさっさと脱いじまいな!嬢ちゃんには似合わねえよ!」
ヤニで歯を黄色く汚した男がそんなことを喚きながらアリーシャの鎧に手をかけた、その時だった。
「はい、そこまで」
鞘に入ったままのナイフ。大振りのそれが何の前触れもなく、アリーシャの鎧に手をかけていた男の首元に食い込んでいる。鞘に入ったままとはいえ、命の危機を感じざるを得ない状況に、男の両手はいとも簡単に頭の上へと上げられた。
「いくら可愛いとはいっても、無理やりっていうのは感心しないなぁ。おじさん、酒場は女の子と遊ぶ所じゃなくて、楽しくお酒を飲むところ。だよね?」
そう問う彼女が抜き身のナイフを突きつけているのは、アリーシャの腕をしつこく引いていた男で、男は声も無く頷きながらアリーシャの手を離し、よろめきながら後ずさる。殆ど同時に蜘蛛の子を散らすように周りの人間が引いていき、自然と出来た空隙に佇む人間はアリーシャともう一人、助けてくれた彼女だけになった。
「…ロゼ」
赤に近い茶色の髪に、神業に近い二刀の扱い。彼女の腕はローランスの国境越えを果たすまで何度も目にしたが、未だに見る度に驚きを覚える。
ロゼは鞘をつけたままだった一刀を腰に戻し、抜き身の一刀を鞘に戻して、まるで何事も無かったような朗らかな表情でアリーシャの方へ向き直る。
「こんな時間にこんな場所で何してんの。女の子一人じゃ危ないよ?」
「そういうロゼだって」
「あたしは良いの。今の見てたでしょ?」
ひらひらと手を振って、今は手に無いナイフの存在をアピールする。なるほど、彼女程の腕の持ち主ならばこの程度の無頼漢共に危険を感じることはないだろう。デゼル辺りは心配してガミガミ言いそうだが、それをロゼが気にするとは思えない。
「ありがとう、助かったよ」
「いえいえ。どういたしまして。そんで、本当に何してんの?お姫様がこんな場所で。スレイ達は?」
そう彼女が小首を傾げるのは当然のこと。アリーシャ一人でこんな物騒な所に来るなどと、スレイが元気でいれば許すはずが無い。アリーシャは庇護されて当然の存在だと、そうロゼには認識されているのだろう。
無理からぬことだ。頭ではそうわかっているのに、自然と視線が下を向く。
「スレイは、まだ体調が…」
「ふーん。それもあれ?従士反動ってやつ?」
「ロゼ」
何気ないロゼの言葉を咎めるように姿を現したのはデゼルだった。ぶっきらぼうな物言いの反面、彼は優しい。事実を包み隠さないロゼの率直さが、アリーシャを傷つけるだろうと気を遣って出てきてくれたのだろう。
アリーシャは感謝の気持ちを込めて彼に一礼し、しかし構わないのだと首を振ってみせた。
「良いんです、デゼル様。その通りですから。…私のせいでスレイは今苦しんでいる。それを何とかしたくて。夕方、ここに従士の秘儀について書かれた石盤を持っている人がいると聞いてここへ」
「ふんふん。なるほど、従士としてパワーアップ出来ればスレイの負担も軽くなるかも、と。まあそういうこと?」
「ええ」
無謀だと笑われるか、それとも無茶だと怒られるか。思わず身構えていたアリーシャだったが、しかし予想に反してロゼの反応は実に軽かった。
彼女はふんふん、と頭の中で事情を整理するように何度か頷くと、ぽん、と手を叩いてアリーシャに言った。
「わかった、石版ね。確かのその辺の若いのがそんな話してたから、ちょっと捕まえてきてあげるよ。それでいい?」
「ロゼ!!」
酒場の一角を指差してそう言うロゼに、焦った様子を見せたのはデゼルだった。今にも若者がたむろす席に突進しそうなロゼの襟首を引っ掴み、苦虫を噛み潰したような表情で苦言を呈す。
「良いのか。情報を与えれば、この姫さん一人で行っちまうぞ?」
「別に良いんじゃない?行きたいなら行かせてあげれば。いつまで経っても足手まといっていうのもキツイだろうし、やれることはやらせてあげた方が良いっしょ」
「またお前はそういう言い方を…」
「だって本当のことでしょ?ねえ?」
「へ?え、ええ…」
唐突に水を向けられて、返す言葉に詰まってどもる。ロゼの言葉はどれも直球で、真っ直ぐにアリーシャの痛い所を突いてきてはいたものの、言った本人がけろりとしているものだから、不思議と嫌な感じはしない。寧ろ今まで誰もがアリーシャを気遣って言わなかったことを、直裁に言葉にしてくれたことで、どこか救われたような気さえする。
「ロゼの言う通りです。このままズルズル足手まといになるくらいなら、ここでスレイ達と別れた方がマシです。私は彼の役に立ちたくてここにいる。私の無力が彼を傷つけるのはもう…嫌なんです。だからデゼル様、どうかここは目を瞑って頂けませんか?」
「デゼル」
アリーシャとロゼ、双方から見据えられて、さしものデゼルも少々怯んだ様子だった。彼がアウトローな外見に反して面倒見の良い兄貴気質だということは知っているし、その彼の性格を考えるとこのままアリーシャの無謀な行動を見過ごすことは良心が咎めるだろうことも何となくわかる。彼に心苦しい思いをさせるのは気が引けるが、それでもアリーシャはここで引き下がる訳にはいかないのだ。
「お願いします、デゼル様。例え何があっても恨み言は決して言いません。ですからどうか…!」
「…わかった。というより、俺が許可を出すような問題じゃない。ロゼが手を貸したいっていうなら、それはコイツの勝手だ」
だから俺は知らない。
その一言を残し、彼は緑の光になってロゼの体に戻っていく。このままアリーシャに何かあれば、きっと彼は今ここでアリーシャを止めなかったことを悔いるだろうに、それでもアリーシャの意思を尊重してくれたのだ。
「ありがとうございます、デゼル様。…それにロゼも」
「あたし?止してよ、大したことしてないんだから。っていうかまだ石版の話聞いてきてないしね」
ちょっと行ってくる、とロゼはまるでアリーシャの礼から逃げるように、柄の悪い若者がたむろすテーブルに突進していく。よく見れば、若者連中の中には先程の騒動の際に囃し立てていた顔が幾つかあって、ロゼが近づいただけで明らかに年若い彼らの腰は引けていた。
「ねえ、遺跡から出てきた石版持ってるって言ってたの、あんたらだよね?」
「ひ、ヒィ!」
「悪いんだけどさ、ちょっと話を…」
「お、オレ達は何も知らない!!入り口で変な爺さんにもらっただけだ!持ってたら良いことがあるって!石版も何が書いてあるのかは知らねえ!!」
欲しいならやる、そう言って彼らは荷物を引っ掻き回し、大人の手を三つ連ねた程度の大きさの石版を取り出した。厚みは少し厚い本程度。丁度辞典くらいの大きさである。それをロゼに押し付け、自分達が出会った老人に教えられたであろうことだけを口早に伝えて、彼らは逃げるように酒場を去っていった。
「変な爺さん、ねえ…」
心当たりがあるのだろう。意味有りげに呟きながら、ロゼは渡された石版をランプの灯にかざす。
ロゼの肩越しにそれを覗きこみ、アリーシャが刻まれた文字に目をやると、やはりと言うべきか、そこにあったのは旅の間にすっかり馴染みになった文字だった。
「…古代語だ」
天遺見聞録の原書で綴られた文字。スレイとミクリオがこよなく愛し、旅の間に遭遇する度に目を輝かせていた古代の言語。
「アリーシャ姫、読めるの?」
「天遺見聞録の原書が読みたくて勉強はしたけれど…スレイやミクリオ様のようにはとても…」
「少しだけでも凄いよ。まああの二人は…ちょっと異常だしねえ。あたしには何喋ってるのかさっぱりわかんないよ。まさしくさぱらん、って感じ」
「威張ることじゃないだろう」
胸を張るロゼの姿が可笑しくて少し笑う。そこでようやく、アリーシャは自分が随分緊張していたことに気がついた。
槍を握る手に、張った肩に、いつの間にこんなに力を込めていたのだろう。いざ力を抜いてみると、まるで反動のように手が震える。それを誤魔化すようにぐっと握り締めて、アリーシャは己の臆病を内心で哂った。
スレイ達と出会っていくらも経っていない。それなのに、独りで何かをするのが随分と久々のことに思えてならなかった。独りは怖い。支えてくれる者の無い恐怖、孤独の痛みをアリーシャは嫌というほど知っている。
『従者は試練を越え、秘儀を修めよ』
細部はかなり怪しかったものの、どうやらこれが若者達が老人に聞いた石版の内容であるらしかった。
試練とはどんなものだろう。果たしてアリーシャ程度の霊応力で何とかできるものなのか。出来たとして、本当にスレイの視力が戻るのか。何もかも未知数で、しかし危険であることだけははっきりしている。そしてその危険の中、隣で戦ってくれる人はいないのだ。
―――それでも、アリーシャはやらなければならない。否、自分のためにやると決めたのだ。
スレイの隣で顔を上げ、心置きなく笑っていられるように。苦難の道を歩む、支えの一つとなれるよう。
そのためならば、どんな危険を冒しても、アリーシャは力を求めよう。手を伸ばすことは決して辞めない。それだけが、弱い自分に許された最後の足掻きなのだから。
まずはガフェリス遺跡へ。石版が出たというその地は、必ず試練と何らかの関係がある筈だ。
酒場を出たアリーシャは、夜の市街を歩きながら、隣を歩くロゼにもう一度頭を下げた。
「本当にありがとう、ロゼ。助かったよ」
「別に大したことはしてないから良いんだけど。何、これから一人で行く気?」
「ああ、そのつもりだ」
「ふーん。ガフェリスっていったら、ペンドラゴの近くでしょ。歩いていったんじゃそこそこかかるし…」
ロゼはぶつぶつ独り言を言いながら何やら考える風にしていたが、突然何かを思いついたような顔をして、アリーシャの手を掴む。
「こっち」
「へ?」
とにかく引かれるがままに市街を走り、町の門に近い位置で止まると、ロゼはそこで何度か口笛を吹く。何事かとアリーシャは周囲を見回したが、特に変わった様子は無い。一体何なのだ、とロゼに聞こうとした瞬間、背後から突然声が湧いて出た。
「何時間待たせる気?これじゃあフィルも待ちくたびれてるだろうし、しかも今時分出発したんじゃ却って目立つよ。それにこの子、どうする気?」
「えっ?!」
振り返れば、すぐ顔が触れそうな位置に男が一人立っている。白いキャスケット帽を斜に被った童顔の青年。間違いなく今朝方馬車を御してくれた男だが、息の音さえ聞こえそうな場所に立っているというのに、気配の一つも感じなかった。姫として育てられたとはいえ、アリーシャも一応は武人。他者の気配を読むことに関しては長けているというのに。
硬直するアリーシャに対して、ロゼは驚いた様子も無い。そもそも合図を出したのはロゼなのだから、彼の出現は予測の範疇だったのだろう。ロゼに技量は知っているが、この青年も只者ではない。彼らが集うセキレイの羽というギルドは一体どんな組織なのか。それを考えるとそら恐ろしい気分になる。
アリーシャの驚きを他所に、気心の知れた仲間の間で交わされる会話はひたすら暢気だ。
「ごっめーん、トル。予定変更。フィルは別便でエギーユに拾ってもらうから」
「俺らはどうすんの?」
「ちょっとアリーシャ姫に馬貸すからさ。二、三日逗留。良いでしょ?別に仕事立て込んでるわけでもないし」
「は?」
予想外のロゼの言葉に、アリーシャとトルの声が見事にぴったり重なった。今ばかりはロゼよりもアリーシャの方がトルの心情を理解できるだろう。
馬を貸してくれなどと一言も言った覚えは無い。確かに足があるのはありがたいが、隊商にとっても馬は命の次に大事なものだ。無事に帰れるかどうかもわからない旅路に、そんな大事なものを貸してもらえるわけがないし、いきなりそんな提案を聞かされたトルにとっては、まさしく寝耳に水だろう。殆ど見も知らずの人間に大事な馬車馬を貸すというのだから、いくら頭領の言うことであろうと簡単に頷けないのは当然だ。
「ロ、ロゼ?!そんなにしてもらうわけにはいかない!ロゼにもトル殿にも、十分お世話になった。だからもう、これ以上は…!」
「…ま、しょうがないね。頭領が決めたならそれで良いよ」
「トル殿?!」
一度は驚いて声を上げたものの、あっさりとロゼの提案を呑んでみせたトルに、アリーシャは驚きを隠せなかった。
頭領とはいえロゼはまだ若い。トルといくらも年齢は変わらないように見えるし、腕だってアリーシャが見る限りそうロゼに劣ったものでは無いだろう。仲間同士仲の良い、気の置けない関係にも見えた。少なくとも、頭領相手ならば理不尽も飲み込まねばならないような環境にはとても見えない。にも関わらず、説明も何も無い一種乱暴なロゼの案をあっさりと受け入れるのは何故だ。
驚くほどあっさりロゼの意見を肯定したトルは、素早い身のこなしで一旦暗がりに消え、すぐに黒い馬の手綱を引いて戻ってくる。確かに今朝ロゼ達の馬車を引いていた馬のうちの一頭である。黒い毛並みに黒い鬣、額に一つ星のような模様のある綺麗な牝馬だった。
「急いでるのはわかるけど、なるべく優しく乗ってやって」
トルの言葉に頷いて手綱を受け取る。大きくは無いが、足も腰もしっかりしている。見ている限り性格もおとなしい、良い馬だ。市に出せば高値がつくだろう。
「こんな…大事なものを…何で…?」
ロゼとの付き合いはスレイ以上に短い。しかも大抵はアリーシャが世話になってばかりで、アリーシャが何か彼らにしたことなど殆ど無いのに。
アリーシャの問いに、ロゼは笑う。
「んー、まあ、お詫びかな。あと、アリーシャ姫って何かもう一生懸命だからさ」
「お詫びされるようなことは何も…。それに一生懸命って、それだけ…?」
「お詫び云々はまあ、こっちの話。気にしないで。…一生懸命ってか、必死かな。ごんなご時勢だしさ。生きてる人間ってまあ大概どっか一生懸命な部分ってあるんだけど、アリーシャ姫の場合はさ、なんかこう、違うんだよね」
「違う…?」
うん、と軽く頷いて、ロゼはふと星の輝く夜空に視線を転じた。遠くを見る彼女の横顔に、いつものあっけらかんとした明るさは無い。
寂しい、悲しい、苦しい、そのどれでも無くてどれでもあるような表情。一体何をどれだけ抱えたらこんな表情になるのか、アリーシャには到底想像もつかない。
その青い瞳に映っているのは何なのだろう。少なくとも単に夜空を見上げているだけではあるまい。胸の内に秘めた何かを思い起こしている、そんな風に見えた。
「なんかこうさ、猪突猛進っていうの?自分が生き延びたい、とかじゃなくてさ。守るべき何かのためにこうありたいっていうのが凄く見えるんだよね。痛いくらい」
心なしか、ロゼの横顔を見守るトルの表情が切ないような気がした。
もしかしたら彼らの間にあるのは、同じギルドに所属しているという程度の絆では無いのかもしれない。先程の、アリーシャからしてみれば不可解な成り行きも、彼らの間に特殊な関係性があるならばまだ納得できる。セキレイの羽全体がそうなのか、それともこのトルという青年だけがそうなのかはわからないけれど、それでも彼らの間にある繋がりはギルドの仲間の一言で説明出来ない何かであるような気がした。
トルの視線に気付いているのかいないのか、彼には視線を向けないまま、アリーシャに向き直ってロゼは問う。
「なんか、放っておけないんだよね。これはあたしのお節介だからさ、嫌だったら勿論断ってもらってもいいけど?」
「いや」
ロゼの言葉に、躊躇無く首を振る。
ここで彼女の善意を拒否してはならない。そんな気がしてならなかった。
「ありがとう、ロゼ。好意は有難く頂戴するよ。馬は必ず返しに来る」
「あいよ、待ってる」
頷くロゼにもう一度頭を下げる。同じくロゼの後ろで佇むトルにも頭を下げて、アリーシャは鞍の置かれた馬に跨った。
乗馬の訓練は勿論受けている。腹に軽く一蹴り入れるだけで滑らかに走り出す馬の首を褒めるように叩いて、アリーシャはラストンベルの門から凱旋草海へと乗り出した。
「随分と辛気臭い顔してるな」
「デゼル煩い」
深夜。どちらかというともう早朝に近い時刻だが、朝日が昇るにはまだ遠い。
ロゼは町の土手に腰を下ろし、夜空に瞬く星を見上げていた。
星を見るのが好きなわけでは別に無い。ロゼにとって星は時刻と方角を教えてくれればそれで用が足りる程度のもので、だから星を見上げた所で星座の名前もまつわる恋物語も特に浮かんでは来ない。
ロゼにとって夜は大抵仕事の時間で、だから星は馴染みが深い。それ以上でもそれ以下でもないのだけれど、確かに今日はやけにしんみりした気分で、暗い空に瞬くそれらを眺めていたことは否定出来ない。
緑の光が隣で瞬く。
姿を現したデゼルにそっぽを向いて、ロゼはあぐらを組んだ膝の上に頬杖をついた。
「行儀が悪い」
「オカンか!」
思わず突っ込んだところでアホらしくなる。どう足掻いたところで、契約している以上この男がロゼから離れることは無いのだから、一人でセンチメンタルな自分に浸っていても格好がつかない。
「あーもう、やめやめ!あたしらしくない!」
「…確かに、お前らしくは無いな」
「あんたとあたしが始めて会ったのはつい数週間前だと思うんですけどー?」
「そういえばそうだったな」
「あーもう、何なの、その態度!」
どうやらロゼに対して腹に一物抱えているらしいこの男だが、何を隠しているかは絶対に言わない。気持ち悪くて仕方が無いが、喋らないと決めたら梃子でも喋らない性質の男なのだ。どう足掻いたところで仕方ない。仕方ないが、何かを知っている風な態度が妙に鼻につくから、それがどうにも煩わしかった。
「…時々、正直すっごく嫌いだと思うこともあるんだよね」
「アリーシャのことか?」
「うん。でも嫌味言ってもへこたれないし、そもそもあんな馬鹿みたいに悲劇的な状況でもやっぱり必死だし。結局なーんか手を出さずにはいられないんだよねー。何でかなー?」
彼女の身の上を詳しく知れば知るほど、悲劇の姫君という言葉がこれほど似合う人間もいないと思う。両親には早くに死なれ、師以外の人間には見向きもされず、権力の外から故郷のために必死に尽くすも、力が無いがゆえにその努力は全て踏みにじられる。挙句の果てに、権力に肥え太った輩に暗殺者まで雇われ、それでもその豚に縋らずには国を治めるのもままならない。
権力の構図がひっくり返ることはそうそう無い。あの男はとんでもないろくでなしだったが、強大な抑えが無くなれば下の連中が好き勝手し出すだけ。結局事態は悪くなりこそすれ、良くなることは無いだろう。
その現実を彼女は良くわかっていた。わかっていてなおその現実を受け止め、その上で愚かにも足掻こうとしていたのだ。師匠がいるとはいっても、軍人である彼女には政に口を出す権利など殆ど無い。結局スレイ達が来るまで、彼女はその清く正しい行いを周囲に哂われながら、それでも顔を上げて必死に現実に食らいつき続けた。
何故頑張るのか。
最初に彼女のことを調べた時はそう思った。膝を屈してしまえば、彼女は末端とはいえ王族。一生食うに困ることもなければ、下手に政権争い巻き込まれることもなく、一生平穏に暮らせるだろうに。無駄に足掻くから暗殺依頼など出されるのだ。まあ、結局依頼の際に虚偽の報告を混ぜたことが発覚し、依頼は遂行されなかったのだが、それでも心に負った傷は相当のものだろう。良かれと思って行動しているのに、死んでしまえと言われれば、どんなに心の強い人間でも折れたくなるというものだ。
結局、彼女は強いのだ。弱いと己を卑下しながら、誰よりも強い心を持っている。哂われても、殺されかけても、己の選んだ正道に全力でしがみ付いてきた。
自分とは逆だ。
正道など生きるために早々に放り投げた。正義も無い、道義も立たないとわかっていて、それでも抱えていた物を離したくなくて、他者の命を踏みつけにして生きてきた。しかもその事を今に至るも後悔していない。そんな無意味な感傷を抱く者から、この世界では真っ先に消えていくとわかっているから。
「多分、羨ましいんだ。うん、嫉妬?だから嫌いだと思うんだよね、あの娘のこと。なのに何で手ぇ出しちゃうかなぁ~」
「それは…」
「ロゼ!!」
デゼルが言いかけた言葉の続きを掻き消す大音声。時間帯には相応しくないが、彼の声で起きる者は限られている。だから特にその事を咎めることはせず、ロゼはただ声のした方を振り向いた。
「アリーシャ、を…知らないかっ?!姿が、見えないんだ…!!」
「ミクリオ」
繊細な造りの顔を汗にまみれさせ、乱れた息の下切れ切れに問いかける。普段は努めてクールでいようとしている節がある彼が、これほどなりふり構わずに行動するのは、親友であるスレイが絡んだ時くらいだと思っていたが、どうやらロゼの推測は間違っていたらしい。
「…どうやら、簡単に独りになんてしてくれないみたいだよ」
アリーシャは己のことを、スレイのお荷物としか思っていない節があるが、どうやら仲間には別の意見があるらしい。今のミクリオの様子を見ればそれは明らかだ。
「何の話だ?」
「いや、こっちの話。で、アリーシャ姫ならバルバレイ牧草地にあるガフェリス遺跡に向かったよ。従者の秘儀?とかいうのに関係あるらしいからってさ」
「一人でか?!何で止めないんだ!」
「いや、まあだって、必死だったしねえ。勢いに押されて馬まで貸しちゃった」
「馬?!」
ごめんねー、と軽い調子で言ってのけると、ミクリオの表情が変わる。
「余計なことを…っ!追いつけないじゃないか!」
「もう一頭いるし貸したげても良いけど…あんた馬乗れる?」
「乗ったことない!」
予想通りの答えに「だよねー」と適当な答えを返して、ふむ、とロゼは考え込んだ。
話に聞いた限りでは、スレイとミクリオは人里離れた秘境の生まれ。農作も行わなければ、遠距離の移動もしない天族の村で、馬に乗る機会があるとは思えない。一頭立てで馬車が走れないわけでは無いし、送ってやることも不可能ではないが、単騎で行くアリーシャにはとても追いつけまい。
「チッ」
ミクリオは一人で顔を青くしたり赤くしたりと忙しい。その彼の様子を見ながら、苛立たしげに舌打ちしたのはデゼルだった。
「お前、俺が教えてやったことをもう忘れたのか?」
ロゼ達はレディレイクからラストンベルに至るまでスレイ達と旅を共にし、身元の不確かな彼らが国境越えするのを助けた。その道中でミクリオは自分の力を磨きたいと自ら修行したり、他の天族に教えを請うたりして、必死に己を鍛えていた。
そしてデゼルは請われるがまま、彼に技を一つ伝授しているのだ。
デゼルの言葉にミクリオははっとしたように顔を上げる。
「そうか、早駆け!」
「姫さんは生身の人間だ。食事も取れば睡眠も要るし、馬もずっと走らせられる訳じゃない。馬を預けに一度ペンドラゴに寄るだろうしな。なら死ぬ気でやれば追いつける」
死ぬ気でやればな、と繰り返して、デゼルがミクリオの方を見やる。
早駆けは空気中に散らばる属性因子の力を借りて、爆発的な瞬発力を持続的に発揮する技だ。元々風天族が得意とする技術だから、水天族のミクリオがやれば風天族がやるよりも負担は大きいし、そもそもデゼルですら連続では使わない。それだけ疲れる技なのだ。
早いとはいってもやはり馬と比べれば僅差でしかない。途中でアリーシャが馬のために速度を落としたり休憩したりすることを考慮にいれても、ミクリオが休憩を取れるのは精々二度か三度、それもごく短い間しか止まれない。
それでもやるか、とデゼルが盲いた目で彼に問いかける。
至極短い間、ミクリオは考える素振りを見せる。逡巡するように一度視線を脇にやり、そして再び前を見据えた時にはもう、覚悟を決めた顔をしていた。
「…なら、死ぬ気で走るさ。スレイが動けないんだ。僕がやるしかないだろう」
「何故だ?あの姫さんがどうしても導師に必要な訳じゃないだろう」
デゼルの問いにどう答えるか。ロゼは無言のまま、意表を突かれた様子のミクリオを見遣った。
現状、アリーシャの能力がどうしても導師に必要な訳ではない。彼女自身が自覚するように、寧ろ彼女の非力さはスレイの枷になっている。導師に従う天族から見ても、この現状は看過出来るものではないだろうに。なのに何故それほど彼女の身を案じるのか。
「…確かに、今のアリーシャに力が足りないのは事実だと思う。けど、それでも必要なんだ。アリーシャは僕らの旅に。上手く言えないけど…従士がどうとか能力がどうとか、そういうんじゃなくて。アリーシャっていう人間が、もう無くてはならないものになってるんだ。スレイだけじゃない。多分、僕らにとっても」
今まで深く考えてみたことは無いのだろう。考えながら話すミクリオの言葉はつっかえがちだったが、それでもそれが彼の本心だとわかる。
スレイのためにアリーシャを切り捨てよう、そうディンタジェルで提案した時の彼はもういない。
「すまん。下らんことを聞いた。…さっさと行け、時間が無いぞ」
「うん、行くよ。…ありがとう。ロゼ、デゼル」
それだけ行って、ミクリオはスゥっと息を吸う。
眉を寄せながら空気中に散らばる水の因子を探り当て、流れをつけて背中を押す。地を蹴ると共に目を見張る程のスピードで門を走り抜けていったミクリオの背に手を振って、ロゼは時間を無視して大声を上げた。
「頑張りなよー!」
アリーシャのことは好きではない。それは確かにロゼの気持ちの一部ではあるのだが、アリーシャを助けようとするミクリオを応援したいと思う気持ちも本心で、相反し合う心の動きには自分でも困惑を隠せない。こんなことは初めてだ。
今までは、家族以外の人間はどうでも良かった。否、どうでも良いといえば語弊があるが、それでも積極的に手を貸したいと思うほど、ロゼの心を動かす人間は今まで家族以外にはいなかったのだ。興味が無かったのだから、嫌いになることも無論無い。スレイに関していえば、自分と同じ導師という立場を生きる人間で、だから他人とは違う興味はあったが、しかしそれは飽くまで自分と立場を同じくする者への興味にすぎない。
アリーシャはどちらの意味でもロゼにとって異端ともいえる存在だった。家族でも無ければ立場もまるで違う、赤の他人なのに放っておけない。それなのに時折どうしようもなくロゼを苛立たせるのだ。
「…何?」
「いや。間に合うといいな、あいつ」
「そだね」
意味ありげな態度でロゼを見下ろすデゼルを睨めつける。どうせ何を考えているのか尋ねても、デゼルは言いはしないのだ。その癖いつだって何か言いたげな態度ばかり取るのだから、まったくもって性質が悪い。
ロゼはミクリオの去っていた方角を見遣って、心の内でそっと願う。
どうか、アリーシャが彼の手を取ってくれるよう。そして彼らの思いに気付くよう。
まったく同じことを、隣の男が自分に対して思っているとは想像もせずに、守るべきもののために独りで我武者羅に走り続ける彼女に思いを馳せる。
らしくないな、などとまた言い出されると癪だから、あくまで胸の内だけで。
そうやってロゼはデゼルと二人、暫く月明かりの下で揺れる草の海を見つめていた。
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深夜、草の海を渡る風はまだ冷たい。
月光を弾く銀の髪、長いそれにまとわりつく風を撫でながら、感じた異変に顔を上げる。
「…随分風が乱れると思ったら」
にや、と口の端を上げる。
草の海を揺るがして、静かに吹き行く草原の風。乱すものが少ない分、素直で真っ直ぐなその流れに、普段は感じない歪な波が混じっている。
その波の中心にいる人物を確認して、彼は面白そうな予感に胸を弾ませた。
「しかし…へったくそな早駆けだな。気力だけで頑張るねえ」
波紋を生んでいるのは水の気だ。力任せで無駄にかき回すものだから、大気の流れが乱れている。そんなやり方で長く保つものでは無いだろうに、とにかく前に進もうと、年若い彼はただもう必死だ。
ここは少し助けてやるか。
そんな気を起こしたのはただの気まぐれだった。長い生を生きていると、そんなお遊びがたまにしてみたくなるものだ。
彼の前の風に働きかけて、道を空けてやる。それだけで随分長く術が保つようになるはずだった。
「ま、青少年を導くのは大人の役目だからなぁ」
言いながら彼の後を尾けるのは、単に結末が気になるからだ。以前に出会った真っ直ぐなだけのお子様導師。彼の辿る道がどうなるか、気にならないといえば嘘になる。
地を蹴り、風の流れに働きかける。
風を乱さぬ見事な早駆けで、彼は前を行く若い天族の後を追いかけて走り始めた。