「行ったわよ。あなたの目論見通り」
扉を開けたライラを出迎えたのはその一言だった。
小さな同胞は片手で傘を弄びながら、眠っているスレイの横に置いた椅子の上に鎮座して、視線さえ寄越さずにどこか棘のある声でそれだけを告げる。それ以降は何も喋らない。
怒っているわけではない。ただ純粋に何を問うても無駄だと思っているのだろう。彼女は無駄な期待をすることをとことん避けている節があって、それはこんな日常の場面でもしばしば発揮された。
珍しいことではない。寿命の長い天族は、諦めることに慣れている。何百年、何千年という長きを生きていれば、不可能と可能を線引きする能力は自然と身に付くものだ。エドナのそれは少々過敏な気もするが、それでも彼女の反応が天族として珍しいものかというとそうでもないし、今回の件に関しては彼女の予測は実に正しい。今回の件でライラが何を考えて行動しているのか、そんなことは問われても話せない。
エドナは喋らない。ライラもまた何も語らない。だから自然と会話は絶えて、重い沈黙が部屋の中に充満する。
ライラは無言でエドナの座っている椅子の反対側、スレイの隣のベッドに腰を下ろし、穏やかに寝息を立てるスレイの顔に視線を落とす。
ライラが何を知っていて、アリーシャを独りで行かせたのか。それを知ったら彼は何を言うだろう。ライラが全て知っていながら、アリーシャを追うミクリオをただ見送ったのだとわかったら。
いくらなんでも怒るだろうか。普段は滅多なことで声を荒げたりしない穏やかな性格だが、友達思いで思い遣りの深い青年だ。怒ってライラを詰るだろうか。
汗で張り付いた前髪を払ってやりながら、ライラは思う。
―――怒っても良い。詰っても良い。自分と向き合うことをやめないでいてくれるなら、どんな仕打ちも甘んじて受ける。
背中を向けて去っていくスレイの姿を想像すると背筋が寒くなる。そうされても仕方ないことをしているのだと自覚していながら、それでもスレイに見限られることだけは心底恐ろしかった。
ライラは正面に座りながら暇を持て余したように、傘についたマスコットをいじるエドナの顔をちらりと見遣る。
エドナはまだ良い。人嫌いを公言し、事実愚かな人間をこき下ろすことに少しの躊躇も無いけれど、それでも彼女は人に誠実だ。不要な嘘は吐かず、スレイという人間と旅をしていてさえも取り繕うことをしない。
自分はどうだ。
スレイの人生を大きく変え、多くの人の命運を変えることになる導師という道を歩ませながら、肝心なことは何も伝えていない。何も伝えていない癖に、その重責だけはきっちりと背負わせるのだ。ミクリオやアリーシャに対してもそう、自分には出来ないと線引きしたその線の向こう側に積み上げた重みを、何も知らない彼らに押し付けて、自分はのうのうとこんな所で座っている。
わかっている。それが卑怯で愚かな振る舞いだということは。自分の限界を勝手に決めて、それでもその限界の向こうに行きたくて。彼らならば出来ると、無責任な期待でその願いを押し付ける。それがわがままでなくて何なのか。
それでも―――。
「…熱、下がりましたわね」
随分と平常に近づいたスレイの額に指を当てて、ぽつりとそう呟く。
彼の体調が戻ったということは、従士反動が消えたということ。即ちアリーシャがスレイの領域から出たということだ。
「そうね。随分寝てるし、もうすぐ起きるんじゃない?」
そのことに気付いているのかいないのか、気の無さそうなエドナの返事に、ええ、とやはり気の入らない相槌を打って、ライラは詫びるように項垂れる。エドナに聞こえないよう、口の中だけで小さく謝罪の言葉を呟いた。
―――愚かなのは百も承知。それでも、託さずにはいられないのだ。若さ故に足掻く勇気を持つ彼らに、長きを生きて臆病になった己の願いを。
************
一度ペンドラゴまで行って宿に馬を預け、やはり二日以上経って自分が帰ってこなければ、馬をラストンベルまで返しに行ってくれと幾ばくかの金と共に言い置いて、アリーシャは一人バルバレイ牧草地の只中はガフェリス遺跡に向かった。
ガフェリスからペンドラゴまではそう遠くない。歩いたところで精々三時間もあれば辿りつく。
だからアリーシャがガフェリス遺跡に足を踏み入れたのは、ラストンベルを出てから二日目の、昼を幾らか過ぎた頃だった。
石で組まれた遺構はほぼ原型を留めている。通路の所々が崩れているものの、殆どの部分が作られた当時の機能を果たしているように見えた。盗掘が繰り返されているだけあって通路のあちこちに火を焚いた跡が残り、土ぼこりにも人の踏み跡が無数についている。
「…こんな所に、本当に何かあるのか?」
歩きながらアリーシャは独りごちて、遺跡というには酷く人の匂いの残るその場所を見渡した。
導師と従士、その関係性が導師の負担を招くだけのものなら、そもそも従士など必要ない。ならばアリーシャに何かが足りていないのか、それとも何か他の秘密があるのか。その答えがあると思ってここに来たのだが、盗掘人に踏み荒らされた遺跡の内部には、とてもそんな神秘の気配は感じない。
石版を譲ってくれた若者達は、それを謎の老人からもらったと言っていた。もしかしたら、盗掘に手を染めようとしている若者に一杯食わせるために、老人がまるで出鱈目な情報を渡したのかもしれない。
担がれたか、そうアリーシャが落胆しかけた時だった。
ぞわり、と首筋が粟立つ。咄嗟に前に一歩踏み出し、半身を引きながら槍を立てると、一瞬前までアリーシャの首があったまさにその場所に、錆びた剣が打ち付けられる。槍に弾き返されて鈍い音を立てたそれを握るのは、うっすらと黄色味を帯びた人骨。筋肉など欠片も無いはずの腕で剣を振り上げるその姿は悪夢のようで、アリーシャは小さく悲鳴を上げて咄嗟に後ろに跳び退いた。
「ひょ、憑魔…?!何で…?!」
アリーシャの驚愕に、無論目の前の骨は答えない。うっすらと仄暗い穢れの光を纏わりつかせながら、穴しかない両目でアリーシャをじっと見据えている。
「何故…?見えるわけ、無いのに…」
天族を見るのと同じく、憑魔を見るのにも能力が要る。通常の人間から見ると憑魔が起こした災いは自然の産物にしか見えず、姿を捉えることも叶わない。先天的な才能の無いアリーシャは、スレイの領域にいなければ天族と同じく見ることすら出来ないはずなのに。
狼狽するアリーシャは、それでも槍を構えて骸骨に対峙する。戦い中に気を散じればやられる。そう必死に自分に言い聞かせて、眼前の骸骨の動きに視線を集中したその時だった。
「ひっ?!」
足首に這うぞろりとした感触。視線を転じれば鎧の上から蛇のように巻きつく茶色の触手、それを更に視線で辿ると巨大な切り株のような化け物に行き当たる。
「トレント…?!」
その姿は御伽噺に出てくる木の化け物そのもの。人体を遥かに凌ぐ巨体の膂力は図体に見合った怪力で、咄嗟に槍を突き立てようとしたアリーシャは足首を浚われて無様に床に倒れこみ、強かに体を打ちつける。その上打ちつけられた拍子に槍を放してしまい、愛用の武器は音を立てて骸骨の足元に転がった。取ろうと手を伸ばせば、そのまま足首を取られた状態で吊り上げられる。
―――万事休す。
ここまでか、観念してアリーシャが目を瞑った時だった。
「鋭き氷、拡散せよ!」
閉じられた空間に反響する鋭い響き。直後、アリーシャの体すれすれの場所を鋭利な氷柱が幾本も通り過ぎ、後ろのトレントに突き刺さる。トレントは人型の憑魔と比べると痛みを感じる感覚は鈍いが、流石にこれは無視できなかったらしい。鈍い咆哮を上げて触手を振り上げ、自分に向けて術を放った憎い相手を串刺しにしようと、鋭い一撃を繰り出した。
本体の動きは緩慢だが、触手の速度は人の動きより遥かに速い。アリーシャに気を取られて彼の動きは一瞬遅れ、何とか転がりながら一撃を避けたものの、その体勢では次の攻撃が避けられない。数歩先にはアリーシャから標的を切り替えたスケルトンが、剣を振り上げながら迫っているというのに。
このままではやられてしまう。
焦ったアリーシャは自分の体の痛みは無視して跳ねるように起き上がり、無造作に転がった自分の槍を掴んで走りながら声の限りに彼の名を呼んだ。
「ミクリオ様!!」
青い着衣に天族特有の銀の髪。今のアリーシャの目には映らない筈の彼が、何故いる筈のないこんな場所で転がっているのかはわからないが、今は詮索している時間などない。
間に合え、間に合え――!!
一心に念じながら床を蹴る。石畳が欠けようが、傷がつこうが、そんなことは知ったことか。今はただ、間に合えばそれで良い。
振り上げられた錆びた剣、観念したように目を閉じるミクリオの表情、その全てがスローモーションのようにゆっくりと流れていく。スケルトンまでの距離はあと七、八歩もあれば足りるのに、その僅かな距離が今は遠い。
ミクリオはスレイの無二の親友であり、幼い頃から傍で生きてきた家族だ。なりそこないの従士なぞである自分よりも余程彼の傍に必要な人なのだ。その彼が何故こんなところにいるのかはわからないが、とにかく自分のために彼をここで死なせるわけには断じていかない。
走ったのでは間に合わない、そう判断したアリーシャは手に持った槍を振りかぶる。
手が届かないのならば、手から離せばいいのだ。
―――届け!!
踏み出した一歩を踏みしめて、走った勢いのまま手に持った槍をスケルトン目掛けて投げつける。長さで優に人間の身長を凌ぐ槍は重い。大した距離は飛ばないが、その代わり当たれば骨など簡単に砕ける。唸りを上げて飛んだ槍はミクリオを狙っていたスケルトンの腰骨の上辺りに命中し、背骨を真っ二つに叩き折って諸共その場に転がった。
骨と鋼、重さの異なるものが落ちる響きの違う音が、遺跡の内部に反響する。
その余韻が消えないうちだった。
「アリーシャ!!」
余裕の無いミクリオの叫びに背後を振り返ると、視界に広がるのはすっかり意識の外に消えていたトレントの触手。人間の首程もあるそれは、一度巻きつけば容易なことでは振りほどけないし、ましてや今のアリーシャは武器を失って丸腰である。
槍を投げた際に思い切り前に傾けた体重は、未だに中心に戻っていない。アリーシャが動き出すのが早いか、トレントの触手がアリーシャを捕らえるのが早いか。どう考えても前者の望みは薄そうだ。
咄嗟に何の動きも取れず、棒のように突っ立つアリーシャの視界の隅で、ミクリオが杖を掴んで跳ね起きるのが見える。
そうだ、起きてそのまま自分に構わず逃げれば良い。ここに一人で来たのはアリーシャの勝手なのだから、ミクリオが巻き込まれる謂れは無いし、そんなことは望みもしない。ただ無事で彼がスレイの元に帰ってくれればそれでいい。
国のために役立てない王女、そして導師の役に立たない従士。結局自分はその程度だったのだと、微かに胸の内で嗤った時だった。
「双流放て!!ツインフロウ!!」
背後から宙を飛んだ水流が、激しい勢いでアリーシャの傍に迫った触手にぶち当たる。トレントは水に強いが、それでも勢いに怯んだのだろう、アリーシャに迫っていた触手が僅かに退いた隙だった。
「こっちだ、早く!!」
「ミクリオ様?!」
いつの間に回収したのか右手にはアリーシャの槍を持ち、空いた左手でアリーシャの手をとって、ミクリオは狭い通路に走り込む。図体のでかいトレントには入りにくい場所で、しかも元が木であるが故に知能が低い。ミクリオの狙い通り、水流で目を眩ませている間に消えた獲物を案の定見失ったらしかった。怒りの咆哮を上げて辺りを暫く探し回っている気配がしたが、暫くするとそれも無くなる。アリーシャとミクリオは目配せでそれを確認しあい、まるで計ったように同時に石畳に座り込んだ。
「…心臓に、悪い」
ぼそり、と呟いたミクリオの顔は蒼白で、白い額に銀の髪が張り付いてる。繊細な見た目に反して彼は意外と体は丈夫で、普段は少々動き回ったくらいのことでここまで息を荒げたりはしない。どうやら相当の緊張を強いてしまったらしかった。
「すいません。助けて頂いて、ありがとうございました。…しかし、どうしてミクリオ様がここに?」
彼はスレイについてラストンベルにいるはずで、アリーシャがここに来ることはロゼ達以外は知らない筈だ。ミクリオ達はそもそもロゼがラストンベルに留まっていたことを知らない筈だし、偶然会ったにしてもスレイを放って町をぶらぶらしていたのは解せない。
アリーシャにとっては至極当然の問いだったのだが、問われたミクリオは何故か驚いたような表情でアリーシャを見返す。
「追いかけてきたんだよ、当たり前だろう?」
「当たり前、ですか…?」
「ああ。仲間なんだから当然だ。…なに?僕何かおかしなこと言ったかい?」
「え、いえ…」
心底不思議そうにそう問われて、思わず言葉に詰まる。
今までアリーシャが危機に陥った時、身の危険を顧みずに助けにきてくれた人などいなかった。アリーシャの近しい人には皆立場があり、易々と己の都合で動けなかったのだからそれも当たり前の話で、スレイにしたってそれは同様のはずだった。そしてミクリオはスレイの主神ライラの陪神である以上、本来スレイの傍を離れてはいけない身である。
自分が、その責任と同等以上の価値があるなどと、今まで考えてもみなかった。アリーシャは導師を支える従士であり、優先順位は言うまでもなくスレイが上位だ。彼に言うことなくここに来たのは完全にアリーシャの身勝手で、だから誰かが追ってくるなどという事態は想定していなかったのだ。
―――それなのに。
「やっぱり…お優しいのですね」
スレイもミクリオも優しい。それはこの旅の道中でとっくにわかっていたことで、その優しさが嬉しいと同時に少し心に痛かった。
自分はちゃんと笑えているだろうか。気にかけてもらっているのに、沈んだ顔など見せるわけにはいかない。だから表情を隠すように俯いて、アリーシャは必死で唇の端を引き上げる。そのアリーシャの顔を数秒の間無言で見つめてから、ミクリオはどこか気まずそうな表情で瞼を伏せる。
「…僕は、優しくなんて無いよ」
スレイと違ってね、と呟く声はどこか暗い。まるで後ろめたい何かを隠しているような物言いに、アリーシャは思わず顔を上げたが、視線を落とした彼とは目が合わない。状況的に問い詰めるのもおかしな話だから、結局二人とも黙り込んだまま、気まずい沈黙だけがその場に影を落とす。
先にその重みに音をあげたのはミクリオの方だった。
「憑魔もいないみたいだし、ちょっと寝るよ。悪いけど、一時間経ったら起こしてくれないか?」
「え?あ、ええ、はい」
「ごめん。頼むよ」
言ってミクリオは背後の壁にもたれて目を閉じる。程なくして聞こえてきた寝息は、不自然さを感じさせない本物の寝息だったから、別段空気が気まずくなったことを取り繕いたかったわけではないらしい。本当に疲れていたのだろう。
そう思ってみれば、今の彼は遺跡が薄暗いことを差し引いても酷く顔色が悪いように見えた。
スレイが倒れてから、彼の周りはバタバタし通しで、しかもミクリオは枢機卿に会う以前から睡眠時間を削って修行に励んでいた。きっとその疲れが出たのだろうと納得して、アリーシャは自分が着けていた旅装用のマントを外してミクリオにかける。そうしてやりながら、自分が今後どう動くべきなのか、己自身に問いかけた。
本来ならば誰の迷惑にもならぬよう、一人で辿るつもりの道だった。力足りずにここで果てるのならば、それも一つの終わりだとそう思っていた。スレイはきっと怒ってくれるのだろうが、それでも彼の旅路は過酷なものだ。このまま足手まといにしかならないのならば、別れた方がよほどいい。
しかし、ミクリオがここまで来てしまった以上、無謀なことは出来ない。今後も自分の無力がスレイの足かせになるとわかっていても、彼だけは何としてもスレイの元に返さなければ。それを思えばここで戻るのも一つの道だ。
―――進むべきか、戻るべきか。
「私は…」
答えが出ないから動けない。
アリーシャは暫く棒を飲んだように立ち尽くしたまま、薄暗がりの中で眠るミクリオの寝顔をただ見下ろしていた。
一時間、そう言った彼はアリーシャが起こすまでもなく、過たず一時間後に目を開けた。
「これ、かけてくれたのか。ありがとう、アリーシャ」
「い、いえ。随分お疲れのご様子でしたが大丈夫ですか?」
「まあちょっと寝不足だったのは確かだけどね。でも熟睡できたし、問題ないよ」
「でもお顔の色がまだ…」
「ここで一晩明かす訳にもいかないし、進みながら随時休憩を挟めば何とかなるよ。問題は…」
未だ青白い顔の彼を心配するアリーシャの言葉を軽く流して、ミクリオは思案顔で道を閉ざす鉄格子に目をやった。
「どうやって進むのか、だね」
「ミクリオ様…」
先へ進む。ごくごく自然にそう言ったミクリオに、アリーシャは思わず目を見開く。
アリーシャの身を案じて追いかけてきただけならば、ここからすぐに引き返せばそれで用は済む。危険を最小限にするならば、スレイの体調が整ってから全員で来れば済む話で、それをしないのは自分の力で事を成したいというアリーシャのただの我が侭に過ぎない。何事も冷静に、確実な道を選ぼうとするミクリオならば、当然戻ろうと提案されるものだと思っていたから、当然のように二人で先に進む選択肢を呈示されて、アリーシャは咄嗟の戸惑いを隠せなかった。
「戻ろうって言われると思った?」
声も無く頷くと、ミクリオは少し苦笑して見せる。
「僕も最初はそのつもりだった。どう考えても危険だしね。でも、エドナに言われたんだ。それはただのエゴだってね」
「エゴだなんて…」
言ってアリーシャは続ける言葉を見失う。そのアリーシャの様子に苦笑を更に深めてミクリオは笑った。
「格好悪い話だけどね。僕もスレイも、同年代の女の子と旅するなんて始めてだから、変に張り切ってたんだ。僕らが守らなくちゃ、なんて。今思えば失礼な話だと思うよ。君はちゃんと自分で戦って自分を守るだけの力がある。それどころか、戦闘でもそれ以外のところででも、僕らの力になるために頑張ってくれていたのに、それを全部見ない振りしてた。…本当に、ごめん」
「あ、謝らないで下さい!私は…」
情け無さそうに眉を下げるミクリオに、思わず声が高くなる。
優しさが心に痛かったのは確かだが、しかし彼らの好意が嬉しくなかったわけでは決して無い。
「私は、嬉しかったのです。何も出来ない我が身が歯がゆいと感じることは確かにありましたが、それ以上にこんな我が身を気にかけて下さる皆様のお心が嬉しかった…。ミクリオ様に料理を教わる時間は楽しかったし、皆で囲む食事は美味しかった。…どれも、城では得られなかった経験です。一人では無いという事の暖かさを、皆様には教えていただきました。だからこそ…」
ぐっと一度唇を噛んで、アリーシャは続ける。
「だからこそ、もっと皆様のお役に立ちたいと思ったのです。力になりたいと思えばこそ、私は一人ここに来ました。何の引け目も感じることなく、皆様の、スレイの隣に立ちたかったから…!」
「アリーシャ…」
自分は無力だ。
そう叫ぶアリーシャに、物言いたげなミクリオが手を伸ばしかけたその時だった。
「青春してるねぇ、青少年!」
遺跡に堆積した砂塵を巻き上げるように風が吹く。狭い通路には低いが楽しげな男の笑い声が木霊した。
アリーシャは砂塵から目を守るように背けた顔を、声の方へと動かした。声の主を確認しようとしたのだが、動いたのはミクリオの方が早かった。
「お前は…!!」
刺々しい声と共に、素早く立ち上がってアリーシャを庇うように前に出る。杖を構えるその姿勢から、相手を警戒していることは明白で、アリーシャは訳もわからないままに彼に倣って槍を構えた。
土煙は徐々に晴れ、晴れた視界に見えたのはやたらと体格の良い男が一人。白銀の髪は天族特有のもので、しかし半裸に黒いズボンのみという野趣に富みすぎた格好がアリーシャの知る天族にそぐわない。荒々しい雰囲気と相まって、まるで盗賊の類のようにも見えた。
「天、族様…?」
「そうそう。その天族様って奴だから、敬ってくれると嬉しいねえ。確か…アリーシャちゃん、だっけか?」
「ふざけるな!お前のどこに敬うところがあるんだ!」
「つれないねえ、ミク坊。お前さんが無事ここに来れたのは誰のお陰だと思ってるんだ?オレ様が助けてやらなかったら、確実に途中でへばってただろうによぉ」
「どういう…ことだ?」
「あんなヘッタクソな早駆けが一晩もつと思ってる辺り、まだまだ経験不足ってことだな。ま、風の天族でも相当熟達しなきゃ一晩保たないから、ハンデもらったとはいえお前さんは頑張った方ではあるけどな」
「なっ?!」
二ヒヒ、と品の無い笑いを浮かべる男の言葉に、ミクリオが言葉を失った。彼の言葉の意味を理解したアリーシャもそれは同じことだった。
ミクリオが早駆けの技を会得したのは知っている。道中何度か練習に付き合ったこともあるし、デゼルに請うて教えを受けている場面も見たことがある。しかし、それは精々数十分もてば良い方。長い時間は保たない技のはずだった。ミクリオよりも熟練度の高いデゼルですら、二時間程度が精々で、続けて使おうとはしなかったから、効果相応に消耗のある技なのだろうと納得していたのだ。
「それを…一晩中…?」
確かに馬で来たアリーシャに後から追いつくには、同じく馬を駆るか、極端な近道をするしか方法は無いが、平野部を通り抜けるだけの道程に近道があろうはずもない。だからてっきりどこからか馬を調達してきたのだと勝手に思っていたのだが、そもそもスレイやミクリオが馬に乗っているところなど、アリーシャは見たことがなかった。
馬に乗るにはそれなりの経験が必要だ。そして馬は高価な動物である。ほいほい調達することは叶わないし、そもそもアリーシャがイズチを訪ねた際には、野生の山羊以外の動物は見ていない。
つまり、ミクリオは馬に乗れない。こんな簡単なことに今まで気付かなかったとは。アリーシャはどことなく青白いミクリオの顔に視線を遣り、自分の不甲斐なさに唇を噛んだ。
「そんな話はどうでもいい!何故お前がこんな所にいるんだ、ザビーダ!」
「オレ様か?そりゃあ年若い青少年が頑張ってるとくりゃあ、手助けしてやんのは大人の義務ってもんだろうよ。折角手ぇ出したんだ、最後まで付き合ってやろうかと思ってよ」
「別に誰も頼んでない。僕らだけで十分だ」
「ふーん」
顔を背けたミクリオをにやにやと人の悪い笑みで見下ろしながら、ザビーダは更にその笑みを深くする。酷く狡猾そうなところを除けば、その顔は悪戯を思いついた悪童のそれにそっくりだ。もっとも、彼の場合は子供どころか何年生きているのか、それすら定かでは無い。天族の寿命は人間のそれを遥かに凌ぐ。彼が若年でないことは、言葉の端々から窺い知れた。
「オレ様がその鉄格子を何とか出来る、と言ってもか?」
「本当ですか?!」
「アリーシャ!!」
ザビーダの言葉に反応して顔を上げるアリーシャを、鋭い声でミクリオが制す。彼はアリーシャを庇う姿勢を崩さず、ザビーダへの警戒も解いていない。杖を構えたまま、威嚇するように己より長身の男を睨めつけた。
「こいつの言葉は聴かない方が良い。こんなふざけた事ばかり言ってるけど、何を企んでるのかわかったもんじゃない。何しろ、初対面のスレイにいきなり襲い掛かった奴なんだから」
「スレイに…?!」
アリーシャの言葉にミクリオは無言で頷く。
スレイに危害を加えた相手ならば、アリーシャとて易々と信用するわけにはいかない。ただでさえ危険の多い身なのだ。余計な敵は近づけないに限る。
アリーシャと比べると、男は頭一つ分ほども背が高い。その高い視点からにやにやと人の悪い笑みを浮かべながら、ザビーダは何を言うでもなくアリーシャ達を見下ろしている。自分でついて行きたいと申し出たくせに、その様はアリーシャ達がどういう結論を出すのか、足掻く様を面白がっているようにも見える。それが酷く腹立たしかった。
下手をすれば何千年という時を生きる天族にとってみれば、人間の自分など所詮その程度。長き生に僅かな潤いを与えるための暇つぶしにしか過ぎないのだろう。それを思うとどうしようも無く憤ろしい。
「…帰りましょう、ミクリオ様」
思惑になど乗ってやるものか。
槍を担いで踵を返す。そのアリーシャの背中にザビーダが声をかけた。
「おいおい、良いのか?従士の力のこと、知りたいんだろう?多分ここ、本当に何かあるぜ?」
「お気遣い痛み入りますが、自分のことは自分で何とかします。どうかお気になさらず」
自分だけならば話の一つも聞いたかもしれないが、ミクリオまで危険に晒す可能性があるならば、真実である保障が何一つない与太話など全く聞くに値しない。その気持ちは嘘偽りの無い真実だったし、ミクリオも当然そう思っているのだと思っていた。だから後ろをついてくる足音が止まったこに気付いて、アリーシャは驚愕した。
「ミクリオ様?!」
「…従士の力に関係する何かがこの遺跡にあるって、本当なのか?」
疑いは隠さないが、期待も捨て切れない。ミクリオの態度はそんな風で、しかし疑いの眼差しを向けられてもザビーダは面白そうに笑うだけだった。
「ああ。オレ様が嘘を吐く必要がどこにある?オレの目的は導師じゃない。確かにムカつくことに変わりは無いが、ただの人間を追うほどオレ様は暇じゃないんでね」
「なのに僕達を助けるのか?何のために?」
「なぁに、単なる暇潰しさ」
数秒前に自分が言ったことを軽やかに無視して男は悪びれなくそう答える。
ミクリオの足は最早完全に止まっている。出口を向いていた体は再びザビーダの方に、即ち鉄格子が閉ざす遺跡の奥に向いていた。
「…スレイの居場所は教えない。それでも僕等に協力するか?」
「最初から興味ねえな、そんなもん。言っただろ、オレは健全なる青少年の青春を応援してやるだけだってな」
「ミクリオ様!!」
男の応答は一から十までふざけている。にも関わらず、ミクリオの気持ちが遺跡の奥に傾きかけているのは明らかで、アリーシャは堪らず声を上げた。
遺跡の奥にあるという、従士の力に関する何か。それを喉から手が出るほど欲しているのは、自分であってミクリオではない。なのに何故、危険とわかっている道に敢えて踏み込もうというのか。
アリーシャの言葉に、ミクリオは首を回してアリーシャを見る。彼はアリーシャの顔を見て微かに微笑むばかりで、しかしその微笑が何よりも雄弁に語っていた。彼の意思は既に決まっているのだと。
「ミクリオ、様…」
「連れて行ってくれ。奥に」
短く言って、あれほど毛嫌いしていた様子だったザビーダに小さく頭を下げる。その様を見て、ザビーダの笑んだ口元が、一層楽しそうに端を上げた。
「よしきた。このザビーダ様に任せな」
芝居がかった大げさな仕草でそう言って、ザビーダはくるりと背を向ける。鉄格子に向かいあう彼の背を追いながら、ミクリオはアリーシャの方を振り返って短く言った。
「行こう、アリーシャ」
その言葉と共に手を伸ばす。
伸べられた手、それを掴んだ方が良いのか拒んだ方が良いのか迷ううちに、焦れたようにあちらから手が掴まれる。
どうしてそこまで必死になってくれるのか。
その疑問をミクリオに投げる暇も無く、アリーシャは再び遺跡の奥に向かって足を踏み出したのだった。